日曜日6月7日 でえとっ(その4)


 千鶴は車を走らせていた。雨はもう小雨になっていたがフロントグラスにはぱたぱたと雨粒が当たっていた。
 修一は車内では漂っている香りを満喫していた。千鶴が好んでつけているブルガリの香水。以前はNo.1をつけていたが、凛太郎が香りが甘すぎると言ってから直ぐに替えたのだ。帰宅した時の千鶴の表情を思いだす。怒りとも嫉妬ともつかない顔は、修一も初めて見るもので、思わず緊張が走っていた。しかし柑橘系の香りは何か鎮静作用もあるような気がする。車に乗ってからは少し落ち着いていた。
「ちょっと、話がしたいから車停めるけど。そんなに時間は取らせないわ」
 いつもと違い全く修一を見ず、にこりともしないで千鶴が言う。正直言って千鶴もどう切り出していいものか難しく思っている。普通ならある程度の節度を保っていてくれるなら、子どもの恋愛に口出しをするような千鶴では無かった。しかし息子が娘になり、息子時代の親友と恋愛している。自分がいないのをいい事に玄関先でキスまでしているとは。なんだか自分のスタンダードがガラガラと音を立てて崩れて行くようだ。頭がぐるぐると混乱するどころではない、ぐちゃぐちゃだ。
「はい。リンタの、ことですよね」
 多少の、というよりかなり熱くなっている千鶴の横で、修一は落ち着きを取り戻していた。彼の主張ははっきりしている、凛太郎が好きだから傍にいたい。その為に何でもしよう、そういう思いを千鶴に言いたかった。確かに社会にも出ていない子どもの戯言に聞こえるだろうけれど、それが今の本心なのだ。どう思われてもそれを言わない事は、自分の心に嘘をつく事になる。そんな事は出来よう筈も無かった。
 五分ほど走り、修一の家も近づいてきた。千鶴は路肩に車を停めハザードランプを点した。一つ、大きく深呼吸する。
「……修一君、あなたには感謝してます。あのコの友達になってくれて、正直言って明るくなったあのコを見て安心してます。でもそれとこれとは別。単刀直入に聞きます。あなたはあたしのコと何がしたいの、どうして行きたいの?」
 帰宅してから初めて千鶴が修一を見た。その目は先程よりも赤く燃えているように思える。時間が経って落ち着いた訳ではなく、かえって憎悪にも似た色になっているようだった。
 修一も負けずに真っ直ぐに見つめ返す。凛太郎に良く似た顔で睨まれるのは少々居心地が悪かったけれど。
「俺は、リンタとはこれからもずっと付き合って行きたいんです。前にも言いましたけど、ずっと守って、」
「あのね、世の中に絶対なんてないのよ。今、そう思っていても、将来なんてわからないの。凛太郎が男から女に変わったのだって普通ならありえないのよ? じゃぁ、もし凛太郎が男に戻ったらどうするの? ああ、男だったらセックス出来ないからいらない、って言うの? あのコはあたしの宝物なの。あのコが幸せになるならあたしはなんだってする。でも反対に悲しませる事になるなら、あのコに恨まれてでもその芽は早いうちに排除します」
 修一が言い終わる前に一気に捲くし立てる千鶴。その勢いに修一は気おされてしまった。おまけに千鶴の口から「セックス」などという単語が出てくるとは思っても見なかった。
「い、いやでも俺だって真剣にあいつの事考えてますよ。俺だって悲しい思いなんてさせたくないですから」
「……あたしは、男に心底不信感を持ってます、凛太郎は別だけど。男はとにかく女の事をセックスの対象としか見てないんだから。修一君にしても不信感を持ってます。あのコを、お願いだからそんな対象にしないで頂戴。女になったばかりで戸惑って苦しんでるわ。そんな時に、その隙を狙うような真似はしないで。今でも十分苦しんでるのに、これ以上苦しめる事はしないでっ」
 徐々に語尾が荒く大きな声になってくる千鶴に、修一はなるべく冷静に、ゆっくり話した。そうでもしないと車中で怒鳴りあいにならないとも限らない。
「せ、セックスの対象じゃないですから。本当に好きになって……。正直に言えば確かに将来そうなったらとは思いますけど、でもそれだけじゃないです。若造がって思うでしょうけど、俺も真剣にリンタの事考えてますから」
