木曜日 決定的な、きっかけ(その1)


 朝迎えに来た修一の顔を凛太郎はまともに見ることが出来なかった。もし見ていたなら、修一自身の微妙な態度の変化にも気付いていたかも知れない。しかしそうはならなかった。
 女性化してから凛太郎の奥底に芽生え始めていた感情。それを魔物が強制的に引っ張りだしてしまった。気付きたくなかった修一への気持ちは、それを否定しようとすればする程大きくなってしまうような気がしていた。
 そして気持ちだけではなく、身体もまた修一に反応してしまう。夢とは言え自分の中にミッチリと埋まっていた彼の肉塊。凛太郎は修一のそれだけが欲しい訳ではない筈なのに、どうしても目が行ってしまう。魔物に目の前で見せつけられたもの。本当にそれが修一のものだったのかそれは解らなかったが、魔物が嘘を付いていたとも思えなかった。
 自分の身体を貫く感触もまだ残っている。あの形までが粘膜を通して頭の中で映像として結実出来そうな位だった。最後の最後でイケなかった焦燥が疼いている。ジリジリとした心持ちが股間を襲っている。そんな自分の性欲に負けてしまった浅ましさを修一に見破られるのが怖かったから、凛太郎は目が合うと直ぐに視線を逸らしていた。
 修一にしても、凛太郎に近づけば近づく程、自分の中の獣欲を抑える余裕が削られ、手を握りたい、抱きしめたいという衝動が大きくなってしまっている。夜毎想像の中で犯す凛太郎は、女の子そのものだった。修一の中にある凛太郎は既に女の子となってしまっている。今更男に戻られても本当にそれが真実の姿だったのか解らなくなっていた。
 しかしそれは凛太郎に対する裏切り行為だ。今のままなら何とか親友の立場でいられる。自分が行動を起こさなければ、だ。修一は自分の心を偽りながらその位置関係で満足しようとしていた。
 お互いの思惑に気づくことなく、言葉少なに二人は通学路を走り抜けて行った。
 
 * * * * * * * * *

 昼休み、二人で部室に行くと脇田は来ていなかった。凛太郎は出来れば脇田にいて欲しかった。何となく朝から気まずい雰囲気が二人を包んでいたから、第三者がいた方が気が楽だと思っていた。
「今日は部長いねーんだな」
 修一が椅子に座るなり凛太郎に語りかける。何となく戸惑いの声音が混じっているようだった。
「……そうだね……」
 笑に教わったようにスカートを気にしつつ凛太郎が修一の正面に座る。いつもは修一の隣に座るのだから今日に限って正面に座るのはおかしい、そう思いつつも真横で修一の体温を感じるのは気が引けてしまっていた。
「お前なんでそっち座ってんだ?」
 当然の疑問を投げかけられ凛太郎は顔を上げるとこの席の微妙さに戸惑い、そして返答に困ってしまった。
(ここって修ちゃんの顔まともに正面から見ちゃうじゃんか、まずったなぁ。昨日の事言わないと変に思われるよな……。どうしよう……)
 再び俯いて黙ってしまった凛太郎に、修一がもう一度尋ねる。
「……昨日なんかあったんだろ? 十字架、時計に付けてねーもんな。人に聞かれたくない話なんだったら余計にこっち来いって。話し辛ぇよ」
 修一が凛太郎を細かいところまで見ている事に嬉しさを感じる反面、細かいところは修一に絶対話せないとも感じていた。凛太郎がそれを告げたら、修一は自分の淫乱さに嫌気がさしてしまうかも知れない。
(人に聞かれなくない、じゃなくって修ちゃんに話せないんだよ。言えないよ、修ちゃんの、で、イッちゃったなんて……)
 自分の顔が見る見る赤く熱くなるのが解った。椅子の引かれる音がすると、修一が隣にやって来たのが空気の動きでわかった。
 修一がお弁当を下げながら、凛太郎の隣に座した。修一の体臭が凛太郎の鼻をくすぐる。
