迷いうさぎの恩返し
 作・JuJu


◆ 2

「……そうだよな。あの子も武と仲良くなっていたかも知れないな。あんなことさえなければ……」

 だれかがぽつりともらした言葉で、酒を飲み交わし、恋の話に花を咲かせていた愉快な雰囲気が一気に灰色に染まる。僕も酔いはすっかり醒(さ)め、全員が通夜のように黙り込んだ。

 あの事件のことは僕も忘れていた。そしてみんなも忘れていたらしい。いや、本当は忘れていたというよりも、誰もが思い出さないように記憶を心の奥底に押し込めてフタをしていたのだと思う。

 そのフタがいま開けられてしまった。

 小学生の頃、クラスで飼っていたウサギの飼育係の女の子がいた。その女の子がある事件をきっかけに自殺したのだ。

「その話はやめようぜ……」

 幹事が言う。

 僕もみんなも同意して、取りつくろうように明るくなつかしい小学生時代の話題に花を咲かせはじめた。けれど他の人はわからないが、僕の場合は空元気だった。表面上は別な話をしながらも、僕の頭の中からは自殺した彼女のことが離れなかった。

 思えば僕が獣医学部を目指すきっかけになったのも彼女の事件があったからだ。あの時飼っていたウサギを救えていれば、彼女も死ななくてすんだはずだった。もっとも受験のための勉強をしているうちに、そんなきっかけなど思い出している余裕などもなくなり、そのことは今の今まで忘れていたのだが。だからその子の顔もわすれてしまったし、その子の名前だって思い出せない。なにしろ小学生の頃の話だ、忘れていても仕方ないだろう。もしも生きていてこうして同窓会で再会すれば思い出せたかもしれないが。

 彼女のことはもう忘れよう。そう思い酒を次々とあおる。こうなれば二日酔いになってもかまわない。忘れるまで飲むしかない。

 ところが彼女のことを考えないようにすればするほど、不思議なことにつぎつぎと彼女の思い出がよみがえって来る。

 小学生のとき、クラスメイトだった彼女は飼育係だった。やはり名前は思い出せないが、茶色いストレートの長い髪を、後ろでふたつに束ね腰まで伸ばした子だった。その長い髪はまるでウサギの耳を寝かせたように見えた。

 その子が風邪で休んだ次の日、クラスで飼っていたウサギが兎小屋で死んでいるのが発見された。子供は残酷だ。クラスメイトのみんなは、ウサギが死んだのは飼育係の子が休んだからだと容赦なく責め立てた。休んでエサをあげなかったからだ、水を取り替えなかったからだ、ウサギが病気なのに気づいてあげられなかったからだ。いいかげんな死因を挙げては飼育係を責める。

 それを聞いた僕は腹が立った。

 確かに飼育係の彼女がウサギの世話をしていたが、本来ならこのウサギはクラス全員で面倒を見なければならないはずだ。

 僕は声をあげた。

「飼育係が休みなのはみんな知っていたんだから、誰か他の人が代わりに水を上げたりエサを上げたり、ウサギの健康状態を見て上げるべきだったんじゃないか。飼育係ひとりの責任にするなんてずるいとは思わないのか」

 そう訴えかけた。

 だがそのことを認めればウサギの死はクラスメイト全員の責任になるために、僕の声は黙殺された。

 さらにKがぼそっとつぶやく。

「そんなことを言うなら、どうして武がウサギのめんどうを見てやらなかったんだよ」

 それを聞いて僕も黙り込むしかなかった。

 この日から、彼女はクラスのいじめの対象となった。ウサギが死んだときに弁護した僕は、それ以来彼女には関わらないようにつとめた。こうなってしまえば、なにより自分の保身が優先された。これ以上彼女をかばえば、こんどは僕もいじめの対象になる。それだけは絶対に避けたかった。だから僕はひたすら傍観者を決め込んだ。

 ――一週間後。ウサギのいなくなった兎小屋で、飼育係の女の子が首をくくって死んでいるのが発見された……。

    *

 僕は頭を振って彼女の記憶を振り払う。せっかくの十年ぶりの同級生との再会だ。それに昔の話だ、いまさらそんな話を蒸し返してどうしようと言うのだ。みんなもそう思っているらしく、つとめて明るい話をしていた。僕は彼女のことをふたたび忘れることにした。酒の力もあり、元クラスメイトたちと談笑しているあいだに、どうにか彼女のことを頭の隅に追いやることに成功した。明日からまた学業に追われる日常がはじまる。そうすれば多忙にまぎれて今までのように完全に彼女のことなど忘れてしまえるだろう。

