あの日の記憶

作:夏目彩香(2018年5月26日初公開)



僕こと中村航平(なかむらこうへい)は2つ年上の女性、田中真央(たなかまお)と付き合っている。先日、彼女にプロポーズしたものの、回答は少し待って欲しいと言われてしまった。ドキドキの日々を送っているさなか、彼女から駅で待っているとのLINEが届いたのだ。僕はすぐに駅へと向かうと、セクシーな赤いブラウスと黒のシースルースカートに身を包み、十センチはあろうピンヒールが印象的な彼女がそこで待っていた。

駅前で立っている彼女の姿を見つけた僕は着いたことをLINEで送った。すると彼女は辺りをキョロキョロとし始めて、僕の姿を見つけると手を降りながら近づいて来てくれた。僕らはここで立ち話をすることもなく、目の前にある小洒落たカフェへと入って行った。人混みでいっぱいの店内、そんな場所でもカウンター席に空きがあったのでなんとか席を確保することができたので、それぞれが飲みたいものを注文してから席へと着いたところだった。

カウンター席で横並びになった僕と彼女、注文した飲み物の氷がカランコロンと響きながら、大急ぎでここまでやって来た僕の喉をゆっくりと潤してくれた。回答をもらうのには適切な場所ではないのかも知れないけれども、僕は彼女の答えを聞くためにここにやって来たのだ。そして、化粧室から彼女がやって来て隣の空席が鮮やかに輝き出した。

まるで店内の騒がしさが二人の空間を守っているかのようだった。僕は彼女の横顔を独り占めしながら、ほんのりとピンクがかった赤いリップが塗られた彼女の唇が動くのを、今か今かと待っていた。まるで結果のわかっている通信簿を待つような気持ちでいるのだが、彼女の口から直接答えを聞くまでは、本当のことは何ともわからない、僕の緊張感はここでピークに達していたのだ。

喉の渇きを覚えた僕は、目の前のグラスを手に持って一口含んだ。このとき隣にいる彼女はマグカップをゆっくりと傾けていた。テーブルの上にグラスを置くと店内の喧騒が一段と激しくなっていることに気がつき、隣に座っている彼女の声も聞こえにくいことに気づいた。こんな状況となってしまったので、我慢しきれなくなった僕の方から、ちょっと場所を変えようと彼女に提案をして店を変えることにしたのだ。



ということで、ここはホテルのラウンジバー、まだ日中のためお酒を飲みに来たわけでは無いが、予想した通り。ここなら二人で静かに話をすることができそうな雰囲気だった。ソフトドリンクを二つ頼んだだけで軽く千円を超えてしまうのだが、僕から提案したのでここの代金は僕が全部支払うことにしたのだ。まぁ、デート代として考えるならばこれくらどうってことない。まぁ、最初からここに来れば良かったのかも知れないが、あとの祭りだった。

今度はソファ席で向かい合うようにして座っていたが、二人で話しやすい環境でも彼女はなかなか口を開こうとしてくれなかった。しかも何か思い詰めているような表情を続けているのだ。目の前にある冷たい飲み物が減っていくのをただ眺めているだけで時間が刻々と過ぎていくのだ。そこで、ついに待ちきれなくなった僕は、思い切って直接聞いてみることにしたのだ。

「あっ、あっ、あのさぁ」

蚊の鳴くようなか細い声で僕は彼女に尋ねた。そして、すぐに言葉を畳み掛けてみた。

「この前のプロポーズの返事なんだけど、LINEで直接会って話すからって送ってくれたよね。もし、良かったらその答えをそろそろ教えて欲しかったりするんだけど、いいかな?」

優柔不断な言い方ながら、できる限り彼女に直接ぶつけてみた。すると彼女は口元に持って行ったグラスを置き、深呼吸をしてから重くなった口をゆっくりと開き始めた。

「あっ。待たせちゃってごめんなさい。実はそのことなんだけど、直接話したいことがあったから、とりあえずああやって送るしかなかったのよね。でも、実際に航平を目の前にするとますます思い詰めてしまったの」

一体どういうことなのだろう、彼女が回答をしたいと言うから僕はここにやって来たのだ。それが、彼女は全く別の目的で僕と会いに来たというのかそんな言い方だった。そして、すぐに彼女は話を続けてくれた。