「どうしたんだよ? 何でも言えって。俺も笑も千鶴さんも凛太郎助けるってば」
 凛太郎の左に座った修一が、横から凛太郎を覗き込むように体勢を捻る。しかし一定の間隔からは近づかなかった。
「……なんにも……」
 やっと口を開いた凛太郎は、少し右下に首をひねる。修一に顔を覗かれないように。
 その仕草にちょっと焦れた修一だったが、優しく諭すように語り掛けた。
「なんにも無いってこたないだろ。お前、態度おかしいもん。全部言いたくないなら全部じゃなくていいから。言えるとこだけでも言ってみろって。な?」
 凛太郎には修一の優しさが心苦しかった。親友だと思っていたのに、実は男として好きになっている。それが魔物の策略だったとしても、自分の中にそういう気持ちがあったのは否定できない。まして修一との心の繋がりではなく、身体の繋がりをより強く思っているかも知れない。男だと言っていたのに、実は男が欲しい変態なんだろうか? そんな思慮が凛太郎の心を抉り、修一に優しくされる資格なんてないと思ってしまった。
「俺も頼り無いかも知れんけど、剣道で身体も精神も強くしてんだ。お前の役に立つくらい出来るって」
 修一はそれだけ言うと視線を下げた。きゅっとスカートの裾を掴んでいる凛太郎の手が見える。そしてきちんと揃えられた膝が覗けていた。修一は生唾をくっと飲み込むと、慌てて視線を元に戻す。じっと見ていたら凛太郎の膝を触りかねなかった。
 その視線には気付かず、凛太郎は逡巡していた。
(修ちゃんは僕を支えてくれてるよ。助かってるよ。でも……)
 これ以上黙っていたら、修一の機嫌を損ねてしまうかも知れない。それは避けたい。せめて親友としての位置だけは、ずっと留めておきたかった。だから掻い摘んで話す事にしたのだった。
「……あった。魔物が昨日、夢に出てきて、十字架見せたけど効果なかったんだ」
「ほ……、夢に出てきたのか……。嫌なことされなかったか? 他に弱点みたいなの無かったか?」
 思わず「ほんとかよ」と言いそうになっていた修一は、すばやく言葉を飲み込んでいた。そんな言葉を使ったら自分は凛太郎の言う事を全く信用していなかった事になる。
「……言葉で、散々嬲られただけ……」
 凛太郎はずっと下を向いたまま、修一にはその表情は読み取れなかった。
「嬲られたって、どんな事言われたんだ?」
「それは……、ごめん、言いたくない……。でもっ」
 そこまで言うと凛太郎がぱっと顔を上げる。修一の心配そうな顔が直ぐ目の前にあった。赤い顔をしながら、少し潤んだ目をした凛太郎は、一拍置いてから修一に縋るように言った。
「でも、修ちゃんが役に立たないなんて事じゃないんだ。その、すごく自分のやな部分言われて、僕の口からは言いたくないんだ。修ちゃんは力になってくれてるよ。ほんとだからっ。修ちゃんが嫌だから話したくないんじゃないんだよっ」
 凛太郎の話を聞き理解しながらも、修一は全然違う事に心を奪われていた。
(ぎゅってしてぇ。また抱きしめてぇよ。じゃないだろ、なんかリンタに言わなくちゃだめだろ、俺)
「俺、別にそんなの気にしてねーってば。言いたくない事なんて言わなくてもいいって。心配だから力になりたいから聞いたんだよ。言って楽になる時と言わない方が楽な時ってあるもんな」
 出来れば全部言って欲しいと思うけれど、追い詰めてしまう事は出来なかった。修一に必死で訴える凛太郎を見ていたらそんな気は毛頭起きなかったのだが。
「ごめん、修ちゃん……」
 カクッと凛太郎の首が前に落ちる。修一は一瞬泣いてしまったのかと思い、躊躇しながら右手で、凛太郎の華奢な肩に手を置いた。その手から凛太郎の身体が少し跳ねたような動きを感じ取った。
「そんなに謝んなよ。俺は守るって言ったら守るんだからさ」
