契約
作:Sato
・・・・妙に息苦しい。何か自分の体が、鉛か何かに変わってしまったかのような・・・一体何がどうなっているのか?
おれは目を覚ました。何の異常もないおれの部屋の中だ。体には布団と毛布がかかっており、これが息苦しさの原因だったのだろうか。おれはとりあえず水でも飲もうと思い、体を起こそうとした。
(う、体が動かない・・・・!?)
おれの意思に反して、体は一向に起き上がってはくれなかった。手足も同様で、今となっては口すら動かすことができず、しゃべることさえできない。
(これはいわゆる『金縛り』ってやつなのか!?そう考えると、さっきの息苦しさも説明できるけど・・・・)
それはそう、確かにそうなのだ。それで説明がつくことはつく。しかし、どうしてこうなったのか、という疑問は依然として残る。おれ自身、今までにこういった体験をしたことがないのだから。
(え・・・体が勝手に動き出したじゃないか!?い、一体どういうことなんだ?)
突然、今までどうやっても動かなかった体が、動き出しはじめたのだ。しかも、おれの意思などとは無関係に。何なんだこれは!
起き上がったおれの体は、部屋の明かりを点けると、おもむろに着替えをはじめたのだ。おれ自身が着替えるのとは違って、慣れない手つきでズボン、ワイシャツ、ネクタイ(これが一番苦戦していたようだった)、と身に着け、最後にスーツの上着を着て着替えを終えてしまった。
(き、着替えたってことはもしかして・・・?)
おれが恐れていた通り、「おれ」は財布と鍵の束を手に取ると、部屋を出ようとした。と、玄関のところでピタリと足が止まる。
「そうそう、アレを忘れてた。アレがなくっちゃ、はじまらないもんね!」
「おれ」の口から、おれの意思とは関係のない言葉が発せられる。おれの全身に寒気のようなものが流れた――が、体には一切影響していない。どうやら、おれの精神状態ですらも、体に影響は与えないようだった。
それはともかく、おれの体を動かしているのが、少なくとも意思のある人間(幽霊かもしれないが)であることは分かった。しかも、話しかたから想像するに、女のような気がする。さっき、ネクタイをつけるのにも苦戦していたことも、それを窺わせるものがある。とはいえ、それが何者であるのかについては、何の心当たりもない。
「えっと、あ、あった。これだ」
そんなことを考えている間に、「おれ」は机の引き出しを探って何やら取り出していた。おれの目に入ってくるその物の正体――それは「印鑑」だった。
(これがなくっちゃはじまらない、ってさっきいってたな・・・どういうことなんだ?まさか・・・)
「おれ」は印鑑をスーツのポケットの中にしまうと、靴を履き、玄関を出た。ひんやりした外の空気が意外と心地よい。しかし、温度や音といった、五感情報はすべて感じ取ることができるというのに、今のおれには能動的に何かをする、ということが一切できないのだ。
「ふ〜ん、やっぱり男の体って力強いのね♪私の体とは全然違うわぁ」
今の台詞からしても、やはりこいつは女だ。その女が、おれの体に入って何をしようというのだろう?さっきのハンコの件といい、気になることばかりだ。おれは自分の体が乗っ取られた、という今のことよりも、これから先のことに不安を抱いていた。
街に出た「おれ」は、やがてある建物に辿り着いた。繁華街から少し離れた場所にある雑居ビル街――その中でもさらに目立たない場所にあるビルの、しかも地下に入っていく「おれ」。扉には物々しげなセキュリティが施されていたが、「おれ」はその電子ロックを慣れた手つきで解除してしまった。「おれ」がものの見事に開いた扉の中に入っていく。部屋の中は地価に相応しく暗く、ジトッとした湿り気を帯びていた。
「おれ」はその部屋の奥へと進んでいく。受付らしき小窓の前で軽く挨拶を交わすと、さらに奥へと進んでいった。おれはいまだにその状況を他人事のように見ていることしかできない。
「失礼します」
「おれ」は突き当たりにある白い扉の前でそういうと、その扉を開け部屋の中に入った。その瞬間、むせ返るような匂いが鼻に飛び込んでくる。これは――薬か何かなのだろうか。いずれにせよ、おれが今までに嗅いだことのない種類の匂いだった。
「ん?そいつかね。君がいっておった男というのは」
部屋の奥にあるデスクに向かっていた白衣の男がおれに気がつき、振り返るとそういった。60を優に超えている白髪の老人だが、その目には異常なほどの生気が宿っていた。その眼光は、まだまだ彼が現役であることを主張している。
「お待たせして申し訳ありませんでした。では早速はじめましょうか」
「ああ、そうするか。ではまずこれを。もちろん、アレは持ってきたんだろうな?」
「もちろんですよ、教授」
男はデスクの上から一片の紙を取ると、「おれ」に手渡した。その内容も気になったが、「おれ」がこの老人を「教授」といったのも気になる。こいつは一体何者なんだ?
