日曜日6月7日 でえとっ(その3)


 それから二人は、モール内を再び回っていた。地方のモールなので比較的大規模な店舗であるそこは、大抵の物が揃っている。製品販売のみならず、サービス事業においても店舗が入っている。凛太郎の要望もあってゲームセンターでいくらか時間を潰していたが、それも手詰まりになってしまった。夕食を予定している時間まであと一時間半程ある。
「そう言えばあっちにジムがあったよな」
 ちらっと覗いただけだったが、一階フロアの奥の方に、ガラス張りの受付ブースを持つトレーニングジムがあった。凛太郎の記憶の隅にもイメージが引っ掛かっている。
「う〜ん、あったと思うけど。行って見る? でも普通会員制でしょ? 使えないよ器具」
「ちらっと見に行こうぜ、どんな事すんのか興味あるし」
 手を繋ぎながらスポーツジムまで来ると、女性がカウンターで受付業務を行っていた。カウンター上には様々なパンフレットや日程表が書かれたチラシが置かれている。修一がジム全体の案内を手に取った。
「へー、ジムの他にもエアロビとかあんだな。お、プールもあるぞ。すげーな」
 凛太郎は案内書から目を離し、カウンター越しに室内を見ていた。一番手前にはモニターを見ながら走っている人たちが見える。奥の方ではトレーニングマシンを相手に汗を流して格闘している姿も見えた。残念ながらエアロビの実演までは見えなかったが。
「エアロビって凄いよね。前テレビで大会の番組見たけど、笑いながらあれだけ身体動かすのって辛いだろうね」
 自分には絶対無理だな、と思ってしまう。勿論それをするつもりは無いのだけれど。
「一日体験コーナーみたいのあるぞ。千円でマシンもプールも使い放題だと。安いよな、格安だ」
 修一は目を輝かせながら、そわそわと落ち着き無さ気に身体を動かし始めている。
(身体動かすの好きだよね。来たいのかな)
 筋トレなど、独自でやっている修一にしてみると、専門家がいる所でトレーニングしてみたい気持ちがあった。我流では鍛えたい部位に効果的な運動が出来ないし、かえって身体を痛める場合もある。いいチャンスだと思っている。しかしどちらかと言うと、違う面で活用出来ないかとも思っていた。ちらちらと凛太郎を見ながら、その妄想を膨らませてしまう。
「今度、来る? 僕はあんまり出来ないかも知れないけど」
 一度本格的なトレーニングをしてみたいと言う話は凛太郎も聞いた事があった。だから修一の視線は自分と一緒に来たい事をアピールしているんだろうと好意的に解釈していた。
「お、いいのか? じゃぁ割チケだけでも貰っておくわ」
 待ってましたの答えに、修一はカウンターに設置されているチケットを数枚取りに行った。
(なんだか妙に張り切ってるな。ああいう時って何か考えてる時なんだよな……)
 若干不安になりながらも、修一と二人でいられる時間になるならと自分を納得させていた。
 あまり受け付けの前でうろうろしているのも邪魔だと思い、凛太郎は少し離れた場所に移動した。
 カウンターへ行っている修一の方を見ると、受付の女性と何やら話し込んでいる。ニコニコと微笑みながら優しげな表情で。相手の女性はセミロングの髪を軽やかな感じに染め、スーツを着ている大人のオンナ。薄めの化粧ではあるけれど、魔物とは違った色気のようなものを感じてしまう。ヒールのある靴を履いているせいか、修一と並んでもいい感じの背丈だ。時折、修一とその女性が凛太郎の方を見て、尚も笑みを絶やさず話を続けている。その視線を気にしてか、凛太郎は自分の服装をまたチェックしてしまう。
(……何話てんだろ。ちらちら見て、ヤナ感じだな)
 いっその事もう一度受付まで行って話に混ざってしまおうか、そんな気にもなったけれど、もやもやするというか、はっきり言ってちょっとムカついている事が表情出てしまうのも困る。凛太郎は結局修一が戻るまで少し離れた場所に留まっていた。
(ああいう綺麗な感じのひとがやっぱりいいのかな。……これから伸ばしても時間かかるよなぁ)
