好きよ好きよも今のうちに

作:夏目彩香(2018年4月17日初公開)



この世には実に様々な人々がいる。この世に生を受ける者もいれば、この世を去らなければならない者もいる。今日できることはその日のうちにしっかりとやり遂げる人、明日でもいいと先延ばしする人。世の中には実に色々な考えを持っている人々がおり、こうやって世の中は実際に動いているのだ。

というわけで、ここに自分の人生について深く悩んでいる田口康夫(たぐちやすお)という一人の男がいた。いつも悩み悩んで生きているせいもあってか、彼の表情はいつも薄暗く、親友と呼べる親友は一人だけという状況だった。一生このままで終わってしまうのではないかと思い、なかなか前進する気力もなかった。

本屋に立ち寄っては自己啓発本を買って読んではみるものの、読んですぐには自分をよくしようと行動してみるものの三日どころか一日も持たずにいた。自分をなかなか変えることができない、そんな自分自身に絶望して自殺未遂を図ったことも何度かあった。

そんなある日、彼の心を変えるきっかけとなる出来事があったのだ。人生に絶望するしか無かった彼が突然変えられ、生きる希望を見つけて毎日を楽しんで過ごすようになったのだ。あれほど無気力だった彼が、別人のように変わってしまったので、周囲にいる同僚たちも驚くほどに精神力溢れる行動ができるようになっていた。そんな彼の生き方を変える出来事とは、今から遡ることちょうど一週間前の金曜日のことだった。



あれは、新年度が始まって間もない一週間前の金曜日、とある都心のオフィスビル、田口の勤めている会社はこの二十五階ワンフロアに入居していた。このビルでは最新式のセキュリティーシステムが導入されており、ロビー階でエレベーター室に入場する際、セキュリティーカードから自動判別して行き先階を決めるようにできていたのだ。そのため、エレベーターを待つ人の姿はまばらだった。

「桜井さん、桜井さん」

ロビー階のエレベーターの前で、そうやって声をかけられたのは田口と同じ会社で同じ部署に勤めている桜井文恵(さくらいふみえ)だった。会社の制服であるスカイブルーのベストにシルク生地でできたサラサラのオフホワイトブラウス、それにダークブルーのマーメイドスカートに身を包んでいる。肩までスッと伸びているほんのりとブラウンがかった髪からは、彼女の使っているシャンプーの香りが漂っている。ここで声をかけたのは柴田潤蔵(しばたじゅんぞう)と言って、文恵の所属している総務課の課長だった。

「やあ、桜井くん。昼休みが終わるといつもここで会うよね。今日は彼女たちと一緒じゃなかったの?」
「えぇ、課長。今日は恵美(めぐみ)たちとは時間が合わなくて一人で食事をしに行って来ました」
「えっ?一人で食事したの?君にしては珍しいことじゃないのか。昼ご飯は必ず誰かと一緒に食べないと気が済まないっていつも言ってたじゃないか。もしかして、一人で食事なんて入社して初めてじゃないのか?」

どうやら、いつもと違う文恵の行動に課長は興味津々だった。自分の部下ということもあって、何があったのか気になるようだった。

「課長。私だって時々一人で食べに行ってますよ。子供じゃあるまいし、いつも恵美たちと一緒に食べるわけじゃないんですよ」
「そうか、それだったら昼休みが始まる前に言ってくれたらよかったのに、たまには一緒につきあってやるから」
「えっ!?課長とは一緒には困ります」

そう言うと文恵は課長から目線を外していた。

「どうして?今度、一緒に飲みに行くのもいいだろう。奢ってやるから」
「そう言われても……駄目なものは駄目なんです」

文恵がそう言うと目的の階を目指すエレベーターがやって来た。

「課長、エレベーター来ましたよ。私が先に乗りますね」

エレベーターのドアが開くとすぐ、文恵は紺のパンプスを一歩踏み出して入口付近に立った。いつもの文恵ならば「課長が先に乗ってください」と言ってくれるのに、いつもと違う文恵のそっけない態度に妙な胸騒ぎを感じていてしょうがない課長は文恵の斜め後ろに立った。

