トラップ (その1)
作:toshi9


 私は松井一郎、父から引き継いだ服飾会社の社長を務めている。既に死去した祖父と父の二代で築き上げた会社と財産を30の若さで引き継いだ私は、祖父の代に建てられた屋敷に結婚して間もない妻、そして使用人とともに暮らしている。
 だが、社長業というものは傍目で見ているほど楽ではない。学生時代にはラグビー部に所属しておりラグビー一辺倒、就職後も外回り営業は得意なもののデスクワークが苦手であり、しかも若さも災いして古参役員から風当たりも強いので何かと気苦労が多い。そんなこんなの生活でストレスも溜まる一方、ついつい家庭でも会社でもあたり散らしてしまうことも多いのだ。
 そんな私の数少ない楽しみの一つは、時折訪れてくれる学生時代の後輩であり友人でもある柴田と会うことだ。柴田とは学生の時分からの親友なのだが、これが実に変わった男なのだ。その時分からどこにでも溶け込んでしまう空気のような存在だったが、それが幸いしたのか、どんな国どんな物騒な場所どんな山深い地域に行っても、しばらくたつとひょっこりと日本に戻ってくるのだ。危険という言葉は彼の中には存在しないらしい。
 そして彼は日本に戻ってくると、決まって私に不思議な土産を持ってきてくれる。そしてその日再会した彼が残した土産は、これまで持ってきてくれた多くの土産の中でも格別に変わっていた。
 私は柴田が出て行った後、彼が残していったクリームの入った瓶と劉美麗の顔マスクを一人眺めながら、さっきまでの出来事を思い返していた。


 PULULULULU!

