第四幕 その9
JuJu


 敏洋の体は、のけ反ったあと力なく崩れ落ちた。
 彼をもてあそぶことに夢中になっていた真緒も、異変に気がついた。あわてて敏洋のわきの下に自分の腕をすべりこませると、くずれ落ちる彼の体をささえた。
 敏洋のひざが床に着き、ぐったりと前のめりに倒れ、背の低い真緒におおいかぶさる。
 重くのしかかって来る敏洋の体を、真緒は力を込める事で抱き留めた。うなだれた敏洋の頭が、真緒の肩に載った。敏洋の胸が真緒の胸にあたり、その大きな胸を押しつけて来る。
「真緒……」
 敏洋のつぶやく声が耳元でひびく。
「え? 敏洋さん?」
 うわごとらしく、敏洋からの返事はなかった。
 だがその声は、いま抱きかかえている淫魔が敏洋だと言うことを、真緒に鮮明なくらいに思い出させた。
 真緒は今まで、敏洋に抱かれたことはなかった。だからいつかは、抱きあいたいと願っていた。それが今、こんな形で叶っている。
「真緒……」
 敏洋はふたたび、彼女の名を呼んだ。それはとても幸せそうな声だった。
 いままで、こんなに優しく自分の名を呼んでくれた事はなかったと、真緒は思った。
「敏洋さん……」
 真緒は目を閉じると、敏洋を抱く腕に力をこめた。
 彼女は、どんな体になっても敏洋さんは敏洋さんだと、彼に言った。そして自分でも、それは正しいと思っていた。しかし現実は、強引に、この淫魔は敏洋さんなんだと、自分自身に思いこませようとしていただけだった事を、真緒は今、気がついた。
 目の前の人物が敏洋だということを視覚的に証明している物は、彼がふだん掛けていたメガネしかなかった。メガネは装飾品だ。誰だって身につける事ができるし、簡単に外す事もできる。
 メガネのように外せない彼の肉体を見れば、女性の体を持ち、面影があるとはいえ別人の顔をし、コウモリのような翼を背中から生やしている。その姿はまぎれもなく、魔物の一種の淫魔だった。
 そのため、どんなに彼を敏洋だとわかっていても、それを認めることができない思いが、真緒の心のどこかで残りつづけていた。
 だが今、無意識という裸の心で幸せそうに自分の名を呼んでくれた彼を見て、胸に抱いている人が、本物の敏洋なんだと心の底から信じられた。
 敏洋を抱いたまま、時が過ぎた。
 真緒は耳元にかかる呼吸が寝息に変わった事に気がついた。
「敏洋さん、寝ちゃったんですか」
 真緒は腕に力をこめて寄りかかる敏洋の体を押しかえした。
「重いです……」
 真緒はうなりながら、敏洋の体を礼拝堂の床に寝かせた。
「いま、毛布を持ってきますね」
 しばらくして、真緒が毛布をかかえて戻ってくる。
 真緒は床に毛布を敷くと敏洋を載せた。もう一枚の毛布は敏洋の体にかける。
 明かりをつけていないために、礼拝堂は薄暗い。
 静寂の中、敏洋の寝息だけが礼拝堂にひびいていた。
 窓枠に切り取られた、ステンドグラス越しの月あかりが、毛布に包まれた敏洋の顔を照らし出している。
 快感の余韻が残っているのだろう、褐色の肌の頬が、ほんのりと紅く染まっている。そしてその表情は、女としての快感に満足した顔をしていた。
「幸せそうな顔をしてますね、敏洋さん。
 ――わたしは、敏洋さんを女の人にされたことで、ジャコマさんを恨んでました。
 でも、今は違います。男の人の敏洋さんと、女のわたしと、同じ気持ちよさを共有できた。それがうれしいんです。敏洋さんからもらった幸せな気持ちを、そのまま敏洋さんに返せた。それが喜びなんです。
 女の子同士でなかったら、こんな事はできなかったでしょうから。
 なによりもうれしいのは、敏洋さんへ、わたしの思いを告白できた事です。
 だから今では、ジャコマさんに感謝しています」
 敏洋と女の快感を共有したいという真緒の希望は満たされた。
 満たされてしまうと、新たなる欲望の灯が、真緒の心のなかにともり始める。
 目をさませば敏洋は元の男の体にもどるだろう。そして二度とこの姿にはならないだろう。こんなに色っぽい敏洋にもう会えないんだと思うと、なんだかなごりおしかった。それに、敏洋と肌を重ねる機会などもう無いかもしれない。
 そう考えた真緒は、修道服を脱ぐと裸になり、床に寝ている敏洋の毛布にもぐりこんだ。
「お願いです。もうすこしだけ、わがままを聞いてください。
 目がさめるまででいいんです。こうして、いさせさせてください」
 真緒は敏洋におおいかぶさると、彼の背中に腕をまわした。