「でも、そろそろいいのかも知れないわ。なかなか気持ちの整理がつかなくて、本当は話すのがとても怖くなったのよね。本当にごめんなさい」

プロポーズは断られたものと思ったが、それは僕の勘違いだと次の彼女の話からすぐに理解することができた。

「実は、航平からプロポーズをされたあの日。私の身に大変なことが起こっていたのよ。あなたに話をしても理解してもらえないかも知れないけれど、あなたに直接会って話をすればきちんと整理できるんじゃないかってね。だから、こうやって会って話そうとおもったの。でも、実際に会ってみたらなかなか勇気が出なくて、それでずっと黙っているしかなかったというわけ」

彼女は何かを思い出そうとしていた。つい最近の出来事なのに真剣に思い出さなければ話すことができない、まるでそんな様子だった。そして、僕はこのとき彼女の話にただ耳を傾けることに専念しようと思った。彼女はその真剣な表情で話を続けた。

「まず、結論から言ってしまうけど、航平がプロポーズをしたあの日の私は私であって私でなかったと言えるの。だから、航平がプロポーズをした相手は私であって私ではない、すなわち、誰なのかわからない相手にプロポーズをしたってことよ」

彼女の話は一体何のことなのかわからなかったが、ちゃんと聞いていることを分からせるためとりあえず頷いてみた。

「航平と一緒に過ごした私は確かに姿は私だったんだけど、この私の身体は誰かに使われていたってことになるのよね。誰かが私の身体に取り憑いていて、私の身体を自由に操っていたってこと。まるでドラマや映画の中だけのフィクションの世界のようだけど、これは私に実際に起こったことなのよ!でも、私じゃない誰かは、航平に対してしっかりと田中真央として接していたのよ。それだけじゃない、私がいつもやり取りをしているLINEでも私のように振舞っていた。SNSにも私がいつもアップするような感じで、セルカ写真や食べたものの記録が残っていたわ。傍から見てもあの日の私は私としてしっかり行動していたってわけ」

彼女は彼女の身体を誰かに取り憑かれて使われていたと言っているのだ。そんなことが現実にあるはずがない、そう思っている僕にとっては彼女の話はやっぱり作り話のようにしか思えなかった。

「あの日の私は私ではなかったけど、周りから見ると全くもって私、田中真央として行動していたってわけよ。だから、それが航平であったとしても本当の私ではないと見抜くことは難しかったはずよ。私にはあの日の記憶がないものの、SNSやLINEのやり取りはまさに私がやっているそのものだったからね。あの日に私がどんな行動をしたのかはそこから脳に書き起こしているところなの」

僕は彼女が何を話しているのかすぐに理解することは出来なかった。

「私であって私で無かった?それってどういうこと?じゃあ、僕がプロポーズをした真央は一体誰だったっていうの?」
「航平がプロポーズをした相手は私で正しいのよ。けど、私にはその日の記憶がすっぽり抜けているの、だから、私の身体を誰かが使っていたと考えられるのよね。航平は私ではない誰かに向かってプロポーズをしたってことになるわよね。私の身体を乗っ取られてしまったって、とっても怖いことなんだけど、航平なら理解してくれると思って、結局のところは、そのことを話すためにLINEで送ったってわけ」
「真央の身体を誰かが使っていたって?それって身体を憑依されたってことなのか?ドラマや映画の世界、あれってフィクションの世界じゃないのか?」
「まぁ、誰だってそう思うわよね。これは直接体験した本人にしかわからないと思うのよ。私の身に直接起こったことだから、私は完全に信じてるけどね。でも、私の身体を使った正体についてはまったくわからないわ」

彼女が一歩深く説明をしてくれたので、ようやく彼女が何を言っているのか、理解することができた。もちろん彼女の言ったことを完全に信じてるいるわけではないが、彼女のことを愛しているから信じてみようと思ったのだ。

「僕がプロポーズをしたあの日の真央なんだけど、本当にどっからどう見てもいつもの真央だったよ。特におかしなところは寸分も無かったし、メイクや衣装のコーディネート、それに髪の結び方に至るまで全くいつもと同じだった。友だちからの電話にも普通に出ていたし、あの姿を見た僕にとってはあの身体に誰か別の人が入って動かしていたとは考えにくいよ」

