『家庭訪悶』
 作:嵐山GO


その1 

 その日はよく晴れた春の午後であった。
 屋敷で一人、片付けを終えた幸子が一息つくためにリビングの
ソファに腰を下ろした時だ。
 ピンポーン
 玄関のチャイムが鳴った。
「あら、こんな時間に誰かしら?」

 幸子は立ち上がりテレビ・モニター付きインタフォンのスイッチを
入れる。
「あなた。どうしたの? 今日は随分と早いのね」
 小さな画面には主人の剛三の姿が映し出されていた。
「ああ、今日はこの後、また用事があって出かけなければならないのだが、
時間もあるし一旦、帰ってきたのだ」
「そうなの。今、開けるからちょっと待ってて」

 夫の剛三は60歳、大手証券会社を運営している経営者だ。
 妻の幸子は42歳、結婚してまもなく20年になるが二人の間には
17歳になったばかりの娘が一人だけ。
 生活は極めて裕福で何台もの高級車を所有し、大きな屋敷には広い庭、
そしてメイドも一人雇っている。

「おかえりなさい」
 重い玄関の扉を開け、幸子は主人を向い入れた。
「ああ」
「出かけるって言ってらしたけど、すぐに出るの?」
「いや、1時間くらいは大丈夫だ。ちょっと1杯引っ掛けてからから
出る」
「そう。ではスーツはどうなさいますか?着替えるのでしたら別のを
出しておきますけど」
「いや、これで構わない。知れた連中と料亭で食事を兼ねた商談を
するのだ」
 剛三は上着を脱いでソファに掛け、鞄を足元に置くと自分も腰を
下ろした。

「ウィスキーになさいますか? それともブランデー?」
 幸子は、見るからに高そうな木製キャビネットを開いてグラスを
取り出した。
「そうだな、それじゃブランデーにしてくれ。あと氷とな」
「はい。分かっていますよ」
 てきぱきと準備をし、ガラステーブルの上に並べてゆく。
「何か、おつまみでも作りましょうか?」
「いや、いい。さっき遅い昼食を取ったばかりだし、それに
食べに行くのだからな」
「そうでしたわね。それで今日は何の商談ですの?」

「ああ、それなんだがな…実は会社とは関係なく個人的な
金儲けの話なんだ」
「危ない話ではないんですか? リスクなどはございませんの?」
 幸子は夫の仕事に口を挟み意見する事は無い。だが剛三からの
軽い相談事や話しを聞く程度のは、いつもの事だった。
「腹の内を知った者同士だから、それは大丈夫だ」
「なら、よろしいのですが」
「お前も知ってると思うが、今度日本海沖で石油の採掘が行われる。
言ってみれば、まぁ、その投資だ」

「マスコミも報道していますし、政府も関係しているのじゃ
ありません? あとで問題などは起きないのかしら」
「うむ、問題ない。ちょっとした設備投資に金を貸すだけだ」
「そうですか」
「だから今回は会社の金は使えない。私、個人の出資だからな。そこで
悪いんだがお前にも協力してもらいたいんだ」
「私に…ですか?」
「ああ、実は帰ってきたのはその件があるからなんだ。今、家にある
現金でも貴金属でもなんでもいい。集められるだけ集めてくれないか」

 一気に吐き出すように言うと、剛三はグラスに注がれた酒を喉に
流し込んだ。
「家に現金は殆どありませんわよ。50万円くらいかしらね。後は
宝石類と私の銀行口座のカードかしらね」
「ああ、そうだな。あるだけでいい。宝石は料亭に向う前に、知人の
宝石商の店に寄って換金して貰う。なーに、心配しなくても
数ヵ月後には5倍、10倍になって返ってくるんだから」
「あらあら、随分剛毅な儲け話ですこと。ちょっと待ってらして。
今持ってきますから」
 幸子は座って話しを聞いていたが、話しを聞き終わると立ち上がって
リビングを出て行った。


「貴方。お待たせしました。現金はやはりあまり無いですわね。後は
私の指輪とネックレス、それに宝飾時計ね。銀行に寄れるお時間が、
あるのでしたら私のカードも渡しておきましょうか?」
幸子がテーブルの上に貴金属類を並べていく。
「ああ、そうだな。助かる」
「では紙に暗証番号を書いておきますわね。キャッシングも500万までは
利用できますから」
 そう言うと財布から金色のカードを取り出すと、メモ紙に数字を記入して
いった。

「悪いな。必ず数倍にして返すからな。どうだ、ほらお前も飲まないか?」
 剛三は自分のグラスに酒を注いで、幸子に勧めた。
「遠慮しておきますわ。この後、夕食の準備をしなければなりませんし、
ミチルも学校から帰ってきますし」
「ああ、そうだったな…なら、これならどうだ?」
 剛三は足元の鞄からスプレー缶を取り出すと、幸子の顔に吹き付けた。

 プシューッ!
「あ、なんですか…これ?」
「それはな、睡眠薬の入った痺れ薬だ。しばらく眠っていてくれないか。
銀行の金を下ろすまでの間でいいから」
「あなた…な、…何故、こんな事…を」
 即効性の薬を吸った幸子は厚い絨毯の上に、崩れるように
倒れていった。
「俺はな、あんたの御主人じゃないんだよ。御主人の皮を被った
別人なのさ」
 男は缶を鞄に戻すと、立ち上がって言った。
「だ、誰か」
「誰も来ないよ。さっき庭にいたメイドは金を渡して早めに帰らせた。
ま、ゆっくり眠っててくれよ」
 幸子の耳に届いた男の言葉はそれが最後だった。
 強烈な睡魔に襲われると、そのまま一気に深淵へと落ちていったのだ…。


(続く)



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