   *

 重みを感じ、敏洋は目をさました。
 頭はハッキリしないものの、わずかに心が落ちついているのは、一度絶頂を迎えたためだろうか、などと考えた。そして、女としての絶頂を迎えたことを思い出し、すこし恥ずかしい気持ちになった。
 敏洋はうつろに潤んだ目を開く。そこには、自分の胸に顔を押しつける、真緒の姿があった。
 真緒は、自分の背中に腕をのばして抱きついている。
 毛布でかくされている物の、感覚から自分も真緒も裸だと言うことがわかった。
「あっ?」
 敏洋は驚いて短い声をあげたが、夢中になっている真緒には聞こえなかったようだ。
 重ね合わせた肌と肌。そこに邪魔はなかった。真緒の気持ちが、肌のぬくもりを通して伝わってくるような気がした。それはとても心地よかった。だから敏洋は、このままにしておこうと考えた。
「肌もすべすべです」
 敏洋を抱きしめていた真緒の手が、背中から離れた。
 その手は敏洋の全身をはいまわった。
 真緒の手に触れられた敏洋は、全身が性感帯になっている事に驚いた。絶頂をむかえた後で肌が敏感になっているのだろうか。髪や、首筋や、太ももや、背筋など、何という場所でもないのに、真緒の手に触れられると、性的な心地よさを感じる。
 敏洋は、快感と共に彼女の思いが伝わって染み込んでくる様におもった。今の真緒の姿のように、さえぎる物のない、包みかくさない真緒の本心が、自分の体に染み込むような気がした。
 いつの間にか、敏洋も真緒のことが愛おしくなっていた。それは、真緒の真心が伝わったからだろうか。あるいは、真緒の手から生まれる快感から来ているのだろうか。
 敏洋にそれは分からなかった。が、いずれにせよ、敏洋は真緒が愛おしく思えてたまらなくなり、彼女を抱きしめた。

   *

 敏洋に急に抱きしめられて、真緒は彼が目をさましたことに気がついた。
 彼の体に夢中になっていた真緒は、おどろき、敏洋から離れるために起きあがろうとした。が、気が動転してしまい、体がうまく動かない。あわてていたために毛布が腕にからまり、ますます動けなくなった。
 そんな逃げ腰の彼女を引き留めるように、敏洋の腕が彼女を抱き寄せた。
 真緒は、敏洋が寝ているのを良いことに、抱きつき、女になった彼の体をまさぐっていたことがばれてはいないか、気が気ではなかった。
 敏洋は真緒のおでこに口づけをした。
「敏洋さん……」
 口づけをされると、真緒の体から力が抜けた。真緒は敏洋に体をあずけた。
 敏洋は真緒を抱きしめた。敏洋の胸に、真緒の胸があたる。たがいの胸と胸が、押しあって潰れるように形を変える。
 男の心を持つ敏洋は、盛り上がった自分の女の胸に違和感を感じていた。この胸の膨らみが、自分と真緒の間に距離をあけているような気がしてならなかった。男の体だったら、真緒をもっと近くまで引きよせられたのに。
 敏洋は、さらに強く抱きしめた。
 だが、ふたりの胸がじゃまをして、おたがいの距離は縮まらず、単に自分の胸を真緒に押しつけただけに終わった。
 敏洋は思った。
 いや、問題は胸じゃない。
 たとえ俺が男の体だったとしても、同じ感想をもっただろう。もう、抱きしめるだけでは、ものたりない。もっと真緒と一緒になりたい。
 敏洋の肉体は真緒の体を欲しており、心も真緒と繋がりたいと切望していた。敏洋は初めて、自分の心と、淫魔の体の、その両方の想いが一致した気がした。
 だから、決心した。
「真緒……」
 敏洋はメガネを外そうとする。
「あ、外さないでください。もうメガネがなくったって、敏洋さんだと感じられます。
 でも、敏洋さんには、わたしの体をしっかり見て欲しいんです」
「わかった」
 敏洋はメガネから手を離した。
 あらためて、真緒を見つめる。
「俺からも頼みがある」
 女の高い声が教会にひびく。それが自分の声ではないことが、敏洋にはくやしく、ますます真緒との距離を感じさせた。
 だからその分、思いをこめて彼女の名を呼ぶ。
「真緒――」
 そのあと、おそるおそる、小さな声で懇願する。
「指を……入れてくれ」
「えっ?」
「俺の女の部分に、真緒の指を入れてほしいんだ」


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