月曜日7月6日 怒りと悲しみと(その2)


 教室の後ろ扉が静かに開け放たれたかと思うと、見慣れない生徒が一人血走った目つきで入ってきた。最初、三年五組の生徒は殆ど気付く事が無かったが、その生徒が一通り教室内を見渡した後、一点を見つめ叫んだ時、漸く何か普段と違う事が起きたのだと理解し始めていた。
「ミシマああああっ!」
 一人入ってきた生徒、修一が気合とも叫びともつかない声を上げ走った。四・五メートルの距離などあってないようなものだけれど、ひどく遠く感じてしまう。
 バカ話に興じていたミシマは、椅子を斜めにしながら声の方を向いた。しかしその時には既に修一が目の前に来ていた。
 比較的狭い場所で斬り合う時、長刀では鴨居など邪魔になる場合がある。教室ではミシマとヨシノ以外を傷つけたく無かった修一は、長い木刀では周囲に迷惑が掛かるかもと思って小太刀にしたのだ。尤も、教室内で木刀を持って暴れる事自体が迷惑行為ではあるけれど。
 しっかり握った小太刀を袈裟切りに下ろしていく。驚愕の表情を見せるミシマが手で防御しようとしたが遅すぎた。こめかみより少し上に木刀が叩きつけられる。「カン」と軽い音が教室内に響き渡った。と、一瞬の間を持って、ミシマの額から鮮血が流れ出す。
「ぐぎぃ」
 豚のような声を上げ頭を抑えながら椅子から滑り落ちるミシマ。修一はそれを見届けてから、ミシマの周りを取り囲む三人を見、そしてヨシノと思われる生徒の前に立った。
「ヨシノ!!」
「! は、はいぃ!?」
 一瞬の出来事に虚を突かれていた生徒達は、修一の一言で我に返っていた。そして女子は叫び、男子は乱入してきた生徒の一挙手一投足を見守っている。
 返事をした事で相手がヨシノだと確認した修一は、恨みの一撃を加えようと小太刀を振りかぶる。
「……あ! てめっ、何してんだよ!?」
 放課後のお楽しみの時間を待とうとしていたミシマの仲間が、修一の右腕に縋りつき木刀を振り下ろさせまいとする。しかし、修一は左手だけでそのまま打ち下ろした。またも「カン」と乾いたいい音を響かせ、木刀はヨシノの額にめり込んでいく。声も無くくず折れるヨシノ。
「邪魔だあああっ!」
 一刻も早くヨシノからデータを取り戻したい。その一念は修一を鬼に変えていた。もしかしたら何の繋がりもない生徒だったかも知れない。しかし邪魔をする生徒は、今の修一にとってはミシマの仲間と同義だった。返す刀で縋りつく生徒の胴を薙ぐ。
「いっ?!」
 予想外の痛さだったのか、息を吸い込んだまま身体をくの字に曲げてその場でしゃがみ込んでしまった。修一はちらりともう一人、残った生徒を睨めつけた。そこを動くなと言うように。案の定、目の前で展開されている流血劇に、身動きが取れない。
 その様子に修一はヨシノの傍に歩み寄って行った。頭を抱えながら床に膝を着いている。
「そんなんで痛がるなっ!」
 頭を押さえている手の上から、ゴルフボールを打つように木刀で殴りつけた。「ぎゃッ」と鳥が鳴くような声を出し、今度は仰向けに転がっていく。指が変な方向に曲がっていた。
 修一はそんなヨシノに全く構わず、柔道の横四方固めのように左手の木刀の切先をヨシノの口中に押入れ、空いた右手でヨシノの股間を握った。股間を掴まれたヨシノの身体が頭と指の痛みにも係らず「ビク」っと反応している。修一がヨシノの耳元に顔を近づけ、囁いた。
「いいか、お前らが撮ったリンタの写真データ、全部出せ。阿部から全部聞いてんだぞ。お前が持ってんだろ。出さなかったらこのままお前の玉握りつぶしてやるっ。俺の握力六十キロ以上あんだからなっ」
 その言葉が終わるか終わらないか、修一が右手にいきなり力を加えていた。ヨシノは涙目になりながら痛みと恐怖に顔を引き攣らせた。
「あ、あっへ。いあ、らすらすらす!」
 男が終わる事に恐怖を感じたのか、それとも単に痛いのが嫌なのか、ヨシノは以外にも直ぐに修一の言葉通りポケットから薄型のデジカメを取り出した。指が骨折しているのだろう、紫色に腫れ上がり違う方を向いている指を懸命に使って修一に差し出してくる。
「これで全部か? もし残ってたら全部出すまで襲ってやるからなっ。そん時は磨り潰してやる!」
「ひっ!」
 これまでより若干握る力を加えると、ヨシノが小さく悲鳴をあげた。と同時に、じんわりと修一の右手が温かくなった気がした。
