火曜日7月7日、8日 凛太郎の決断(その1)


 修一の為に自分はどんな事が出来るのか、それを考えながらいつの間にか寝入ってしまっていた凛太郎だった。今朝の空は良く晴れ渡って、本当なら清々しい気分で登校出来たことだろう。しかし凛太郎は清々しさなど感じる暇も無く、登校する気さえ今は無かった。
 居ても立ってもいられない、そんな心境で、凛太郎自身が修一に何が出来るのかを考えていたのだ。どのような状況に陥っているのか、昨日登校していない凛太郎には詳細が解らない。しかし一つだけ明白なのは、修一が同級生と上級生の三人に怪我を負わせたと言う事。そしてその三人は凛太郎が想像した通りだろう、それ以外には考え難かった。笑が三人に、と言った時点で誰という事を理解出来た。しかし何故修一がそれを知り得たのか、そこは解らない。修一には自分が三人に何をされたのか、恐らく全て知られただろう。
 自分の為に、悪くすれば退学に、良くても停学にはなってしまうのだ。凛太郎は修一の評価が下がってしまう事を恐れたからこそ、甘んじて陵辱にも耐えていたのに、これではその意味も薄れてしまう。千鶴が修一に、凛太郎が妊娠したかもと告げた時点で、昨日の出来事も起こり得るものとして考慮しているべきだった。けれど、既に自分の状況に一杯一杯となっていた凛太郎には、そこまで気を回す余裕が無かった事も確かだった。
(どうして僕なんかの為に……酷い事言って傷つけて……ほっといてくれたらよかったのに)
 凛太郎自身、この考えが非常に身勝手な事だと理解している。もし自分が男のままで、付き合っている女の子が同じような目にあったなら、自分が非力だとは解っているけれど、似たような行動を採ったと思うのだから。しかし一方では、無茶な事をした修一を責めたい気持ちもあった。
 たとえどんな理由があるにせよ、暴力で解決しようとすると、どこかに歪みが起きる。今回の修一の場合は、自身の今後に影を落とす事になり兼ねない。
 修一を停学や退学の危機から救おうとするなら、凛太郎が三人から受けた陵辱を口に出さなくてはならない。どんな方法を考えても、結局それが一番現実的で確実な線だった。
 しかしそうする事は、修一の思うところではないだろう事も凛太郎には解っていた。昨日、恐らく生徒指導室で大原に絞られただろうと思っている。それでも黙して語らない修一の態度を想えば、凛太郎の秘密を明かさない覚悟で全てを自分が被る覚悟で臨んだとしか思えない。
(やっぱり、みんな僕が悪いんだ。僕があんな風に……されなかったら。僕が修ちゃんの事好きにならなければ。僕が女の子になんてならなければ。僕が、こんな肌やだって思わなければ)
 全てが凛太郎を中心に狂わされてしまったのだと、思っていた。最終的には「自分が悪い」という思考に帰結してしまう。それが本当にそうかと言えば、恐らく違う筈だけれど。
(これまでの事全部、無い事になっちゃえばいいのに……)
 二度と元に戻らない一方通行の人生。過去の事が無になる事は無いと知っていながら、凛太郎は思わずそう思ってしまっていた。過去の事象が無くなる事は有り得ない。しかし「それは無かった」と「認識させる方法」は身近にあったのだけれど、今の凛太郎にはそれを思い起こす心の余裕が無かった。
 と、携帯電話が着信を知らせる為、筐体を振るわせ始めた。凛太郎は一瞬どきっとしてしまう。阿部からだと思ってしまった。今頃は入院しているだろうと思っていても、ここ数日ですっかり凛太郎の心を弱らせていた。着信は昨日に続き笑からだった。
(こんな朝早くからどうしたんだろ? もしかして、修ちゃんにっ?!)