 前髪を顔の前で一房摘んで下の方に引っ張ってみる。顔が全部隠れるまで前髪を伸ばすにしても一年以上掛かるだろう。ましてや後ろなんて背中まで行くのに三年は掛かりそうだ。凛太郎は髪から指を放すと前髪がぴょんと跳ねる。より目になりながらそれを見つめて、そして軽く溜息を吐いた。
 ふと凛太郎は千鶴の事を思い起していた。離婚前の千鶴は髪を伸ばしていたが、離婚後仕事が忙しくなると、朝の時間がもったいないとバッサリ切ってしまっていた。最近になって余裕が出たのか鏡を見る度に「やっぱり切らない方が良かったかしらね」等と言っている所を見ると、女性も髪が長い方がいいのだろう。男性もそう思うのだから。
 じぃ〜っと上目使いで修一を見ていると、その視線に気付いたのか慌てた調子で受付の女性に頭を下げ、凛太郎の方へダッシュしてきた。
「お帰り。楽しそうだったね」
 多少のとげを含ませながら、凛太郎が切り出す。修一はその様子に気付いていないのか、嬉々として話始めた。
「いやぁ悪ぃ、あの人って剣道やってたらしくてさ、聞いたら同じ道場行ってたらしいんだわ。師範の話で盛り上がっちゃったよ」
「ふーん。良かったね。美人が剣道するとかっこいいよね。宮本さんみたいに」
 軽く目を細めて殆ど棒読み状態の凛太郎にやっと自体に気付いた修一が切り返す。あまり危機だとは思っていないように。
「あ〜、悪かった。でも別にいい女って思って話かけた訳じゃねぇぞ。俺にはリンタが一番だからな」
「! ……いいよ、もう」
 自分から仕掛けたにも係らず、そういう事を言われると照れて何も言えなくなってしまう。凛太郎はちょっとだけ頬を染めて違う店舗の方へ目を向けていた。
「あ、それとな。プール、日曜って2コースを一般に貸してんだと。普通に遊びに来る感覚で来ていいってよ」
 修一の言葉が何を意味しているのか、一瞬それが理解できなかった凛太郎だったけれど、二三回頭の中で咀嚼すると、いきなり修一に食って掛かっていた。
「ちょちょちょっと、修ちゃん。プールって水着着るんだよ? 解ってる? 他人に見られるんだよ?」
「? いいじゃねぇか。学校でもプールの授業あるんだぞ。中坊じゃねぇんだから、恥ずかしいから泳げませんじゃ単位取れないだろ。少し慣らしとけよ。ここならガッコのヤツラも来る心配ないしな」
 凛太郎は修一の言う通りだと思っている。水泳も体育の授業の一つだ。参加すれば何かしらの単位が貰えるだろう事は想像に難くない。しかし今の状況では、凛太郎は女の子の身体を気にして水着を着用する事すら間々ならないだろう。修一はその辺りを考慮していた、と凛太郎は好意的に思った。
 確かに修一の頭にもその考えはあった。しかし本心は別のところにあったのだが。ただ可愛い凛太郎の水着姿が見てみたい、それがメインだったけれどそんな事はおくびにも出さない。
「でも、さ。やっぱり他の人いるし……。あ、それに水着持ってないよ」
 制服は購入したけれど水着までは気が回っていなかった。大体体育の授業を女子と一緒に受けるなど、考えも及ばなかったのだから。しかし時期が時期だけに購入する必要は生じてくる。
 凛太郎と修一が通っている高等学校では指定の水着を着用しなくてはならない。いわゆる「スクール水着」だ。ただ旧型のものではなく、競泳用に近い薄手生地のもので色は黒だけれど。
 以前見た競泳用の水着が凛太郎の脳裏を過ぎる。
(あんな薄そうで身体の線バッチリのなんて……。冗談じゃないよ。はだかと一緒じゃんか)
 赤い顔をしながらしきりに首を振る凛太郎の心情が、修一には丸解りに解ってしまう。
「まぁ、恥ずかしいって気もわかるけどな。でも、慣らしはした方がいいと思うぞ。大体男子と女子って別々だろ? 男子は見ねぇだろ」
 その女子の中に入って着替える事自体が結構苦痛だったりするのだが、修一からするとニヤケてしまう程極楽らしい。
「……修ちゃん、顔、しまりないよ。で、来週泳ぎに来るって言うの?」
 猛烈な勢いでガクガクと頷く修一に、凛太郎は呆れてしまう。そんなに水着姿が見たいものなんだろうか?