「では必要事項を記入してくれ」
「ええ、もちろん」
「おれ」はデスクの上に紙を置くと、脇にあったボールペンで、その紙に何やら書き込みはじめた。
(え?こ、これはおれの・・・)
「おれ」が書いていたのはおれの氏名、住所、生年月日、電話番号等々、おれにしか判らないはずのものだった。呆気に取られているおれを尻目に、「おれ」は次々と項目を埋めていく。まさか、こいつはおれの記憶まで盗み見ているのか――おれの心の中でだけ戦慄が走った。
「さて、これに判を押せば完成ね♪」
「記入事項に間違いはないだろうな。少しくらいの間違いなら修正は利くだろうが――ことが終わってからでは遅いんだぞ」
「そんな、信じてくださいよ、教授。もっとも、『彼』の記憶が間違いないかどうかまでは、私に分かるところではないですけれど」
「ふむ。では判を押す前に最後の確認を。何度もやっているが、これは儀式みたいなものでな。読み上げるから、最後にイエスかノーか答えてくれ」
「いつもいいますが、イエスに決まってるじゃないですか。ま、いいです。どうぞ」
「うむ。では、最終確認事項を読み上げるぞ。貴殿が今回の処置の結果、いかなる不利益を被ろうと、それが当方の責任ではない事とします。よろしいですな」
「はい」
(な、何が行われようとしているんだ。『処置』?『不利益』?『責任』?何なんだ一体!?)
「一度この処置を実行してしまうと、二度と元には戻れない事を承知の上でこの契約書にサインします。これについては?」
「はい、もちろん構いません」
(元に戻る?何の話なんだ?今の状態をいっているのか?)
「今回の処置後、当方の責任による異常がなければ、二度とここには現れない事を誓います。これは?」
「はい。誓います」
「ふむ。それではその契約書に判を押してくれ。それで契約は成立だ」
「おれ」はポケットから印鑑を取り出すと、その契約書の数箇所に確認しながら判を押してゆく。おれの心の中では色々な想像が渦巻いていた。臓器の売買?どこかの組織への参入?全然見当もつかない。
「できました。確認してください」
「どれ・・・・ふむ、ふむ。お、ここに押し忘れておるぞ。ホレ、ここだ」
「あ、本当だ。危ないところだった。よし、これでOK」
「では契約成立だな。では、こちらへきてくれ」
「教授」は、カーテンで仕切られた向こう側へと「おれ」をいざなった。黙ってそれに従う「おれ」。
カーテンの向こう側には、ベッドが二つ並べられており、どうしてだかその奥には簡易の冷蔵庫が備え付けられていた。そして、片方のベッドの上には何者かが横たわっているように見える。しかし、白いシーツが被せられており、それが誰であるのか窺い知ることはできない。
「さ、そこに座ってくれ」
「はい」
「教授」にいわれるがままに、おれは空いているほうの簡易ベッドの上に座った。「教授」はおれに背を向けている。どうやら何かを取ろうとしているようだ。
「ではこれを飲みなさい」
「教授」は冷蔵庫から取り出したビンをおれに差し出した。何のためらいもなくそれを受け取る「おれ」。ビンの中身をしげしげと見詰める。ビンの中には、どう表現していいか分からないような、クリーム色といおうかカーキ色といおうか、微妙な色合いだった。おれは最初、それを見て「カフェオレ」を想像してしまった。が、そんなものじゃないことは確信できる。これは誓ってただの飲み物なんかじゃあない。
「では、いただきま〜す」
「おれ」は躊躇せず、ビンの栓を開けると、ビンの中に満たされている液体を飲みはじめた。どうやら、その液体というのは完全な液状ではないようで、ゲル状のもののようだった。そういえば、どこかの製菓会社が似たような飲み物を発売していたような気がする。