 そうなったらいい、という修一のフレーズを聞いて、千鶴は「ほら見なさい」と小声で呟き、一旦修一から目を離した。ウィンドを流れ落ちる水滴を見つめて、そして徐に切り出す。
「大体あなたはあたしの事を好きだって言ってたって凛太郎から聞いてるわよ。『千鶴さんにそっくりなお前を見ると切ないよ』って。凛太郎を見てる訳じゃないでしょ? あたしに似てるから好きになった、そう思えるわ。おばさんじゃなくてもっと若い、あのコなら自分の言いなりになるような。だから選んだとしか思えない。そういう相手を信用できる? はっきり言うとね、そんな不誠実な男にあたしの可愛いコの傍にいて欲しくないの」
 その言葉は修一の痛いところを突いていた。確かにデパートで見た時、千鶴に似ていたから気になったし好きになっていたのも事実だ。しかし、それでも確かに修一は凛太郎が好きになったのだ。始まりは大きな勘違いだったけれど、守って行きたいと思う対象になっていたのだ。
「俺はっ、そりゃ千鶴さんの事好きでしたけど、それは憧れっていうか。リンタの事をその代わりだなんて思ってないです。リンタ自身が好きなんです。千鶴さんは絶対なんて無いって言うけど、俺は絶対変わらない。男に戻ったら恋愛の対象にはなれないかも知れないけど、親友である事には間違いないですから。俺っほんとにリンタが好きなんです。ずっと一緒にいたいって思ってます」
 いつになく真剣な表情を見せる修一に、千鶴はその心の中まで見通すかのように瞳を見つめてくる。穴の開くほどじっと。やがて口を開いた。
「……もう一度いいます。誰かの代わりとかセックスがしたいだけなら、あのコの傍に来ないで。あたしはあのコが幸せになる為ならどんな事でもします。真剣に答えて頂戴。凛太郎とどうして行きたいの?」
 ぐびっと修一の咽喉が鳴る。雨の音以外響いていない車中でその音が修一の耳にやけに大きく聞こえる。肺に一杯空気を送り込む。
「俺は、リンタとずっと一緒にいたいんです。俺の事、飽きたって言うまでは、ずっと一緒にいたいんです。あいつを悲しませるような事はしません、絶対に。それだけは信じて下さい。千鶴さん」
 いつも軽い感じで自分の名前を呼ぶ少年が、真剣な目で訴えかける。もう決意したという目で。十代の自分達には不可能は無いという、情熱を迸らせた、最近では中々御目にかかれない目。一瞬、千鶴も本当にそう出来るんじゃないかと思ってしまう程だ。しかし自分の可愛い子どもを、将来に不安が残りそうな状況に追いやるような事は出来ない。千鶴は再び大きく溜息を吐いた。
「修一君の真剣さは解りました。でもね、もう一度言うけど、人の心は変わるの。一緒にいたいって言っても気持ちだけじゃどうしようも無い事だってあるの。学校を卒業したらどうするの。経済的にだって大変よ。はっきり言えば、このまま凛太郎が女であっても戸籍は男なのよ。中途半端な状態じゃあのコは就職なんて出来ないの。社会に出られないの。そうなったらあなたは凛太郎を養わなくちゃいけないでしょう。あなたに出来るの? それに結婚なんて出来ないのよ? ご両親にはどう言うの? きっと反対されるわ」
 自分の言った言葉で千鶴は凛太郎の将来の不安を益々強くしてしまい、涙が溢れてきた。今の状況のままでは絶対に幸せになれないと、改めて思ってしまう。男としての幸せも無ければ、女としての幸せも無いのかもしれない。子どもを産むと言う幸せはあっても、それは社会的には認められないのだ。産まれて来る子どもにしても複雑な状況になるのは目に見えている。
 人間は社会性のある生き物だ。それが社会から弾き飛ばされてしまう事は悲惨な事だと言えるだろう。千鶴には修一がそこまで考えているとは到底思えなかった。
 千鶴の話を聞きながら、修一は考えが及ばなかった自分の浅はかさに呆然としてしまう。一緒にいられればそれでいいとは言ったものの、家族にも社会にも認められない秘めた関係になるのだろうか。それを思うとそれまでの気持ちが沈んできた。自然と千鶴から視線を落とし、車のシフトノブの辺りを見てしまう。
(……でも、それでも、俺はリンタが好きなんだ)