「もしもし、笑ちゃん? 何かあった?」
 通話ボタンを押しいきなり話し始める凛太郎に、受話器の向こうの声は躊躇いがちに口を開いていた。
『あの、昨日はごめん。いきなり切っちゃって。どうしても納得出来なかったから……』
 当然と言えば当然だと凛太郎も思っている。修一を救える手段を持っていながら行動に出ないのは、凛太郎も苦しい。
『今日ね、お父さんとお母さんが入院してる人たちの所に行くんだって。お兄ちゃんは、行く必要ない、って』
「……行かなくていいのに」
 思わずそんな言葉が凛太郎の口から漏れてしまった。しかし小声だったせいか、それとも笑が意識的に聞こえないふりをしたのか、その言葉の真意については尋ねて来なかった。
『そんな事言っててもさ、なんか凄く落ち込んでるみたいだし。凛ちゃん、放課後でいいから励ましてやってくれないかな?』
 突然の笑の要求に、凛太郎は言葉を返せなかった。お別れしたから会えません、そんな言葉を今言うのは憚られる気がする。
「えっ、でも、僕がって……。何も役に立たないよ、迷惑かけてばかりだし……」
 凛太郎はぼすっとベッドに腰掛けて、床を見ながら話をしていた。
『そんな事ないよ。凛ちゃん。お兄ちゃんてばかだけど、真っ直ぐ凛ちゃんの事見てるもん。凛ちゃん会えば直ぐ元気よくなると思うし』
「うん、でも……」
 会っていいのか、どんな顔をして会えばいいのか、凛太郎は解らなかった。言葉尻が消えかかってしまう。
『……もう、学校行かないと。もし、お兄ちゃんの事嫌いになって無かったら、学校終わったら会いに来てあげて。じゃぁ、また』
「うん、またね」
 ぱたん、と携帯電話を閉じる。軽い溜息を吐いて、凛太郎は視線を宙に漂わせた。普段なら学校に行く仕度をしている時間。凛太郎は既に学校に行く気は無かった。
 今日、修一と会うかどうか、今はそれを考えていた。凛太郎から離した手を、それでも修一は掴んでいたのだ。そして凛太郎の陵辱劇を知って救ってくれたのだ。その時の修一の苦しみを思うと凛太郎の目に涙が溢れていた。
 昨日からの命題。凛太郎はどうすればいいのか? 今度は凛太郎が修一を助ける番ではないのか。全てを知っても救おうとしてくれた修一を、このままほって置く訳にはいかない。
(でも、もう汚れてるし、修ちゃんもそれ知ってるし。傷つけちゃったし。修ちゃんの事好きなのに。こんなに好きなのに。修ちゃんきっと許してくれないよ……。あー、もうっ、僕って自分の事しか考えてないじゃんか)
 どう言い繕っても、自分の事を考えていると思ってしまう。そしてそれが汚い事だと思う。結局凛太郎は修一と一緒にいたいのだ。もう一度お互いが好きだと言いたいのだ。自分の秘密がばれる、そんな事は修一といられるなら瑣末な事に思えてしまう。元々、堪えようと思ったのも修一に迷惑を掛けたく無かったからなのだから。修一が既に知っているのであれば、たとえ恋人になれなくても友達として一緒にいたい、望みはそれしかなかった。その望みを叶える為には先ずどうしたらいいのか?
(やっぱり、会うしか……。でも会って何を話したら……)
 色々な言葉を使ってみても、最後には「会いたい」と言う最も単純な答えしか出てこなかった。会って何を言うとか、どうしたいとか、そんな事はどうでもよい事だとやっと思い至っていた。

 昨日一日引き篭もっていた凛太郎を病院に連れて行こうと千鶴は凛太郎の部屋の前に来ていた。
「凛ちゃん? 起きてるでしょ。今日は病院に」
「行かない! 嫌だったら。もうちょっとしたら学校行くから」
 室内で何をしているのか、千鶴が声を掛けるとガタガタと音がしていた。千鶴は軽く息を吐く。
「学校行くって……。いいのね? お母さん会社行っちゃうわよ?」
 凛太郎の事が心配だから真剣にもなるけれど、頑なな凛太郎の態度には千鶴も次第にイライラしてきたのか、声が大きくなっていた。
 結局処置なしと思ったのか千鶴は凛太郎を残し会社に行っていた。千鶴には学校に行くと言ったけれど、それは嘘だ。実際には修一に会いに行くのだから。凛太郎は誰もいない家の中をどたどたと駆け下り急いでシャワーを浴びた。昨日から部屋に閉じ篭っていたせいで汗臭いと思っていた。折角久しぶりに修一に会うのだから、少しでも清潔で綺麗にして行きたかった。
 着替えとして部屋着を持って行ってしまった凛太郎は、もう一度自室まで戻ると、パーカとカーゴパンツを取り出す。部屋着を脱ぎ、そしてパーカの下に着るVネックのカットソーに首を通し頭をだした。けれど。
「あ?!」
 つい今し方まで明るい日差しが差し込んでいた部屋だったと言うのに、カットソーから首を出した瞬間に部屋は真っ暗な状態になってしまっていた。一瞬、凛太郎は自分の目が見えなくなったのかと思ってしまった。
「手は、見える。まさか……」
 目を擦ろうとした自分の手は視界に入っている。下を見れば自分の身体も見える。凛太郎が知る限りこの状況は魔物が作り出したものに違いなかった。
(なんで? 夜じゃないのに?!)