すると彼女は困ったような表情を浮かべていた。自分の言っていることを僕が理解してくれない、一緒に解決したいのにと言いたそうな表情だった。

「きっと、私の身体を使っていただけでなく、脳にある情報も自由に引き出すことができて使われていたのよ。だから、私と全くもって変わらない動きができたって考えられるの、それならわかってくれるでしょ」

とにかく彼女は僕に理解してもらいたい一心で話しているようだった。

「わかったよ。僕は真央の言っていることを信じるよ。でも、一体誰が真央の身体に入り込んで動かしていたってことなんだい。謎は深まるばかりだけどね。それに、僕がプロポーズをした日に限って乗り移ったってことは、もしかして僕のこともよく知っているってことかな?」

それを聞いた彼女は手を打って、何か閃いたかのような表情に切り替わった。

「あっ!そうなのかも知れないわね。それなら、航平が私にその日プロポーズをするってことを分かっていた人物がいたなら、その人が怪しいってことになるでしょ」
「確かにそうだけど、僕が真央にプロポーズをしようと決めたなんて、誰にも言ったことないよ。僕だって前以て準備しておいたわけではないから、どこかに記録があるってわけでもないし」
「えっ?そうなの、まぁ確かにこんなことって誰かに話すことでもないわよね」
「僕と真央の共通の友人である石井由奈(いしいゆな)はどうかな?少なくとも僕らのことをよく知っている人物の犯行って考えるのが自然だよ」
「あっ、由奈?でも、由奈はプロポーズをした日に私とLINEのやり取りがあるから、きっと違うと思うわ」

真実を知りたい彼女でもさすがに親友の犯行とは考えたくないようだ。まるで疑う余地がないかの如くすぐに答えが返ってきたのだった。

「そうか、僕が真央にプロポーズをしたのに、その相手が真央じゃない誰かだなんて、僕がその人物のことを真央だと思ってプロポーズしたってことだよね。なんだか、よく考えてみると小っ恥ずかしいや」
「まぁ、そうなるわよね。私じゃない私にプロポーズをしてしまったってことは、プロポーズを受けた相手にとっては可笑しくてしょうがなかったんじゃないのかな。もしかして、そのために私の身体に入り込んだってことも考えられるわよね」
「正体を知る、何かいい方法って無いのかな?」
「そうよねぇ、とりあえずプロポーズの日に行なったLINEの内容を全部プリントアウトしてみない?」

彼女がそう言うと僕らは近くのコンビニに向かい、イートインコーナーでLINEのやり取りをまとめてから、コンビニのコピー機でプリントアウトしてみた。

「プロポーズの日に、私じゃない私がやり取りをしたLINEの内容はこれで全部よ。この中から正体を掴むことのできるやり取りが無いのか探せばいいのよね」
「この中から本当に何か見つけることができるのか?」
「とにかく今はそれしか方法がないでしょ。何かわかるかも知れないじゃない。思ったよりたくさんあるわけじゃないから、何とかやってみましょうよ」

こうして、僕が彼女にプロポーズをした日、一体誰が彼女を動かしていたのか、手元にある情報を全て使って調査を開始しはじめた。空白の一日となったあの日の記憶を取り戻すため、そして、その正体を見つけるために何とかするしか無かったのだ。



「あっ、わかったわ。ついに手がかりを見つけたわよ」

彼女は自分の大事な宝物を見つけた時のように思わず声をあげていた。コンビニのイートインコーナーには僕と彼女の姿しかなかった。外に目を向ければすっかり陽が沈んでしまうほどに時間が経過していた。

「今度こそは本当に重要な手がかりを見つけたんだよね」

彼女が見つけたと言ったのはこれが初めてでは無かった。何度も見つけたと言ったものの、成りすました相手を見つけるには役不足なものばかりだった。思った以上にやり取りした量が多くて、とても彼女一人だけでは調査することができなかったのだ。今度こそはと思って、彼女の話を聞くことにした。

「これは本当に決定的な手がかりになると思うんだけど……」

彼女はそう言うと書き込みでいっぱいのA4用紙を見せてくれた。

「このやり取りを見てくれる?私と由奈とのやり取りの中にあるこの部分、さらに女子グループの中にあるこの部分、あとは私と航平のやり取りにあるこの部分、他にもたくさん出て来るんだけど、どの箇所においても共通の絵文字パターンが使われているのに気づいたの、しかも、このパターンは私は絶対に使うことが無いパターンなのよね」

