慰めの夏
作:夏目彩香


■登場人物
──秋葉満(あきばみつる)
主人公、東京のIT企業にエンジニアとして就職。就職してそろそろ1年となる頃に3・11大震災で帰宅難民となった。自宅に帰り実家との連絡がつくものの、叶恵が津波に流されたことを自分が守れなかったと責め続けている。24歳、液状化が発生した千葉県の賃貸マンションにて独身生活を送っている。

──秋葉叶恵(あきばかなえ)
満の妹、3・11大震災により津波に流され現在も行方不明。17歳、高校2年生の時に行方不明となる。

──前島聖史(まえじまきよし)
満の幼い頃からの親友、満と同じ会社の事務職として就職。3・11大震災では歩いて自宅まで帰った。実家は関西に移ってしまったので被災を受けることは無かった。叶恵とも面識があり、震災の日から満が叶恵を守れなかったことに罪責感を抱いているのを見かねて、あるものを入手して満の気持ちを解消しようと思った。


■本編
3・11大震災から5ヶ月が経ったある日。容赦無い夏の日差しが秋葉満(あきばみつる)の部屋に差し込んでいた。エアコンのついていない満の部屋はものすごい暑さとなって、蒸し暑さで目が覚めてしまったくらいだ。去年はよく利用していたエアコンも、今年は最低限しか使っていない、また計画停電による不便な思いをしないためにも節電することが大切だと身に染みて感じているからだ。

ベッドの中からムクリと起き上がると、ちょうど去年の夏休みに、妹の叶恵がこの部屋で泊まったことを思い出した。お兄ちゃんが東京に引っ越してしまうことに対して寂しい思いを感じてしまったけれども、東京へ遊びに行く時の泊まる場所ができたということもあって喜んでいた。某テーマパークと同じ最寄り駅ということもあって、去年の夏休みは一緒にテーマパークに行って、叶恵を家に泊まらせたことをふと思いだしたのだ。

今日から会社の夏休みに入ったこともあって、実家に帰省したい思いもあったが、実家が被災したために帰省することも諦めた。満は壁に掛けられた家族写真に目をやると満面の笑みを浮べている叶恵の姿をじっと見つめているのだった。東京に就職していなかったならば、叶恵は津波に流されることは無かったと、きっと助けることができたかも知れないと5ヶ月もの間、自分を責め続けて来ていたのだ。こうやって叶恵の姿をじっと見つめてから一日を始める生活が続いているのだ。

布団から抜け出しスマートフォンを手に取ると親友の前島聖史(まえじまきよし)からいつものようにメールが届いていた。夏休みの予定が無いだろうからこれからお前んちへ行くという内容のメールだった。満はいつものように届いたメールに対して返信ボタンを押して、そのまま送信した。二人の間ではこうやるとメールに同意したということにしているからだ。

メールの送信時刻から推測して聖史が来るまであと10分ほど、満はシャワーを浴びて身支度をして聖史がやって来るのを待つことにしたのだ。まるで恋人がやって来るのを待つような気分で満は準備をしていた。そして、寝汗でいっぱいになった布団をベランダの物干し竿に載せた時に、インターホンが部屋中に響いたのだ。玄関を開けると聖史がいつもの長袖ワイシャツとジーンズという出で立ちで立っていたのだ。

「よっ!」

玄関の扉の向こうから聖史は右手を上げながらいつもの挨拶をして来た。左肩にかけている手持ちのトートバッグを降ろすと右手に持ち替えた。茶色の革靴を丁寧に脱いでから満の部屋へと入っていくと、いつものように部屋の隅に荷物を置き座布団を取り出すと胡坐で座った。満も聖史の向かいに同じようにして座った。

「今日も朝から暑かっただろう。何か飲むか?」
「僕は水持ってきたからこれで十分だよ」

聖史はそう言うと鞄の中から水の入ったペットボトルを取り出してフローリングの上に徐に置いた。

「聖史って、相変わらず準備がいいよなぁ。こんな快晴の日でも傘持って来てるよな」
「いつ雨が降るかは僕にはわからないからね。トートバッグを買うときもこの傘がちょうど入るサイズを選んで買ったんだ」

いつものように何気ない会話がこうして弾んでいく。

「なぁ、聖史。今日はいつになく荷物が多いみたいだよな。荷物は最低限の物しか持たない主義にしてはいつもより色々と入っているみたいだけど?」
「そうだね。満の罪責感を和らげるために準備したものだよ。詳しいことはあとで説明するよ。今は教えちゃまずいから」
「教えてもらえないなんてがっかりだけど、俺の罪責感を和らげるって?」
「とにかく満を慰めるためにどんな方法があるのか考えてみたら、満が叶恵ちゃんの呪縛から抜け出せていないんだってことに気づいたんだ」