「そうだね、夜じゃない。しかし、人が目を瞑ればそこは夢に通じる闇があるでしょう?」
 凛太郎の疑問に答えるかのように、女の子の声が背後から聞こえて来た。しかしその声はとても幼く、凛太郎が知る艶美な魔物の声とは似ても似つかない。
「誰っ? いつもの魔物じゃない!」
 振り返る視線の先には、小柄な人物がローブを羽織って立っている。ローブの前は肌蹴、白く幼い肢体が露わになっている。凛太郎が少し視線をずらすと、ほんの少しだけ膨らんだ胸や、何も生えていない、つるっとした割れ目が闇に映えていた。
 男の気持ちなんて、とっくにどこかに行ってしまったと思っていた凛太郎だったけれど、見てはいけないものを見たような気になってしまう。顔を赤くしながら尚も視線をずらすと、少女に似つかわしくない、太い鎖を右手に掴んでいる。そしてその先には、ギャグボールを口に咬ませられ涎をぽたぽた落とす、いつも凛太郎を嬲っていた魔物が繋がれていた。
 首輪を締められ、黒い皮製らしいボンデージスーツを着せられ、四つん這いにさせられている姿は、彼女が毛嫌いしていた犬のようでもあった。そしてどこからかモーターのような音が聞こえていた。凛太郎が音の方向に目を向けると、豊満な乳房を搾り出しているボンデージスーツの、その股間が妙な具合に膨らんでいる。時折、グリッと動くと、凛太郎を手玉に取っていた魔物が息を荒げて興奮した面持ちを見せていた。何かが魔物の胎内で蠢いているように見える。
「どうも、君についてはここにいるバカモノが手違いをしでかしたようなので、コヤツの上司たるわたしが、一応謝罪に来たんだよ」
 どう見積もってもローブを着ている魔物が、いつもの魔物の上司とは思えなかった。その容姿が人間で言えば小学生の高学年位にしか見えないのだから。高めに見積もっても中学生だろう。
「ふふっ、この容姿が気になる? 人間とは兎角見た目が気になるものだよね。わたしはコヤツよりずっと以前から存在しているし、成績もいいんだけれどね。この姿? これは、ある種の人間を誘惑するのに都合がいいから象っているだけ」
「……そんなの、どうでもいいよ。僕、今急いでいるからっ。早く行かせてよ」
 早く修一に会わないと、このチャンスを逃すと何もかもが手遅れになりそうな、そんな予感が凛太郎の心に去来していた。しかし小さな魔物は極めて冷静に静かな声で凛太郎に語りかける。
「君は二度寝した事があるよね? その時夢を見ているとどの位時間が掛かったのか解るかな。ほんの一瞬だけだと言うのに、大作のロードショー並みの長さでしょう? 君がどこに行きたいのかなんてわたしの興味の範疇にはないけど、急いでいるのは理解しているから。ここはわたしが作った夢の空間。ここに存在しているけれどただそれだけ。君が夢から覚めた時、時間の進みなんて無いも同然なんだよ」
 少し凛太郎を見下した目つきをしながら、小さい魔物が得意そうに話をした。
「なんでもいいっ! 用があるならさっさと済ませてっ」
 時間の経過は殆ど無いと説明されても、今凛太郎は心臓も普通通りに動いているし、息もしているのだ。とても小さな魔物が言うようには思えなかった。いらいらした口調でぶっきら棒に言葉を叩き付ける。
「もう少し可愛げがあるかと思ったんだけど……。いや何でも? さて、と。では話してあげようかな」
 じゃらり、と鎖の動く音が聞こえると、くぐもった呻き声が凛太郎の耳に届いた。いつもの魔物の首輪に繋がれた鎖が揺れている。
「コヤツは君との契約をきちんと話さないで君からマイナスの感情を引きずり出した。その件なんだけれどね。わたし達としても大問題になった訳」
 ローブについているフードを、小さい魔物が気だるそうに脱ぐ。黒い艶やかな髪が魔物の肩から二の腕までを覆っていた。
「契約不履行というヤツだね。全てを伝え納得させてから、マイナスの感情とか負の思いとか呼ばれるものを、人間から戴く訳、普通は。今回のように全てを伝えていない場合には、その責任を当該担当者が負い、被契約者を救済しないといけない、んだけれど」
