【この作品は「叶えられた願いU」の続編です】


 俺の名前は小坂明雄、都内の商社に勤めているごく普通のサラリーマンだ。
 いや「だった」と言ったほうがいいかもしれない。ある日偶然手に入れた人形のおかげで俺の生活は一変してしまったのだから。
 人形ひとつで生活が一変するだなんて、何を馬鹿な事をと思うかもしれない。
 だが本当なのだ。
 と言うのも、その人形は持ち主の意識を他人に転移させられるという、常識で考えられない力を持っていたのだ。

 何でも古代インカの秘宝だというその人形は背中にある扉の中に自分の体の一部、例えば髪の毛を仕込んで他人に触れさせると、その瞬間意識が相手に移ってしまう。そして転移した相手の記憶を全て自分のものにできるばかりか、その人間として自然に振舞ってしまえるのだ。それが男でも女でも、どんな人間であったとしてもだ。
 しかも都合がいいことに、意識が離れている間は元の体が普段通りに振舞ってくれているから全く心配することがない。おまけに他人の体に転移している間に強く念じたことは、その人間が自分が考えた事として認識してしまうらしいのだ。

 例えば俺の意識をある女に転移させて「あたしは小坂さんのことが好きなの」と強く念じると、俺の意識が離れた後もその女は俺のことが好きだと思い込んでしまうという寸法だ。
 どんな原理でこんなことができるのか全くわからないが、こんな素晴らしい物が他にあるだろうか。人形を格安で売ってくれたあの雑貨屋の店主に感謝しなければならないな。

 だが気になるのは、あの店主が最後に俺に向かって言いかけていた言葉を聞き逃したことだ。そのうちもう一度あの店に行って店主に確かめてみないといけないが、いずれにしても考えれば考えるほど愉快な人形だ。これがあれば俺はどこの誰にでも成りすまし放題、どんな生活でも味わえるという訳だ。
 早速俺に向かって言いがかりをつけてきた婦警に意識を転移させていろいろ楽しんでしまった。今日からはこの人形を触れさせるだけで、富豪の令嬢にだって人気抜群のアイドルにだって巨乳の人妻にだって、俺はたちまち成り代われるんだ。

 え? お前の成りすましたい対象は女ばかりだって?
 そりゃあ女のほうが人生楽しいじゃないか。
 営業なんかさっさと俺の体に任せて、早くいろんな女の子の生活を楽しんでみたいんだ。それにもっと女の快感を満喫してみたいしな。婦警になった時に女同士で楽しんだが、女の快感に比べたら男のアレの時の快感なんて屁みたいなもんだ。
 女同士しか味わってないから、男とセックスしたらどんな風に感じるのかも早く試してみたいよな。とは言えさすがに男と寝るとなると躊躇してしまうんだが、自分の股間についた女のアソコに生のアレを挿入される感覚というのを味わってみたいんだよな。
 だがどうやって試そうか。

 ラブホテルに入る恋人同士を待ち構えて女のほうに成り代わってみるか。でもホテルの前でじっとカップルを待っているのも馬鹿みたいだな。いっそのこと女子高生になって援助交際してみるとか、いやいや未熟な体じゃ痛そうだな。それならホテトル嬢やキャバクラの商売女になってみるか。ふむ、キャバクラで俺好みの相手を選んで人形を使えば俺自身とセックスができるんだな。でも自分の相手をするというのもなぁ。
 枕元に人形を置いてあれこれ思いを巡らしながら、俺はベッドに入った。

 とにかくかわいい女の子になって、あくせくしない人生を送れたらいいよな……

 わくわくする気持ちを抑えて俺は眠りについた。
 だがこの時の俺は何も知らなかったのだ。
 店主から聞き逃した言葉の重大さを。
 人形の効果は、人形の中に自分の髪の毛を入れてから24時間しか持続しないことを。
 そして24時間を越えると元の体に戻れなくなるということを。
 果たして俺の意識はどんな女性の体に留まるのか。