僕は彼女に言われた箇所を確認すると、確かに共通の絵文字パターンが使われていた。彼女が使うことが無いパターンということは、絵文字の使い方で思わず地の自分が出てしまったということなんだろうか。

「あっ、これは確かに大きな手がかりになりそうだね。この絵文字パターンを他でも見つけることができれば、その発信者を疑えばいいってことになるんだよね……」

ここまで言って僕の頭の中にある考えがふと浮かんで来た。

「……あっ、ということは僕のLINEを確認する必要があるんじゃない?容疑者は間違いなく僕か真央の知人の中にいるはずなんだし、真央のLINEは徹底的に確認して来たから、ここからは僕のLINEのトーク履歴も確認しなきゃね」

ここまで言うと、僕の口調はいつの間にか少し興奮し始めていた。二人で容疑者を見つけるために経過した時間を取り戻したかのように少しずつ元気になって来たのだ。コンビニのアルバイト店員はイートインコーナーに居座っている二人を追い出すようなことは全くする気がなくなっていた。店に入った時とはシフトも交代して、ここでまた新しい人と入れ替わろうとしているタイミングでようやく、容疑者を見つけるための糸口を紐解くことができそうだった。

「じゃあ、ここからは僕のLINE内容を確認してみよう。同じ絵文字パターンを確認するだけだから、特に印刷しなくても確認できるよね。真央は少し休憩するといいよ」
「うん、わかった。とりあえず、何か新しい飲み物でも買って来るわね」

飲み物を買うために立ち上がった彼女を横目に、僕は彼女から見せてもらった絵文字パターンを自分のLINEのトーク履歴から探し始めた。このとき、僕は彼女の知人よりも自分の知人の中に容疑者がいるとすでに確信していたからだ。一人ひとりのトークだけでなく、グループトークも一つひとつ確認して見るが思ったよりもすぐには見つからなかった。どうやら今まで数時間も作業をして来たこともあって頭の回転が鈍くなっているようだった。

「すぐに見つけたいところだけど、やっぱりここで少し休憩しないと駄目みたい」

僕はそう言うと飲み物を探している彼女の隣に行き、陳列棚に並べているものから今の自分にとって一番必要なものを探し始めていた。

「ずっと、LINEのやり取りばかり見ていたから脳が甘いものを要求しているみたいね」

そう言うと普段はブラックしか飲むことが無い彼女が砂糖入りの缶コーヒーを手に取っていた。どうしても脳のエネルギーを必要以上に使ってしまうようだった。脳の回転が鈍っていたのは僕も同じで、普段は飲むことの無い炭酸飲料に手を伸ばしていた。そして、レジで精算を終えるとさっきまで座っていた席に戻り、早速買った飲み物を身体の中に取り込んでいたのだ。



あれから一時間が過ぎようとしていた頃、僕はようやく彼女が見つけた絵文字パターンが含まれいてるトークを見つけていた。トーク履歴はだいぶ昔のものだったので、遡るのに一苦労したものの問題のトークを発信していたのは、なんと彼女の実の弟であり僕と同い年の田中優輝(たなかゆうき)のものと判明した。

なんということだろう、容疑者がよりによって彼女の実の弟だなんて、それはにわかに信じられるものでは無かったが、彼女が割り出したパターンがまさに使われていたのだ。しかし、なぜか彼女と弟のLINEのやり取りではそのパターンが現れていないため、容疑者と断定するには一考の余地があるように思えた。

「まさか、優輝が疑わしいだなんて」

彼女はショックを隠しきれない表情を見せていた。

「ホント、まさかだよね。ここまで調べた末に真央の弟が容疑者として浮かび上がるなんて、薄気味悪くてしょうもないや」

僕は彼女にどういう慰めの言葉をかけたらいいものかわからないでいた。正体を知りたいと言った彼女は調査したことを後悔しているのではないか、そんな気持ちさえ伝わって来ていたからだ。