「千鶴さん、俺はそれでもリンタが好きなんです。うちの親の事とか将来の事とか、確かに俺は考え無しだったけど、親は必ず説得するし、将来だって勉強もしっかりしてリンタ一人位養って行きます。俺の事が不安なのも解ります。でもまだ俺もこれから先千鶴さんが俺を、俺とリンタの事を見て、その、俺たちの事認められないと言うなら離れます。だから、今はまだ時間下さいっ。リンタの事、幸せに出来る男になりますからっ!」
 熱く語る修一の目は十分に大人のそれだった。まだ十五歳の少年の一体どこにこれ程の情熱があるのか千鶴は不思議に思ってしまう。期待したらいいのか、今ここで別れて欲しいと言えばいいのか迷ってしまう。
 千鶴はステアリングホイールに突っ伏して、頭をクリアにしようとしていた。どれも若造の戯言なのだ。本当なら別れさせた方がいいのは解っている。男なんて身体に飽きたら直ぐに違う女に走るのだから。まして凛太郎は精神的にも社会的にも中途半端な女なのだ。捨てられない保障はどこにもない。
 しかし。もしこの少年の情熱がずっと続いたとしたら? 自分の見てきた男、理やその他の男と違っていたとしたら……。
「……修一君。今後卒業するまではあのコに手を出さないって約束出来る? キスは……もうしてしまってるから仕方ないけど、セックスはダメ。絶対に。それにあたしが見て少しでもあなたの態度に不信を感じたら、別れて貰う。それでいいなら、今はあのコと付き合ってもいいわ。どう? 守れる?」
「守りますっ。リンタと一緒にいる為なら、絶対に守りますっ。千鶴さん、お願いします、付き合いを許してください!」
 ステアリングから顔を上げ話す千鶴の言葉に、修一は間髪要れずに返答していた。新たな決意を内に秘めて。
(真剣、なのは解るのよ……。その真剣さがどこから来るのか解らない……)
 千鶴はもう一度修一の顔をまじまじと見つめ、そして。
「とりあえずは、解りました。今の真剣さが続けばいいけど。あたしがそう思えなくなったら、凛太郎が何て言っても離れて貰います」
「! 千鶴さんっ、ありがとうございますっ。俺、頑張りますから!」
 ぱっと、明るい表情を見せる修一に、千鶴も苦笑いしてしまう。
(全く……大人っぽいのか、子どもなんだか……)
「ずっと観察させて貰いますからね。さて、と。結構時間取ったわね。じゃ、送るから」
「はいっお願いします!」
 一応の危機を脱した修一は、安堵の笑みを浮かべつつも、緊張を肺から大きく吐き出していた。
(これからニ年半、我慢かぁ……。もつんかな、俺。ああは言ったけど自信ねぇ……)
 決意したのはいいけれど、凛太郎がいつも傍にいるこれからを思うと、欲情をどう抑え込むか考えあぐねる修一だった。

 * * * * * * * * * *

 自室待機を命じられた凛太郎は、物分かり良く部屋に入っていた。しかし気になるのは……。
(あー……、お母さん修ちゃんと何話してるんだろう。まずッたなぁ、キスしてるとこ見られちゃうなんて……)
 修一との楽しいデートを終わらせたくなくて、お礼もしたくて自発的にしたキス。それが結果的に思わぬ波紋を呼んでしまった。しかし良く考えれば、あの時点で千鶴が帰ってきていないのだから、見られる確立は非常に高かった筈だ。そこに考えが及ばなかったのは、デートで浮かれていたからだろうか。
(二人でなに話してるんだろう? ……きっと僕たちの事だよね。無闇に触っちゃダメとか通り越してるし……。修ちゃん、嫌なこと言われてないかな)
 千鶴の驚きも凛太郎は理解しているつもりだった。息子がいきなり娘になり親友だと言っていた男友達と恋仲になっている。そして、疚しい事はないと告げた子どもの唇が男の唇と触れ合っている……。
(そりゃ驚くだろうし、もしかしたら、気持ち悪いって思われてるかも知れないけど……。でも修ちゃんの事好きだし。一緒にいるとなんかあったかいし。お母さん、反対するかも知れないけど、解って貰わなくちゃ。今日は僕からしたんだし、修ちゃん悪くないんだから)
 一度嫌いとなったらトコトン嫌いになってしまう千鶴に、何とか自分からキスした事を言って、修一への怒りの矛先を自分に向けようと思っていた。
(ずっと修ちゃんと一緒にいたいから。これからも傍にいたいから。? あれ? ずーっと一緒にいて、学校も卒業して、修ちゃんと、……しちゃって、その後ってどうなるんだろう……僕たちって結婚するのかな……?)
