『淫魔のジャコマ アフターストーリー』 その5 JuJu ……。 目を開くと、魔獣の姿はなかった。 足音に振り返る。魔獣が背中を見せながら走り去ってゆく姿が見えた。 魔獣はその黒い体を闇にとけ込ませる。やがて足音も小さくなり、完全に姿を消した。 (真緒が助けてくれたのか?) 俺は真緒を見た。だが、彼女はさっきの場所から動けず、棒立ちで俺を見ている。 俺は、首もとにジャコマの書があることに気がついた。手にも痺れるような衝撃が残っている。 どうやら無意識のうちに腕が動き、ジャコマの書を楯にして、魔獣の牙を防いだらしい。ジャコマの書には、魔獣の攻撃に耐える力があったようだ。マザーがジャコマの書を持って行けといったのは、このためだったのだろうか? 真緒が俺の元に駆け寄ってくる。 「だ、大丈夫でしたか」 「こいつのおかげだ」 俺はジャコマの書を真緒に見せる。背表紙に、牙の傷跡が生々しく残っていた。 「それにしても、よくこんなもので魔獣の牙を防げたものだ」 ジャコマの書の傷跡を見ていると、ふと、この書が自分の意志で動いて、俺をかばってくれたのではないかと思えてきた。そうでなければ、恐怖に目を閉じ、硬直した体で、魔物の素早い攻撃を的確に防げただろうか。 が、その考えはすぐに捨てた。いくら魔物が封印されているからと言っても、書物が自分の意思で動くなんて話は、聞いたことがない。 それに、こんなことを深く考察している余裕などなかった。魔獣は森に消えたが、いつ、ふたたび襲いかかって来るのか分かったものではない。 (魔獣だって、書が楯になるとは思っていなかったはずだ。だから、いったんは助かった。 だが、こんなごまかしが何度も通用するとは思えない。 手の内があかされた今では、こんな小さな楯で魔獣の攻撃を避けることは無理だろう) その時、真緒が言った。 「あっ! 敏洋さん。首から血が出ています」 俺は首に手を当てた。指に、ぬめっとした生あたたかい液体の感触が伝わる。さっき魔獣に襲われたときに付けられたのだろう。 「大丈夫、かすり傷だ。たいして痛みも感じない」 魔物に見つかった以上、もはや身を隠す理由もない。俺は懐中電灯をつけて、地面に転がっている俺のかばんを捜す。中から救急箱を取りだし、真緒に手渡した。 * 「すみません! すみません! わたしがいけないんです」 俺はあぐらをかいて地面に座り込んでいた。 中腰になった真緒が、俺の首に包帯を巻きつけてゆく。そして涙声で何度も何度もあやまった。 魔物に負けた時は死ぬ。血を見たことで、そのことに初めて気付いたような口調だった。 「ジャコマの書がなければ、敏洋さんは今ごろ亡くなっていました」 「……」 「魔獣と交差した時に倒していれば、こんな事にはならなかったはずです。 それなのに、魔獣が向かってくるのを見たら、体が動かなくなってしまって」 真緒は、自分の愚かさをかみしめるように言った。 ふたたび魔獣のうなり声が聞こえた。 俺は真緒を見た。 応ずるように、中腰だった真緒が立ち上がる。 「けがの手当は終わりました」 真緒が救急箱のふたを閉めるのと同時に、ふたたび魔獣が、樹(き)の陰から姿を現した。 ジャコマの書に当たったときに折れたのだろう。片方の牙が無くなっていた。その復讐をするつもりなのか、魔獣は俺の姿を見つけると、怒りに狂ったように俺に向かって突進してきた。 そこに、真緒が立ちふさがる。 「敏洋さんは、わたしの後ろで見守っていてください。大丈夫……今度は絶対に大丈夫です」 真緒は魔獣と向き合うと、言い放った。 「魔力を持たない者を守るのは魔物退治師としての役目。でも、それ以上に、許せないのが、敏洋さんを襲ったこと! 絶対に許せません!」 猛進していた魔獣が、立ちはだかる真緒に気が付いて足を止めた。 その場に立ち止まり、頭を低く下げ、真緒をにらみ付けて威嚇している。 だが、すぐにうなり声がとまる。まるで、自分のかなう相手ではないことを悟ったように、二三歩あとづさりをする。どうやら、形勢不利と見てこの場から離れようとしているらしい。 「逃がしません!」 真緒が渾身をこめて、鉄槌を天にかざした。それに応ずるように、鉄槌の先に風が集まり渦を巻く。 「敏洋さん、伏せてください!」 俺は慌てて身をうつぶせた。 「一度ならず、二度までも、敏洋さんを襲うなんて!」 天に掲げた鉄槌を、魔獣に向かって一気に振り下ろす。 「絶対に許せません!」 俺は肢体を地面にはりつけた状態で、頭だけを上げて魔獣を見た。頭の上を風が抜け、俺の髪を揺らす。 真緒の放った疾風が、魔獣に襲いかかる。 魔獣が驚きとまどい、逃げようと体の向きを変えたところで、真緒の風が捉(とら)えた。 うずを巻いた風が、魔物を包み込む。 魔獣は、断末魔を上げる間さえ与えられず、跡形もなく霧散してしまった。 俺は思った。 (ジャコマに淫魔にされた姿で教会で会ったときもそうだったが、真緒は本気になるとすごいな。 これがマザーの言っていた、真緒の実力ってやつなんだろうな) 俺は立ち上がると、服に付いた土を叩いてはらう。 真緒を見ると、激しい呼吸をして、上がった息を整えている。 「さ、帰るか。これで晴れて、真緒も正式な魔物退治師だな」 「まさかっ! 魔物を一匹倒した程度では、とても正式な魔物退治師なんてなれませんよ。 それに、わたしの目指しているのはただの魔物退治師じゃありません。マザーのような立派な魔物退治師です」 「ああ、そうだったな。 とにかく、今日はこれで終わりだ。 帰って、無事魔物を退治したとマザーに報告しよう」 だが、歩き出した俺に対し、真緒は立ち止まったままだった。 「どうした? 戦いで疲れているのか?」 「いいえ。そうじゃありません」 真緒は森の奧の一点をを見つめたまま、目を離さず答える。 「気をゆるめないでください。 ――まだ、います」 「え?」 そこに、また魔獣のうなり声が聞こえてきた。 「生きていたのか?」 真緒は首を振る。 「おそらく、仲間です」 「二匹目か? マザーからはそんなことを聞いていないぞ?」 「魔物退治を依頼した後に、増えたんでしょう」 「死に際に、仲間を呼んだのかもしれないな」 「それよりも、この気配です。さっきのとは段違いに――」 真緒の体が震えている。 俺は、懐中電灯を真緒の視線の先に当てた。そこには、苔むした、一本の樹の根本があるだけだった。 だが、突然その樹の姿をさえぎるように、大木のような黒い霧が電灯の光に照らしだされる。 魔獣の足だった。 真緒の言っている、もう一匹の魔獣だろう。 だが、その足の大きさに俺は驚いた。 俺は懐中電灯を上げて、胴体に光を当てた。 そこには、先ほど倒した魔獣と同類だが、その大きさはさっきのなど比べものにならないほど巨大な魔獣がいた。 先ほど倒した魔獣の大きさはイヌ程度だった。だが今度の奴は、闘牛ほどの大きさをしている。 俺は言った。 「さしずめ、さっきの魔獣の〈ボス〉といったところだな」 (その6へ) |