聖史がそう言うと満は身を乗り出し、聖史の目の前まで顔を近づけて来た。

「叶恵の呪縛?」
「そう。叶恵ちゃんによって心が縛られてんだよ。それから解放されれば自然と罪責感が無くなるはずだって」
「そうなのか?」
「仲のいい兄妹だったから、急に断ち切られてしまったことに問題があるんじゃないかなってね」
「あっ、そうか。知らず知らずのうちに僅かな望みに希望を託してるのかも知れねぇな。叶恵がいつか戻って来るような気になっているのが悪いことなのか?」
「悪いことじゃないけど、それに囚われてしまったら罪責感が募るばかりだよ。そこである方法を思いついたんだ」
「ん?聖史が考えついた方法ってなんなんだよ?」
「満が叶恵ちゃんに会ってお別れの挨拶ができればいいんだってことだよ」

そう言うと、満は聖史の額に手を置きながら言って来た。

「何を考えついたのかと思ったら。そんなありえない話かよ」
「考えついただけじゃないって、特別に入手したこの小瓶に入った液体を使えば今すぐに叶恵ちゃんに会うことが可能なんだって」

聖史は自分のトートバッグの中からまるで栄養ドリンクが入っているようなサイズのプラスチック製の小瓶を取り出した。見た目にはなんとも無いように思うが、中に何やら液体が入っている。

「何なんだこの液体?」
「まぁまぁ。詳しいことは後で話すとして、まずは満に探して欲しいものがあるんだけど、いいかな?」
「何を探せって?」
「もしかしてこの部屋に叶恵ちゃんの髪の毛が残ってたりしなかったかな?」
「叶恵の髪の毛?叶恵が泊りに来るたびに使った枕や布団はしっかり洗ってしまったから、この部屋のどこかにあるかな?」
「そういえば、去年の夏休みに表参道の美容院で叶恵ちゃんがバッサリと髪を切って、記念に持って帰って来たって言ったな」
「あっ!あれならあそこにあるぞ」

満は洋服ダンスの一番下の引き出しを開けると、奥のほうにある扇子の箱を取り出した。ゆっくりと箱を開けると中には髪の毛の束が収められていた。

「これが叶恵の髪の毛だよ。思ったよりも短く切ったし表参道で切った記念にって一部を俺にくれたんだ」

聖史は髪の毛の束から1本だけ引き抜くとさっきの小瓶の中に入れ、蓋を閉めて振り始めた。

「ん?聖史?なにしてるんだ?」
「この液体に髪の毛を溶かしてるんだよ」
「溶かしてる?」
「この液体は髪の毛だけを溶かす不思議な成分でできているんだ。もちろんそれだけではないけどね。詳しいことは……」
「後で話す。そうだろ?」

耳にたこができるほど聞いたので満はすっかり覚えてしまったようだ。

「ここまで終わったら、一旦家に戻って出直して来るよ」
「その液体を使うと今すぐにでも叶恵に会えるんじゃなかったのか?」
「そうだったんだけど、準備不足だったから家で準備しなおしてから、また来るからな」

聖史はあっという間に出ていった。家に戻って出直して来るという言葉が満の部屋の中に残響のように残るのだった。



聖史が満の部屋を出て行って時計の短針が90度進もうとしている頃、満は物干しに干していた布団を取り込んでその上で横になって聖史を待っていた。まるで、恋人に急に出ていかれたような心境、親友とは言っても聖史に対する気持ちは何か、まるで恋人に抱くような心境に近いものがあるのではと思ってしまうくらいだった。

満の部屋はどうやら今年一番の暑さが襲って来ているらしく、エアコンを付けていないために意識が朦朧として来たのだ。夢と現の境にまどろみかけたところで、湿っきった空気にインターホンが響いた。朦朧とした意識の中、起き上がる気力も沸かなかったのだ。玄関の扉は鍵をかけていないことに気づいたインターホンを押した主は、勝手に扉を開けると部屋の中へと一歩足を踏み込んだのだった。玄関の方に目を向けると満は一気に正気を取り戻し布団から飛び起きた。

一人暮らしの賃貸マンションなので廊下と言ってもほとんど申し合わせ程度のもの、玄関と布団との間には不思議な緊張感が漂っていた。玄関ホールは北向なので暗くて何者かの影が見えるだけだが、玄関のセンサーライトが感知して照明を灯すと、そこにはここに来るはずの無い妹の叶恵が立っていたのだった。満は驚いた表情のまま、まるで死人の復活を目撃したかの気分の高揚状態となってしまった。

「お兄ちゃん!」

聞き慣れた声に一瞬、満は戸惑いもしたものの、声を聞いた瞬間にいつもの記憶が蘇って来た。

「叶恵!」

水色のワンピースに身を包んだ叶恵、膝丈上スカートから伸びるスラリとした脚がヒールの低いグレーのパンプスに入っていた。ローヒールを脱ぎ捨て駆け寄ってきた叶恵は一気に満の胸に飛び込みながら叫ぶようにして泣いていた。二人は抱きあうと、お互い大粒の涙を流しながらしばらくの間抱きあうことしかできなかった。血のつながっている兄妹というよりも、まるで恋人同士のようだった。高揚状態に陥っている満にとっては聖史が変な液体に叶恵の髪の毛を溶かして持っていったこと、その聖史を待っていたことについてはすっかり忘れてしまったようだ。