    *

 同窓会から三カ月ほどが経ったある日のことだった。

 僕は大学から下宿先のアパートに戻ってきた。六畳の洋間に小さな台所と風呂トイレの付いた部屋が並ぶ、築十年二階建てのごくありふれた学生向けのアパートだ。大学から近いという理由でここを選んだ。

 アパートの外階段をのぼった所で、僕の部屋の前に一匹の白いウサギが倒れているのを発見した。

 あわてて駆け寄る。死んでいるのかと思ったが、まだ息がある。せっかく飼育係の子のことを忘れかけていたのに、こんなところで衰弱したウサギに会うとは。しかもあの時と同じ白ウサギの品種だ。誰かのペットが逃げ出したのかも知れないと思い周囲を見回したが、飼い主らしき人どころか人っ子ひとりいない。

 ウサギに関しては嫌な思い出があるだけに、できることならば関わりたくなかった。それでも獣医の卵としてはほおっておくわけにはいかない。抱き上げてドアを開け、アパートの僕の部屋に連れていく。どうしたらいいのかわからず、混乱の中でとりあえず冷蔵庫を開けてキャベツの葉を与えてみた。ウサギはキャベツの匂いに気づいたのか鼻をピクピクと動かしたかと思うと、ずっと閉じていた赤い目を開き、ものすごい勢いで食べ始めた。

「よかった。腹を空かせて行き倒れになっていただけらしい」

 獣医学部に在籍しているから動物に対する医学の心得があると思うかもしれないが、実際は学生などたいした知識も技能も持ち合わせてはいない。だから腹が減って衰弱しているだけだと知ったときには心底安心した。

 近くに獣医学部のキャンパスがあるような土地柄だけあって、このあたりは自然が豊かな場所だった。そのためどこからか野ウサギが紛れ込んだのかとも思ったが、全身真っ白な毛をして真っ赤な目をしたこの品種はどう見てもペットとして飼うウサギだった。小学生の時に学校で情操教育の一環として飼っていた、例の飼育係の子が世話をしていたウサギと同種だ。

 飼い主が今ごろ心配しているだろう。しばらく健康状態を見て、それから貼り紙を出して飼い主を捜してみよう。

 それから数日がたち、充分な栄養をとったウサギはみるみる快復した。

 ウサギはは連れてこられた環境など気にしていないらしく気ままにすごしている。

 エサをくれるからかもしれないが、ウサギはよく僕によくなついた。ウサギというのはこんなにも人間になれるものなのだろうか。少なくとも小学生の頃の学校のクラスで飼っていたウサギは、人間の手にあるエサにはよく興味を引いていたが、人間そのものにはほとんど関心がなかったような気がする。それとも個体差というか、このウサギが特別人懐っこい性格なだけなのだろうか。

 なんにしろ動物に懐かれるのは嬉しかった。が、同時にこのウサギを見ていると、どうしても小学生の頃の事件を思い出してしまう……。

    *

 僕は小学生の頃の事件を、あらためて思い返していた。

 小学生のころ、僕たちのクラスは情操教育の一環としてウサギを飼っていた。

 ある日、飼育係の子が風邪を引いて休んだ。

 その次の日、兎小屋でウサギが死んでいるのをクラスのひとりが発見した。死因なんて小学生にわかるはずもなかった。だから同級生たちは、みんなのウサギが死んだのは、飼育係が学校を休んで世話をしなかったからだと決めつけた。

 子供とは残酷なものだ。たとえクラスの人気者であっても、ある事件をきっかけに次の日からいじめられっ子に落ちることがあっても不思議ではない。飼育係の子もそうだった。彼女はおとなしい性格をした目立たない子ではあったが、いままでいじめられるようなことはなかった。それがたった一日風邪で休んだために、いじめられっこに格下げになったのだ。彼女が世話をおこたったからウサギが死んだのだとクラスメイトたちはそろってはやし立て、その日から飼育係の子はいじめにあい、それを苦にして自殺してしまったのだ。

 このウサギには罪はないのだが、見ているとどうしてもあの時の事件を思い出してしまい気分が憂鬱になる。


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