「先ずは、水着に慣れようぜ。お前可愛いんだから普通にしてたらいいんだよ」
 修一が言う可愛いという言葉は、何か魔法のような気がする。その一言で全て上手くいってしまいそうに感じる。実際、そんな事はないのだけれど。
「う、ん。じゃぁ、来週来ようか?」
「よっしゃああっ! じゃ、気合入れて泳ごうな。あ!」
「なに? どうかした?」
「今日、ほれ、あそこで水着買えばいいんじゃねぇか。俺も見てやるって。な? 行こうぜ。まだ時間あるし」
 先程見に行っていたスポーツ用品店の方を指差しながらはしゃぎまくる修一。
(ちょっとちょっと、俺も見てやるって水着見るって事? 着てるとこを見るって事?!)
「やだよ、そんなの。スクール水着なんてみんな一緒なんだから。来週だよ、来週。今日は絶対いや、だ」
 来週になれば結局見られる事になるのに、凛太郎は急に気恥ずかしくなってしまった。キスされたり触れられたりする事もあったけれど、直接身体を見られると言うのはやはり抵抗がある。それがたとえ水着でも、修一に見られると言うのが気になってしまう。
「えええええ? どうせ来週にな、」
「い・や・だ!」
 修一の話を切り、腕組みしながらぷいっと横を向いてしまう。こうなってしまってはどんなに修一がお願いしても凛太郎は動かないだろう。
「……わかった。この話はこれまでな」
(あ〜あ、ちょっっっと焦りすぎたか? リンタの水着ぃ〜)
 ガクリと肩を落としながらも、心は来週のプールへと馳せていた。

 プールの話が終わって微妙に時間が空いて、何かをする程ではなかったけれど、ベンチに座って他愛のない話をしている間に時間が過ぎていった。周囲では家族連れやカップルが三々五々夕食を採りに一階まで降りていく。
「もうそろそろ行かなくていいの? 結構混んで来るかもよ」
 少し落ち着かない様子で凛太郎がエスカレータを降りていく人々を見ている。その横で余裕な風に座っている修一は、左腕の時計を見ていた。
「ん〜、少し早いけどいいか。リンタ、移動すんぞ」
「へ? どこへ? ここでイタ飯食べるんじゃないの?」
 予定ではモール内で夕食だった筈。昼食前に違うところへ行くのかとも思ったけれど、移動する気配が無かったからやはりモール内だと思っていた。凛太郎が修一の方へ顔を上げると、口の端を大きく上げながら笑った顔が見えた。ちょっと怖いような顔つきだ。
「いいとこだ。絶対満足させてやる」
 立ち上がりながら、「ほれ」、と凛太郎に手を差し出す修一につかまり、くっと立ち上がる。
「いいとこ、ね。期待してます」
 にこっと微笑みながら二人でモールを後にした。

 * * * * * * * * *

 修一は凛太郎を引き連れて、そのままシャトルバスで駅まで戻ってしまった。不思議そうな顔をしながら凜太郎が修一を見つめていると心配するなとばかり微笑んで見せる。
「駅前のとこに行くの?」
 比較的大衆寄りのファミレス形式のイタ飯やが駅前にあるのは凜太郎も知っていた。リーズナブルな値段設定で味はそこそこだが量がある。高校生や大学生の需要が高い店舗だった。凜太郎も自分達の立場を考えれば妥当な選択だと思っていた。しかし。
「ん? 違うぞ。もっといいとこだって。美味いから期待してろよ」
 修一は凜太郎の手を引きながら、修一が駅前から帰る場合に使うバス停留所へと向かって行く。
(どこ行く気なんだろ? 修ちゃん家の方も住宅街の筈だけど……)
 まだ雨が降りしきる中でバスを待つ間にも、凛太郎は修一の家の周りを思い出していたが、結局思いつくようなファミレスは無かった。
 数分、授業の話などをしているとバス停にバスが滑り込んできた。凛太郎と修一がいそいそと乗り込むと朝とは違いまだ座席には空きがあった。二人で並んで座る。雨空のせいか今日は暗くなるのが早く、道を行く車は皆ヘッドライトを点けている。それが窓を流れる雨で反射して滲んでいた。
「新人戦てさ、いつ頃やるんだっけ?」
 不意に思い出したように凛太郎が言葉を紡ぐ。ちょっとした静寂は何か落ち着かない気がして、少しでも話をしようと思っていた。
