『皮り種』
作:嵐山GO


第1章 誕生

それは良く晴れた、4月の朝での出来事だった。
「おーい、幸恵。いないのかー?」
幸恵というのは私の妻でちょうど一回り年下の43歳。
まだまだ女ざかりである筈だが私は、ここ十年近く妻と
身体を重ねた記憶がない。
もちろん浮気などしていないし、妻を愛している事は事実だ。
愛してる?そうだろうか?だが私は妻に結婚当初は別として、
男として、伴侶として妻を心の底から愛でた事など
あっただろうか…?


私は今年、会社を定年で退職した。
天職とも言っていい、その仕事は私を時間や家庭を
忘れさせるほど夢中にさせた。
気づけば55歳。ウチ…の会社は他社に比べると
定年が早い。だがそのぶん給料や退職金は申し分ないほど
支給される。

 定年後も、老後も金銭面で不満が出る事はまず無いだろう。
加えてウチには子供が一人しかいない。
 今年やっと高校へ進学だ。
 たしか希望していた念願の学校に入れたと聞いた気がした。
(今後、金がいるとしたら大学受験くらいか…)

「おーい、誰もいないのかー」
 私はリビングのドアを開け、もう一度呼んでみる。
「出かけているのかオレ…の朝飯も用意しないで」
 私は家でくつろいでいる時は自分を『オレ』と言った。
 威厳もあるし男らしいと自分では思っている。
 そう…だな、だがもう会社に行く事も無いのだから
『私』などと気取ることもない…か。

 いつも妻に家事以外にも自分の身の回りの事をやらせている。
「おい、オレの肩を揉め」
「オレの煙草を買ってこい」こんな調子だ。
 だが、今日はその命令に忠実に従う妻の姿が見えない。
どうしたことか…

「ん?手紙…?」
 テーブルの上に丁寧に折りたたんだ便箋を発見した。
 表書きは何も書かれてはいないが、いかにも自分に向けて
置かれているような気がして開いてみた。

『貴方へ
 私と瑞希は家を出ます。どうか探さないで下さい。
お願いします。それとお金を少しばかり頂きました。
 許して下さい。
 私たちは、そのお金で別の場所へ越し
新たな人生を始めます。
            幸恵・瑞希』

 瑞希(みずき)というのが娘の名前だ。
 しかし何という事だ。よりによって、このオレが退職し、
娘の進学が決まったこの年に二人揃って家出とは。
 確かにオレは良い夫ではなかったかもしれない…
 そして、おそらく瑞希にとっても良い父では
なかっただろう。
 殆ど家にはいず、たまに帰ってきたかと思えば
威張り怒鳴り散らす。
 家族で旅行する事もなければ、娘の学校の先生や
友人たちの名前すら知らない。

「まぁ、いい。しばらく様子をみるか…
その内に帰ってくるだろう」
 だが2枚ある便箋の内の1枚を捲ると、ひらりと足元に
落ちた薄い用紙を拾い上げて見て確信した。
『離婚届』だったのだ。
 妻の自筆と印が押されている。
「なるほど。本気というわけだ」
 2枚目の便箋には娘の字で
『パパへ
 元気でね。さようなら』
 とだけ書かれていた。
 感謝の言葉など一言も無い。別れの文字が突き刺さる。

「ふぅー。参ったな…」
 ソファに腰を下ろして、煙草に火を点けた。
 自分の犯してきたであろう過ちを悔やむ事も出来たが、
今それを考えても仕方がない。
 出て行った事には違いないのだ。これは事実だ。
 もしかしたら入学式前に帰ってくるかもしれないが、
それは又その時の話だ。

 おそらく性格なのだろうが、くよくよと悩んでも仕方が無い。
 会社内ではトップで前線に立ってバリバリと働いたが、
家のことはよく分からない。
 何が出来るのか、そして何が出来ないのかが。

 吸い終えた煙草を灰皿に押し付けるようにして揉み消す。
もう1本吸おうとして、箱を取り上げたが空だった。
「おい!たば…こ…、そうか、いないんだったな」
 オレは煙草を諦め、冷蔵庫を開けて飲み物を探した。
妻がいつも作り置きしているアイスコーヒーを見つけた。

「グラスはどこなんだよ。まっ…たく」
グラス一つ容易に見つけられず、イラついた。
「最初からこれでは、思いやられるな」
 結局グラスは探し出せず、食器乾燥機に伏せてあった
味噌汁用のお椀に注いで飲んだ。
「やれやれだ」