(あ、汚ねぇな……)
 見るとヨシノの股間が濡れている。失禁したのだ。修一は転がるヨシノのシャツで手を拭い、デジカメからSDカードを抜き出した。そしてそれを忌々しげに見つめると二つに折った。
(これさえ無けりゃ、いいんだ)
 一区切りついたと思ったとき、修一の背後から椅子が投げつけられ、強かに修一の背中に当たった。
「うっ?!」
 アドレナリンが修一の体内を駆け巡っているせいか、瞬間的に圧迫された肺から息が出て声となったけれど、それ程の痛みは感じていない風だった。少し背中をさすりながら振り向く。そこには不意の一撃を喰らった事でふらふらと立ち上がったミシマが、焦点の合わない目で修一を見ている。
 よれよれのその姿は、いつも偉ぶっていたミシマ像では無く、周囲の生徒の失笑をかっていた。
 元々、ミシマはクラスでも疎まれていた存在だった。乱暴で横柄な態度は誰彼構わずだったし、女子に対してはセクハラ紛いの事もする。ただ、剣道が強いという事だけで一目置かれていたのだ。その剣道も、きちんとしている訳ではなく、暴力の道具にしていたキライもあったのだ。今の修一にそれをとやかく言う権利はないのだが。
 そのせいか、誰一人としてミシマに手を貸そうとする生徒はいない。寧ろ修一が上手くミシマに痛い目を見せて欲しい、その位の気持ちしか持ち合わせていなかった。これがもしクラスでも慕われ人気者だったりしたら、妨害の手が多過ぎてミシマに鉄槌を喰らわす事など出来なかったかも知れない。
 壁に背中を持たれかけ、流れる血を拭う。その顔は次第に表情を取り戻し、悪鬼のようになりつつあった。
「もろづみぃ。てめぇ、ざけんなよ。ぶっころすぞ、こら」
 言葉で必死に牽制しようとミシマが凄む。しかし最初の一撃で意識が一瞬飛んでいたのだ。朦朧とした意識の中、ミシマが目にしたのはヨシノを脅している修一の背中だった。その時後ろから修一を襲えればミシマにも勝機があったかも知れない。しかしふらつく身体は言う事を聞かず、やっと椅子を投げつける事が出来ただけだった。
「ったくよお。たかだか女一人じゃねーかよ。真剣になってんじゃねーよ、ガキがっ」
 だらだらと額から血を流しているミシマの一言は、修一に再び火を点けていた。自分の大切な女の子だから真剣になるのだ。どうでもいい、言ってみれば関係の全くない女の子なら、自分の今後を考慮すれば学内で暴れ回る等する筈がない。あれだけの事をしておいて「たかだか」だと言うことが許し難い事だった。
「たかだか、だとぉ……。ふざけるなっ」
 一瞬にして沸き上がるミシマに対する憎悪。修一には解っていた。阿部もヨシノも所詮は雑魚なのだと。誰か首謀者がいて初めて何かをしようと思うタイプなのだ。けして自分から先頭には立たない。ミシマのような奴が踊らせているだけだ。修一は凛太郎が受けた数々の屈辱を思ったとき、せめて修一自身の手で完膚無きまでにミシマを叩きのめしたい衝動に駆られた。
 ほんの三メートル程の距離は、六畳間の縦一辺と同じ位の距離しかない。修一は小太刀を背中に刺し入れながらリノリウムの床を蹴り込んだ。
 ミシマは当然もう一度修一が木刀で掛かってくると思っていた。しかし予想に反してタックルに来た修一に反応が遅れてしまう。もんどり打って転がる修一とミシマは、教室の壁沿いに倒れ込み修一がミシマの上半身の上に乗る形で組み伏せていた。格闘技で言うマウントポジションというのと似ている。そしてその態勢は、ミシマが凛太郎を犯した時と丁度反対だった。
 それまで威嚇用に凄んだ顔つきをしていたミシマが、初めて少しだけ恐怖の色を見せていた。
「あいつの分、全部返してやる!」
 修一が右腕を振り上げると、ミシマが腕を交差させて拳が届くのを防ごうとした。しかし修一はそのまま固く握った右拳をミシマの顔目がけ打ち下ろしていく。
 右腕を思いきり振り下ろすと同時に、左腕を高く振り上げて殴る。両腕を交互に使い、腕と言わず手と言わず、顔と言わず、届く範囲全てを殴りつけていく。阿部を殴りつけた右拳は既に腫れ上がり、濃い紫色に変色し始めていた。殴る度に鈍い痛みが脳に届く。左拳も同様で、痛みが増してきていた。時折、小指や薬指、親指の付け根が固い頬骨や額に当たると、それだけで捻挫したように痛かった。