「あー、新人戦か。その前にご近所さんと練習試合があんだよな。その時が先鋒としてのお披露目なんだ。でも、流石に他校に出向いて行くから今度は見に来てもらえねぇよな」
 少し残念そうな表情で凛太郎を見ながら修一が続ける。
「結構、リンタの声で強くなる気がすんだけどなぁ。気のせいか?」
「……でも、面つけてたらあんまり音って聞こえないんじゃないの? それに集中してたらかえって邪魔な気もするけど」
 自分の声で強くなる、そんな事を言われて少し照れてしまった凛太郎は、敢えて否定するように言ってしまった。当然、修一が凛太郎の言を否定するだろうと知りながら。
「いや、集中してても聞こえるんだって。面も音遮らないし、って、次二丁目か。次で降りるぞ。リンタ、押して」
 修一が回りの景色を確かめるように視線を巡らせる。凛太郎は言われたとおりに下車する為に降車ブザーを押した。
 バスは比較的広い道から住宅街へ入り、小さな公園の前で停まった。修一を先頭に凛太郎もバスを降りる。公園沿いに暫らく歩いて行くと、イタリアの三色旗をデザインした看板が見えた。地元の住人でなければ見過ごしてしまうような場所にあるその店は、三角屋根の平屋作り。外壁は白で周りをぐるっと木の板で塀を作っている。小ぢんまりした店ではあったが、それでも横手に五台分の駐車スペースを持っている。そしてそこは既に来店しているだろう客の車が並べられていた。その駐車されている車を見て、凛太郎は自分達がひどく場違いな気になってしまった。
(なんか随分いい車が停まってるんだけど。お店の選択間違ってない?)
 あまり車に詳しくない凛太郎でも、外車の名前くらいは知っている。価格も国産から比べても高い筈のセダンが並んでいるのだから、一介の高校生が来るような店でない事位は理解出きる。初デートで修一の気合が入っているのも解るけれど、分不相応と言う言葉が凛太郎の耳に響いていた。
「あの、修ちゃん、まさかと思うけど、……ここ?」
 一見さんお断り、みたいな雰囲気を醸し出している店を前に、凛太郎が戸惑いがちに聞いてしまう。修一はそうだと言わんばかりに大きく頷いた。
「高校合格した時に来た事あんだ。美味いんだぜ」
 凛太郎の手を引きながら、修一が大きく重そうな木製の扉を開いていった。
(うわ、なんかすごっ)
 店内は弱めの照明で照らされていた。外からは四角だろうと思っていた室内はL字型になっており、正面には中庭がある。そこにもオリーブの木や、名前の知らない樹木が植えられている。天井は高く屋根の形通りに三角になっている。そして床も壁も天井も木張りで柔らかい印象を持たせていた。壁には抽象画というのか、イラストと言うのか、カラフルな幾何学模様が描かれた額が飾られている。
 左の奥には四角いテーブルが4つ、そして手前の右側には8人がけの大きく広いカウンターがある。カウンターの奥には厨房が見えた。既にテーブルは背広姿の男性や着飾った女性が座って席を埋めていた。カウンターも厨房に近いところには若い、といっても20代中盤だろうカップルがワイングラス片手に歓談している。凛太郎のブーツが木張りの床を踏む音で、店内の客が一斉に入り口に注目した。
(! やっぱり、大人しか来てないよ……。こんな格好してるのって僕達だけだし……)
「ちょっと、修ちゃ、」
「予約した諸積ですけど。なんだよ? リンタ」
「……何でもない……」
 場違いだから違うとこに行こうと言おうとした凛太郎だったが、既に予約してあるというのだから仕方が無い。おずおずと周りを見てみると、やはり怪訝そうな顔をして、周囲の大人たちはちらちらと凛太郎達を見ていた。

 並んで座るカウンター席に通されると若い店員がワインリストを見せてきた。しかし凛太郎も修一も未成年だ。アルコールを摂るわけにも行かない。凛太郎はペリエを、修一がジンジャーエールを注文した。
「修ちゃん、僕たちすごい場違いじゃない? なんか皆見てるよ」
 コースメニューを堂々と注文してる修一に比べ、凛太郎はその横で首を竦めながら、時折周りを窺っていた。そんな様子にも修一は平然と答える。