 凛太郎が顔を上げると、涙が溜まった目で修一をじっと見つめた。今は修一を見ても自分が気にしていた修一への少し歪んだ想いは出てこない。修一が肩に置いた手を、熱を持った凛太郎の頬に移す。大きな手が頬を包むと暖かな感情が凛太郎の胸に広がった。
 見詰め合い、絡んだ視線を二人とも離せないでいた。そして。
「お、早いなもう喰っちまったか?」
 突然部室の扉が開き、脇田が入ってきた。二人はぎょっとして脇田の方を向く。修一は凛太郎の頬から瞬時に手を離した。
「……あ〜、俺邪魔しちゃったかな?」
 こりこりと頭を掻きながら、脇田が入り口で佇んでいる。二人の雰囲気に部屋に入るに入れない。
「いや、邪魔って、ないっすよ。なんもしてないし。なあ?」
 修一が凛太郎に同意を促すと、凛太郎もそれに応じて、
「あ、そう、そうですよ。先輩、僕たちなにもしてないし。お弁当食べようとしてただけですから。邪魔も何もないですよ。さて、修ちゃん早く食べちゃおう。先輩も一緒に食べましょう」
 そう言いつつも、凛太郎はちょっと残念だった。二人の時間が終わってしまった事に。
「じゃ、お言葉に甘えて。って、俺はここの部長だぞ。これじゃ逆だよな」
 三人に増えた剣道部室は、和気藹々と食事が進んだ。食べ終わるといつものように脇田が雑誌を読むのかと思えば、修一に話を始めた。
「諸積、今日だからな。気合入れろよ」
 脇田が珍しくきつい目つきをして修一を見やる。普段目つきがきつい事を気にしてか、脇田は余りそんな表情をしないようにしているらしかったが、今日は違った。
「はいっ。気合入りまくりですよ。ミシマさんに必ず勝ちます」
 修一が背筋を伸ばし大胸筋が発達した胸をグッとはり、目を輝かせて脇田に答える。
 凛太郎はミシマを思い出していた。ブルドッグのような顔。品性の欠片も無さそうな物言い。思い出した事を後悔してしまった。
「あ、部長、今日こいつ連れてっていいですか? 強いとこ見せてやりたいんで」
 修一が凛太郎を指差しながら脇田に伺う。脇田は凛太郎を一瞬見て、そして言った。
「他の奴らも来るから別にいいけどな。ミシマの傍には近づけるなよ。それと道場内じゃなくて入り口だからな。道場に他の奴らが傾れ込むのは避けたいからな」
 凛太郎たちが通う高等学校は、野球やサッカーなどの一般に人気のあるスポーツが強くない。その代わり剣道やハンドボールと言った比較的マイナーな部活が強く、県大会はおろかインターハイ出場も可能性があった。だからその選考会となると、一般の生徒も見に来る事が多い。
 脇田が気にしたのは、その中でもミシマシンパが道場内をうろつく事だった。一人道場に入れれば、付け入る隙を与える事になる。ミシマの仲間が神聖な道場をうろつくのは我慢ならない事態だった。
 修一もその辺は解っていたからこそ、凛太郎の見学を脇田に尋ねた。
「リンタ、入り口で見てるだけでもいいだろ?」
「僕は別にどこでもいいよ。負けるところは見たくないけど」
 凛太郎にしてみれば、それは本音だった。代表になるチャンスを最大に活かそうとしている修一が、本当に剣道が好きなのか? と問いたくなるミシマに負け、落ち込む姿など見たくなかった。
「おお、絶対勝つって。勝って先鋒になって大会の台風の目になってやるよ」
 戦う男、と言った表情で凛太郎を見つめてくる。凛太郎はその凛々しい顔にドキっとしてしまった。
(修ちゃんてば、すごくかっこよく見えるよ。剣道好きなんだな……)
「ま、勝負は運もあるからな。下手に意識せずに平常心でいけよ。足元掬われるぞ。絶対勝て。一つだけアドバイスしてやる。ミシマは籠手が得意だろ? だけどな癖があるんだ。打つ瞬間に視線が相手の切っ先を見る。それが判れば籠手は封じるられるだろ。あとはお前次第だ」