「なぁ、真央」
「うん」

彼女の返事は言葉にならないほどのか細いものだった。

「正体を知りたいって思ったのは真央なんだからさ〜、協力したんだけど優輝くんが疑わしいってことはハナから思ってもいなかったわけで」
「いいのよ。確かに正体が知りたいと思ったのは私なんだから、航平まで混乱する必要はないわよ。あの日の記憶を奪ったのが優輝だとするならば、何か深い訳があると思うのよね。優輝からすれば姉の私を赤の他人に奪われるのが許せなかったなんてことがあるのかも知れないし、このあたりは直接追求してみないとわからないわよね」
「そっか。じゃあ、真央はこれからどうしたいんだ?思い切って優輝くんに話してみないと先のことはわからないだろ」
「うん、そうよね。優輝に話すかどうかはちょっとだけ考えさせてくれるかしら」

さっきまでショックを隠しきれない表情をしていた彼女は、少し落ち着いた雰囲気になっていた。

「わかったよ。とにかく、今日の調査はこれで終了しよう。あとは真央が出す結論に僕は従うよ」
「うん、ありがとう。私はこの年まで実家暮らしを続けているけど、優輝は大学を卒業すると同時に家を出て行って一人暮らしをしているからね。一緒に住んでいないだけ幸いだったわ。今日のところは一旦、それぞれの帰る場所に帰りましょ」

コンビニの外は少しずつ明るくなり始めていたところだった。

「あっ、結局、徹夜しちゃったな。そろそろ始発が動く時間だけど、今日が土曜日で良かった」
「じゃあ、家に帰って休んでから午後にまた会いましょう。なんとなくその時までには心の整理がつくと思うわ」
「うん、わかった。じゃあ、後で起きたらLINEするね」

そう言うと僕と彼女はそれぞれが帰る場所へと向かっていた。



土曜日の昼下がり。約束通りに僕は駅前の小洒落たカフェで彼女と再会していた。

「少しはゆっくり休めたかな?」
「徹夜した後だったから全然休めなかったわ」
「このことが解決できれば、ゆっくり休めるよね」
「そうね。あの日の記憶を取り戻すことができればゆっくり休める日が来ると思うわ」

彼女は注文した飲み物のグラスを手に取りストローで吸い込んでいた。

「とにかく真央が記憶を無くしたことと優輝くんが関わっていることは、今までの調査から分かったことだけど、ここからは優輝くんに直接聞いてみるしかないよね。真央が直接会うのが一番だと思うけど、まずは僕が会ってみるというのはどうかな?」
「そうね。私の記憶を奪ったのが優輝だとしたら、私が直接会うのは危険が伴うわよね。そうだったら、航平が優輝と会えるなら少しは安心できるかも知れないわね」
「それなら、私から優輝にLINEで連絡してみるわ。直接会って聞いてみないことには何も進まない気がするのよね。さっそく連絡してみるわ」

カバンの中からスマホを取り出すとLINEを起動し優輝に向けてメッセージを送った。そして、数秒も経つことなくメッセージの横に「既読」の文字が表示された。

「あっ、航平。すぐに既読になったわよ。優輝が何か送ろうとしているわ。ちょっと待って」

すると優輝からメッセージがすぐに届いた。

「今日はこれから特に予定が無いって、三人で会うのが良さそうだから、五時に待ち合わせるのはどうかしら?」
「そっか。真央がいいんだって言うなら、三人で会うのがいいね。じゃあ、五時にどこで待ち合わせようか」
「せっかく会うんだから、あの日の記憶を取り戻すのにちょうどいい場所にしない?」

彼女が送るLINEには僕が待ち合わせ場所を入力してメッセージを送った。



時計の針は五時を迎えようとしていた。僕と真央は優輝くんが来るのを待っていた。この場所で待ち合わせすることにしたのはここがとても大事な場所だったからだ。そして、僕は真央にプロポーズをすると決めてから色々と考えたことを思い出していた。

僕らが待ち合わせていたのは水族館の前だった。僕が真央にプロポーズをする時も同じ場所で待ち合わせていたのだ。真央の記憶には残っていないものの、僕の中にはその記憶が生き生きと残っていた。