「リンタ、びびってんのか? 平気だって。俺たちは美味いものを食べに来ただけの客。他の人もそうだろ。同じじゃねーか」
「それはそうだけど……。それに高いんじゃないの? こういうとこって」
 実は凛太郎もこういう店に来た経験はあった。千鶴と理が離婚する前には、何か祝い事や記念事がある時に利用していた。一番近い記憶では、離婚が成立した時だったが。その時は万単位の出費だったと凛太郎は記憶していた。それが頭にあったから金銭的な心配もしてしまうのだ。しかし実際には、食事と比較してもアルコール、特にワインの値段が高いのであって、コースメニュー自体は3〜5千円で収まってしまうのだけれど。
「お前、意外と細かいな。心配すんなって。予め聞いてあるし、それにコースだからそんなにかかんねーって」
 あくまでも明るく問題ないと主張する修一に、仕方ないとばかり軽く微笑み返す凛太郎だった。

 果たして食事は美味しかった。それまで凛太郎が経験したレストランに勝るとも劣らない。それに盛り付けも視覚に訴えるもので、それが食欲を増進させもした。二人の会話も弾んでしまい、勢い余って来週のプールに話が及んでしまった。
「だから、普通のとどこか行く時用に二着買えばいいだろ」
「どこか行く時用ってどこに? 授業で使うだけなんだから、学校指定のやつだけでいいじゃんか」
「どこってお前、海とか?」
「……」
「……」
「なんかエロい事考えてるね、絶対」
「そんな事ねーってば。海行くのにスクール水着もねーだろ? 可愛いの買おうぜ、な? な?」
 どうしても違う水着が見たいらしい修一は、どの話をしても自然と水着の話になってしまう。凛太郎もその意気込みに半ば呆れてしまう位だった。デザートのクレームブリュレとコーヒーを前に、凛太郎は行儀悪くカウンターに肘をつきながら横に座る修一を見つめる。
「……ふぅ。もう、解ったから。二着買えばいいんでしょ。土曜にでも買っ、」
「俺が選んでやるよっ! な、いいだろ?」
「ん〜、修ちゃんじゃトンでもないの選びそうだからなぁ……あ、土曜日って笑ちゃん時間あるのかな」
 間髪いれず付き合うという修一に、凛太郎は笑の名前を挙げた。途端に修一から反発のブーイングが出る。
「なんだよ、リンタ、俺でもいいじゃねぇか。大体、笑に選ばせたら笑も日曜についてきちゃうだろ」
「なんで? それでもいいじゃんか。人の目に慣れるのが目的なんだから」
 余りにも水着水着と言う修一に対して、凛太郎は少し意地悪したくなってしまった。色々としてはいるけれど、裸同然の姿を二人きりで見せたら、帰りがけに襲われそうだ。念の為にも保険は必要だと思ってしまう。
「……わーかった、日曜に見せてくれよな」
「二着、持っていくよ。でも着るかどうかは知らないよ」
 凛太郎は甘いブリュレを頬張りつつ、にこやかな顔で修一を見つめていた。修一は、小さなカップに入ったエスプレッソを、一気に飲み干していた。

 * * * * * * * * *

 美味しい食事のひと時は瞬く間に終わり、というよりあまりに美味しくて二人とも無言で食べていたからだけれど、今は小雨の振る中傘を差しつつ並んで歩いていた。住宅街の道だからそれほど道幅もなく、傘を差して二人で歩いていると車が通りづらいくらいだ。尤も休日の日も暮れた時間ではそうそう車も通らないけれど。
 並んで歩こうとする二人にとっては、傘という存在が実に邪魔だった。ただでさえ鬱陶しい雨なのに、傘の幅がある分二人の距離が離れてしまう。近づけば傘がぶつかるし、凛太郎の方が修一より背が低いから傘を伝わる雨がどうしても修一を濡らしてしまう。
(あぁ、もう邪魔だな。でも傘ないと濡れちゃうし)
 そろそろと近づこうとしていた凛太郎だったが、軽く傘が触れる度にすっと離れていく。この状態では手も繋げない。本当は一つの傘に、この場合なら修一と一緒の傘に入ってしまえばいい筈なのだが、妙なところで恥ずかしさと遠慮が生まれていた。そしてそれは修一も同様で、いつもはもっと積極的に行けるというのにこんな誰も見ていない時に限ってあと一歩が踏み込めないでいた。
