氷井街クライム【むしばみ】
九重 七志




夜の港。倉庫街。
人気はないに等しく、取引には絶好の場所だ。

「……本物だろうな?」

「ああ、勿論さ」
「紛れもなく本物の、"脳盗蟲"だとも」

そう言って、女は透明の標本瓶を取り出す。
中には白い糸のような、ウネウネと蠢く"何か"が見える。

「本当にこんなもので、俺はこの稼業から足を洗えるのか……?」

男は躊躇うように、アタッシェケースの取っ手を握りしめる。

「保証しよう」
「これを使えば君は、"全く新しい人生"を手に入れることが出来ると」

男は、ひとしきり逡巡する。

やがて、意を決したように、ぽつりと告げる。

「――わかった、商談成立だ」

「OK」

男はアタッシェケースを差し出し、女の持つ標本瓶を受け取る。

「じゃあ、使い方の説明をしようか」

「……ああ、頼む」

女は語った。そのグロテスクな生き物の"使い方"を。

男はヒヤリと顔を青ざめ、しかしすぐに冷静さを取り戻す。

「――そんな事を、するのか……」

「ああ、その通りさ」
「君の今までやってきた事と比べれば、たいした事でもないだろう?」

「……ああ、それも、そうだ――」

男は何かを思い出すように、苦い顔立ちで目を閉じる。

「では、私はこれで失礼するよ」
「――"良い人生を"」

そう言い、女は立ち去った。
男は独り立ち尽くしたまま、透明な標本瓶を握りしめていた。



『朝のニュースです』
『本日未明、XXX県YY市のZZ川で、男性がうつ伏せになって倒れているのを通行人が見つけ、警察に通報』
『男性は既に死亡しており、目立った外傷がない事から事件性は薄いものと――』
『男性の身元は分かっておらず、警察が確認を進めています――次のニュースです』

朝のすがすがしい空気の中を、ジョギングする少女が一人。
耳に掛けたイヤーフォンからは、少し嫌なラジオニュースが流れてくる。

「(やだ、怖いなぁ……ZZ川とかすぐ近くじゃん)」
「(今日はコース変えた方がいいかな?)」
「(……でも、別に事件とかじゃなないなら、大丈夫だよね)」

そんな事を考えながら、少女はいつものコースを走る。
後ろで括った髪が揺れ、項にさらりと汗が流れる。

「(うん、まあいいや。今日は河原を走るって決めてたし)」

分れ道に差し掛かり、川への道を選ぶ。

その選択を、彼女は。
後に"後悔"し、"そうして良かった"と思う事になる――




「(風が気持ちいい……うん、やっぱり来てよかった)」

涼しげな風が吹く、河川敷を走る少女。

暑い日の続く時期であるが、この時間なら涼しく気持ちのいい走りを楽しむことが出来る。
おおよそ、彼女のお気に入りのルーティンワークであった。

やがて、大きな橋の下に差し掛かる。

「(ちょっと日陰で休んでいこうっと)」

少女は歩を緩め、ペースを落とし、ゆっくりと立ち止まる。
イヤーフォンを外し、ラジオアプリを止め、ふぅと一息を吐く。

そして、角度の緩い堤防に座り込もうとした時。

なにやら、おかしなものがある事に気がついた。


「……あれ、何これ?」

橋の裏から、なにやら白い糸のようなものが垂れている。

「糸? でもなんでこんな所に……」

釣り糸か、何かか。
しかしそれなら、川へ向かって垂れているはずだ。

不思議に思い、少女は"それ"に手を伸ばす。

糸のようなものに、少女の手が触れようとした瞬間――

「……ひっ!?」

ぽとりと、"それ"が落ち、少女の身体に覆いかぶさる。

「やだ、何これ!!? 虫!?」

パニックに陥る少女。
糸は彼女の身体に絡みつき、するりするりと肌の上を這い回る。

「嫌! 気持ち悪い! 離れて――!」

その願いも虚しく、糸は少女の身体にますます強く食い込んでいく。

そして。

その先端は、彼女の耳の中へ、くちゅりくちゅりと"捻り込まれて"いく。

「痛い! 何何何あっあっあっ!? ら、やめて、なにこれ……」

奥へ、"奥"へ。

外耳――中耳――内耳――聴神経のそのまた奥へ。
彼女の"脳"の、内側が陵辱される。


「ぁっ、あぁ、あっ――?」

プツリと、痛みが消える。

代わりに、湧き上がってきたものは――


「――あはぁぁぁぁぁっっ!!?」

抑えようのない、純化された"快感"

アドレナリン、ドーパミン、エンドルフィン……。
ありとあらゆる脳内麻薬が、無理矢理に絞り出される。

「ンっっ!! ぁっ!! ぁぁぁぁっぁぁあ!」

ドパァと溢れたのは彼女の内側だけでなく。
彼女の履いていたレギンスは、多量の小水と愛液で洗われていた。

「っはぁぁぁ!? っっ! っぁっ! んあぁぁぁっっ!」

ビクン、ビクン、ビクンと。
くの字に曲げた身体を幾度も震わせる少女。

それも、やがて、終りが来る――

「っっ!! ぁ…………」

"ぐちゅり"

「あぁぁぁぁぁっぁぁぁぁぁぁぁっぁあぁぁ――!!!!!」

絶叫、絶頂。
そして意識は途絶し、気絶に至る。

その様は筆舌に尽くし難く、口舌はだらしなく開き、垂れる。

絡みついていたはずの白い糸は、しかして既に影も見えず。

その最後の一部が、耳の中へちゅるんと入り込んだ。




「……ぁ」

橋の下、倒れていた少女が目を覚ます。

先程の乱れ様が嘘のようだ。
どこもおかしな所はない。

「……、は……」

きょとんとした表情で、自らの手を見つめる少女。

白い肌、細い指先、整えられた爪。
首筋には、後ろでくくられた髪の先が当たる。

少し目線を落とすと、
豊かに膨らんだ胸元が、その存在を強く主張する。

少女は辺りをきょろきょろと見渡す。
やがて割れた鏡を見つけると、おそるおそるといった様子でそれを覗き込んだ。

「!」

目を丸くして、驚く少女。
"見慣れた顔"だろうに、"どこもおかしくない"だろうに。

「――やった……! 本当に――」

口の端を歪め、どこか"ぎこちなく"微笑む少女。

やがてその笑みは、"自然な、いつもの彼女の笑み"に推移する。

「……あ、そっか。"私"は、ジョギングの途中だったんだっけ」

"思い出した"かの様に、"自分のこと"を確認する。

地面に手をつき、立ち上がる。

イヤーフォンを付け、ラジオアプリを起動し、
"先ほどと変わらないフォーム"で、ゆっくりと走り出す。

「……ふふ」

少女は、にやけた笑みを浮かべていた。

『お昼のニュースです』
『ZZ川で見つかった身元不明男性の遺体から――』

「――"分からねえ"だろうなぁ」

"ぞっとするような笑み"を浮かべ、ほくそ笑む少女。
――ああ、最高に"良いニュース"だ。

そうして少女は、河川敷を走っていく。

ふと"思い返す"のは、"あの女"の言葉。

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"――良い人生を"      
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「……全くだ」

"にこやかに微笑む"少女は、涼しげな風に向かって走り去っていった――

【むしばみ】終。
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