「真央。優輝くん、ここに来るよね」
「さっきから、ずっと連絡が来てるけど待ち合わせ時間ぴったりに到着するらしいわ」

真央はLINEでのやり取りを眺めながら僕に教えてくれた。

「そっか。優輝くんがここに来たら、きっと全てが明らかになるはず。真央に危険が及ぶことの無いように僕が守ってみせるからね」
「うん」

そう言って二人は優輝が到着するのを待っていた。



「お待たせ?」

真央の実の弟である田中優輝がやって来ると、時計の時刻はちょうど五時を指していた。

「真央姉ちゃんの彼氏と一緒に僕と会いたいだなんてどういった風の吹き回しかなぁ。大事な話があるって、真央姉ちゃんから呼び出されたから来てみたんだけど、二人きりでデートの待ち合わせをするように水族館で待ち合わせだなんてね。真央姉ちゃんが話したいことってもしかしてあのことなのかな?ってね。まさか三人で水族館に行こうって話じゃないよね」
「優輝、確かにあなたと大事な話がしたくてここで待ち合わせをしたのよ。水族館のチケットはすでに買ってあるからね。水族館の中にあるレストランで話しましょう」

そう言って三人は水族館の中へと入って行った。そして、大きな水槽の横にあるレストランに入ったのだが、何を隠そう、このレストランこそ僕が真央にプロポーズをした場所だったのだ。このことはもちろん真央の記憶の中には無いのだが、レストランの中に入るとあの日に座ったテーブルに自然と案内されていた。

「真央姉ちゃん、なんだか懐かしい場所にやって来た感じだね」
「ここのどこが懐かしいって?」
「優輝くんはここに来たことがあるの?」
「まあね。ここの大水槽って有名だからね」

あの日に座っていた椅子には真央が座りその向かいに僕が座った。そして、あの人は違って僕と真央の間に優輝くんが座っていたのだ。ウェイターが水を運んでくると三人の目の前にグラスを一つひとつ置いていった。

「まだお腹は空いていないから、ここでは簡単に飲み物を頼むのはどうかしら?」

そう言って真央は飲み物メニューを取り出して僕と優輝くんに見せていた。僕らは注文を決めるとすぐにさっきのウェイターに伝えていた。

「優輝、今日はあなたに確認したいことがあってわざわざ呼び出したの」
「そうなんだ。どうしても確認できなかったら駄目なのかな?」
「そうよ。こうやってあなたに直接確認しないと私には気が済まない大事なことなの」
「ということは、やっぱりあのことを確認したいんだよね」

優輝くんは真央が何を言いたいのかすでに予想がついているようだった。僕は二人の話に割り込むことができずただ見守るしかなかった。

「じゃあ、単刀直入に行くわね」

真央がそう言うとウェイターがやって来て、注文した飲み物を並べて行った。真央は美しいコーヒーカップを手に取り、自分の口に一口含むと乾いた喉を潤していた。話をする準備ができた真央はさっそく口を開き始めていた。

「優輝。あの日の記憶を変えしてちょうだい!」

真央は真剣な表情で優輝くんに声を上げていた。決して焦るわけでも苛立つわけでもない、優しくしっとりした口調なのはさすがに姉の貫禄を感じずにはいられなかった。

「あの日の記憶?真央姉ちゃんが聞きたい話って、やっぱりそのことだったんだ」

優輝くんは思った通りのことだったようで動揺することもなく、堂々と真央の言葉に受け応えていた。

「どうやら思った通りにあなたの仕業だったのね」
「僕がやったことだって、どうして思うの」
「証拠を見つけたからよ。航平と一緒にLINEを調べてみたら私のようで私らしくない絵文字のパターンが見つかったの、あなたのLINEにそのパターンが見つかったから、こうやって真相を聞くことにしたってわけ」

してやったような表情で真央は優輝くんに迫っていた。

「大正解!」

優輝くんはまるで勝ち誇っているかのように大きな声で答えた。

「真央姉ちゃんの記憶が無いのは、その記憶を僕が持っているからなんだよ」
「あなたが記憶を持っている?」

彼の口からはちょっと意外とも思える答えが返って来た。

「優輝くんが記憶を持ってるって、それってどういうことなの?」
「それをちゃんと話すためには、さすがにここじゃまずいなぁ」
「それもそうよね。それじゃ、場所を変えましょうか」
「それなら、二人を僕の家に招待するよ。それに何と言ってもその方が話しやすいからね」

