近くのビル群が異様な速さで走り去ってゆく。広くも無く、狭くも無い密閉された空間に3時間。
 独特の振動と風きり音は、暗くなるとより一層激しくなるように感じた。

「今まで最高の体だ」

 そう呟いたのは、半袖の黄色いプリントTシャツにベージュのローライズブーツカットパンツ姿を
した木見蔵 麻枝(きみくら あさえ)という若い女性だった――



タイトルが思いつかないけれども前編
作 まぐりょ




 そろそろ陽も落ちようとしている夕暮れ時。
 3連休の2日目。休日でも電車にはたくさんの人たちが乗っていた。ただし、カップルや家族連れ
ばかりで、スーツを着ている人は殆ど見当たらない。

「暑いな」

   肩から掛けている黒いカバンを足元に置き、つり革を持ってネクタイを緩める。別に休日出張が嫌な
わけではない。平日に比べると多少は余分に出張旅費も出るから、ちょっとした夕食が食べられるとい
うものだ。 インナーフォンを外せば、乗客達のにぎやかな会話が耳に飛び込んでくる。
 俺は働いて疲れているというのに。楽しそうに笑いながら話しているカップル達を見ると、
少し気分が滅入った。

「暑いな……」

 揺れる列車の中、深い紺のスーツの前を指で何度も引っ張り、白いシャツの中に空気を入れると、
涼しさと引き換えに汗臭さが鼻をついた。それでも何度か繰り返し、涼しさを手に入れた。相変わらず
周りの乗客達は五月蝿い。
 しばらくするとアナウンスが流れ、目的の駅に着く。少し屈んでカバンを右肩に掛けると、
人ごみの流れに逆らわないように、足並みを揃えて階段を上がった。

「指定席の予約をしないと。早い時間に取れるかな」

 人ごみを見回して切符売り場を目にすると、とりあえず指定席を取るために自動発券機に並んで
切符を購入した。

「お、30分後か。早い時間に取れてよかった。しかも禁煙席だし。さて、今回はどうかな?」

 通路側より窓側がい。だから窓側を指定した。後は少し贅沢なビールと弁当、そして職場への土産を
買って乗るだけだ。ビールは乗る直前に買うのがい。冷えたビールは喉が渇いた今、最高のご馳走だから。
 いや、もっと素晴らしいことが待っているかもしれない。そう思いながら、カバンに入れていた小物を
スーツのポケットに忍ばせた。出張帰り、指定席の切符を手に入れてからは毎回ドキドキしている。行きは
人が多すぎるし仕事に差し支える。だから帰りがい。そんな事を思いながら弁当と土産を買い、発車1分前
にビールを買った。

ドキドキする。

 乗車に間に合わないかもしれないというドキドキではない。右肩はカバン、左手には土産の入った紙袋と、
ビールに弁当が入った白いビニール袋を持って乗車した。
 自動ドアが開き、目の前に車内が開ける。

「ゴクン……」

 エアコンがよく利いた車両内には、右に3人掛け、左に2人掛けの座席が後ろ向きでずらりと奥まで
並んでいた。休日のこの時間。新幹線の指定席を利用している人は多くない。後ろからなので、座席の
上から頭が見えているところがまばらに見える。それでも半分くらいの席は埋まっていた。車両内を
見渡した後、座席番号を眺めながらゆっくりと通路を歩いていった。

――ドキドキする。

『11番D席』

 それが蟻川 仁(ありかわ じん)の指定席だった。ちょうど車両の中心あたり。
 ギュッと拳を握り締めた後、指定席の横に立った。

「…すいません」

 軽く会釈をした後、座席に紙袋とビニール袋を置くと、カバンを棚の上に乗せた。そして、座席に置いた
ものを手に取って座った。

「ふぅ…」

 紙袋を足元に置き、前の座席の背についている白いテーブルを倒してビールと弁当を広げる。出発の合図と
共に体に振動を感じると、ゆっくりと車窓に映る景色が動き始めた。仁は視線を戻し、震える指でプルタブを
そっと引いてビールを口にした。