 一呼吸置いた魔物に、凛太郎は不安な思いで彼女の目を見つめていた。契約不履行なら男に戻れる筈。これまで受けた屈辱や羞恥を忘れる事も可能なのかも知れない。しかし同時に、それは女の子として修一を好きな気持ちまで捨て去ると言う事でもある。凛太郎は緊張した面持ちで次の言葉を待っていた。
 その凛太郎の表情と考えを読みながら、魔物が口を開く。
「本当なら、最初から戻れる条件と戻れない、この場合は性が定着しちゃって通常は上司でも、わたしだけど、戻さないと言う意味だけど、その条件を提示してやるのね」
 凜太郎は少し不思議に思ってしまう。戻れる条件を言わなければ不安な気持ちで一杯になって、マイナスの感情を引き出し易くなる筈。魔物にとってはかえって好都合なのではないのだろうかと。元々戻すつもりが無いのだから、その条件を言わないからと言って魔物の不利益にはならないんじゃないか?
 いつも嬲りに来ていた魔物を椅子がわりにして少女の姿を模った魔物がゆっくりとそこに腰掛けた。そうしながら彼女は凜太郎の考えを読みそれに答える。
「浅はかだなぁ。もう戻れない事を認識させつつ、巧妙に言葉の罠を張ってその状況に堕とす。そしてセックスに魅了させて、男が欲しくて堪らない状態になりながらも、戻りたいとあがく。その感情は、この上なく美味なのよ。まして快楽に目覚めた身体の信号に抗いながら、セックスをしてしまった自分を責めさいなむ姿は、その場で身体ごと貧りたいくらい。」
 魔物は唇の端をぎゅっとあげ、まるで今目の前にご馳走が並んでいるように舌なめずりをした。
 それまで凜太郎は、この少女のような魔物が人間的な理性と常識を持っていると思っていた。しかしやはり人間ではない。巧緻に長けた禍々しいモノだ。人外の魔物に人間の常識などない。
「……じゃぁ、僕の場合は? 戻してくれるの?」
 禍々しいモノへの恐怖をその目に宿しながら、凛太郎はおずおずと口を開いた。
「君の場合、伝えるべきものを伝えなかったコヤツの不手際なんだけど。君の中から生じるマイナスの感情はすごく惜しいのね。でも、わたし達にも律があるの。その律を破れば永劫の闇に落ちて行っちゃう。このバカモノは暫くわたし達の奴隷として、身中にある君から得た感情を吐き出させて、その後落とす。君は、ほんとに残念なんだけど、わたし達の律に従い、元に戻してあげる」
 ギャグを咬ませられ、股間には黒い革のパンツを穿かせられた魔物は、「永劫の闇」と言われた瞬間、ぼろぼろと涙を流し始めていた。股間から迫り来る快感もその恐怖には克てないようだった。
 ローブの少女は、凛太郎と椅子代わりにしている魔物の双方を代わる代わる見ている。
 凛太郎は、魔物の表情を見ながら少し憐れに思ってしまった。自分を女の子にした張本人であるにも係らず。しかし直ぐに自分の現実へと頭を切り替える。
「今男に戻ったら、周りがまた騒ぐよ。それに、僕は……」
(僕は、もう女の子でも、いいし……。汚れちゃったけど……修ちゃんの事好きだし……)
 戻るのは嬉しい事なんだと思っても、身体に引きずられて女の子として修一を好きになってしまった自分を、そのまま男に戻すのなんて。修一への恋心を持ったまま男に戻る事は、女の子になったばかりの時より心が引き裂かれる感じが強かった。
(……どうしたらいいんだろう。僕はどうしたい? 男に戻る? 女の子のままがいい? 修ちゃんが好きな僕は……女の子でいたいと思ってる。でも、あんな事あって、修ちゃんにも結局迷惑かけちゃってて……。一体どうしたら……)
 ぐるぐると考えが纏まらない。さっきまで考えていた修一に会いたいという心も、男に戻ると言う現実のもとでは、床が揺れぐらぐらと身体も揺れているような気がしする位動揺していた。
「わたしから言わせれば、君は既に精神も女性になっているよ。今更戻るのは酷な話しかもね。そこで提案があるんだけど、聞いてみる?」