するとその場から立ち上がり、三人で一緒に優輝くんの家に向かい始めた。



水族館を出発して電車に乗り込むと三十分ほどで、優輝くんが住んでいるマンションに到着した。

「なかなかステキなところじゃない、こんなところに住んでいるなんて思ってもいなかったわ」

僕らは広々としたリビングへと招き入れられていた。

「僕が一人暮らしをするようになっても真央姉ちゃんは音沙汰無かったからね。弟が一人暮らしを始めるようになったというのにこんな風に初めてやって来るなんて思いもしなかっただろうね」
「そうだね。一人暮らししている弟の家にこんな風に初めてやって来るなんて、私って駄目な姉よね」
「まぁ、いいよ。僕だって全然連絡していなかったわけだし、家族に干渉されることなく過ごしたかったから、それお互い様だよ。ここに座ってよ」

そうやって僕らは対面式キッチンのカウンター部分に置かれているちょっと高さのある椅子に腰を下ろした。

「真央姉ちゃん、あの日の記憶は僕が持っているって言ったよね」
「あの日の記憶を奪ったのはあなただって思っていいの?」
「奪ったというのはちょっと言い過ぎじゃないかな。僕が保管しているというのが正しいだろうね」
「保管している?」

僕と真央の声が部屋の中に一緒に響いた。優輝くんの言葉に同時に反応したのだ。

「もう少し説明しやすくするためにちょっと待っててくれるかな」

そう言って奥の部屋へと入ったかと思うと何かを手に持ち戻って来た。

「とにかく、あの日の記憶を戻してあげるよ」

優輝くんが持って来たのはタブレットのような端末だった。

「これは外観はどこにでもあるタブレットだけどね。中身は特殊なアプリを動かすためにつくられたものだよ。だから、タブレットの電源を起動するとそのアプリが自動的に立ち上がるようになっているんだ」

彼はタブレットを横向きに持ちながら生き生きとした表情で説明を続けた。

「起動すると画面が縦三つに分かれていて左側と右側には電話番号が入力できるようになっていて、中央にはこのアプリで実行することのできる機能が集められているよ。今回はあの日の記憶を転送したいので、特定の日付の記憶を転送する機能を選択して、左側には登録してある真央姉ちゃんの情報を、右側には僕の情報を入力して、実行をタップすると特定の日付の記憶が転送されるよ。僕の脳に保管している記憶を真央姉ちゃんの脳に転送する間は立っていることは不可能なので、真央姉ちゃんは向こうにあるソファに腰をかけてくれるかな」

彼の説明からすると手に持っているタブレットを操作することによって、真央のあの日の記憶が取り戻せるということなのだろう。真央は支持された通りにソファに腰をかけていた。

「転送が終わるまでは僕もおとなしくしているのがいいので、床に寝転がるからね。航平さんはタブレットの進行画面を確認していてください。それじゃ、実行しま〜す!」

彼はタブレットの「実行」をタップすると「処理を実行中です。完了までしばらくお待ち下さい」という文字と共に、二人はまるで金縛りにあっているかのように身動きできない状態になっていた。



「処理が完了しました!」

処理が完了するとタブレットが完了を知らせてくれた。床に寝転がっている優輝くんが起き上がり、僕の手にあったタブレットを自分の手に取り戻していた。

「真央姉ちゃんにあの日の記憶を持って行かれました。これで僕はあの日のことを覚えていません」

ソファに座っている少し意識が朦朧としているように見える真央はゆっくりと意識がはっきりとしてきたようだった。そして、目尻から一筋の涙が流れているのを僕は見逃すことがなかった。

「あの日の記憶が戻ったわ!」

真央は僕がプロポーズをしたあの日の出来事を思い出していた。僕がプロポーズをしたことが鮮明に頭の中に叩き込まれたようだった。感極まっている真央は立ち上がると僕の目の前に立っていた。

「航平。こんな私でいいのなら、結婚してください」

僕はこんな場所で急にプロポーズの返事をもらってしまった。自然と二人の距離感が縮まったかと思うと唇同士を重ね合わせていた。すぐそばにいる優輝くんの視線を気にすることも無く、僕らは愛を確認し合っていたのだった。