結局、二十五階へと向かうエレベーターは二人だけを載せて扉が閉まった。エレベーターの中で文恵と課長が二人きりという状況、課長の目の前には制服に身を包んだ文恵が立ち、彼女の髪からはほのかなシャンプーの香りが漂って来ていた。男性なら興奮してしまいそうなこんな状況でも、自分の部下ということもあってしっかりと自制していた。沈黙の時はあっという間に流れ二人の会社が入居している二十五階に到着した。

エレベーターからは文恵が先に降りた。そして、すぐに紺のパンプスからベージュのストッキングに包まれた右足を出して、前屈みをするような姿勢で足を軽く揉み始めた。

「やっぱり、このパンプスまだ慣れてないかなぁ」

独り言を言ったつもりの文恵だったが、その声は課長にも聞こえていた。

「その靴って、いつも履いている靴だよね。今も慣れてないって?やっぱ、今日の桜井くんはどうかしてるね。医務室にで休んできていいんだよ」
「大丈夫です。ちょっと足がむくんだだけなので、すぐに午後の仕事を始められます。私は化粧室に行ってから席に戻りますね」

そう言うと、文恵はストッキングと一緒にパンプスの爪先に足を入れ直していた。

「じゃあ、午後の仕事も頼んだよ」

と言い残しつつ課長は会社の中に先に入って行った。



課長は昼休みが終わると給湯室でお茶を淹れてから席に着くのが日課だった。今では身体が自然に覚えているため、給湯室で手際よく自分の湯呑みにお茶を入れて、自分の席へとゆっくりと運んだ。課長のデスクの前に、二つのデスクが向かい合うように配置されている。総務課には課長を含めて四人が配属されており、課長のデスクのすぐ目の前が田口と文恵の席だった。

課長は自分のデスクにお茶を置くと、右側のデスクに田口の姿が無いことに気づいた。普段は昼休みでもデスクから離れること無く、コンビニ弁当を広げているのがいつものことだった。どこへ行ったのか、課長が連絡を取ろうとすると化粧室に立ち寄っていた文恵が戻って来た。しかし、不思議なことに一直線に戻ってきた文恵は田口の席に腰をかけ、目の前にあるノートパソコンの画面を開いていた。

「ん??桜井くん。そっちは田口くんの席だよね」

課長にそいう言われた瞬間、文恵は席から飛び上がり顔を真っ赤にしていた。

「課長、そうですよね。こっちは田口さんの席でしたよね。私の席は反対側でした。どうも済みません」

そう言って文恵は自分の席に座り直すとデスク周りをゆっくりと確認していた。

「桜井くんったら、さっきからなんだかおかしいぞ。それに、昼休みが終わったというのに田口くんが席についていないんだけど、何か知らないか?」

文恵のおかしな行動に対して心配しつつ、課長は田口がいないことについて気にしていた。

「あっ、課長。田口さんなら。午前の仕事が終わる頃に、急に体調が悪くなったみたいで先に帰りましたよ。そのとき、課長がいなかったので私が代わりに欠勤届を受け取りました」
「代わりにって……それなら、さっきエレベーターに乗る前にでも言ってくれたら良かったのに、今日の桜井くんはな何だかいつもと違うよね。とにかく、今日は急ぎの仕事が無いから、田口くんがいなくてもなんとかなるけど、できれば直接連絡してくれないと困るなぁ」
「そうですね。課長、申し訳ございません」

文恵はまるで田口が謝るかのように課長に謝っていた。

「いや、桜井くんは謝る必要は無いんだよ。今、社内メールを確認したところ、田口くんからメールが届いていたからね。田口くんには私から返信しておくから、今日の午後は並木(なみき)くんと三人でなんとか乗り切ろう」

こうしてこの日の午後は、総務課では田口の隣のデスクにいる並木安則(なみきやすのり)を含めた三人で仕事を乗り切ることとなった。午後の仕事は田口がいないことを除くと普段と全く変わらない感じであった。しかし、このとき総務課の環境は何かが違っていたのだ。課長の柴田潤蔵は田口が抜けた穴を埋めるため、三人に仕事を割り振ったのだが、大部分の仕事は何の躊躇もすること無く文恵に振り分けられていた。