 励ましているのかどうか微妙な言い方だったが、脇田が修一に期待している事だけは凛太郎にも解っていた。修一も解っていたのだろう「俺、やってみせますよ」とこぶしを握り答えていた。

 * * * * * * * * *

 放課後、凛太郎を呼びに修一がやってきた。
「リンタ、俺防具出してこなきゃいけないから、先行ってろよ」
 教室の扉から上半身だけだし、まだ机に座っていた凛太郎に声を掛ける。凛太郎はその声に反応して直ぐかばんを持つと、修一が顔を出している扉にいそいそと歩いて行った。
「あれ? 防具って道場に置いてないの?」
 中学の時には体育館が道場の変わりだった。そして防具は体育館の物置に置かれていたのを知っていた。凛太郎は当然道場に置いてあると思っていた。その方が効率的だ。
「……お前昼に何みてんだよ。部室に防具入れ置いてあったろ? 道場は柔道部も使ってんだから分けてて当然だって」
 修一の指摘に思わず、そう言えばあったかも、と思ったけれど、それを認めるのも癪に障るので凛太郎はふくれて見せた。
「そんなの一々見てる訳ないじゃんか。脇田先輩もいつもいるしじろじろ見れないよ。部外者なんだから」
「まぁなぁ、部長年中いるもんな。ま、いいか。入り口のとこから見ればいいって。今ならまだ人も来てねーだろ」
 そう言うと凛太郎と一緒に歩き始める。一組方面へ向かうと直ぐT字の場所に着いた。右に行けば階段と体育館、道場方面。左に行くと昇降口と部室棟方面。
「じゃ、また後で」
 凛太郎がそう言うと、修一は手を軽く上げながら一言「おお」と言って部室棟へ走っていった。
 道場へ行ってみると、既に数人の男女が集まっている。みんな思い思いに竹刀を持ち素振りしたり談笑していた。凛太郎は道場の入り口へ行こうかどうしようか迷ってしまう。今更ながらに部外者の自分が応援に行ってもいいのか解らない。渡り廊下の陰でうろうろしていると、後ろから背中をポンと軽く叩かれ、声を掛けられた。
「どうしたの? 入部希望かな?」
 凛太郎が驚き振り返ると、胴が目の前にあった。徐々に視線を上げていくと、黒い長い髪の女性がにっこり微笑みながら見つめていた。凛太郎の身長が160cmちょっと。男子では低い背だったが、今の女子の身体からすると平均くらいだ。その凛太郎が見上げるこの女性は170cmくらいありそうだった。
 綺麗な濃い紫の胴をまとい、純白の胴着に紺色の袴。右手に竹刀を握り左手には面と面の中に籠手を入れていた。なにかぞっとするような綺麗さ。谷山の場合は宝塚的な綺麗さと評価されていたが、目の前の女性は純和風の、色白さも手伝って武家のお姫様のような印象を与えている。垂れには「宮本」と書かれていた。
「あっ、いえ、入部希望じゃなくって、選考会の……」
 凛太郎がそこまで言うと目の前の女性は言葉を繋いだ。少しせっかちなのかも知れない。
「応援に来た訳ね。残念。誰かの応援かな? 安藤はあの顔じゃもてないだろうし、伊藤もねぇ。田中は彼女いるし。まさかミシマ? ってのはあり得ないか。ちゃんと許可は貰ってる?」
 勝手に誰かの応援と思って知らない名前をどんどん並べていく。しかし肝心の修一の名前が出てこない。
「えっと、脇田先輩が入り口でならって、昼に部室で許可貰いました。応援て言っても一年生の……、」
 脇田の名前を出した瞬間、目の前の女性の顔色が変わった気がした。そして凛太郎はまた最後まで話せない。
「脇田くんが? 昼に部室ってなに? あなた脇田くんと……」
 それまでの歓待ムードが一変し、急に詰め寄られて凛太郎はおたおたしてしまう。内心「地雷踏んだ」事は理解したが、修一の応援だと言いたいのに威圧されて言葉が紡げない。