(相合傘ってのもなぁ……。リンタ嫌がったらショックデカイよな)
 思わず意味ありげに顔を見合わせてしまうけれど、各々の考えなど読めるわけもなく、また暗い夜道に目を凝らしながら歩いていた。

(何かきっかけ、ないかな……)
 家が少しづつ近づいてくる。もう、角を一つ曲がると凛太郎の家だ。なんだかこのまま初デートが終わってしまう事がもどかしく思えてきた。だからと言って一足飛びにご休憩して行こうなどとは思いもしないのだけれど。ただ、もう少しだけくっ付いて歩いていたい気持ち、ほんの少しだけ傍に寄りたい気持ち。そこに改めて言わなくてはと、言葉を思い出した。
「あ、修ちゃん。さっきのだけど……ごちそうさまでした」
 イタリアンでは食事が終わるとさっさと修一が支払いを済ませてしまった。支払い時に見ていると諭吉が一人消え漱石が一人戻ってきた。流石に高校生の分際でそれ程の食事を奢られる訳にもいかない。がんばってくれたのはいいが、がんばり過ぎだ。だから凛太郎は「割り勘にしようよ」と何度も申し出たのだけれど修一は頑として受け取らなかった。その時お礼は言ったのだけれど、言い過ぎるという事はないだろうと凛太郎はもう一度言っていた。
「なんだよ、いきなり。いいっていいって。初デートだから気張っただけだって。次からはラーメンな。換え玉で腹いっぱいにしような」
 凛太郎が嬉しそうな、それでいてちょっと躊躇いを見せるような目つきで修一を見つめる。そんな顔つきも可愛いなと思いつつ、頭を掻きながら浅黒い肌を少し赤らめて、照れたような表情を見せる修一。かなり奮発して貯金も下ろしていたけれど、それも凛太郎の喜ぶ顔が見られれば安いものだと思えるから不思議だ。
 話をする事で意識的に歩調を緩めた凛太郎だったが、もう最終コーナーを曲がってしまった。後は直線を残すのみ。
(……あ、もう着いちゃうな……)
 始まりがあると終わりがある。母とのドライブでも遠足でも修学旅行でも、行きはウキウキと楽しいのだけれど、帰りは、特に家に着いた時が一番「終わった」と実感してしまう。もっとこの時間が続けばいいのにと思っても、今更始めに戻る事はないのだ。たとえそれがどんな事でも。最初で最後のデートであったとしても。
 予想外に食事に時間をかけたのか、時刻はもう九時になろうとしていた。門を開け庭に入ると意外な事に母の車はなく、まだ帰っていなかった。身体が少し濡れたのかちょっと肌寒い感じがする。
「ほいっ到着と。今日はおつかれさん」
 修一が意外な程明るく声をかける。このまま別れる事に何の疑問も抱いていないように。千鶴が男を入れるなと厳重に注意していたから、凛太郎としても非常に葛藤があった。母がいないなら少しだけでも……と思っていたけれど。
「あ、うん。修ちゃんもお疲れ様でした。がんばったよね。なんか悪い感じ」
「何度も言うなって。ならなんかお礼してくれよ。そうだなぁ……、」
「……じゃぁ、いいものあげるよ。ちょっと待って」
 凛太郎がごそごそとディバッグの中を探る。何か記念になるものでも持ってきたのかと、修一が覗き込んだが良く見えない。と、凛太郎が小さいおにぎりを作るように両手で何かを閉じ込めたようにして、修一の前に差し出した。
「? これか?」
「そう。修ちゃんもこうしてみてよ。で、僕の手に被せて」
 修一は凛太郎に言われたように自分の手を凛太郎に被せる。
「こうか?」
「うん。……修ちゃんの手って暖かいよね」
 なんだか恥ずかしくなりそうな事を言う凛太郎が、そのまま修一の手から自分の手を引き抜いていく。なるべく隙間が開かないように。
「はい、いいよ。手、開けて」
 怪訝な顔をしながら修一がゆっくり手を開く。しかし中には何もない。なんだこれ? と尋ねようとした時、凛太郎が口を開いた。
「そんなに離れちゃ見えないよ。もっと顔近づけないと」
 修一の手首をがっちり掴み、顔を寄せるように言う凛太郎。大抵ここまでくれば凛太郎が何をしたいか解りそうなものなのに、修一は全く気付かなかった。やはり鈍い。