 しかしそれでも修一は殴るのを止めなかった。
 次第にミシマの反応が鈍くなり腕で防ぐ事が出来なくなっている。その隙を突き、鼻柱や口を打ち抜くとミシマが顔を背けようとする。跳ね飛ぶ血にも気遣いはせず、修一はミシマを殴り続けていた。
 ふと、ミシマの胸元が光った気がした修一は、一瞬殴るのを止めた。そしてそれが何であるか、理解するのに時間は必要無かった。修一が凛太郎にあげた銀の犬。いつも身につけていたものだ。それが下品な金の鎖でミシマの首にぶら下がっている。
「うあああああっ!」
 修一はそれを掴み引きちぎった。そして銀の犬を握りしめたまま、再びミシマを殴り始めていた。

 どの位の時間、ミシマを殴り続けていたのかは修一には解らない。しかし少なくとも授業が開始されるまではそうしていた筈だった。三年五組に授業を行うため教師が来たが、その光景に驚き、しばし動けないでいた。殴られ、意識がないのか身じろぎ一つしないミシマが危険だと判断したのか、修一を止めようと割って入るが修一は止まらなかった。騒ぎを聞きつけた複数の教師達に羽交い締めにされて修一が取り押さえられたとき、ミシマの顔は血と腫れで誰だか解らない状態になっていた。
 教師に両脇から抱えられ一般の生徒から隔離された修一は、そのまま事情聴取となったけれど、理由を言うことは無かった。生徒指導の大原が、どんなに暴力的に尋ねても、一言も口を開くことは無かった。
「脇田部長には申し訳ありませんでした、とお伝え下さい」
 ただ一言、それだけを言うのみだった。

 * * * * * * * * *

 夜半、と言ってももう日付が変更されそうな時間。凛太郎は学校での出来事を何も知らず、退屈ではあるけれど、ここ数日では最も心の負担が軽い平穏な一日を過ごしていた。しかしだからと言って、何もかも解決した訳では無かったから、携帯電話に阿部のメールや電話が着ていないか、一時間毎にチェックしていたけれど。
 自分が男なら襲われる事は無かった。女なら、もっと危険に対して敏感だったのではないか。中途半端なこの身だから、今の状況になってしまったのではないだろうか。一日中、凛太郎は答えの出ない命題に考えを巡らせていた。しかし回答が得られる筈も無く、思考は空回りばかりだった。
(明日は、学校行かないと……。やだな)
 ちょっと体調が悪かったから、と、当たり障りの無い言い訳を考えていた。しかしどうして凛太郎が言い訳を考える必要があるのか、自分でも解らなかったけれど。
 陰鬱な表情を見せながら、ベッドに身体を滑り込ませる。柔らかな布団に包まれる瞬間が、最近の凛太郎のお気に入りになっていた。起きている間は、酷い目に会うし、かと言って寝てもこれまでの経験が深く心に傷を残したせいで、魘される事もある。それに寝ると魔物がやって来る可能性を否定できなかった。結局寝ても覚めても、どちらも凛太郎にとっては「悪い夢」のようなものだったのだ。だからそのハザマである布団に包まる時が、外界と自分とを切り離す瞬間に捉えられていた。勿論、柔らかな感触自体も気に入っていたのだけれど。
 ゆっくり目を瞑り、「ふぅ」と息を吐き出す。と、そこへ、携帯電話が着信を告げた。深夜の室内は妙に静かで、携帯電話のバイブレーション機能だけが、その存在を主張し続けていた。
(阿部? きっと明日ちゃんと来いって電話だ……)
 いやいやながらでも、携帯電話に手を伸ばした。しかし予想に反して、発信者欄には「笑」の名前が見えた。凛太郎はほんの少し躊躇したけれど、ベッドから起き上がり携帯電話を開き、通話ボタンを押した。
「もしもし?」
 おずおずと電話口に出る。凛太郎は笑に修一とお別れした事を話していない。修一が話したのなら別だが自分から言うつもりは無かった。一瞬、修一の事を言われるのではないかと思ったから、電話に出る事に躊躇したのだ。
『凛ちゃん、遅くにごめんね。あの、お兄ちゃんの事、教えてくれる?』
 切羽詰った、というより、何か焦ったような声色。普段はきはきして気持ちいい位の笑だと言うのに、今日の電話に限ってはいつもの笑では無かった。その様子から只ならぬ雰囲気が凛太郎にも解った。それに、「修一の事を教えてくれ」とは一体どう言う事なのだろう?