「ちょっとっ黙ってたら解らないわよ。部室であいつと何してたの? あいつが先に言って来たの? それともあなた? あいつはねあたしと付き合ってるの。横からなんて許さないわ」
 次第に興奮してきたのか、今の凛太郎も羨むような白い肌を紅潮させ、柄尻を凛太郎の鼻先に突き出してくる。声も大きくなり道場前で素振りをしていた部員達も興味深げにこちらを見ていた。
 誤解を解かないとどうようも無い状況になってしまった。凛太郎は差し出された竹刀の柄に視線をやり、大きく息を吸い込む。そしてそれまでのおたおたした態度から、堂々と主張した。
「ここへは一年生の諸積君を応援に来ました。昼休みは諸積君と剣道部の部室でお昼食べて時に脇田先輩と会いました。だから先輩は誤解されてます」
 宮本は凛太郎が一気に言った言葉を反芻しているようだった。ゆっくり右手を下ろしそして口を開いた。
「部室でお弁当? あいつ……あたしは一緒になんてないのにっ。いいわ、そこまでは解った。で? 選考会は一年出るなんて聞いてないわよ」
 しばし横を向いて悔しそうにしていたかと思うと、凛太郎に向き直り尚も追及の手を弛めなかった。
(うわー、もうっどうしたらいいんだよお。全然人の話聞いてくれてないよ、この人。修ちゃんでも脇田先輩でも誰か何とかしてよ)
 宮本は脇田を取られまいと必死なのだろうけれど、ちょっと考えてくれれば分かりそうなものだ。凛太郎の言葉をそのまま受け取って、その後本人に聞いてくれれば済むことだと思っていた。しかし宮本が感じた凛太郎への不信感がそれをさせなかった。
「あの、諸積君はミシマさんと先鋒を賭けて試合するって聞いてます。一年だけど特別にって。ミシマさんが負けたら真面目に取り組むだろうって言ってました」
 宮本は端正な顔を少し歪ませ、口の端で笑う。
「うちの部はこの時期一年は出さないって伝統があるの。あいつだって一年の時から十分実力あった筈なのに出られなかった。ミシマが問題児なのは認めるけど、だからってあいつが伝統を崩すとは思えないわ」
 全然話しが進まない状況に、凛太郎は途方に暮れてしまった。周りでは剣道部員をはじめ、選考会を見に来たと見える一般の生徒まで少し遠目から見守っている。こういう意志に反して注目される事は凛太郎の嫌いな事柄の一つだった。元から引っ込み思案だった所へ、女性化した凛太郎にとって注目されることは自分の身体の変化を知られる事と同一だ。まして今の状況を曲解した生徒は、「元男子生徒が女子生徒と男を巡って言い争いをしていた」というシナリオを想像してしまうだろう。
(冗談じゃないよ。これじゃ益々立場なくなっちゃうよ。修ちゃん、早く来てよう……)
 制服を着た可憐な女子生徒が、剣道着を着用した凛々しい女子に詰問されている図。しかしそれは修一でもなく、脇田でもない人物によって打開される事になった。
「みやもっちゃあん、こないだの話し考えてくれたかよ?」
 少し藍が落ちた紺の胴着に袴。右手で竹刀をブンブンと振り回し、サンダル履きでやってきた男、ミシマが宮本に声を掛けた。ミシマの登場に、周りの部員達に緊張が走る。そしてそれは宮本も同じだった。
「……ミシマ」
 宮本が小さく呟いた。そして凛太郎から視線を外すなり、凛太郎を見ていた目つきより数段恐ろしい、相手を射抜くような目でミシマを睨み付ける。しかし当のミシマは一向に意に介さない。
「なぁなぁ、みやもっちゃんて人気あんだよ。解るだろ? 一回こないだの奴にやらせてやってよ」
 凛太郎はミシマの一言に目を丸くしてしまった。修一が夕暮れの公園で言ってたことは決してオーバーではない。品性の下劣さは一々言うまでもなく、言葉と見た目から溢れていた。
(やるって、えっち? こんな奴とこの人が? え、なんで?)