課長の目から見ても文恵は普段よりも黙々と仕事に集中しているように思えた。いつもなら三時を過ぎると総務課の隣にある会計課に所属している後藤恵美(ごとうめぐみ)と軽く休憩するのだが、今日の文恵はそんな余裕も無く仕事に没頭していたのだ。そうやって終業時刻を迎えたのだが、いつも定時になるとサッと帰り支度を始めるはずの文恵は、割り振られた仕事が終わらず残業時間へと突入していた。

「桜井くんに、仕事を振りすぎたかな?」

課長がそう呟くと文恵が反応した。

「いいえ。今日はこれから後藤さんと約束があるので、少し残業しながら待とうと思っていたんです。課長は先にお帰りください」

「あぁ。そういうことならわかったよ。じゃあ、週末もしっかり休んで風邪を引かないように気をつけてくれよ。じゃ、私はお先に」

今日はどういう風の吹き回しだろうかと思いながら、課長は帰り支度をして文恵よりも先に会社から出て、二十五階のエレベーターホールで立っていた。そして、エレベーターが到着して扉が開くとそこには後藤恵美の姿があった。

「柴田課長、お疲れ様です」

エレベーターから降りながら恵美は課長に挨拶をして来た。

「後藤くん、お疲れ様。今日はこれから桜井くんと約束があるんだって?彼女、残業しながら君のことを待ってるみたいだよ」
「あっ、課長そうなんですよ。一緒に飲みに行こうって珍しく桜井さんから誘って来たんですよ。それにいつもなら先に行って待っているのに、今日はできるだけ合わせてくれてるんですよ」
「そうなのか?桜井くんから誘って来るのってそんなに珍しいことなのかい?」
「今までは私から誘っていたんですけど、桜井さんから誘われたのは初めてなんです。残りの仕事をサッと片付けて飲み過ぎないように気をつけますね。お疲れ様です」

そう言い残して恵美は課長の前から立ち去って行った。恵美はいつもとは違う文恵の行動に対して何の疑いを持っていなかった。会計課の自分の席に着くとほんの少し残っている会計処理を始めていた。文恵から夜の約束が入ったのは午後三時過ぎにLINEで連絡があったからだ。恵美から誘いをかけることが多かったので、二つ返事でオーケーしたのだ。それだけに、いつもより楽しんで残業に取り組んでいた。

『ねぇ、恵美。先に更衣室に行って着替えてるわね』

もう少しで仕事が終わると言った頃、恵美はLINEで文恵からのメッセージを受け取っていた。この会社では女性社員は制服を着用することになっているため、更衣室が用意されていた。更衣室は一つ下のフロアである二十四階にあるのだ。仕事を終えた文恵は二十四階の女子更衣室にいた。このフロアには男女それぞれの更衣室とシャワールーム、それに共用の休憩スペースも完備されていた。二十四階へはエレベーターで移動することができず、会社の中央にある階段を使って行き来することになっているのだ。

女子更衣室の中にはロッカーがズラリと並べられていた。『桜井文恵』と書かれているロッカーは部屋の奥から四番目の場所にあった。ロッカーの鍵にカードキーをタッチすると扉が開いた。更衣室に入るためにはもちろん、それぞれのロッカーにも鍵をかけてセキュリティーは万全だった。

女子更衣室には文恵以外に誰もいなかった。ロッカーを開くと、そこには文恵の私服や通勤用に使うショルダーバッグ、通勤用に使っている六センチヒールの青いパンプスが置いてあった。文恵はショルダーバッグの中に手に持っていた化粧ポーチを入れると、普段の文恵からは想像することもできないニヤついた表情で、ベストの胸元にあるポケットの中から小さな瓶を取り出していた。

手の中にすっぽりと入ってしまいそうな小さな円筒形の透明の小瓶、化粧品の試供品が入っている入れ物と同じくらいの大きさだ。透明な素材でできているので、中に入っているものがわかるようになっているのだ。そんな小瓶を取り出すとロッカーに挟まれた中央の長椅子の上にそっと置いた。