「お兄ちゃん、心配させちゃってごめんね。津波にさらわれてたけど、実は生き延びていたの。救助隊の人たちに助けられたはいいものの、記憶喪失になっちゃってずっと記憶を取り戻せないでいたんだよ」

我に返った満は叶恵の話を落ち着いて聞くことにした。

「お兄ちゃんの友達の聖史兄ちゃんが私が保護された施設にやって来た時に、私のことに気づいてくれたのよね。朝から押しかけて変な液体に髪の毛を入れたと思うけど、あれってDNAの簡易検査で、お兄ちゃんと会うためには私かどうかの判定をするために必要だったのよ。私の記憶が戻ったにも関わらず、鑑定結果によってはここに来ていいってことになったのね。それで聖史兄ちゃんがそのために一役買ってくれたってわけ」
「そうだったのか」
「それにしても、お兄ちゃんの部屋の中って暑すぎるわ。エアコン入れてもいい?」
「あっ、エアコンか?今年初めて動かすけど大丈夫かな?」

エアコンのリモコンを手に取ると、冷房運転のスイッチを押して、涼しい風が部屋の中に行き届いた。狭い部屋なので室温がすぐに下がった。涼しくなってから二人は懐かしい話を続けた。久しぶりに再会した兄妹の話は尽きることがなく、気づくと日が沈もうとしていた。

この時、叶恵と再会することができた安堵感が満の心の中に広がると同時に罪責感が消え去っていた。叶恵は津波に流されても、そのことにくよくよすることなく、記憶喪失になってなかなか記憶を取り戻せなくても失望することがなかったのだ。夕日を見ながら話をしようと思って近くの土手へと移動した二人。夕陽を眺めながら満に寄り添っていた叶恵がボソッと話を始めた。

「お兄ちゃん?」
「急になんだ?」
「ただ。呼んでみただけ。私はそろそろ施設に帰らなくちゃならないから」

そう言うや叶恵はニヤリと変な笑顔を一瞬浮かべたが満は気づかなかったようだ。少し落胆する表情を見せる満だが、よく考えてみれば叶恵が置かれている現状をはっきりと知らなかったのだ。急に現実に引き戻された満。

「あっ、そうなのか?叶恵を保護している施設から抜けてここで暮らせないのか?DNA鑑定で人物が特定できたんだから。俺が引き取るのが自然な流れじゃないのか?」
「そうなんだけど、他にも色々な手続きをクリアしないと駄目みたいなの」
「例えば?」
「色々とあるのよ」

叶恵はそうやってとぼけた素振りを見せると立ち上がった。夕陽と重なった水色のワンピースに身を包んだ叶恵の姿を見ると満は一瞬、そこに聖史の面影を感じていた。

「色々とあるのか。とりあえず、お前がそこから出るために必要なことは何でもしてやるよ」
「お兄ちゃん。わかったわ。必要なものがあれば後で話すから」

長い髪を振り乱しながら、叶恵は土手を軽く走り回っていた。

「なんだか。こうやって走ると、気持ちいいね」
「そうか?」
「だって、生きてるって感じがするもの」
「あぁ。そうだな」

目の前で叶恵の動いている姿を見るだけでも満の心は癒されていたのだ。満はいつの間にかその場に自然と眠ってしまったのだ。



満がゆっくりと目を開けると自分の部屋に戻っていた。時計を見ると土手で眠ってしまってから2時間は経っていた。リビングに置いている叶恵の写真にふと目をやると、今朝まではこの写真を見るたびに寂しい気持ちでいっぱいになったものの、今は自然と温かい気持ちになり、心が癒されていた。

「おっ、ようやく目覚めたのか?」

部屋にはなぜか聖史の姿があった。

「おっ、聖史」
「お前が土手で倒れていたから、僕が担いでここまで連れて来たんだぞ」
「そうだったのか?」
「夕方に土手で昼寝するなんてどうかしてるって」
「あっ、そう言えば、叶恵の姿を見なかったか?」
「えっ?叶恵ちゃん?行方不明のままだぞ」
「聖史が出て行った後に、確かに家に来たんだけどな」
「まさか。叶恵ちゃんの夢か幻出も見たんじゃないのか?」
「そうなのかも。たとえ幻であっても、俺は立ち直ったみたいだ」
「それなら良かった」

聖史は家に帰るために玄関に向かった。その瞬間、満は思い出した様に聖史に声をかけた。

「聖史!そう言えば、黒い液体は一体何だったんだ?」
「あっ、あの液体のことだけど、また今度話すよ」

そう言い残して満の家を出た聖史は立ち止まり、手に持っている紙袋の中を覗きこむと何やら思い出したかの如く叶恵が見せたようなニヤリ笑いを浮かべていた。

(おしまい?)














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