「優輝。あの日の記憶を返してくれてありがとう。あなたったら、私に嫉妬してこんなことを企んだのかと思っていたんだけど、本当はそうじゃなくて私にもっと構って欲しかったのね。ごめんね、実の弟のことを気にせずにいた姉のことを許してちょうだい」
「まぁ、そうだね。姉さんと音信不通だったのには僕にだって原因があったわけだしね。彼氏との大切なデートの時間を奪ってしまったこと、許してくれるかな」
「私はあなたの姉なのよ。弟が姉の付き合っている人に対して気にするのも当然じゃないかな?私もあなたが付き合う人ができれば、きっと気が気じゃなくなりそうよ」

リビングには三人の笑い声でいっぱいになっていた。

「とにかく、あの日の記憶も取り戻せたし、優輝くんとの疎遠になっていた仲も取り戻したし、このタブレットのおかげかも知れないね。でも、あの日の真央の正体について話してくれないかな?」

優輝くんに僕の疑問を投げかけてみた。

「あの日は、このタブレットにある意識交換機能を使ったんだよ。目覚めてから眠るまでのタイマーをセットしていた上に、本来真央姉ちゃんの脳に残るはずの情報はすべて僕の脳に転送されるようになっていた。僕は真央姉ちゃんとして動かすことができたけど、反対はできないように設定しておいた。だから、あの日の記憶が無くなったように感じたってわけ」

説明してもらったけれども僕には理解することができなかった。しかし、真央はきちんと理解したようだった。

「実は真央姉ちゃんのスマホには、このダブレットの中にあるアプリのクライアント版がインストールされていたんだよね。当然のことながら僕のスマホにも入ってるんだけど、クライアント版がインストールされている登録者間でしか実行できない仕組みになっているんだ」
「ということは、このクライアント版アプリさえインストールすれば誰とでも意識を交換したりすることが可能ってことなの?」
「そういうことだけど、世の中の秩序を大きく壊すことも可能だから、慎重に使わないとね」
「確かにね。悪用されたらとんでも無いことになるわよね」
「だから、僕は真央姉ちゃんにも彼氏にも、そして、親友にも気づかれることが無いように成りすましていたってわけ」
「なんだか、それって悪用していないってこと?」

二人の会話に僕は取り残されているようだったが、実は僕のスマホにもクライアント版というアプリがインストールされていたことに気づいた。

「真央、優輝くん。とにかく、このタブレットを使ってあの日は優輝くんが真央に成りすましていたってことだよね。僕にはまったくもって真央と過ごしていたとしか思えなかったんだけど、それもこのタブレットの威力なのかな?」
「航平さん、その通りです。このタブレットに入れているアプリを使えば指定した人の意識を自由に操れるんです。だから、変な風に扱うことはできないのできちんと管理しないといけませんよ。このタブレットの存在についても内緒にしてくれないと困ります」
「ははぁ、そういうことだったんね。ようやく二人の言っていることがわかりました」

それから三人はそれぞれが何らかの緊張感から解放されたのか、のびのびと話をしてからそれぞれの帰るべき家へと向かった。



一人暮らしのアパートに戻ると、玄関の前に真央と僕の共通の友人である石井由奈が待っていた。

「航平くん。私ったら航平くんのことが好きになっちゃったみたい」
「えっ!?そんなこと真央に知れたらとんでもないことになるよ!」
「どうして?」
「だって。。。」
「だって、何なのよ!」
「だって、僕ら結婚することになったんだもの」

そう言うと由奈は笑いを堪えることができないでいた。

「航平、ごめんね。私、由奈の姿をしているけど真央だよ。優輝からさっきのタブレットを使って由奈に成りすましてみたんだ」
「わっ、これって真央の罠だったの!?あっ〜ぶなかったぁ〜」

目の前にいる由奈は自分のことを真央だと言っている。さっきのタブレットのことを知っていることからしても真央に間違いなかった。

「由奈の体だから唇にキスしたくてもキスできないわね。こんな時は」

すると真央は由奈の体で僕のほっぺたに軽くキスをした。

「ほっぺだったら挨拶として許せるよね。由奈の体だけどせっかくここまで来たから航平の家に上がって行っていいかな?」

あの日の記憶を取り戻した真央が暴走し始めたものの、僕には止めることができなかった。結婚に向かって二人の気持ちを一つにしていこう、そんなことを思いながら由奈の体をしている真央を家に入れて、結婚までの道のりを話始めたのだ。

(完)








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