 ルーレットは既に回り出していた。
 そう、何も知らずに人形を手にした俺の人生は、今やルーレット玉のような状態に陥っていたのだ。


叶えられた願いV
【その1】
作:toshi9  挿絵:ふゆんさん


 翌朝6時に目が覚めた俺は、ベッドから起きると早速人形の中に自分の髪の毛を仕込んだ。

「最初のターゲットは……ふふふ、彼女にするか」

 人形を鞄に入れて出社した俺が最初のターゲットに決めたのは、うちの会社の受付嬢の荻野由布子だ。入社5年目、社内でも一二を争う美人と評判だが、俺のライバルの松中と付き合っているともっぱらの噂だ。そんな彼女になって何をするかだって? まあ見てなって。
 俺は1階のホールに降りると、彼女の隣に座るもう一人の受付嬢が席を外したのを見計らって彼女に近づいた。

「荻野ちゃん、ずっと座りっぱなしで大変だね」
「え? 小坂さんがそんなことを言うなんて、珍しいですね。仕事の事しか頭に無いと思っていたのに」

 彼女にそう言われるのも無理はない。今までの俺は売り上げ成績一辺倒、とにかくライバルの松中に勝って営業部のトップに立とうという気持ちでいっぱいだったのだから。
 でもそんな事よりずっと面白い、新しい楽しみを見つけてしまったのさ。

「ひどいなぁ、そんなことないさ。それよりもどうだい、今晩飲みに行かないか?」

 彼女はちょっと驚いた表情を見せたが、俺の顔を見てくすくすと笑う。

「あら、誘ってくれるのは嬉しいけど、あたしは松中君と付き合ってるの。おあいにくさま」

 くそっ、松中と彼女が付き合っているという噂は本当だということか。
 長身でがっちりしていて、いかにも爽やかなスポーツマンタイプの松中は仕事もできるが、女にもよくもてる。

「そうか、それは残念だな。ところでちょっとこれを見てくれないか?」

 ふふふ、荻野ちゃん、その口で今すぐに俺と付き合いたいって言わせてあげるさ。
 俺はわくわくしながら彼女に向かって人形を突き出した。

「え? 何の人形? ひっ!」

 俺の差し出した人形に不思議そうに手を伸ばした彼女が人形に触れた途端、俺の視界は暗転した。そして次の瞬間、俺は自分が受付席に座っているのに気がついた。
 胸をブラジャーで、下半身をパンティストッキングで締め付けられている感覚が伝わってくる。頭には帽子を被っているのを感じる。
 自分の体を見下ろすとピンクの受付嬢専用のワンピースの制服を着ていた。俯いた頬に長い髪が垂れてくる。

「ねえ、荻野ちゃん」
「え?」
 
 呼ばれて顔を上げると、不安そうな表情の俺が椅子に座った俺を見下ろしている。

「今夜駄目かい? あいつより俺と付き合えないのか?」
「ん〜、わかったわ」
「え? それじゃあ」
「あたし、小坂さんとお付き合いします」

 俺は彼女の声で小さく囁いた。

「え? ほんとか!?」
「うん。あたしが本当に好きなのは小坂さん、あなたなの。小坂さんが誘ってくれるのをずっと待っていたのよ。松中なんて遊びよ、遊び」
「じゃあ!?」
「OKよ。仕事が終ったら待ってるから電話ちょうだい」

 思いがけない荻野由布子の、つまり俺の答えにうきうきとエレベーターに乗るもう一人の俺。その背中を見ながら、俺はにやっと笑っていた。
 全く単純な奴。男ってこれだから……って、あれは俺か。

「そうよ、あたしはずっと小坂明雄さんとお付き合いしたかったの。小坂さんから声をかけてくれるなんて、とっても嬉しい!」

 俺はそんな風に心の中で念じるように強く考えた。
 ふふふ、これで荻野由布子は俺が離れた後も俺のことが好きなんだと思い込むのさ。
 俺はさらに念じ続けた。

「そうよ、あたしが好きなのは松中君じゃなくて小坂さんなの。今だって小坂さんのことを思うとアソコがうるうるしてきて……ああん、小坂さん、大好き!」

 俺は受付机に隠れて見えないのをいい事に、スカートの奥に右手を突っ込んで股間をまさぐった。そしてパンティストッキング越しに股間に親指をぎゅっと押し付けたり離したりする。