それから、文恵は会社の制服から私服に着替えを始めていた。身に着けていたものを脱ぎ下着姿になると姿見の前に立って、自分の姿を舐めいるように眺めていた。

「なんだか、この姿が色っぽいなぁ。黒のランジェリーを身に着けた文恵さんの姿、思ったよりも大胆なんだよね」

文恵は姿見を見ながら小瓶に向かって話しかけていた。そして、口元を緩めながら苦笑いしながら今度は私服を取り出して身につけ始めていた。姿見に映し出される自分の姿を見ながらうっとりしていた。

「これが、文恵さんの私服姿なんだね。想像していた以上にとてもきれいだよ」

黒のタンクトップに少し紫がかったブルーのツーピースというのが文恵の私服姿だった。着替えを終えた文恵は例の小瓶に向けて独り言を言っているように見えた。すると、小瓶は何だかカタカタと揺れはじめていた。文恵は長椅子に腰をかけると右手の親指と人差指で挟むように小瓶を持って中を眺めていた。

小瓶の中にはなんだか小さくて可愛いものが入っていた。人形のように見えるのだが、人形にしてはとてもリアルにできているように思えた。そう、それもそのはず小瓶の中にあるのは紛れもない人間の姿だったのだ。そしれ、それはこの小瓶を持っている桜井文恵の姿に瓜二つでなんと裸の状態だったのだ。

「こんな姿になっても、文恵さんはやっぱり可愛いよね」

文恵は小瓶の中にいる文恵に向かって話しかけていた。

「この瓶は小さいけれどとてつもない力を秘めているんだ。まぁ、すでに実感しているだろうけどね。まずは君を使って試してみたんだけど、特別にこの小瓶の仕組を教えてあげるよ」

すると文恵はロッカーの中からとあるスマートフォンを取り出した。

「このスマホの中に小瓶を操作できるアプリが入っているんだ。こうやって起動すると管理画面が表示されるってわけ、例えば、ここをタップすると小瓶の中に入っている君の情報を確認することができるよ。そして、ここをスライドさせると小瓶の透明度を変えることができるし、これをタップすると小瓶の消音機能を解除することもできる。何か喋って見せてよ」
「あんた一体誰なのよ?私の姿で何をしようと思ってるの?元に……」

小瓶の中の文恵がそこまで言ったところえ、文恵は消音機能を再び設定していた。

「フフフ、たくさん話したいことがあるだろうけど、そんなことは知らなくてもいいことばかりだよ。このアプリでななんでも制御できるんだからね。君のように成りすますことはもちろん、過去の記憶も全て手に取るようにわかる。だから、私は桜井文恵なの!」

そんな時に文恵のスマホにLINEからメッセージが入って来た。

『文恵、誘ってくれたのにゴメンね。早くてもあと十分以上かかりそう、待ってててくれるかな?』

そのメッセージに対して文恵はスマホの画面をタップしてすぐに返事を送っていた。

『うん、わかった。更衣室で待ってるね』

文恵が普段使う絵文字も組み合わせて恵美に送っていた。そのやりとりしている画面を小瓶の中に入った文恵に見せると激しく小瓶を叩いて来た。

「ククク、そんなことしても無駄よ。薄々感じているとは思うけど小瓶の中は籠の中の鳥と同じ、私の思いでどうにでもなるからね。おとなしくしていないと痛い目に遭わせるんだからね。とにかく、この小瓶とアプリのおかげで私は桜井文恵として立ち振る舞えるんだからね。反発しようとするなら、これをタップしておとなしくしてもらうわ」

文恵がスマホをタップすると小瓶の中の文恵はすぐに眠り始めていた。

「この小瓶とアプリが僕に力と希望を与えてくれたんだ。これさえあれば絶望していたつまらない人生とはおさらばできるんだよ。小瓶の威力を思い知るがいい」

文恵は小瓶の中にいる文恵の姿を見ると安心したように、独り言で呟いた。そして、小瓶の中に閉じ込められている文恵が再び目覚めるようにスマホをタップした。

「とうやら、おとなしく寝てくれたようだね。この小瓶については全てを語り尽くすにはまだまだ時間が足りないけど、この小瓶を開けた状態でアプリの捕獲機能を使えば、アプリでターゲットにした人物をこの中に閉じ込めることができるんだよ。小瓶にきちんと入るよう小さくなりながら入って行くんだ。そのため、身につけていたものは小さくならないので、その場に残されるってわけ」