 電話が鳴った。
 書類に目を通していた私が受話器を取ると、秘書が来客を告げる。
「社長、二時のお約束とかで、柴田様というおかしな身なりの方がロビーに来ていますが」 
 どうやら来たようだな。
「うん、聞いている。応接に通してくれ」
「かしこまりました」
 そう、柴田は身なりというものに全く無頓着だ。いつもジーパンにジャンパーという、こんな場所に来るのに全く相応しくない格好でやってくる。おかげで受付がいつも戸惑ってしまうのだ。
「全く柴田の奴ときたら、いつまで経っても変わらないな」
 私は苦笑しながらも、応接室に席を移した。そして程なく私の友人、柴田健男が入ってきた。
「松井さん、また帰ってきました」
「ああ、もう前回訪ねてきてからどれ位だ? それにしてもお前も相変わらずだな。そんな格好でここに来るから、いつも受付が戸惑ってるぞ。全くお前は学生の頃とちっとも変わらんな。まあ座れ」
「ははは、まあこれも性格なんでね」
 私の向かいのソファーに腰を下ろした柴田は、ちょっとだけ照れて頭をかく。
「それはそうと松井さん、社長業のほうは如何ですか」
「父親が死んで仕方なくこの会社を引き継いだんだが、社長なんか私には合ってないよ。おまけに父の代からの古参役員はなかなか私の思ったとおりに動いてくれないし、最近じゃストレスも堪りがちだ」
「それはご苦労なことで」
「まったく今思えばこんな会社、断じて引き継ぐんじゃなかったよ」
「ふふふ、あんなに強気なラガーマンだったあなたがそんな泣き言を言うなんて、意外ですね。よほど溜まってらっしゃるようで。ああ、そうそう結婚おめでとうございます」
「おお、どうしてそのことを」
「風の噂に聞きまして。まあそれで今日はお祝いも兼ねましてこんな土産を持ってきましたよ。いろいろ試してみてください。きっとストレスなんぞ一発で吹っ飛びますから」
 柴田は傍らに置いていたキャスターバッグの中から丁寧に梱包された包みを取り出すと、テーブルに置いた。
「なんだい、それは」
「今回行ってきた国の奥地で手に入れたクリームですよ。そこにしか生殖していないある植物の樹液が配合されているんですが、実に面白いですよ」
「面白い? どういうことだ」
「論より証拠。試してみましょうか。私でやってもいいんですが……そうですね、誰か口の硬い、できれば身内の女子社員を呼んでいただけますか」
「身内の女性社員? 口の堅い?」
「はい、そのほうが面白いですから。それにこのクリームのことは秘密にしておいたほうが良いですから。このクリームの使い方を教えてあげますよ」
「そうか」
 私は少し考えた後、秘書室に電話した。
「ああ上田君か。劉君にすぐにこちらに来るように言ってくれ」
(かしこまりました)
 柴田は私が電話している間に包みを開くと、中から広口の小さめのビンを取り出した。彼が蓋を開くと、中には白いクリーム状のものが入っている。
 程なくしてドアがコンコンと叩かれた。
「入りたまえ」
「失礼します」
 入ってきたのは、秘書室に配属されて2年目の劉美麗だ。
 彼女は只の秘書ではない。父と父の愛人の間に生まれた娘だ。だから私の腹違いの妹になるのだが、私には妹という意識はない。愛人の死後は父が妹とともに引き取って松井家で養っていたのだが、父の死後は使用人の一人として屋敷で働かせていた。だが、本人の希望もあり高校卒業後は専門学校で秘書としての訓練を積み、今ではこうして私の秘書の一人として働いているのだ。そう、松井家にとっては疎ましい存在ではあるが、父親の遺言でもあるため、妹と共に面倒は見てやっているのだ。勿論姉妹には松井家の人間に逆らうことは許されないし、松井姓を名乗ることなどもってのほかなのだ。ちなみに妹の美里は屋敷でメイドとして働いている。
「社長、何か御用ですか」
「劉美麗くんだ。この子なら私に忠実だし口も堅い」
「そうですか。ほう、なかなかお綺麗な方ですね。それでは、ええっと、劉さん」
「はい、お客様、なんでしょうか」
「すみませんがこのクリームを、あなたのお顔にたっぷりと塗っていただけませんか」
「はあ?」
「あ、変なものは入っていませんよ。むしろあなたの肌がつるつるになりますから」
 柴田に瓶を差し出され、美麗は戸惑った表情を浮かべて私のほうをちらりと見た。
「劉くん、言われたようにしてみるんだ」
「はあ……わかりました、社長」
 私だって、そのクリームを美麗の顔に塗ることに何の意味があるのかわからない。しかしそれを塗った後で果たして彼女に何が起こるのかとても興味があった。
 美麗は瓶の中のクリームを指にたっぷりと付けると、言われた通りにそれを顔にまんべんなく塗り始めた。
 クリームは最初真っ白に彼女の顔を覆っていたが、薄く伸ばしていくに従って、それは段々と透明に変わっていく。
「うん、そろそろいいでしょう。えい!」
 柴田は、美麗の顔にすっと手を伸ばして顎をつかむと、掛け声とともに勢いよく何かを引き剥がした。
「お、おい! 柴田、お前何を」
 その時私には、一瞬美麗の顔の皮が引き剥がされたように見えたのだ。
 だが彼女はきょとんとしている。その顔も何ら変わったところはない。
「お、おい劉くん、大丈夫か?」
「え? 大丈夫って、社長、どうかされたんですか」
「松井さん、大丈夫ですよ。それどころか、ほら見てごらんなさい。劉さんのお肌はつやつやになったでしょう」
「あら、ほんとだ」
 柴田に言われてコンパクトを取り出した美麗はじっと覗き込みながら相好を崩した。
「へえ〜、こんなに即効性のある美肌クリームって初めて。あの、これってどこに売っているんですか?」
「売り物じゃないそうだ」
 私は柴田に代わって答えた。
「そうなんですか、残念」
「お手間を取らせましたね。どうもありがとうございました」
「え? あの、それであたしに用事って……」
「これで終わりです。お手数かけましたね」
 パチリと柴田が美麗にウインクする。
「はあ、じゃあこれで失礼します」
 合点がいかないといった表情を浮かべながらも、美麗は軽く会釈すると部屋を出て行った。