「う・・・相変わらずあまり美味しくないですね」
「ふむ。そういう意見が多いが、中には美味いというやつもおるぞ。人それぞれといったところだな」
「ああ、こっちのジュースは毎回違う味なんでしたね・・・と、そろそろ効果が出そうですね。では、私は抜けます」
そういうと、「おれ」はベッドの上に座ったまま脱力してしまった――と思った瞬間にはおれは自分の体の主導権を取り戻していた。
「!?お、お前たちは何者なんだ?何をするつもりだ!?」
「ふふん、すぐに分かるわよ」
突然、横合いから声がかかった。いつの間にか、おれの真横には一糸まとわぬ姿の女性が立っていたのだ。しかも、彼女の体はまるで幽霊のように、うしろの景色が透けて見えているではないか!しかし、時間が経つにつれ、彼女の体は徐々に色を帯びていっているようだった。それを見たおれは、さっきまでこいつがおれの体に入って、おれの体を操っていたのだと確信した。
「まあ、分かるように説明してやろう。お前さんが今飲んだ『ゼリージュース』には、この人の情報が詰まっておったのだ」
「教授」はそういうと、横のベッドにかけられていた白いシーツを取り去った。そこには、20代前半ぐらいと思われる、若い女性が眠っていたのだ。身じろぎ一つしないその様子を見ていると、おれにはとても彼女が生きているようには見えない。
「いや、安心するがいい。彼女は生きておる。もっとも、精神はないのだがな」
「精神がない!?ど、どういうことなんだ!?」
「ハン、血の巡りが悪いやつだね。さっき教授がいっただろ?あんたがさっき飲んだゼリージュースに、この人の情報が詰まっているって。つまりはそういうことさ」
「この人の精神がおれの体に・・・そ、それじゃあ、おれはどうなるんだ?」
「もちろん、一つの体に魂は一つが原則だ。お前の精神は追い出されることになる。ゼリージュースとなってな」
「な、何!?追い出されるだって?」
「そう。で、体がないんじゃかわいそうだから、この体に移し替えてあげようって話よ。さっき、契約書にサインしたでしょ?」
女がベッドの女性を指差す。
「な、おれはそんなこと、認めちゃいない!契約は無効だ!」
「そうかしら?この契約書のどこをどう見ても、あんたが、この件について納得づくで了承したようにしか見えないんじゃなくて?最後の確認事項でも、全て了承していたでしょ?」
「そ、それはお前が・・・・うっ!!」
(・・・・出て行け)
彼女に詰め寄ろうとした瞬間、おれの全身にしびれのようなものが走った。同時におれの心の中に誰かの声が聞こえてくる。
(出て行け・・・これはもう私の体だ)
「う・・・うぐ・・・」
「あら、効いてきたようね。でも、安心なさいな。私たちが責任を持ってあんたをこちらの体に移し変えてあげるから」
「グェェェェェッ!」
こみ上げてきたものを一気に放出するように、おれは生温かい何かを吐き出していた――いや、違う。おれは元の自分の体の中から追い出されたのか?おれの目に、苦悶の芳情から一変、ニヤリと笑みを浮かべる「おれ」の姿が見えた。
「ん・・・・」
「気がついたようね。どう?気分は?」
全身にけだるいような気分が漂っている。体にあまり力が入らない感じだ。おれは・・・・
(おわり)
あとがき
体験談シリーズ、
今回は空色+新色「カーキ色」の複合技でした。
また勝手に作ってしまいましたがいかがだったでしょうか。
体験談だから、精神同居が書きやすいんですよね。
このシリーズのいいところでもあり、欠点でもありますね。
しかし、この女性はどうして男になりたかったのでしょうね。
性同一性障害とかなのかもしれません。
まあ、考えてないわけですが(爆
このシリーズってHじゃなきゃいけないとかなと思いつつ(笑
それではまた。