小瓶の中にいる文恵は恐怖と激怒によって今でも発狂しそうな状態に見えるが、自由に身動きできずにいた。

「ターゲットとなる人物を中に閉じ込めてフタを閉めてしまえば当然出られなくなるよね。その状態でアプリの変身機能を使えば、中に入っている人物とDNAの隅々まで完全に同じ身体に変身することができるってわけ。ターゲットは捕獲機能を使った時点で気を失ってしまうので、何が起こったのか知るのは、小瓶の中に閉じ込められてしばらく経ってからになるんだ。注意しなくてはならないこととして、変身した時に服はそのままとなるので、変身する時にはできれば裸になっている必要があって、変身してからは閉じ込められた本人が着ていたものをすぐに身につければいいわけだよね。とりあえず、この小瓶とアプリを使えばいつでも好きな時に中に入った人物に変身ができるってわけ。だから、これを使って君の姿に変身したってわけ、だから、僕は桜井文恵になったんだ!」

ということで、小瓶の中にいる文恵が本当の桜井文恵だったのだ。文恵に変身した人物は、まだ話し足りないかのようで言葉を続けた。

「ハッハッハ、小瓶の中にいる小さな文恵が本物の桜井文恵で、女子更衣室の中にいる私は実は偽物なんだけどね。誰もそんなことを疑うことができないように、変身するとその人の能力も記憶も自由に使えるってこと、小さな癖なんかも全て本物と同じなんだから。それに、アプリで元に戻るのも自由だし、他にも色々なことができるよ」

そう言うと、小瓶の中にいる文恵は抵抗するのが無駄だと思ったらしく、気を落としてしまったようでうなだれていた。

「あっ、そうそう。小瓶の中にいる間は何も食べなくても生き続けられるし、シャワーを浴びなくても清潔な状態が保たれるよ。小瓶生活も結構楽なもんだよね」

そこまで話を続けたところで、文恵のスマホから着信音が流れて来た。偽物の文恵はスマホを手に取るや着信した。

「あっ、恵美?……そう、もうちょっとで終わるのね。……更衣室でずっと待ってるよ。すぐに来て欲しいなぁ」

小瓶の中にいる文恵にとっては悔しいけれどまるで自分が電話に出ているかのようにそっくりだった。誰が自分に成りすましているのかはわからないけれど、今朝まではこんなことになるなんて思いもよらずに過ごしていたのだ。小瓶の中にいる小さくなった文恵は絶望の淵まで追いやられていた。

「今日ね?、恵美を飲みに誘ったの。あなたが行けたら良かったんだろうけど、私があなたとして代わりに行ってくるからね。とりあえず、化粧ポーチに小瓶を入れて持っていくから、あなたも一緒に行くことができるでしょ。そろそろ、恵美がここに来るからあなたをしまっちゃうわね」

そう言いながら、偽物の文恵は本物の文恵が入った小瓶を化粧ポーチに入れ、恵美が来るのを待っていた。更衣室の長椅子に座りなおすと恵美からのLINEがスマホに入ってきた。

『文恵、今完全に終わったところ。今からそっちに向かうね。待たせちゃってゴメン』

そのメッセージを確認するや否や更衣室の扉が開き、制服姿の恵美が入って来た。文恵と同じ格好だったが、恵美の方がスカートの丈が少しだけ短かった。文恵はこの時、更衣室の大きな姿見の前で自分の姿を眺めていた。黒のタンクトップに少し紫がかったブルーのツーピース、青のパンプスが光り輝いて何度かポーズを決めているようだった。