 将来なんて大学へ進学する事くらいしか考えていなかった。大人へと繋がる未来はまだ当分先の話だと思っていた。けれど、意外と近くまで来ている事に、今更ながらに気づいてしまった。修一の事を、将来を考えていないと凛太郎も怒れない。
(あ、僕、女の子になってるから、修ちゃんと結婚する? その後は? 赤ちゃん産むの? しゅうちゃんとの赤ちゃん……)
 そんな事を考えると急に身体が火照りだした。なにか想像すると妙に生々しい感じもする。初潮が来たから子どもも作れる準備は整ったのは理解していた。このままずっと修一と一緒ならば……。
(僕は、修ちゃんの、お嫁さん………………ぅわああああああぁぁぁぁっ、な、なん、花嫁さん? 僕が? 修ちゃんのっ?!)
 ベッドにうつ伏せになって足をばたばたと動かしてしまう。そんな事でもしていないと、自分の想像で恥かしくなって近所中を走り回りたくなってしまう。枕に熱くなった頬を押し付けていた。
(あ、じゃあ、結婚したら諸積りんたr……!)
 ガバッと上体を起こし呆然とした表情で虚空を見つめた。
(……僕って名前が男だから、修ちゃんと結婚したらホモカップルじゃんか……ああっ?! 戸籍は?)
 改めて自分の状況が如何に中途半端なのか認識を余儀なくされてしまった。どこまで行っても、凛太郎は男なのだ。名前も戸籍も、そして凛太郎の周囲の人の記憶の中でも。勿論、凛太郎自身にとっても。凛太郎が男に戻る以外で幸せになる為には、凛太郎は最初から女の子だったという事実を作り上げるしかないだろう。しかしそんな事は人間には不可能だ。完全に性転換させる事は出来ないし、時は不可逆的事象であり常に一方通行なのだから。
(修ちゃんとずっと一緒にって、無理なのかな……。でも、なら尚更、今だけでも一緒にいたいよ。修ちゃん……好きなのに)
 千鶴が帰ったら直ぐに話をしてしようと、部屋の扉を開け玄関の開く音を聞き逃すまいと耳を欹てていた。

 * * * * * * * * * *

「ただいま」
 玄関の鍵が開けられるのと同じ位に、千鶴の声が階下から聞こえてきた。
(あ、帰って来た!)
 着替えもせずにベッドの上でごろごろしていた凛太郎は、そのまま階段を駆け下りていく。と、丁度靴を脱ぎ終わり廊下に足をかけた千鶴がいた。
「お、お帰りなさい……。あの、さ」
 勢い込んでみたものの、やはり千鶴に恋愛の話をするのは緊張してしまう。凛太郎を想い、慈しみ、愛している千鶴は、けして話づらいというキャラクターではない。寧ろサバケタところもある位だ。男だった時には気になる女の子の話をした事もあった。しかし、今は何故だか話がし辛い。
 真っ赤な顔をしながら戸惑いを見せ、言葉が出ない凛太郎に千鶴が言った。
「お母さん、ちょっとお腹すいちゃった。凛ちゃん、お茶漬け食べない?」
「うん、あ、僕はいいよ。今お腹一杯だし……あ、僕用意するから」
 クルリと身体を回転させ白いスカートを翻しキッチンへ入っていく。
(また、随分可愛い格好して……。最初はあんなに嫌がってたのに……)
 自分が産み、育て、愛情を注いだ男の子の凛太郎はもういないのだろうか。女の子になったからと言って、千鶴の凛太郎に対する愛が変質する訳では無い。けれど、「あの」凛太郎はもう「いない」のだ。たとえ中身は一緒でも。
 千鶴がスーツから部屋着に着替えてキッチンへ行って見ると、お茶漬け以外にもお皿が増えていた。そしてテーブルには千鶴を真正面から緊張の面持ちで見つめる凛太郎が畏まって座っている。
「ありがと。いただきます」
 テーブルの所定の位置に座ると、急須のお茶を茶碗に盛ったご飯に注いでいく。大きくて酸っぱそうな梅干を乗せて、それを崩しながら掻き込んでいく。
「……凛ちゃん、随分可愛い格好して行ったのね」
 一通り食べ終わってから千鶴が切り出した。その言葉に凛太郎は過剰に反応してしまう。それまでじっと食べる姿を追っていた視線を下に落としぼそぼそと何かを言っている。
「……べ、別に、いいじゃんか……」