「教えるって、何を? 僕たち」
『え? 凛ちゃん知らないの? 今日学校でお兄ちゃん大変な事しちゃって……』
 言いたくは無かったけれど、別れた事を告げようとした。しかし笑が凛太郎の返答を待たずに話し始めていた。
「修ちゃん、どうしたの? 僕今日は休んだから。大変な事って何があったの?」
 凛太郎の心臓がどんどんと大きく脈動していた。刹那、凛太郎の頭の中で様々な思考が展開していた。修一が大変な事をしたのだ。笑の言葉からはそれしか解らないけれど、それだけでも大きなヒントだった。最悪のシナリオが凛太郎の思考を支配していた。
(もしかして、修ちゃん、まさか?! でも、どうやって?)
 あのミシマや阿部が簡単に秘密を漏らすとは考えられなかった。特に修一に。
『……あのね、お兄ちゃん、上級生の教室行って大暴れして……三人に怪我させたって』
「ええっ? 修ちゃんが喧嘩したって事? 三人にって……修ちゃん、怪我は無いの? 大丈夫だったの?」
 三人という人数には凛太郎にも心当たりがある。「あの」三人だ。しかしそれを修一が本当に知ったのか、凛太郎には解らない。それより相手がミシマなら修一も怪我をしているかも知れない。それが心配だった。
『お兄ちゃんには怪我は無いんだけど、相手が皆入院だって。お兄ちゃん、喧嘩の理由全然話さなくて……。なんかトラブルあったみたいだった? 明日っから自宅謹慎なんだけど、もしかしたらお兄ちゃん退学になっちゃうって、理由だけでも解れば……。凛ちゃん何か心当たりない? どうしよう、お兄ちゃんどうしちゃったんだろう……退学になっちゃうよぉ』
 冗談を言ったり、ふざけたり、調子に乗ったりする事はあっても暴力に訴えるような事を修一はした事が無い。それを身近で知っている笑としては、何故とかどうして、とかそんな事ばかり思ってしまうのだった。そして自分の知らない「兄」がいる事に不安を持ったのだろう。だから凛太郎に何か知らないかと連絡してきたのだ。その笑が不安からか、心配からか電話の向こうで泣き始めてしまっていた。
 凛太郎は、修一が語らない事で、何があったのか凡その見当が付いていた。やはり修一は凛太郎とあの三人の関係を見破ったのだ。凛太郎が何をされたのか解ったのだ。修一に全て知られた事もショックだったけれど、それ以上に修一に被害を及ぼさないようにと考えた凛太郎の行動自体が、結果として修一を窮地に追いやってしまっている。その事に凛太郎は言いようの無い衝撃を受けていた。
 泣いている笑に、凛太郎が固い口を開いた。
「理由は、多分、僕だから」
『……え? なんで、凛ちゃんなの?』
 意外な答えが返って来た事で笑の泣き声が途絶えた。僅かに無音の状態が続いた。
「僕が、悪かったんだ。僕のせいだから……」
『だから、どうして凛ちゃんのせいなの? どう言う事?』
 笑が聞くのは当然の事だ。理由が解らないのでは、凛太郎が自分のせいだと言っても納得など出来る訳が無い。しかし凛太郎がそれを言う事は出来なかった。自分の受けた屈辱を曝け出す勇気は今の凛太郎には無かった。
「それは、……ごめん、言えないけど。でも僕の」
『もうっ! それじゃ解んないよっ。お兄ちゃん退学になっちゃうかも知れないんだよ?!』
 凛太郎は大きく息を吐いた。溜息、では無く肩にかかった力を抜く為に。
「僕が出来る事はちゃんとするから。だから今は話せないけど、いつか」
『秘密の事があるのは解ったけど、解んないっ』
 業を煮やしたのか、はっきりしない凛太郎に腹が立ったのか笑は突然電話を切ってしまった。
 小さな灯りを点けただけの部屋の中で、凛太郎は再びベッドの中に入って行った。しかし頭を駆け巡る想いで眠れる訳は無かった。
(修ちゃん、僕の為に? あんなに酷い事言ったのに。修ちゃんに迷惑かけたく無かったのに……)
 辛くても、嫌な事でも修一が自分の犠牲にならないようにと思っていた凛太郎だったから、今回の事件にはやりきれない思いで一杯になっていた。正直に打ち明けられたかどうかは別としても、これではそれと同じ事になってしまう。かえってより悪い方向に向かってしまったのではないだろうか。
(明日、修ちゃんに謝りに……でも、なんて言う? 僕から振っておいて、酷い事言って、どんな顔して会えばいいって言うんだよ。会って、会いたいけど、言葉が見つからないよ)
 会いたい、それだけを考えて、それだけをすればいい筈なのに、凛太郎は自分の行動の後ろめたさで修一に会う決心がつかなかった。行ったり来たりする思考に翻弄されながら、凛太郎は寝苦しい夜を過ごしていた。



(「火曜日7月7日、8日 凛太郎の決断」へ)


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