「文恵、ゴメンね。ちょっと遅くなっちゃった」

左腕にはめている時計に目をやりながら恵美は文恵に言った。

「ん、私は全然気にしてないよ。これから恵美と飲みに行くんだから、ちょっとくらい遅くてもどうってことないでしょ。待ってたわよ、ハニー^^」

そう言うと、文恵は舌をペロッと出してにっこり笑って見せた。すると、更衣室の中は二人の甲高い笑い声で包まれていた。恵美はさっそく着替えを始め、恵美が着替えている間に文恵は化粧室に行くことにしたのだ。更衣室を出ると、パンプスをコツコツと鳴らしながら、女子化粧室のマークを確認してから中へ入ると一番奥にある個室にノックをしてから入った。化粧ポーチの中から小瓶を取り出し便座の上にそっと置くと、小瓶の中にいる本物の文恵に向かって微笑んでいた。

「どうだった?恵美には私が本物の文恵にしか見えていないわよね。私って完璧過ぎるくらいに桜井文恵なのよね」

小瓶を再び化粧ポーチにしまい、個室から出て化粧台の前に立つと今度は化粧ポーチの中から化粧道具を取り出した。文恵に変身する時に化粧も反映されていたが、化粧直しをするのは初めてのことだった。小瓶の能力のおかげかまるでいつも文恵がメークをするのと同じようにメークすることができた。夜の街に出かけることを意識してちょっとだけ濃い目のメークを施していた。

文恵がメークをしていると誰かが化粧室に入ってきた。それは、ベージュのカーディガンにブラウンのパンツ姿、黒いピンヒールを履いた恵美だった。制服姿よりも大人の色気を感じる雰囲気が醸し出ていた。恵美は個室に入り用を足して出てくると化粧台の前でメークを直し始めた。

「文恵。私、準備できたわよ。あれぇ、今日のメークはずいぶんと気合が入ってるわよね。これから誰かを釣ろうって言うの?」

文恵が目元に筆を入れながら恵美に話を返した。

「そんなに気合が入っているってことないけど、ちょっと今日は金曜日の夜だから騒ぎたくなったの」
「それなら、私ももう少し気合を入れてみるわね」

準備ができていたはずの恵美も再び化粧を始めた。恵美の髪の毛は文恵よりも長くてパーマがかかっており、明るいブラウンに染めていた。二人は夜の街へと繰り出す前に念入りにメークをしていた。

「完了」
「私も」

メークを終えた二人は化粧室から出ると、中央の階段を使って執務室を通り、二十五階のエレベーターホールに向かいエレベーターの操作パネルにカードキーをタッチしていた。少し待つとエレベーターがやって来て、扉が開いた。中かは恵美の上司である大塚大和(おおつかやまと)課長が降りてきた。

「あれっ。後藤さん。それに、桜井さんだね。今日は夜遅くまで頑張ってるね。ご苦労様」

大塚課長は二人をねぎらう言葉をかけた。

「課長は今日も残業なんですね。ご苦労様です」

恵美は課長に声を返した。

「いやぁ。たいしたこと無いよ。年度末の決算が終わって、ちょっと一息ついたからね。後藤さん、もしかして今日は桜井さんと一緒に飲みにでも行くのかい?」

大塚課長は恵美と文恵の私服姿をじっくりと見ながら言ってくる。

「そうなんですけど、わかります?」

「二人の顔を見れば誰だってそうだと思うんじゃないかな」

すると、エレベーターホールには三人の笑い声が響いた。

「まぁ、二人で楽しんで来なさい。私はもう少しやることがあるので、それじゃ」

そう言うと、大塚課長は会社へと入って行った。文恵と恵美がエレベーターに乗り込むと、ロビー階まですぐに到着した。ロビー階は勤務時間が過ぎて一時間ほどしか経っていないものの静まり返っていた。外に出ると文恵はスマホを手に取り、これから行こうとしている店を確認していた。