ゴクン、ゴクン――

 旨い。最高に旨いビールだ。そして、最高の日になりそうだ。
 表情が出ないように嬉しさを噛み締め、代わりに広げた弁当を噛み締める。ご飯が冷えていても
何ら問題ない。徐々に加速する黒い風景。その風景を映す車窓には、車両内の様子が反射して映って
いた。目の前のテーブルにある弁当。そしてビール。それでいて、仁の姿は映っていない。
 実は仁は透明人間で鏡にも映らない―というわけではなく、仁と車窓の間には人が座っているからだ。
 耳にインナーフォンを付け、右手に持った携帯電話を操作している。どうやら携帯電話をミュージック
プレーヤー代わりに使っているようだ。そんな様子をちらりと横目にしながら、ビールを半分ほどあけた。
 先ほどから震える手が止まらない。
 6分ほどすると、最初の駅に着いた。数人の乗客が入ってきて仁の座っている横を通り過ぎ、
少し離れた座席に腰掛けた。仁が座っている反対側の3人がけの椅子には、初めから40代くらいの太った
サラリーマンが一人だけ座っていた。お腹が出ている分、貫禄を感じる。禿げかった頭に日焼けした皮膚。
 そして脂ぎった顔は仁の隣に座っている人とは対照的だった。
 また、車窓の風景がゆっくりと動き出す。アルコールで耳が少し赤くなった頃、乗務員が切符を拝見と
やってきた。財布に入れていた切符を渡し、判を押してもらう。そのあと、目の前に白くてほっそりとした
腕が伸びて乗務員に切符を手渡した。産毛すら生えていなさそうな腕。思わずガブリと噛み付きたい衝動に
駆られながらも素知らぬフリで見終え、がむしゃらに弁当を食べつくした。
 まだ冷たいビールを喉に流し込み、弁当の空箱と一緒にビニールの中に入れると、前の座席の下部について
いるネットに押し込んだ。
 食欲が満たされた後は睡眠欲。疲れた体にアルコールを含むことで、徐々に睡魔が襲い始めるはず――なのだが、
興奮している仁には全く眠気が襲ってこなかった。眠ろうと思えば思うほど眠れない。
 睡眠欲を――性欲が覆いつくしている。
 羊なんて数えてられない。早く寝なければ、次の駅で降りてしまうかもしれないのだから。

――隣に座っている女性が。

 それも若くてスタイル抜群の女性が。こんな最高のシチュエーションは未だかつて無い。したがって、
このチャンスを絶対に逃したくない。使ってしまうか――睡眠薬。出張先で眠れないときのために、いつも
カバンに入れている物だ。だが、これを使うと薬に弱い仁は降りる駅で目覚めることは出来ないだろう。
 そうなると今日中に帰れなくなる。妻子になんと言われるか――
だが――この時を逃すと、いつまた同じシチュエーションに遭遇できるか分からない。休日の夜ならではの、
人気の少ない車両内。3時間という余裕の探索時間。

 そして―美人。

 葛藤の時。どうする?
 妻子は大切だ。明日は3連休の最後の休みだから、朝一で遊園地へ連れて行ってやると明言している。ここは次の
チャンスを願って諦めるか?それで自分の心は納得できるのか?
 悩んでいる間にも、スピードに乗った新幹線はレールを走り続けている。半時間もしないうちに次の駅に着くだろう。
 巡ってきた最高のシチュエーションを手放すか――
 ちらりと、隣に座っている女性を見た。音楽を聴きながら車窓を眺めている。栗色のセミロングに少しカールがかった髪。
 20代前半、若しくは半ばくらいだろうか。黄色い半袖Tシャツの胸は巨乳と呼ぶには厳しいが、手のひらをいっぱいに
出来るほどの膨らみがある。その胸元に書かれている英語の大きな文字が少し横に伸びているところに、仁の心がときめく。
 体にフィットした生地がウェストの細さを物語り、またベージュ色したローライズのブーツカットパンツとTシャツの
隙間から見えるウェストのチラリズムが興奮を加速させた。縦に長いお臍が妙にセクシーだ。


(朋子、愛、将耶。
お父さんはな、お前達が嫌いな訳じゃないんだぞ。
朋子。すまん、帰りは明日の昼過ぎになるかもしない。
愛と将耶を説得してくれ。
父ちゃんは仕事が忙しくて、仕方無かったのだと。
次の休みには絶対に連れて行ってやるからな。
誰よりも愛している。朋子。そして愛、将耶)