「ああん、気持ちいい、小坂さんの太いのをココに入れて欲しいの」

 普段の彼女なら絶対に言わない淫らな言葉を声に出しながら右手を動かしていると、はぁはぁと息が荒くなってくる。湧き上がる悩ましさに堪えきれなくなった俺は、白い手袋を外して細長い指先をパンティストッキングの中に突っ込もうとした。だがその時、エレベーターの扉が開くと、もう一人の受付嬢が席に戻ってきてしまった。
 ちぇっ
 内心舌打ちをしながら手袋をつけ直すと、俺は彼女をにこやかに迎えた。

「ごめんごめん、時間かかっちゃって」
「ううん、大丈夫よ。お客さんも来なかったし」

 いつもの由布子の笑顔で彼女を迎える。彼女は俺がここで淫らなことをしていたなどとは思いもしないようだ。だが俺のほうは一度湧き上がった体のうずきが止まらない。行為を中断した後も股間が潤んでくる。
 ああん、続きがしたい。仕方ない、こうなったら別な場所で……

「ねえ、あたしもお手洗いに行ってきていいかな。ちょっとお化粧直してくるから」
「いいわよ」

 俺は受付席を離れると、人形を片手に上りのエレベーターの前に立った。
 エレベーターを待つ会社の男共は、俺を見るとだらしない顔で会釈する。俺もにっこりと笑って会釈し返す。
 由布子らしく背筋をピンと伸ばして一番最後にエレベーターに乗り込むと扉に向かって立つ。だが背中に多くの熱い視線を感じて振り返ると、男共は皆あわてて視線を逸らしてそっぽを向いた。人の裸を想像していた顔だな。

(うふふ、全く男っていやらしいんだから)




 エレベーターを下りて女子トイレに入ると、俺は鏡に向かって今の自分の姿を確かめた。
 鏡にはピンクの受付嬢の制服を着て同じ色の帽子をかぶった荻野由布子が映っている。そして彼女は鏡の向こうから色っぽい目でこっちを見ていた。

「この荻野ちゃんが今の俺か。不思議だけどこれって現実なんだよな、あ、あん」

 俺が笑うと、彼女も笑う。物欲しそうに上目使いをすると、彼女もそんな表情を俺に見せてくれる。それは普段の荻野ちゃんが絶対に見せてくれない表情だ。

「ああん、あたし早く小坂さんとえっちしたい。今夜が待ち遠しくてたまらないの」

 そんなことを念じながら制服の上から胸を揉んでみると、ふにゃりと柔らかさが伝わってくる。と同時に心地よい快感が湧きあがる。
 人形を洗面台に置くと、俺はゆっくりと、ゆっくりと両手で両胸を揉みしだいた。

「あ、ああん、いい気持ち」

 手の動きが段々早くなる。

「ああ駄目、もう我慢できない」

 片手で胸を揉み続けながらもう一方手をスカートの中に突っ込む。

「あ、あん、気持ちいい」

 鏡に映った荻野由布子は、いやらしい表情で自分の胸と股間を弄り回している。

「会社の中でこんなことをするなんていけない由布子。でもあたしこうしていると気持ちいいの、ああん、小坂さんにこんな風に揉まれたい、触られたいの」

 悩ましい、気持ちいい。
 そんな感覚と同時に、股間の奥からじわじわと湿っぽいものが出てくるのを感じる。

「ああ、駄目、とっても気持ち……いい」

 だが興奮がさらに高みに上り詰めようかとしたその時、突然扉が開いて俺の行為は中断された。

「あなた、こんな所で何をしているの!? まあ! 荻野さんじゃないの」

 入ってきたのは事務系のグレーの制服を着た女子社員だった。この顔は確か……

「え? あ、あの、あたし」
「会社の中でそんなことをするなんて、あなた会社を何だと思ってるの。部長に報告します」

 そうそう、彼女は人事部の斉藤杏子だ。美人だが30過ぎても独身の彼女は真面目というか、堅物で通っている。
 俺を睨む眼鏡の奥の彼女の瞳には嫌悪の色が浮かんでいた。
 さすがにこんな場所で見つかったのはまずかったかな。

「あの、これには事情が」
「どんな事情があろうとも、そんな嫌らしいことを会社の中でするなんて、そもそもあなたって人は……」
「もううるさいなぁ、はい、これ持って」
「何? 何よ、その人形は……はひっ!」

 俺はまくしたてる彼女に向かって人形を突き出した。
 怪訝そうに俺の差し出した人形を受け取る斉藤杏子。だが人形が彼女の手に触れた途端に俺の視界は暗転した。そして次の瞬間、俺の目の前で荻野由布子が申し訳なさそうに謝っていた。