 ぐっと近づいてくる修一の顔に、凛太郎は胸の鼓動を無理やり押さえつけようとしていた。いつも修一から起こされるアクション。自分からはえっちの時に一度しかした事が無かった。緊張と興奮が入り混じって周りの音なんて聞こえてこない。自分の心臓と呼吸と、修一の呼吸位だ。
(もう、ちょっと。近づいて………………)
「え〜? リンタ、何にも見え、?!」
 自分の掌をじっと見つめていた目を修一が正面に向けると、そこには大きく凛太郎の顔が写っていた。柔らかい感触を唇に感じた時、修一はやっと凛太郎からキスされたと理解していた。躊躇いがちで触れるだけのキス。長い睫毛が綺麗だ、などと思っているとゆっくりと凛太郎の顔が離れていく。
「……へへっ、お礼のキス。今日はありがとう。すごく楽しかった。またデートに誘ってね」
 自分からしたのが恥ずかしいかったのか、顔を真っ赤にしている。修一にはその姿は毒以外の何者でも無かった。
(はぁっリンタっ、ぎゅーってしていいかっ)
 修一本人は凛太郎に聞いたつもりだったが、全然声に出していなかった。出すより早く身体が動いていた。そのあまりにも早い動きに凛太郎も抱きつかれてから驚いてしまった。
「? あ、修ちゃん、ちょっ苦し……、ん?!」
 一瞬の出来事に凛太郎は身動き一つ取れない。ぎゅっと抱きしめられたかと思ったら、直ぐに修一が凛太郎の唇を吸って来ていた。凛太郎は触れただけだったが、修一は凛太郎の甘い唇を解かし、淫らな動きを演じる舌を使って、凛太郎の咥内を犯していく。目蓋を閉じ舌と舌の触れる感触に神経が集中していってしまう。その感触は凛太郎の思考を蕩けさせようとしていた。
 しかし世の中甘い事ばかりではない。その時、玄関先で抱きついている二人の姿を、車のヘッドライトが明るく浮かび上がらせた。
(! お母さん?!)
 咄嗟にどんと修一の身体を両手で突いて引き離すが、既に遅い。千鶴の車はライトをスモールにしてゆっくり駐車スペースへ乗り入れてくる。それを二人はじっと見つめていた。
「凛太郎、ただいま。修一君、こんばんは」
「ち千鶴さん、こんばんは。お邪魔してます」
「そうね」
 車から降りた千鶴の表情はいつに無く硬い。しかしそれは当たり前というところだろう。息子が娘に変身してしまって、その子が男の子と付き合っている。一昨日あれだけ男を家に入れるなと言っておいたのに、あろう事か玄関先でキスしているのだから。しかもどう見てもディープキスなんだから。
 凛太郎にしても、ばつが悪かった。一昨日の付き合ってる発言で疚しい事はしてないと言っている。確かに疚しい事はしていないけれど、キスしている所を見られるのはえっちしている所を見られるのと同じ位恥ずかしかった。それに「凛太郎」とちゃんと名前で呼ぶ時の千鶴は真剣な話題をふって来る時だ。今日のその硬い表情からしても、何かしらムッとしているのが解る。ましてや挨拶する修一を一顧だにせず、あまつさえ「お邪魔してます」の答えに「そうね」だ。ムッとした、言い換えれば腹立たしさの矛先は確実に修一に向いている。
「あ、あの、お母さん……」
「凛太郎、あなたはもう部屋で休みなさい。修一君はお母さんが送ってくるから。わざわざ送ってきてくれたんだから。ね」
 にっこり微笑むけれど、千鶴の目は全く笑っていない。その妙なコントラストが凛太郎に一層恐怖心を駆り立てさせた。当の修一は解っているのかいないのか、平然としている。
「いやぁ、当然ですよ。あ、俺千鶴さんとお話あったんです」
「そう? あたしも修一君とは一度話がしたかったのよ。なら丁度いいわね。じゃ、凛太郎、戸締りちゃんとしておきなさい」
 はらはらしながら見ている凛太郎を余所に、二人はさも当然という風に車に乗り込んでいく。修一などバイバイと凛太郎に手まで振っている。
「あ、…………」
 二人を乗せた車は凛太郎を残して宵闇へ紛れて行った。


(その4へ)


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