 どの道、また同じシチュエーションに遭遇しても興奮して眠れないだろう。そう結論付けた仁は、スーツの裏ポケットに
忍ばせていた携帯電話でメールを打ったあと、カバンに入れていた睡眠薬を噛み砕いた― 急速な眠気が仁を襲う。車両内の
白い天井を見つめていると、次第に瞼を開く事が出来なくなる。
 意識が深い谷底へ落ちてゆく感じ。自分の意志ではどうにもならない感覚。最後に彼女の顔が見たくなり、頭を動かそうと
したが何も出来なかった。
 そして、次に気づいたときには―自分の体を眺めていた。
 目の前に見える仁の体。頭を背もたれに任せ、全身から力が抜け落ちている感じ。少し唇を開いた無表情な顔は、何度
見ても好きになれなかった。ふわふわと車両内を漂う仁は、今、幽体という姿に変化している。体から抜け出た魂という
ところか。自分でイメージしているからかもしれないが、その姿は半透明の裸体となっていた。誰もその存在に気づかない。
 それに、他人が意識して幽体に触れる事も出来ない。ただ、幽体となっている仁からは他人に影響を及ぼす事ができるのだった。
 後10分ほどで次の駅に着くだろうか。車窓の景色を見ると、まだ列車がスピードダウンする気配は無かった。今までは
ジロジロと見ることが出来なかった彼女の姿も、幽体となった今は思い存分見ることができる。見つめる事が出来た。

――ゆっくりと彼女の前に漂う。

 横顔しか見る事が出来なかった彼女を、やっと正面から覗き込むことができる。
 それにしても―美人だ。横から見ていたときよりも随分と綺麗な顔立ちをしていた。
 軽く剃って形を整えている眉毛。目元もパッチリとして、深い黒の瞳に吸い込まれそうになる。鼻立ちも綺麗で、淡いピンクの
唇はとても柔らかそうに見えた。きめ細かい肌は化粧によるものか、まるで赤ん坊の肌を思わせた。顎はシャープで余分な肉は
ついていない。どこかのモデルさんを感じさせる雰囲気だった。それでいて、きつくない表情。
 彼女との距離、10センチ程度。仁はその顔にしばし見とれていた。そして、そのま視線を下に移動させ、Tシャツに包まれた
胸を眺めた。列車の振動で、かすかに上下する柔らかさ。息を吸うたびに膨れ上がるTシャツ。そんな胸の谷間に顔を埋めたい。
 そして、大きな口を開けてかぶりつきたいという衝動に駆られる。
 少し猫背気味に座る彼女は軽く足を閉じていた。ベージュ色の股間はのっぺりと平らで、その中を想像すると興奮が渦巻く。
 太もに密着した生地は、そのま膝を包み込み、脹脛から足首まで伸びていた。妙に足を長く感じさせている。その足元に見える
のは黒いパンプス。足先が少しくたびれているが、そんな事は気にしない。
 睡眠薬を飲み、家族団欒まで犠牲にして幽体になったのだ。ただ眺めているだけでは済まさるはずが無い。
 少しブレーキが掛かったような気がした。そろそろ駅が近づいてきた様子。
 彼女は仁の目の前で「ふぅ」と息を吐いた。その雰囲気からして、次の駅で降りるのかもしれない。
 しかし、そんな事をさせるつもりは無かった。
 次第に減速してゆく列車。そしてアナウンス。
 彼女が閉じていた携帯を開いてメールを打ち始めた。そろそろ駅に着くことを、誰かに連絡するためだろうか? 緊張が激しさ
を増す。興奮で鼓動が張り裂けそうになる。何のためらいも必要ない。ただ実行すればよいのだから。
 目の前にいる幽体に気づけない彼女は不幸だった。
 ゆっくりと幽体の唇が近づき、メールを打ち終えた彼女の唇に触れる。そして、そのま物理的な
 干渉を無視し、素通りした。
 誰も気づかない時間。幽体が更に彼女の体に入り込もうとしていた。すでに頭は見えなくなり、そのま幽体がめり込み始める。
 彼女は、一瞬声を挙げようとした。だが、その声は口から漏れる事は無かった。浅い眠りのときに体がビクリ震えるのと同じ
様に、起きている彼女の体が震えた。彼女の異変に誰も気づいていない。

 1回、2回、3回―

 その後、彼女の震えは止まった。そして、幽体の姿は無かった。


つづく


この物語はフィクションです。登場する人物、場所など、全ては架空のものです。また、著作権
は「まぐりょ」にあります。したがって、私の許可を得ずに改変、転載、引用することはお断りいたします。




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