変身 【第1章】
作:荻野洋



「おい、藤田はどこへ行った?」
部長の声がオフィスのフロアに響く
「多分トイレじゃないですか」

そのとき俺は確かにトイレに篭っていた
個室に篭るのはこれで3回目
俺は激しい下痢と吐き気に見舞われていた
出すものは全部出してしまったが、それでもなお調子が悪い
今朝会社に来るまではなんともなかったのに
何か悪いものでも食ったかなぁ
俺はネクタイを緩めワイシャツのボタンを外す
出るのは生あくびだけ
体中から血の気が引いてるのが自分でもよく分かる
おそらく今の俺の顔は真っ青になっていることだろう
だけどもういい加減ここに篭っているのも限界だ
いったん自分の席に戻らなくては
俺は便座から腰を浮かせて立ち上がろうとする
その瞬間、激しい眩暈が俺を襲い
そのまま意識を失ってしまった

…コンコン
そのノック音で俺はようやく目を覚ました
まだ意識がぼーっとしているが気分は悪くない
いったいどれくらいの時間が経過したんだろう
俺はあいかわらず個室の中で便座に腰掛けていた
そうか
さっき起き上がろうとして眩暈がしたんだったっけな

コンコン
再び個室のドアをノックする音
やばい
大急ぎで後始末をしドアを開ける
俺が出るのを待ちきれないかのように入れ違いに個室に飛び込んでいく人影
悪いことしちゃったなぁ
俺は洗面台へと移動し手を洗う
洗面台の鏡に映るのは眼鏡をかけたスーツ姿の女性
女性?
俺は後ろを振り向く
だれもいない
もう一度正面を向く
鏡に映るのはやはり若い女性の姿
えっ!?
っていうか、これって倉橋じゃん
何で俺が倉橋に?
落ち着け
もう一度よく確かめるんだ
俺は深呼吸をして辺りを見回す
そこは確かに俺しかいない
個室は全部ドアが閉まっている
あれ?小便器がない!
…ってことは、ここは女子トイレ?
そんなバカな
さっきまで俺が篭っていたのは男子トイレの個室のはず
何がなんだかさっぱりわからない
パニックになる俺

そのとき
カチャという個室の鍵が開く音
反射的に音がするほうを振り向いてしまった俺
個室から出てきたその人は…倉橋!
金縛りにあったように動けない俺
やがて彼女も俺の存在に気づき
彼女と俺は洗面台の前で鉢合わせてしまった
鏡に映る二人の倉橋
互いに顔を見合わせる
一瞬の沈黙、そして
「きゃーーー」
倉橋の悲鳴がトイレに反響した

「ってことは、こっちが本物の倉橋さんで」
「こっちが藤田ってことか」
俺と倉橋の顔を交互に見比べる課長
「こりゃ凄いな。全く見分けが付かないんだけど」
確かにそのとおりだ
今の俺は姿形はもちろん服装までもが倉橋と全く同じ
細いストライプが入った黒のパンツスーツに
エナメルのヒールパンプスの組み合わせ
トレードマークの眼鏡はもちろん
長い髪をまとめている髪飾りやピアスまでもが全く同じ
顔にはしっかりとメイクも施されていて
爪には淡いピンクのマニキュアが塗られている
首からぶら下げている写真入りのIDカードすら
「倉橋由佳」その人になっているのには
もはや驚きを通り越して苦笑するしかなかった

「お前、本当に藤田なのか?」
『だからさっきから何度もそう言ってるじゃないですか』と俺
しかし倉橋そっくりの声で反論したところでまるで説得力がない
そこへ部長が登場
「こら!お前らいい加減に仕事しろ」と一喝するも
「そんなこと言ったってねぇ」
「倉橋が二人いるんですよ。しかも一人は藤田だなんて」
一向に仕事をする気がない同僚達
やがて
「おお、もうこんな時間か。昼飯でも食いに行きますか」
その言葉でようやく俺達を取り囲む集団が三々五々散っていった