「すみません、どうしてこんな所でこんな事をしてたのか。あたし何だか急に小坂さんのことが……あ、いえ何でもありません」
「あら、女だったら誰だって無性にしたくなる時があるわよね。それに小坂さんて素敵だもんね、いいのよもっとやってても。じゃあね、荻野さん」
「え? は、はあ」

 ぽか〜んとしている荻野由布子を残して、俺は女子トイレを出た。
 勿論今の俺は斉藤杏子だ。
 長い髪、ブラウスを大きく盛り上げる胸とタイトスカートの中でぷりぷりと窮屈そうに動くお尻。そしてそんなえっちな体なのに銀縁の眼鏡がよく似合う理知的な顔立ち。
 女子社員の制服姿で廊下を颯爽と歩くこの斉藤杏子の中身が俺だなんて誰も思わないだろうな。

「さてと、成り行きで斉藤さんになってしまったけど、これからどうする……ん? そうか、今の俺って斉藤さんなんだ。ってことは!?」

 コツコツとヒールを鳴らしながら、俺は人事部に向かって歩いた。
 そしてごく自然に人事部内の彼女の席に座ると、ロック状態になっている彼女のパソコンにパスワード打ち込む。そう、彼女のパソコンのパスワードはもう俺のものだ。当たり前のようにロックが解除されると、俺は社員の人事考課ファイルを開いた。

 人事部長しか修正できないファイルだが、斉藤さんになってみると、実は査定の修正は彼女に一任されていることがわかった。それだけ人事部長の彼女に対する信頼が厚い証拠だが、その斉藤さんに俺がなったという訳だ。だから人事考課ファイルが見放題。修正だってやり放題……くしし。
 
 早速社員名検索で「kosaka_akio」と俺の名前を打ち込んで査定ファイルを開く。続いて松中のファイルも開いてみた。

「あっちや〜、やっぱり松中のほうが俺よりも評価が高いのか、あいつがAランクで俺がBランクだなんて許せんな」

 俺はファイル修正の為のパスワードを打ち込むと、俺の査定ポイントと松中の査定ポイントをそっくり入れかえた。

「よお〜し、これで俺の査定がAで松中はBだ。俺のほうが松中より先に昇進だな」

 斉藤さんらしくディスプレイを無表情に見詰めながら唇をほんの少しだけゆがめて、ふっと笑みを漏らす。傍から見たら、同時に斉藤さんのメガネの奥の瞳がキラリと光ったことだろう。だがその意味を誰もわかりはしない。
 誰もが認める真面目な斉藤さんが、まさか人事データーを改竄なんてね。
 エンターキーをポンと叩いてデーターの修正が有効になったことを確認すると、俺は人事考課ファイルを閉じた。

「よお〜し、次の辞令が楽しみだぜ」

 その後はしばらく斉藤杏子として彼女の仕事をしてみた。人事課の業務の知識は何もないのに斉藤さんとして行動してしまうのには笑ってしまったが、無理に女のふりをする必要がないので楽なことこの上ない。
 勿論、その間に「あたしは小坂さんのことが大好きなの」って心の中で念じることも忘れちゃいない。年上だけど、斉藤さんも魅力的だしな。




「さてと、そろそろ違う女の子になってみるかな」

 お昼が近いこともあり「お昼を食べてきます」と告げると、俺は会社から外に出た。彼女はいつも一人でお昼を食べに出かけるらしく、誰も不審に思わない。
 斉藤さんになってオフィス街を歩く。汗かきながらスーツの上着を着て出歩かなければならない男に比べると女子社員の制服はずっと楽だ。スカートに中に涼風が吹き込んで心地よい。

「涼しいけど女子社員の制服を着て歩くってのも何か変な感じだな。あれ? あの二人は!?」

 外に出てうきうきと歩いていた俺の目に飛び込んできたのは、駐車違反を取り締まる二人の婦警の姿だった。それは昨日俺が乗り移った二人、即ち矢田美保子と松本ゆかりだった。足を止めて二人の様子を見ていると、やけに仲の良さそうに見える。そう、女同士なのにまるで恋人同士のような雰囲気だ。