 宮本の口が大きく歪み、ぎりぎりと歯が鳴ったように思えた。
「ミシマ……あんた一年とやるんだって? せいぜい無様な姿さらさないように気を付けなさいよね」
 今度はミシマが顔を歪める番だった。その顔は見るに耐えない。思わず凛太郎は顔を背けていた。
「ん? なんで知ってんだ? ……あ、お前、諸積と一緒にいた女だなぁ。なんだよ、俺の事見に来たのかよ」
 不意にミシマが凛太郎の側に寄ってきた。そしていきなり凛太郎の顎を持ち、ぐりっと自分の方に凛太郎の顔を向かせる。
「!」
「お前って諸積と付きあってんのか? あんなの止めた方がいいぜ。お前って俺のめちゃ好みだからな。大事に扱って感じさせてやるって。解るだろ?」
 その傲慢な行為にさすがの凛太郎も腹が立ち、ミシマの手を振り払うと一歩下がってから言い放った。
「僕は諸積君だけを見に来たんです。ミシマさんを見に来た訳じゃないです。代表には諸積君がなるって脇田先輩も言ってましたし、僕もそう思います」
 傍若無人にして自信過剰。凛太郎のミシマに対する評価はそうだった。こういった人種には面と向かって相手を拒絶する方法は理に適っていない。相手を熱くさせるだけで、危険を伴う事もある。しかしこの時の凛太郎には、思いっきりミシマを否定してやりたかった。だから思わず口に出てしまった。
 この言葉に側にいた宮本の方が焦っていた。少なくともここにいる色白の可愛い一年生よりミシマの危険性を知っている。自分だから正面切って相手にも出来るが、それも限度があった。相手は男子で自分は女子だ。自分の意に添わない女生徒を力ずくで犯した、そういう噂も聞いている。少なくとも宮本は、ミシマが学校外のヤンキーと付き合いがある時点で相手にしたくは無かった。
「ちょちょっとあなた、あんまり挑発するような事言っちゃダメよ」
 さっきまで凛太郎を恋敵のように見ていた宮本だったが、凛太郎の横から小声でなだめるように言う。凛太郎がミシマの危なさを軽視しすぎていたからだ。宮本がミシマの方を振り返ると、ミシマは宮本と話していた時の余裕が消え失せ、顔全体が怒りで赤くなっている。そして左の頬がひくひくと痙攣していた。
「なんだと、コラ。俺が一年坊に負けるだぁ? ふざけんなよっ。優しくしてやらなくていいってんなら、ここで犯してやっか?」
 ミシマはそう言うと、右手の竹刀で宮本の首を突いた。一瞬の出来事に宮本も対処が遅れ喉元を押さえながら倒れ込んだ。そしてミシマはすぐさま左腕で凛太郎の腰を抱え込む。
「あ! なにすんですかっ。放して下さいっ!」
 突然のことに驚いた。まさか公衆の面前で抱きかかえられるとは思っても見なかったから。ましてそれが修一ではないのだから。凛太郎は両手でミシマの肩を押し、自分の腰を抱え込んだ左腕から逃れようとする。しかしガッチリと抱えられると、凛太郎の力ではビクともしない。凛太郎が床に目線を落とすと宮本が喉を押さえながら立ち上がろうとしているのが見えた。
「あっやっやめてくださいっ!」
「へへ、いい匂いじゃんか。ここはどうだよ?」
 ミシマはクンクンと犬のように凛太郎の耳元から首筋に掛けて臭いを嗅いでくる。凛太郎は思わず叫び声を上げていた。そしてミシマは尚も責め立て、竹刀を凛太郎を抱えている左手に持ち替えると、凛太郎の制服の上から右手で胸を鷲掴みした。
「ひっ、あっ、やだっ……触るなっ!」
「ちょっと、ミシマ止めなさいよっ!」
 宮本が慌ててミシマを凛太郎から引き離そうとするが全く動じない。ぐにぐにとミシマに力強く揉まれると、快感ではなく痛みだけが凛太郎の脳に生じてきた。
「おぉっ、なかなか柔らかくっていいじゃんかよ」
 へらへらとしながら、凛太郎の胸を揉んでいたミシマは、急にその表情を変えた。凛太郎がハッとして振り返ると鬼の形相をした修一が廊下からこちらを目指して走ってきた。
「修ちゃん!」
 凛太郎が小さく叫ぶと、ミシマは凛太郎を再度見て、そしてニヤリと微笑むと凛太郎の胸をやわやわと揉むのを再開した。
 教室棟から体育館への渡り廊下まで修一が来ると、ミシマが無言で威圧する。その威圧を断ち切るように、修一がミシマの右腕を掴んだ。
「ミシマさん、なんの真似っすか。俺の親友に変な事しないで下さいよ」
 話し方は穏やかだったが、凛太郎には修一が本気で怒っているのが良く解っていた。目が据わっている。これほどの怒りの表情を見せる修一を見るのは、凛太郎でも初めてだった。
「変な真似だ? こりゃスキンシップってんだよ。自分の女ぁ親友とか言ってるようじゃ、お前童貞だろ? 全くしょうがねーよな、挨拶程度で目くじらたてやがってよぅ」
 ミシマは尚もふざけた調子で修一に言うが、修一は黙って手をつかんだまま睨み付ける。凛太郎は自分の不用意な一言で招いた状況から、何としても脱しようとするがなかなか巧く行かない。するとミシマが凛太郎の腰に回した腕の力を抜いた。
(チャンス?!)