「あ、ああ、ごめんね、変な意味じゃないの。もう、ちゃんと女の子なんだなって改めて感じちゃったから」
 奇妙な沈黙の後千鶴が切り出した。
「凛太郎、お母さんはね、あなたが幸せになるならそれでいいの。男の子だろうと女の子だろうと、どちらを選んでもいいの。でもね、刹那的な幸せとか、快楽とか、そんな事は求めて欲しくないの。長い目で見た時に、我慢する時ってあるのよ。お母さんの言ってる事解る?」
 優しく諭すように言う千鶴に、凛太郎はキッと目を吊り上げる。
「解るよ、僕が修ちゃん好きだって言うのは、気の迷いだって言いたいんでしょ。でも、違うからっ。刹那じゃないよ。ずっと一緒にって思っても出来ないなら、今だけでも一緒にいたいんだよ。お母さんがダメって言っても好きなのは好きなんだからっ」
 一気に言ったからか、少し酸欠状態になってクラクラしてしまう。凛太郎は一度深呼吸した。
「そうは言ってないでしょう? お母さんは凛太郎が幸せになってくれればいいの。幸せって色々な形があるのよ。その中で一番いい、なんて言うのかな、道、を選択して欲しいの」
「そう言ってるじゃんか。お母さんが考えてる一番いい道じゃなかったらダメって事でしょ? 色々あるって言っても結局そうじゃんか。大体修ちゃんに何て言ったの? 僕と付き合わないでって言った? キスは僕からしたんだよっ、修ちゃんじゃないっ、修ちゃん悪くないっ!」
 人を説得する論法とか、事前に考えていた言葉なんて、実践では何にも役に立たなかった。凛太郎は感情の迸るままに千鶴と相対していた。一方が感情的になれば、もう一方も感情的になってしまう。そうなったら話し合いなんて進まない。しかしソコは大人の千鶴だった。凛太郎を受け止めつつも自分は落ち着いていた。
「凛太郎、道を選ぶのはお母さんじゃないわ。あなたが決めないといけない事よ。お母さんは凛太郎が決めたならそれを出来る限り応援するけれど。修一君には確かに凛太郎と別れて欲しいっていいました」
「! なっ?! ひどいっ!! どうしてっ!? 僕がっ、」
 テーブルに「バン」と手をつき、勢い良く立ち上がった。言うかも知れないと思ってはいたけれど、まさか本当に千鶴がそんな事を言うとは。凛太郎は鼻の奥の方がツンとしてきた気がした。
 千鶴はちょっとだけ慌てて凛太郎の傍へ行き、落ち着かせるように肩に手を置き座らせる。
「ちょっと待って。話は最後まで良く聞きなさい。別れて欲しいと言ったけど、修一君があなたの事真剣に想っているって見えたから、今は、一緒にいていいと伝えてあります」
 泣きそうな位顔がくしゃくしゃになっていた凛太郎だったけれど、千鶴の言葉にパッと破顔一笑した。
「えっ!? ほんとにっ? いいの? って、今はってどういう意味?」
(全く、修一君といい、このコといい……)
「お母さんは、あんまり男の人って信用してないの。秋の夜と男の心は七度変わるって言うでしょう。知らない? あの人の事もあるし……。それに経験上男って女の身体しか見てないのよ。……言いづらいけど、セックスしたいだけって多いの。修一君も男でしょ。違うとは言えないしね。だから条件を出したの。卒業まで絶対に凛太郎に手を出さない事、それと修一君の態度が変だと思えたら直ぐに別れて貰うって事。いい? それって凛太郎にも言えるのよ? 節度のある付き合いが出来ないならこの話は無し。それだけはお母さんも譲れない。キスくらいはいいけれど、それ以上は卒業してからにしなさい。卒業したらお母さんは何も言わないから」
 一人息子で、女手一つで育て、溺愛と言っても良いほど愛を注いだ。別に将来頼ろうと思ってそうした訳ではないけれど、男の子ならずっと自分と一緒にいると思っていた。女の子はいつかいなくなってしまう。もし修一と卒業時も続いていたなら、多分直ぐに凛太郎は出て行ってしまうだろう。我慢した分、二人とも一緒にいたいと思うに決まっている。千鶴はそうした一抹の不安、寂しさは感じたものの、それを凛太郎に見せるような事はしなかった。
「凛太郎、自分の事を大切にしなさい。修一君でも、あたしでもない、凛太郎自身の事を。そうすればきっと幸せになれるわ」