 もったいぶった口ぶりでローブの魔物が問う。凛太郎は虚ろな目をそちらに向けた。
「今を捨てる気はあるかなあ? 女の子になったっていうのを『無かった事』にするわけ。変化した記憶を消すって言う事ね。そうすれば」
(これまでの記憶を消すって……)
「で、でもっ、この、ここにある気持ちは? 修ちゃんが好きな僕がいなくなっちゃうよっ。……そんなの嫌だよ……」
 胸元を手で押さえながら、感情が爆発しそうになるのをどうにか抑え、凛太郎は静かに、けれど叫んでいた。
「そんな事はわたし達には関係ない事なんだけど? 君との契約不履行を解消する、それが今のわたし達にとって第一優先事項なんだから」
 冷たく言い放つ言葉に、凛太郎は二の句をつげなかった。このままでは男に戻され、今の自分が消えてしまう。その怖さは、女性化した時の喪失感や焦燥よりも大きかった。
 凛太郎から立ち上るマイナスの感情が大きくなり、部屋を包んでいく。魔物たちはその不意に与えたれた極上のご馳走に目を細らる。これまでに無い凛太郎の感情を堪能しつくすと、ローブの魔物は行動に移ろうとする。
「異論が無いなら、今すぐにで」
「待ってよっ。じゃあ、周りのみんなは? 僕だけ記憶消しても意味無いよ。みんな僕が女の子になったの知ってるんだよ。学校行って、『僕はずっと男だった。女の子になった事なんて無い』なんて言っても誰も信用しないよ。女の子になった事はみんな記憶してるよ。学校だけじゃない。近所の人だって……。時間戻さないと意味無いでしょ? だったら戻す意味無いよ」
 何とか今直ぐに戻されるのだけは避けたい。その一心で凛太郎は話を続けようとする。しかし。
「……時を戻す事はわたしにも、誰にも出来ない事なのね。時はいつも不可逆で一方通行なものだから。――君はわたし達がどのような存在だか忘れちゃったかな? 夢を操る存在なんだよ? 人の記憶なんて結構あやふやなもの。少し夢を見せてしまえば現実と変わらなくなっちゃう。それを君の関係者全員に行えばいいだけの話しだし。尤もコヤツ一人にやらせる事になるから、少し時間はかかるかな」
 凛太郎に語りかけながら、ローブの魔物は椅子になっている魔物の股間から伸びる張り形の末端をぐりぐりと弄る。とそこからくちゅっと音が漏れた。
「あっあぁッ、んぅ〜」
 尚も憎憎しげに嬲ると、下の魔物から恍惚とした声が絞り出されていた。凛太郎はその痴態を顔を朱に染めながら、なるべく見ないようにした。まるで魔物に嬲られていた自分を見るようで嫌だったから。
「だから心配する事はなにもないよ。わたしはわたし達の律を正せるし、君も当初の希望通り元に戻れるでしょ」
 あくまでも自分たちの都合に拘る少女の姿をした魔物。薄暗い部屋の中で一瞬の静寂が訪れていた。それを凛太郎の透き通った、しかし震える声が破る。
「僕は、やっぱりこの気持ちを失いたくない。女の子になったから、だから修ちゃんの事好きになったって思う。でもこの想いは本物だし、もう僕の一部なんだよ。この先修ちゃんとは……やっぱり離れちゃうと思うけど……でもっこのままでいたいっ。このまま女の子ならずっと修ちゃんの事想っていられるから。それが、今の希望なんだ。だから……」
 潤んだ瞳でしっかりと魔物を見据える。
 このまま女の子でいる。そういう気持ちは今までも少しあった。けれどそれを口にする事はなかった。ほんの少し残っていた男の部分が、そして魔物にかけられていた鍵がそれを許さなかった。しかし今の凛太郎にとって、自分が男だった事は最早どうでもいい事だった。ただ好きな人を好きでい続けたい。ほんの少しでも近くにいたい。それだけだった。鍵はあっけない程簡単に開いていた。
 それまで常に冷徹な目を向け、時として小ばかにしたような表情を見せていたローブの魔物は、凛太郎の言葉に目を見開いていた。
「……ちょっとびっくり。わたしの経験上、契約不履行を被った人間は一人の例外もなくこの条件で喜んで元に戻ったんだけど」
 椅子から立ち上がり、ローブを引きずりながら凛太郎の目の前まで来る。
