迷いうさぎの恩返し
 作・JuJu


◆ 1

 プラット・ホームに降り立つと、古びた駅舎が心の奥底に埋(うず)もれさせていた少年時代の記憶が呼び覚まさせる。

 大学生になって一年が経ち、僕は生まれた町に帰ってきた。

「あれからもう十年が経ったのか。早いものだな」

 感慨深くそんなことをつぶやいていた自分に気がつき、おっさんみたいなことを言っているなと苦笑する。

 改札口を抜けて駅前に出る。いきなり一陣の風がおこり、桜の花びらを舞わせながら僕の体を吹き抜けていった。

 思わず立ちどまり、風の来た方を振り返る。そこには駅舎のとなりに植樹された桃色の花を咲かせた八重桜が、街灯の明かりに照らされてハラハラと満開の花を散らせている。ああ懐かしい匂いだなと思った。

 空は雲ひとつなく晴れていたが、すでに陽の落ちた空は薄暗い藍色の光を残すだけになっていた。それでもスーパー・マーケットや、まばらに開いている個人商店から漏れ出た照明、それに街路灯が加わり、駅前の通りはほのかに明るい。

「そうか。こんなところでも時代が変われば様子も変わるんだな」

 ふたたび独りごちる。

 駅舎や桜の木は思い出のままだったが、駅前の風景は僕がいない間にずいぶん変わってしまった。

 今から十年前。僕は父親の仕事の関係でこの町を離れた。わずか十年、されど十年。

 時間が過ぎさり景色は様変わりしても、そこには都心から離れた郊外らしい町の景色があった。

 まず目についたのが、駅前にあるこのあたりの住民の食料や買い物を一気に引き受けているスーパー・マーケットだった。それは僕の記憶にある建物ではなく、CMでもおなじみの有名な企業名の看板が付いた、真新しい店舗に建て替えられていた。

 周辺を見渡せば、記憶にあった個人商店はシャッターを下ろし、営業しているのは新しく開いたらしい店ばかりになっていた。

 それでも駅を出てすぐの黒いタクシーが一台だけ停まっているロータリーの道路や、ロータリーの中心に町のシンボルとして建てられた、芸術的……というのだろうか……美術に興味のない僕には、作った作家の名前さえ興味も持てないような、なんとも形容しがたい不思議な形をした、どうみても町の景観にはそぐわない謎の作品(オブジェ)は、撤去されることもなくそのままだった。

 僕は小学生の時に父の仕事の関係で別の土地に転校して以来、ずっとこの町にはご無沙汰だった。生まれ故郷だというのに、転校してから僕は一度もこの町に戻ったことがない。正直、この町のことは思い出したくもなかった。実はこの町にはトラウマとも言える子供の頃の思い出があり、そのために近寄りたくなかったのだ。

 それでも十年という年月(としつき)が僕のトラウマをやさしく癒してくれた。そうなると、やはり生まれ育った故郷が懐かしく思えてくるものだ。そんな折り小学校の同窓会の誘いの葉書が舞い込み、ひさしぶりに帰ってみる気になって十年ぶりにここに降り立ったのだ。

    *

 駅からしばらく歩くと、件(くだん)の居酒屋はすぐに見つかった。古びた店構えは、駅前の桜と同じく思い出のまま変わらなかった。

「居酒屋か……」

 小学生の頃は居酒屋といえば大人の世界であり、子供には未知なる別空間だった。それが今や堂々と入れる歳となった。いや、法令的には飲酒ができるのはもう少し待たなければならないのだが、大学生のという身分ということですでに酒の味は覚えてしまっている。

 紫の地に店名を白でぬいた暖簾(のれん)をくぐり、年季の入った木製の引き戸をガラガラと音を立てながら開けると、居酒屋特有の酒匂いと料理の熱気をおびた空気ともに小学生の頃のクラスメイトたちが迎えてくれた。どうやら今日は貸し切りらしい。みんな成長していて誰が誰だからわからずとまどったが、かつての友、幼なじみというこだけは相違ないだろう。

「武(たけし)、遅いじゃないか! 先に飲み始めてるぞ」

 幹事のKが開口一番に言う。一目見て僕だと見抜いたことに驚いたが、考えてみれば遅れて来たのだから、参加者のリストから足りない者を頭で描けばすぐに分かることだと納得した。

 ちなみに僕が彼がKだとわかったのは、あの頃日に焼けて真っ黒な肌をしたワンパク坊主がそのまま成長した姿だったからだ。Kは親分肌で小学生のころから面倒見のいいやつだったが、今日も幹事役を進んで務めているらしい。

「駆けつけ三杯! 駆けつけ三杯!」

 誰ともなくはやし立てる。

「かんべんしてくれよ。僕はまだ未成年なんだからさ」

「それはみんなも同じだろう、同級生なんだからさ。だいいち飲み会に来て酒を飲まないって法があるか!」

 Kがそういうと、すでに酒が入っているみんなが陽気に笑う。どうやら僕だけではなく、みんなも未成年なのにすでに酒の味は知っているらしい。

「それにしても武はすごいよなぁ。獣医学部だって? 人間の医者……医学部よりも競争率は高いんだろう?」

「へぇー、将来はお医者さまかー。人生の成功が約束されたようなものだよなあ」

 かつてのクラスメイトが次々と声を掛けてくる。どこで聞いたのか、僕が獣医学部に通っていることは筒抜けだった。これは根拠のない僕の想像だが、僕が遅れていることが話題になり、その時幹事として情報を集めたKが言いふらしたのではないかと思う。