 覆いかぶさるように千鶴がその胸の中に凛太郎を抱く。柔らかく優しく。さらさらの凛太郎の髪をなでると、千鶴自身も落ち着くようだった。
「……お母さん、ずっと女の子だったら、僕はやっぱり修ちゃんといたいよ……。多分、ずっとそう思う」
 柔らかな千鶴の胸は、凛太郎をしっかりと包んでいる。と、凛太郎がゆっくり顔を上げた。
「あの、お母さん。僕ってずっとこのままでも、やっぱり男なんだよね? 修ちゃん、迷惑にならないかな?」
「……戸籍とか名前の事を言ってるの? それは、お母さんには解らないわ。修一君に聞いてみないと。でも、迷惑なんて言うようならお母さんはゆる、」
「あっいいやっ、もういいからっ。そうだっ、僕まだ着替えてなかったっけ。お風呂も入らなきゃ。先、入っちゃうね!」
 ギランと光る千鶴の目と、不穏な言葉を言い出しそうな口にちょっと怖気て、凛太郎はいそいそとそのまま二階へ上がっていった。
 キッチンに残った千鶴は、凛太郎の席に腰掛け、両手で顔を覆い、大きな溜息をついていた。

 * * * * * * * * * *

「デート、どうだった? 楽しかった?」
 千鶴に送られて帰宅した修一を待っていた笑が、興味津々で聞いてくる。修一は少し疲れた顔をしながら笑を見つめた。
「え? なに? なんかあったの?」
「……別に。デート自体は楽しかったし、リンタもまた誘ってっていってたけどな」
 階段を昇り自室へ入ると、後から笑も入ってきた。
「なんだよ、エッチだな。着替えるんだぞ」
「お兄ちゃんの裸なんて興味ないよ。で? どうしたの?」
「……千鶴さんにリンタとキスしてること見られちゃってさ。送ってもらいがてらその話してきた」
 さっさと部屋着に着替えながら、早口で言う。
「ええっ、キス、見られちゃったの? うわあ、やばいじゃん、それ。おばさん、なんだって?」
「んー、まぁ、色々な。それより次の日曜って暇か? リンタと三人でプール行かないか?」
(いくら笑でも、二年半セックス無しの話なんて出来ねぇよな)
 修一が勉強机の椅子に腰掛けると、笑もぼすっとベッドに腰掛てしまう。
「プールどこの? モールにあったっけ? ふーん……。なんか下心丸見えだよ」
「うるさいなぁ。いいだろ別に。あいつだって体育の授業でプール入らないといけねぇんだぞ。ちょっと人の目に慣らすんだよ。なんだよ、行かないんかよ」
「行くよ〜、行きますって。だんな是非っご一緒させてください。凛ちゃんて水着持ってるの?」
「……あ、そうだ。あいつ持ってねぇんだわ。でさ、悪いけど土曜に一緒に買いに行ってやってくれないか? 俺じゃヤダって言うからさ……」
 ちょっと残念そうに言う修一が、笑には可笑しく思えてしまう。
「いいよ、時間あるし。受験生だけどぉ。指定のってあるの?」
「あ〜、普通のスク水。それと、海用に一着。いいの選べよな。連れてくんだからな」
「うみよー? なんか響きがえっちだなあ。ん〜、でもなんかあたしも楽しくなってきたな。可愛いの選んであげるよ。そそるヤツ」
 笑はニヤ〜っと目を細めながら修一を見る。ちょっとイヤラシイ目つきは、修一の心を見透かしているようだ。凛太郎が可愛い水着を着ている姿。想像すると身体が戦慄きそうだ。しかしあまりソソル水着でも修一としては困ってしまう。何しろ我慢しないといけないのだから。
「う。まぁ、頼むわ。待ち合わせはリンタと連絡取れよ。俺ゃもう寝る。ほら、そこどけよ、布団あったまっちゃうだろ」
「はーい。じゃあね。お休みぃ。……変な事しちゃ凛ちゃんに嫌われるよ」
「うるせぇ! 早く出てけ!」
 部屋から出る直前にいらない一言を投げつけてきた笑に、修一が怒鳴っていた。
(……しないと神経もたねぇって……)
 ちょっとでも凛太郎の事を考えると屹立してくる修一の下半身。少しもてあまし気味になりながら、ベッドの中でそれを開放していた。


(「月曜日6月8日 普通の日」へ)

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