 凛太郎は力一杯ミシマを押し、身体から離れる。そして修一の後ろに回った。
「……こいつの借りは試合で返しますから。覚悟しといて下さい」
 修一は一瞬凛太郎の方を見やり、直ぐさまミシマに向き直ると宣言していた。
「てめぇ……二度と剣道やりたくなくしてやっからな……」
 ミシマも修一に一睨みすると、道場へ入っていった。
 その様子は宮本を筆頭に、他の剣道部員や一般生徒が見ていたが、修一は全く関係ないという態度で凛太郎に向き直った。
「リンタ、大丈夫だったか? 悪かった。俺が見に来いって言わなきゃよかったな。もう帰っとくか?」
 宮本も続けて話し始めた。
「悪かったわね、話し信じないで。ミシマもしつこい奴だから応援しないで帰った方が良くない?」
 修一に続いて宮本も、首を撫でながら凛太郎に問うてくる。
 凛太郎は、自分の身体を弄ぼうとしていたミシマの姿は見たく無かったが、修一がそのミシマに勝つ所を見てやりたかった。
「いえ、ちゃんと応援していきます。修ちゃん、ありがとね。それと……」
 勝つためには何でもすると評されているミシマ。それをあろう事かよりエキサイトさせてしまった。もしかしたら修一にとって勝負にマイナス要因として働かないだろうか。その点が心配だった。
 修一はそんな凛太郎の考えを杞憂だと一蹴した。
「あー、心配ねーって。いつか必ずぶつかるんだったら早い方がいいしな。あっと、宮本先輩、すみませんでした」
 ペコッと宮本に頭を下げる修一に、宮本も答えた。
「ん、こっちこそ彼女に悪いことしたわ。少し早とちりし過ぎだったし。悪かったわね、彼女も」
 宮本は凛太郎の方を向き直り、あっさりと謝罪して見せた。普通、生徒同士と言えど年下には謝りづらいものだ。凛太郎は多少早とちりし過ぎるきらいはあるものの、宮本をいい人と評してした。
 そうこうしているうちに、脇田他レギュラーの面々がやってくる。
「なんだ? どうしたんだ、こんなとこで」
 脇田が宮本、修一、凛太郎を代わる代わる眺めながら聞いてくると、すかさず宮本が喰ってかかった。
「ちょっと崇、あんたね、あたしに一言、一年が選考会出ます、って言ってくれたらいいじゃないの。こっちの彼女に迷惑掛けるし、ミシマには喉突かれるしで散々だったんだから」
(先輩が早とちりしなかったらもう少し展開楽でしたけど)
 凛太郎が頭の中でつっこみを入れていた。
 脇田はと言えば途端にいつもより慌てた風にしゃべっている。
「ミシマに突かれたって!? どこら辺だ? 喉の横か……。危ねーな……」
 脇田は宮本の赤くなった喉元に少し手を触れ、心配そうに宮本の顔を覗き込んでいた。宮本は少し赤くなりながら「ちょっとやめてよ」と凛太郎やその他の部員の方を見やるが、特別嫌そうな素振りは見せなかった。その様子に凛太郎も修一も付き合っている以上の仲と感じ取っていた。
 脇田は宮本の傍から離れず、修一の方に首を回し、きつい目つきで言った。
「諸積、期待してるぞ。勝て」
 クルッと凛太郎を振り帰ると、言った。
「ミシマに会ったんなら嫌な目に遭ったと思う。しかし良かったら見ていってくれ。諸積は期待出来るから」
「ミシマさんの事は気にしてないです。是非見せて下さい。僕も諸積君が勝つとこみたいですから」
 凛太郎は期待に満ちた目で修一を見上げながら言った。何としてもミシマが負ける所を見たい。あんな奴は剣道する資格もない、そう思っていた。


(その二へ)


inserted by FC2 system