「そんなことはないよ。レベルの高い医大は、本当にすごいし」

 僕は照れながら答える。

「そうは言っても医者ってことは変わりないんだ。俺たちのなかでは出世頭(しゅっせがしら)だよな! まっ、どんな世界もピンからキリまであるってことだ。俺なんか勉強はからっきしだから、三流の体育大だぜ。武がピンなら俺はキリだ!」

 そう言うとKは僕の首に腕を回して豪快に笑った。

 Kは謙遜をしているが、話を聞けば彼が進んだという大学は、学校名を聞けば名門校だった。スポーツにうとい僕でさえ知っているような有名な選手を何人も輩出しているような体育大学だ。それに引き替え日本中のすべての大学を集めても、獣医学部出身で誰もが知っている有名な人なんて畑正憲(ムツゴロウ)くらいなものだ。もちろん有名人になりたくて獣医学部に入ったわけではないのだが、それでも引け目を感じてしまう。

    *

 遅刻した上に場の雰囲気を壊すわけにもいかないので、僕はしばらくの間みんなから注がれるままに酒を飲んだ。飲みながら横目で、僕はあらためてここにいるみんなを見まわした。小学生の時は色気のいの字もなかった女性陣が、たいそう奇麗になっていることに驚く。男たちも容姿だけではなく声変わりもしていて、記憶のなかのクラスメイト達とは別人だった。それでも会話を進めているとかつての幼い姿を思いだし、すぐにあの頃へと戻れた。

 話を聞けば、ほとんどの人は高校卒業後この町を離れて都会に移り住んでいるそうだ。それでも同窓会をするのならば思い出の故郷でということで、今日のためにみんなわざわざ地元に戻ってきたという。

 そんななか、僕より遅れて店に入ってきた女性がいた。

 奇麗な黒髪をしている。前髪はまっすぐに切りそろえられ、後ろも肩のあたりで切りそろえられていた。凛としたちょっとつり上がった目がクールで魅力的だ。

 僕は彼女を見たとたん、あやうく手にしていた箸を落としそうになった。一目惚れという奴だった。

「よぅーし。これで全員そろったな!」

 幹事のKが満足そうに言う。

 Kに導かれて席に座った彼女を、酔っぱらいどもが一斉に取り囲む。この酒宴の主役は僕から彼女に移っていった。人と酒を飲み交わすのはあまり得意ではない僕は、ようやく解放されたことに安堵した。

 解放され気持ちが落ち着くとともに、彼女のことも思い出した。彼女の名は陽子。すっかり忘れていたのだが、僕がまだ小学生のころ淡い憧れをいだいた初恋の子だ。結局片思いのまま僕は引っ越してしまい、それっきりだったけれど。あのころから子供とは思えない美人だったが、まさかこんな奇麗な人になっているとは思わなかった。

 僕は手酌で酒をちびちびと飲みながら、遅刻して入ってきた彼女の話を聞き逃さないように耳をそばだてた。

 彼女は高校卒業後、大学に進学したらしい。聞けば下宿先は、僕のアパートとそう遠くはないようだ。これはつきあうことになっても、距離は障害にはならないだろう……などと心ひそかに皮算用をしてみる。

 酒がまわってくれば、男たちの話題は当然のことのように女の話になってくる。俺は誰それのような女が好みだとか、俺はとにかく彼女が欲しいとか、男たちが集まってそれぞれがそれぞれに勝手なことを言う。聞き役に回っていると、どうやらここにいる男たちには誰ひとり恋人と呼べるような相手はいない様子だった。

 この歳になって彼女のひとりもいないとは情けないなと、内心でほくそ笑む。

「武はどうなんだ? 彼女はいるのか? おまえも答えろよ」

 赤ら顔のKが酒臭い息を吐きながらからんでくる。

 かく言う僕も恋人と呼べる人はいなかった。

 彼女もいないのにみんなを軽蔑していたことを見抜いたように、Kは酒に酔った目で僕をすがめる。

 この場で彼女がいないと正直に言うのはきまりが悪い。嘘でもいいから彼女がいると言って見栄のひとつも張りたいところだ。しかしながら初恋の陽子がいる前で恋人がいるとも言いづらかった。

 適当にお茶を濁すことにする。

「いや……その……。まだ恋人と呼べるような人は、いるというか……いないというか……。あの……、ははは……」

「ああー?」

 要領を得ない返事に、Kはますます目を細くして、僕のことを透かすように見る。

 そこに酒に酔った同級生の女の子が話しに加わってくる。恋の話が好きなのは女も同様らしい。

「なぁんだ武君恋人がいなかったんだ? 小学生のころはもてていたくせに。たとえばぁ……ほら、名前なんていったっけ? クラスで飼っていたウサギの飼育係だった子。あの子なんて、露骨に武を意識していたのに」

「え? そうだったのか?」

 僕は驚く。本当にそんなことは気が付かなかったのだ。

「だってあたしウサギ係の子に、武君のことが好きだと相談されたことあったし」

 正直、驚きだった。

「まったく気がつかなかった」

「そういう鈍感なところは、あの頃から変わらないな」

 Kがいう。

「……そうだよな。あの子も武と仲良くなっていたかも知れないな。あんな事件さえなければ……」

 だれかがぽつりともらす。

 ――あんな事件。その一言で、みんなの表情から一瞬にして笑顔が消えた。


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