 こうしてオレの独身一日目が始まった。
 いや、独身というのは正しくない。オレは『離婚届』を
破り捨てたからだ。
「いいさ、本当に帰って来ないつもりなら失踪という事にすれば
離婚は成立する。ひとまずは間口を開けといてやろうじゃないか。
それに、今はやることも多そうだしな…」

 それでも初日は何もやる気が起きず、ただ家の中をウロウロと
しているだけだった。
 食事の用意など出来るはずもなく、3食外食で済ませた。
 2日目は何となく片付けなど始めた。
 妻や娘が何を持って出たのか気になったからだ。
 だが5LDKのマンションの部屋をざっと見渡した感じでは、
特に消えたものは発見できなかった。

 しいて上げるなら新婚旅行で使った大きなボストンバッグが
見つからない。
 あれは大きすぎて、時折妻が愚痴を零していたのを思い出す。
「旅行も行かないし、置き場所にも困るから処分しても
いいかしら?」
だが、その後もベッドの下などに場所を変えては置いてあったのを
覚えている。
「この時の為に捨てなかった、というのは考えすぎか…」

 娘の部屋に入った。
 真新しいセーラー服がビニールを被ったまま壁のフックに
掛けてある。
「これを着たかったんだろうにな…」
 机の上に携帯電話が置いてあった。
とっさに取り上げ、開いてみたが画面は出るものの通信は遮断
されている。
 前もって解約しておいたのだろう…

 ちょっとした罪悪感に苛まれながらも、片っ端から引き出しを
引いてみる。
 何を持ち出したのか、さっぱり分からない。
 もともと何が入っていたか知らないというのが正しい。
 だが参考書や文具類は整然と収納されていた。

 籐のチェストの引き出しを引く。
 色とりどりの下着や、ソックス、ハンカチなどがやはり
 丁寧に畳まれて収まっている。
「いつの間にかブラジャーなんかする年になっていたんだな」
 年齢から考えれば当然なのだが、それ程までに自分は子供の
成長から疎遠になっていたのだった。
 ブラジャーを取り出し、サイズのタグを見た。
「83のC…か。おいおい、オレは何をやってるんだ。
これでは変態ではないか!」
 慌ててブラジャーを元に戻すと、すぐに引き出しに戻し
部屋を飛び出た。


 続いて妻の部屋に入る。
ベッドが置いてあるのが一番に目に入った。
「新婚時代はこのベッドでよく一緒に寝たものだ」
綺麗に張られたシーツを、そっと撫でる。

 ドレッサーが目に入ったが化粧品が消えていようと、
自分には関係ないので、次にウォークイン・クローゼットに
移動した。
「衣類は持っていくだろうな。別にそれも構わないが」
扉を開いて中の灯りを点け足を踏み入れた。
「案外この中は広かったんだな…マンションを購入した
時は気づかなかったが。2畳くらいあるのか」

 歳暮や中元などで贈られてきた、おそらくは食器や調度類が
所狭しと積み上げられている。
「これからは益々、こんなもの不要になるな」
塔のように積まれた隙間を縫うようにして一歩進んだ。
ガタンッ!
「おっと」
 膝を箱の角にぶつけ、とっさに体勢を変えると頭上から
ドカドカと小箱などが降ってきた。
「なんてこった。まいったな」

 そのままにして去ろうとしたが、見覚えのある箱を
足下に発見して立ち止まった。
「これは以前、失くしたと思っていたデジカメじゃないか。
 こんな所にあったのか。しかし今更出てきてもな」
オレはその箱を持ち出し、リビングで一息ついた。
 煙草は昨日の一件以来、やめた。
吸わないと落ち着かないが、昨日のように切らしても
イライラするので、いい機会だと思いすっぱりと止めた。

「たしか、このカメラは妻が娘の運動会か何かに持って行って
落として壊れたので修理に出したとか言ってたな。その辺り
から行方が分からなくなったと言っていたが」
箱を開けると修理依頼書の下にソフトケースに入れられた
本体が出てきた。
「こんなに大きかったか…?」

 ファスナーを開け、取り出して確認する。
「やっぱりだ。これは違う。ウチのカメラじゃない」
依頼書に目を通すと名前は合っていた。
「では工場で間違えたのか?面倒だが、修理に出したカメラ屋に
電話してやるか…にしても、いつの話だ?」
 日付は去年の10月11日になっていた。
「今更、電話しても遅いかな…いや、待てよ…確か、
あの角のカメラ屋、無くなっていたぞ。そうだ!先日、前を
通りかかった時にコンビニに変わっていたんだ。間違いない」