「ははぁ、あのふたりって結局できちゃったのか。面白い、こりゃあほんとに面白い」

 俺の中に美保子になってゆかりと、そしてゆかりになって美保子とえっちした昨夜の記憶が蘇る。

「さてと、次は誰になってみるかな」

 バッグの中に入れた人形をちらりと見てにやりと笑うと、俺は再び歩き始めた。




 オープンカフェの椅子に座って、一人コーヒーとサンドイッチを食べながら行き来する人の波を眺める俺の目の前を、次々と女性が通り過ぎて行く。勿論男も歩いているが、この際男のことは無視だ。
 歩きながらメールを打つのに夢中なブレザー姿の女子高生、濃紺のリクルートスーツ姿で就職活動中の女子大生、二人並んでしゃべりながら歩いている肌も顕わなストラップシャツと股に食い込みそうなショートパンツ姿のフリーターらしき女の子たち、和服姿の美人、そして抱いた赤ちゃんをあやしながら歩く若い主婦といった女性が歩いている。

 あの女子高生もあっちのリクルートスーツの女子大生もかわいいな、どっちも捨てがたいぞ。あの二人組になってまた女同士レズり合うってのも良さそうだな。いや待て、あの和服の美人もいいぞ。どっかの高級クラブのママかな。ホステスの女の子と一緒に集団レズってのも有りだな。でもあの若い主婦になって今夜は旦那とエッチするってのもいいな。待て待て、赤ちゃんのほうになって彼女のおっぱいをチュパチュパなんてのも捨てがたいぞ。

 俺の妄想は留まることを知らない。
 真面目そうなOLが眼鏡の奥の瞳をぎらつかせながら歩く女の子たちの姿を目で追っているのだから、はたから見たらさそ奇妙に見えたことだろう。
 そんな俺の目に飛び込んできたのは、颯爽と歩く長身の女の子だった。

「お、朝丘じゃないか」

 それは、ビーチバレーの朝丘美紀だった。すらりとした長身に良く似合うパンツスーツ姿で足早に歩いてくる。公称183cmと言われる彼女の背丈は、斉藤さんになっている今の俺よりもはるかに高い。

「よし、次のターゲットは彼女に決めたぜ」

 俺は鞄から人形を取り出して道路に出ると、こっちに向かってくる彼女が横を通り抜ける瞬間、ぶつけるように彼女の腕に触れさせた。
 
「あ、ひっ!」

 朝丘選手が小さな声を上げるが、次の瞬間には俺が朝丘美紀になっていた。
 目線がすごく高い。立ち止まって横を見ると、目線のはるか下で斉藤さんがきょろきょろと回りを見回している。
 人形は既に俺の、いや、朝丘美紀の手に握られている。

「あ、ごめんなさい。何だかぼーっとしてて」
「あら、いいのよ」
「あの……もしかして朝丘美紀選手ですか?」

 斉藤さんは俺の顔を見るなり、おずおずと尋ねる。

「そうだけど」
「あの、サインしてください。あたしファンなんです」
「いいわよ」

 俺の返事に、斉藤さんは嬉しそうにバッグの中からハンカチとペンを取り出した。

「ぶつかってしまってすみません。でもラッキーだわ」

 俺は斉藤さんが差し出したハンカチを受け取ると「朝丘美紀」とサインした。
 当たり前のようにさらさらと。

「ありがとうございます。次の試合もがんばってくださいね」
「ふふっ、応援よろしくね。じゃあ、あたし急いでいるので」

 サインされたハンカチを手に感激している斉藤さんをその場に残して、俺は歩き出した。

「さてと、今日の予定はっと、そうか、今からお台場で試合だったんだ。で、このスポーツバッグの中は……むひひ、ビーチバレー用のビキニか、こりゃたまらないや」

 スポーツバッグの中に手を入れて、ナイロン製の水着の滑らかな感触を確かめた俺は、朝丘美紀の顔でにやっと笑った。

「これを着て今から俺がビーチバレーするのか。こりゃ恥ずかしいな。でもまあ今の俺は朝丘美紀なんだし、恥ずかしいけど今日の試合がんばらなくっちゃ。美紀ファイト!」

 俺は朝丘美紀の仕草で小さくガッツポーズして駅に向かうと、お台場行きの電車に乗り込んだ。



(その2へ)


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