そうか、もう昼なのか
俺は腕時計を見る仕草をする
…が、その細い手首には何も巻かれていなかった
「時計は無いみたいですよ。あたしが持ってないから」と倉橋
そうか
倉橋が身に着けているものは全部あるけど
逆に身に着けてないものは無いってわけか
あれ?
ってことは…
俺はズボンのポケットをまさぐる
『やっぱり、無い』
「何が無いんですか?」
『財布だよ。ポケットに入れていたはずの』
婦人服のポケットはたいていの場合ただの飾りで
そこに物を入れておく女性はほとんどいない
もちろん倉橋もその例外ではない
つまり普段は財布を身につけてないってことだ
その姿形と完全に同じになってるということは
ポケットに入れていた財布もどっかへ消えてしまったというわけか
『お昼、おごってくれる?』
「はぁ?」

「別に倉橋の姿であっても仕事は出来るだろ?肉体労働するわけじゃないんだから」
「むしろ午前中仕事してない分、午後はしっかり働け!」
こんな状況下でも冷静な部長はある意味悪魔だ
しぶしぶこの姿のまま仕事をすることになった俺

朝以来ようやく自席に戻った俺だが、腰掛けた瞬間「うゎ、高い!」
いきなり倉橋の体になったもんだから、椅子の高さが全く合わないのだ
それだけ自分の体が小さくなったということか
俺は高さを調整して座り直すが、今度は手がパソコンのキーボードに届かない
いつも以上に椅子を前へ引いて机に近づいていく俺
なんとかデスクワークに支障がないポジションを見つけ出したが
その姿勢だと机の縁がみぞおちに食い込むぐらいの近づきよう
別な言い方をすると、おっぱいが机の上に乗っかっている状態だ
いやでも自分の体が女であることを意識してしまう

なんだか体が熱くなってきた俺はジャケットを脱ぐことに
中から現れたのは半袖のカットソー姿
(うゎ、長袖じゃないのかよ)
半袖から伸びる健康的な二の腕
それが自分の腕だと分かっていてもドキッとする
そして眼下にはカットソーを盛り上げる二つの膨らみが
男がこの位置から胸の膨らみを見ることは無いわけで
涼しくなるためにジャケットを脱いだつもりが、これじゃ逆効果だ
落ち着け、落ち着け
俺は脱いだジャケットを椅子の背もたれに掛けると、努めて平静を装う

ようやく煩悩からも開放され、仕事の調子が出てきたところで
俺は下腹部にモヤモヤした感覚を覚えた
普段感じるそれとは違っていたので、最初はなんだか分からなかった
だが、その感覚がだんだんはっきりしたものになってきて
俺はようやくその感覚が何であるかを理解した
股間を覗き込む俺
男なら椅子に座るとスラックスの股間の部分の布が余るのだが
今は余るどころかピンと後ろに引っ張られて
太ももと股間に放射状のしわが寄っている
やっぱり女の子の股間だ

どうしよう
でも
やっぱり

俺は倉橋に『ちょっと』と声をかけ、一緒に給湯室へと向かった
『トイレ、行きたいんだけど』
「えっ!」
彼女の顔がみるみる赤くなっていくのが分かる
「ダメです!」
『ダメって言ったって、もう我慢できないよ』
最初にもよおした感覚があってから、今のギリギリの状態まであっという間だった
男のときならもっと我慢できたはずなのに
「ダメっていったらダメ!」
『じゃあこの姿で漏らしていい?』
「それはもっとダメ!」
『じゃあどうすれば…』
もじもじする俺を見て、なお思案する彼女
頼むよ、ホントに漏れちゃうよ
「わかりました。じゃあ行ってきて下さい」
「その代わり、変なことしたら絶対に許しませんから!」
その言葉を聞くやいなや、トイレに急ぐ俺
ええと、今の俺は倉橋だから、こっちだな
俺は女子トイレへと駆け込んだ


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