 せっかく返品して我が家のカメラを返してもらおうと思ったのに、
早くも暗礁に乗り上げてしまった。
「デジタル・カメラの割には妙にボタンの類が多いな。
起動してみるか…」
 オレは箱に入っていたアダプターをコンセントに差し、
電源スイッチを入れた。
「ちゃんと起動するぞ…修理は終わっているようだ。
何か画像データは入ってはいないか…?」
ダイヤルを再生に合わせた。

「おい、なんだ?これは女の裸じゃないか…」
 小さなモニターに映し出されたのは、直立不動の姿勢で
目を閉じたまま写っている女性の裸画像だった。
「変質者が使っていた物なのか?しかしよくデータが残って
いたもんだ…」
 送りボタンを押すと、次々に女性の姿が現れる…。
 おかしいと感じ始めたのは、背景が無い事に気づいたからだ。
 最初、ブルースクリーンの前で撮られたものだと思っていたが、
どうやらそれも違うらしい。

「なんだか奇妙な画像だ…」
カメラを弄っているうちに指先がモニター脇に付いている
小さなトラックボールに触れた。
「おっと、なんだ?これは」
 ノートパソコンのそれよりもさらに小さな、その球は
パソコンのようにコロコロと回転もせず、画面にマウス・
ポインターが出る事も無かった。
 その代わりに…

「驚いたな。画像の視点が自由に変えられるぞ。この画像、
3Dなのか?いや、そんな事は不可能だ。ではCGか何かか?」
 ストッパーの掛かったような回転の重いトラックボールを
動かすと画面の中の女性を頭のてっぺんから、足の裏まで
好きな視点へと変更できた。
 しかもズーム機能で拡大も出来る。
「良く出来ているが、やはり作り物の画像だろうな」

 だが送りボタンで次の画像が現れたとき、オレの身体は凍った。


「み、瑞希?!」
 我が娘が裸で目を閉じ他の女性達同様、真直ぐに立っている。
 さすがに自分の娘が作り物の画像か本物かくらいの判別はつく。
「本物だ。間違いない!だが何故だ?!」

 オレは無いと判っていながらカメラ屋に電話を掛けてみた。
「やはり繋がらないか…」
『現在は使われておりません』というテープ音声が流れるだけ。
 次に番号案内に転居先を照会したが、分からないと言う。
「このカメラのメーカーは…?」
カメラは、まるで自作機であるかのようにメーカーを示すネーム
らしきものが、一切見つからない。
 唯一、底面に印字があった。
『SEED−01』
「何なんだ、これは?」

 ここまできて、オレはカメラに付いたLEDが、しきりに点滅して
いるのに気づいた。
「なんだ電池切れなわけないし…print?どういう意味だ?」
オレは訳が分からないまま、一際大きなEnterキーを押した。
 ズズ…ズズー
 カメラ内部で何かを引きずるような音がする。
 ウィーン…
 続いてモーターが回転するような音と振動…。
「うわ、何だ?」

 カメラ本体の脇から紙が出てきて指先に触れた。
「ポ、ポラロイドなのか?…まさかな」
 数十秒後、まさに一枚のサービス版ほどのプリント紙が
膝の上に落ちた。
「やはり瑞希に違いない」
今度は手元のプリントに見入った。
「変なモデルのアルバイトとか、していたんじゃないだろうな」
 誰かに言い包(くる)められて、裸の写真を撮らせた可能性は
十分にある。

「ま、考えても仕方が無い。答えは闇の中だし、それに瑞希が
いない今となっては問い詰める事すら出来ない」
 ペラペラと指先で遊んでいると、プリント表面に僅かに
異変が現れた。
「うん?なんだ、これは捲れるのか?画像は出てきているのに、
これ以上なにが…」
 恐らくは表面にコーティング状に張られたであろう、薄い半透明の
被膜が剥がれかかっている。

「捲ってみるか…」
0.0何位ミリという程の極薄の膜が剥がされていく。
「なんだ?何も起きないではないか。てっきり先程のような、
3Dにでもなるのかと思ったのに」
 私はプリントをテーブルの上に置き、カメラの電源を切った。
「こんなカメラがあったとは…幸恵もカメラ屋に
受け取りに行っただけで、まさか瑞希が写っているなんて
知りもしないのだろう…カメラを紛失したと騒いで
いたくらいだし…」