「なかなかできの良い化粧品のようだな。ありがとう。早速妻に使わせてみるとするよ」
「ふふふ、奥さんに使っても構いませんが、私はまだ松井さんにこのクリームの使い方を何も説明してませんよ」
「え? これは女性用の美肌クリームじゃないのか」
「はい、肌がつるつるになるというのは副次的な効果に過ぎません。このクリームの真の効果はこれなんです。ほら!」
 ニコニコ笑いながらそれまでずっと両手を後ろ手に組んでいた柴田は、右手を私の前に差し出した。彼の手には、透明のぶよぶよしたものが握られている。
「な、なんだ? その変なものは」
「ふふふふ、何に見えます?」
 柴田がそれをきれいに広げると、どうも人の顔の形をしているように見える。それも半透明ながら女性の顔のようだ。
「か、顔!? これは女性の顔か、待てよ、この顔は……そうだ、劉くんの顔だ」
「はい。そうです。さっきの女子社員、劉美麗さんの顔をクリームで写し取ったんです。そして出来上がったこのマスクですが、自分の顔に被せると……」
 柴田はそう言いながら、半透明状の美麗の顔のマスクを自分の顔に押し当てた。
 そしてマスクが柴田の顔にぺたりと張り付いたその瞬間、私よりも小柄な柴田の身長がさらに縮み始めた。肩幅も急に狭くなり、着ているジャンパーやジーンズがだぶだぶになっている。
「お、おい、どうしたんだ。お前、体の様子がおかしいぞ」
「大丈夫です。何の問題もありませんので」
「え!?」
 答えた柴田の声を聞いて、私は思わず小さな叫び声を上げてしまった。
 野太い柴田の声が、か細い女性のような声に変わっている。この声……そうだ、美麗の声だ。
 柴田が顔を覆っていた両手をゆっくりと離した。
「え? えええ? ど、どういうことだ、柴田が劉くんに!?」
「どうしました? 社長」
「社長」と私に向かって問いかけるその声は美麗そのものだった。
「りゅ、劉くんなのか?」
「ふふふ、まさか。彼女はさっき出て行ったじゃないですか。私は柴田ですよ」
 だぶだぶの柴田の服を着た目の前の美麗は涼やかに笑った。
「ということは……」
「彼女の姿をもらったんですよ。このクリームを顔に塗ると、塗った人間のマスクを作ることができるんです。そして出来上がったマスクを他人が被ると、顔を写し取った相手の姿になることができるんです。男だろうが女だろうが、いや、人間だけでなく動物になることだって不可能じゃありません」
 そう言いながら目の前の美麗の姿になった柴田は顎の皮を摘むと、ぎゅっと引っ張った。
 途端にぺりぺりと美麗の美しい顔が剥がれ、その下から柴田の本来の顔が現れる。と同時に、その体型も女性のものから本来の彼の体型へと戻っていった。
「こうやって顔マスクを剥がせば、すぐに元に戻れます。どうです、これを使えば簡単に誰にでもなることができるというわけです。煩わしい自分の人生から離れて、好きな時間に気に入った他人に成りすましてみる。最高のストレス解消法ですよ」
「なるほど、これは面白いな」
「まあそういうことです。じゃあこのクリームは置いていきますんで、どうぞご自由に使ってください」
「いいのか? こんな貴重なものを」
「ははは、私はもう十分楽しみましたし、ストレスには縁の無い人生を送っていますから、それは松井さんに差し上げますよ。あ、でもバックアップだけは忘れずに取っておいたほうがいいですよ」
「バックアップ? どういうことだ」
「使う前に、自分の顔マスクを作って保管しておくことです。いざという時に元に戻れるようにね」
「そ、そんな危険なものなのか!?」
「いえ、きちんと気をつけていれば大丈夫ですが、マスクを長くつけ過ぎていると顔に定着して剥がれなくなることがありますんで。そんな時にはバックアップのマスクをつければ元の姿に戻ることができるという訳です」
「なるほど」
「じゃあ、私はそろそろ失礼します。明日からまた海外に出かけますんで」
「もう行くのか。全く忙しい奴だな」
「ふふふ、これが楽しみの人生ですから。それじゃあ次はいつお邪魔できるかわかりませんが、松井さん、どうぞお元気で」
 柴田は静かにお辞儀をすると、応接室から出て行った。