「お願いっ、このままでいいからっ。僕ずっと女の子でいたいんだ。修ちゃん好きでいたいんだっ。元に戻さないでっ。お願いします」
 ぽろぽろと、大きな目から綺麗な涙が零れ落ちてくる。凛太郎の瞳に映ったローブの魔物の顔は、困惑と憐憫だった。
「そこまで好きな相手なんだ。……でも律は律なんよね。君が考えているよりわたし達の律ってずっと重いの。それを曲げればコヤツだけじゃない、わたしも永劫の闇に落とされちゃう。けど」
 少女のような顔を歪め、ローブの魔物がニヤリと笑った。
「その律も、今のままでいいという希望があった場合までは定められていないの。どういう事か解るかな」
「……戻らなくてもいいって事?」
 あれだけ拘っていた魔物の世界の「律」を、破るような事をしても平気だという事か。凛太郎は半信半疑のまま濡れた瞳を大きく見開いていた。
「破って平気って事じゃないんだけど。抜け道があるって事。三択だよ。『律』に従って男に戻る。記憶も消す。次が男に戻る。好きな気持ちは消さない。最後が」
「戻らないで、記憶を消す?」
 幼い、けれどどこか淫蕩な笑顔を見せて、少女が頷いた。
「そう。大分譲歩してるからね、これでも。さ、どうする?」
 凛太郎の心の動きが解る魔物からすれば、どういう返答が来るかなど手に取るように解る。しかし敢えてそれを尋ねた。凛太郎の意思と決意の確認の為に。
「……そんなの、直ぐになんて決められないよ……」
 どうしたらいいのか、考えあぐねてしまう。女の子でいたいけれど、記憶が無くなってしまえば今の気持ちは無くなってしまうのだから。修一を好きだから女の子でもいいのだ。けして「女の子の姿が好きで」戻りたくないと言っている訳ではない。俯きながら、凛太郎は思考の渦の中でもがいていた。
「どうしようかって悩むっていうのは、本当は既に答えが出てるんだってね。けどその答えで本当にいいのかって悩むんだって。知ってた? 誰かに後押しして欲しいんだって。だから、一言だけ言ってあげるね。一番に考えなくちゃいけないのは自分の事なのかな」
 尤もらしくローブの魔物が言う姿は、少女が大人に自慢げに持論を披露しているように見える。
 今、一番に考えなくてはいけない事、凛太郎はそこに集中した。女の子でいたい、記憶もそのままでいたい、そんなものは自分の我侭でしかない。修一への想いを失いたくないけれど、修一のもとへ走ろうとしたのは、彼が心配だったからだ。もしかしたら退学になるかも知れない。自分のせいで。女の子になったせいで。それならどうしたらいいのか? 答えは自ずと決まってくる。
(今度は僕が修ちゃんを助ける番なんだ。僕が男に戻ったら一番いいんだ――でも、でも……こんなに好きになっちゃったのに)
 どうしても決められない凛太郎に、少女の姿をした魔物が溜息混じりでもう一度言った。
「一つ目は男に戻る。記憶は消す。二つ目は男に戻る。記憶は消さない。三つ目は女のままで記憶は消す。男のまま彼を好きでいるって耐え切れなくなっちゃうと思うの。女のままならもしかしたら」
 もしかしたら、また修一に恋するかも知れない。どうなるのかなんて、凛太郎にも魔物にも解らない話だ。
 凛太郎は目を瞑って修一の笑顔を思い起こしていた。
(――修ちゃんが僕の事好きになってくれるかなんて解んないけど……。でも、きっと僕は好きになる。男の時だって修ちゃんに惹かれたんだもん。僕が今の僕で無くなっても、きっと……)
「さて、どうやら決まったみたいね」
 凛太郎の心を読んだのか、魔物がニヤッと笑みをこぼした。それに呼応するかのように凛太郎はローブの魔物の顔を見つめた。
「僕は――」
「あくぅん、んああああっ!!」
 一際高く、魔物が歓喜の声をあげる。そして凛太郎の声は嬌声に掻き消されていた。しかしその返答を少女だけは受け取り、目を細め頷いていた。


(その2へ)



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