 オレは興奮したせいか喉が渇いたので、アイスコーヒーを
求めて冷蔵庫へ向った。
「今度はグラスの場所も把握したぞ」
 早い内から家のあちこちを散策したせいで、物のありかの
いくつかは把握した。
 グラスに注いでソファに戻ると、目前の異常な事態に危うく
グラスを落としそうになった。


「な、なんだ?プリントが膨らんでいく…?」
 それはテーブルの上に置かれていたプリント紙が、網の上の
餅のように膨らんでは萎(しぼ)み、その繰り返す動きの
中で確実に表面積を広げていた。
「何が起きているんだ」
 まるで胚芽が発芽する過程をスピードカメラで撮って、
それを再生しているかのようだ。
 数分後、それは等身大程にまで成長した。

「何だ、これは?皮…のようだが?気味が悪いな」
指先で摘んで持ち上げてみる。
 殆ど無いといっていいほど、重量は感じられなかった。
 僅かな重みは皮自体よりも長い黒髪の方にあった。
「何のために使うのか分からないが、今のカメラの進歩は
凄いんだな」

 ペラペラの皮を裏返してみると、不思議な事に背中部分、
つまりうなじから腰の辺りまで一直線に亀裂が入っていた。
「妙だな…破れているのかな…」
 そっと亀裂を開き、内部を覗き込む。
 内側も外皮同様、肌色で透ける様に薄い。
 だが少々の力では破れる事など無さそうだ。

「面白いな。手を入れてみようか」
 まるで手術用の手袋を装着するように、オレは腕を差し入れ右手を
ぴったりと指先まではめた。
「おお、これは凄い。オレの腕ではないみたいだぞ」
 太さは、そのままだがびっしりとあった腕毛は消え、女性のように
滑らかな腕が出来上がった。

「という事は、これはイベントか何かで使う変装用の被り物
みたいなものか?ますます面白い。全部装着してみよう」
 オレは足を入れようとして踏みとどまった。
「まてよ、ひょっとして服は脱ぐのか?…だろうな」

 一旦腕を抜き、窓際へ行って大きなサッシの窓のカーテンを
全て閉めた。
 続いて着ている物を全て脱ぎ、背中の切れ目を大きく開いて
右足から差し込む。
 続いて左足、右手、左手、最後に頭部を被りこんだ。

「うむ、ちゃんと呼吸も出来るし視界もはっきりしている。
よく出来ているじゃないか」
 今の時点では体型は自分の姿のままだった。
 でっぷりと出た腹、太い二の腕や太股、それに平らな胸板。
「こんな醜い格好じゃ、例え演芸用だろうと皆、目を背けるだろう」
 とはいえ、どんなブサイクな女に変装できたのか興味が湧き、
洗面所へと向った。

 ほんの十数歩の距離だったが、途中で皮に異変が現れ歩みを止めた。
「な、なんだ…急に締め付けがキツクなってきたぞ」
 身体全体を覆う皮膚が収縮を始めている。
 それは辛いという程のものではなかったが、突然のことで慌てた。
「お…治まったのか…んん?声が…あー、あー、
若い女の声になっている。おお!胸も膨らんでるぞ。凄いな」

 オレは洗面所に飛び込んで、さらに驚愕した。
「こ、これは!瑞希じゃないか!オ、オレが瑞希の姿になっている。
そういえば、この声も瑞希の声だ…なんてこった」
 体格、顔、そして声までもが完璧に娘の姿に変えられていた。
「どういう事なんだ…これは。身体の形や声まで変わるとは、
 一体、どんな構造なんだ?それはそうと・・・まさか元に
戻れないなんて事は無いだろうな」
 オレは鏡に背を向け、先程の亀裂を探した。

「無い!切れ込みが無い!おい、おい、これはどうやって脱ぐんだ?」
 慌てたオレはスリムな腹に手を当て、左右に力一杯引っ張ってみる。

 すると先程、背中に存在していた亀裂と同様のものが腹部に現れた。

 そっと開いていくと、内部に治まっている自分の毛むくじゃらの腹が出た。
「ふぅー、なんだ。左右に引っ張れば、どこにでも亀裂が作れるのか」
 安心して手を離すと、皮膚は元に戻ろうと縮み、亀裂さえも消した。
「つくづく良く出来ているシロモノだ」

 オレは喉の渇きを癒やすためにリビングに戻り、娘の姿で大股を
開いてソファに座る。
 そしてグラスに手を伸ばした、正にその時だった。
 トゥルルルルー
 電話が鳴った。
オレは自分の声が変わっているのを一瞬忘れ、受話器を取った。
「もしもし…」
 その電話の主は、思いもよらぬ相手からであった。

(第2章へ)



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