 私は柴田が出て行った後、彼が残していったクリームの入った瓶と劉美麗の顔マスクを一人眺めていた。そう、テーブルにはクリームの入った瓶と劉美麗の顔マスクが残されていた。
「まあいつものことだが、それにしてもあいつ全く不思議というか、妙な代物を見つけてくるもんだな」
 私はテーブルに置かれた美麗のマスクをつまみあげた。半透明ながら、それは本当に彼女の顔そのもののように見える。
 ふと好奇心を覚えた私は、美麗の顔マスクを何気なく自分の顔に被せてみた。
「うっ」
 一瞬意識がゆらりと揺れる。
 そして次の瞬間、私は自分の着ているワイシャツもズボンもだぶだぶになっていることに気がついた。
「おお!」
 自分の体を見下ろすと、ワイシャツの胸元が大きく盛り上がっていた。
 恐る恐る触ると、指先に柔らかい膨らみがその存在を主張していた。
「はううっ」
 胸の先が妙に下着の生地にこすれ、その刺激にびくんと体が震える。
「女、女になったのか。私が女に、いや美麗に。おお、声も変わっている」
 そう、自分の声は最早私自身の声ではなかった。それは甲高い女性の声。
 応接室の中には鏡が無い。だが私の姿はさっきの柴田のように、既に美麗の姿に変わっているのだろう。
「うーむ、こんなことがあるのか? 現実にこんなことが」
 無意識に腕組みをすると、胸の盛り上がりが両腕に潰され、そのふにゃりとした感覚が腕に伝わってくる。
「おおっと、女の胸も自分についていると結構邪魔なものだな」
 腕を離すと、潰されていた胸が膨らみを取り戻した。
 恐る恐る胸を掴んでみる。
「う、柔らかい。あうう、なんか気持ちいいというか、変な感じだ」
 手の動き通りに柔らかく変形する盛り上がった胸に少しばかり興奮を覚えた私はネクタイを解くと、ワイシャツのボタンを上から外してみた。ワイシャツの中を覗き込むと、自分の胸についている大きなおっぱいが目の前にさらけ出される。
「これが美麗のおっぱいか、結構大きいな。しかしこれが自分の胸についているとは……」
 自分におっぱいがあるという感覚は全く奇妙なものだが、しかしワイシャツの中を覗き込んでいると無意識に頬が緩んでしまう。そう、今私は美麗になっているのだ。
「社長……だんな様……おにいちゃん」
 今ではそう呼ばれることもなくなったが、妹の美里と一緒にうちに引き取られてからしばらく、私のことを「おにいちゃん」と呼んで慕っていた。そして父の死後は「だんな様」と呼ばせた。美麗の声で彼女の口真似をしてみると、私があの頃の美麗になったような変な気持ちになってくる。
 窓ガラスには、うすぼんやりと美麗の姿になった私の姿が映っている。
 だが夢中になって油断したのがいけなかった。誰かがドアを開けて応接室に入ってくる気配に気が付かなかったのだ。
「あ、あなた、誰!?」
 はっと気が付くと、ドアの前で美麗がぽかーんと口を開いて立っていた。
「ち、違う」
 美麗の姿で胸を覗き込んでいた私は、慌てて胸をワイシャツで隠した。だがこんな格好では言い訳のしようもない。
「誰、誰よあなた」
「私は……違うんだ、美麗」
「違うって、どういうことよ。なぜあたしがもう一人いるのよ」
「違うんだ、私だ、私だよ、ほら」
 私は慌てて美麗の顔マスクを剥がした。
「しゃ、社長!」
 元に戻った私を見て、美麗は一層驚きの表情を浮かべた。
「社長? 本当に社長なんですか? どういうことなんですか。なぜ社長が私の姿に? しかも、その、胸を覗き込んだりして……説明してください!」
「すまんすまん、実はこういうことなんだ……」
 仕方なく私は美麗に柴田からもらったクリームの効果を説明した。後から考えると彼女に説明する必要など無かったのだが、美麗の姿になってその胸を覗き込んでいたところを見られて、恥ずかしさと後ろめたさを感じたのだ。
「へぇ〜、じゃあさっきのクリームってお肌を美しくするだけじゃなくってそんな効果があったんですか」
「そうなんだ。私もちょっと被ってみたんだが、全くびっくりしたよ」
「何もあたしで試してみなくたって。それに社長、さっき胸を覗き込んで何をしてたんですか」
「い、いやそれは……」
「ふふっ、まあいいですよ。それにしても面白いですね。誰にでもなれるクリーム……か」
 美麗は目をくるくると回しながら、何事か考えている。そして何かを思いついたように、にっと笑った。
「ねえ社長、もしよろしければ社長室でお待ちいただけますか」
「社長室で待つ? どういうことだ」
「うふふ、あたしが良いものを持ってきますから」
「良いものと言うと?」
「良いものは良いものですよ。お部屋で待っててください。勿論お一人でですよ」
 そう言い残すと、美麗はさっさと応接室を出て行ってしまった。
「良いものねぇ、全くあいつ何をしようと言うんだ」
 まあいつまでもここに居る必要もない。彼女の態度に訝しさを感じながらも、私はクリームと美麗のマスクを紙袋に入れると、とにかく部屋に戻っていることにした。


(その2へ)











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