「恵美が前から一度行ってみたいって言っていたイタリアンのお店、予約しておいたのよ。これから向かうと予約時間にちょうど間に合うわね。いいでしょ」

「うん、文恵って準備万端なのねぇ。文恵から誘ってくれた上に私が行きたかったお店を予約してくれるなんて、びっくり」

二人は横並びに歩いて恵美の行きたかったイタリアンのお店へと向かっていた。外はまだ肌寒いので歩みを速めて店へと急いでいた。



「あの、予約しておいた桜井です」

会社から十五分ほど歩いてイタリアンの店に到着するや、文恵は出迎えてくれた女性店員に予約しておいたことを伝えた。

「はい、二名様で承っております。こちらにお越しください」

女性向けに作られている店内は、とても居心地の良い雰囲気だった。店の一番奥に用意されているテーブルに通されると、文恵と恵美は向かい合うように席に着いた。ウェイターが水を運んで来てメニューを差し出してくれた。なかなかのイケメンのウェイターは「注文が決まりましたらお呼びください」とさり気なく彼の持ち場へと戻っていった。二人でメニューを眺めながらも、恵美はさっきのウェイターのことが気になってならなかった。爽やかな笑顔で受け答えをしてくれた落ち着いた風貌の彼は三十歳前後に見えた。

二人で何を注文するのか、ああでも無いこうでも無いと話しながら、文恵はカルボーネ、恵美はアラビータを頼むことに決めたのだ。加えてお薦めのボトルワインを一本飲むことにしたので、ちょっと贅沢な予算となったのだ。さきほどテーブルに来たウェイターに見えるように文恵が手を挙げると、さっそく彼がやって来てオーダーを取り始めた。恵美が彼と一つ一つ確認しながらオーダーしていた。彼がキッチンへと向かうと、まるで後をついて行くかのように恵美は化粧室に向かった。一人テーブルに残された文恵は今日の出来事を思い返し始めていた。



そう、あれは昼休みが始まる前のこと、総務課の課長である柴田潤蔵と新人の並木安則は会議室に詰めており、総務課には田口康夫と桜井文恵の二人が残されていた。田口康夫はこのタイミングが来ることを知っていたため、ある計画を実行するために文恵に話しかけたのだ。

「桜井さん。今時間あるかな?ゴホン、ゴホン」

田口の声はどことなく具合の悪そうな声だった。

「えぇ、何か急な仕事でもあるんですか?」

「いや、そんなんじゃないけど、ゴホン。ちょっと風邪がひどくなったので、午後から休みたいと思ってね、ゴホン、ゴホン。課長の会議が長引きそうだから、桜井くんから課長に伝えておいてくれないかなって、ゴホン、ゴホン」

話しながらも田口は咳が出て仕方が無いようだった。

「田口さん、見るからに具合が悪いですね。今日はそんなに忙しくなさそうなので、先に帰ってもいいと思いますよ。課長には私から伝えておきますね」

田口の向かいに座っている文恵が言った。

「うん、ありがとう、ゴホン。まずは下の休憩スペースで休んでから、先に帰らせてもらうよ。ゴホン、ゴホン」

そう言いながら身支度を終えた田口は、昼休みが始まる十五分前に席を立つと、休憩スペースへとつながる中央の階段を使って降りて行った。田口が席を立つや否や、文恵は田口の書類の上にスマホが置きっぱなしになっていることに気づいた。

「あっ、田口さんったら。スマホを置き忘れてるじゃない」

文恵はそのスマホを手に取り休憩スペースに降りていった。しかし、休憩スペースに田口の姿は見当たらなかった。

「田口さん、どこへ行ったのかしら?」

文恵がそう呟くとどこかでガサゴソと物音が聞こえた。このフロアをよく見回して見ると男子更衣室の扉が半開きになっていることに気づいた。物音はどうやらこの男子更衣室から聞こえて来るので、男子更衣室に田口がいると思われた。このまま待っていても田口はすぐに出てくるかわからない上、もうすぐ昼休みが始まってしまうので、一瞬ためらったものの普段は足を踏み入れることのない男子更衣室の中に一歩踏み込んだ。

「田口さん?スマホが机の上に置いてあったので持って来ました。ここにいるんですよね」

男子更衣室の入口に立つと文恵は田口に声をかけていた。そこから中を覗いてみるものの返答はなかった。文恵はゆっくりと男子更衣室の奥へと入り込んで行った。

「田口さん?」

男子更衣室の中で文恵の声が響くと突然大きな衝撃を文恵は全身で感じた。目の前の物がどんどん大きくなっていくように見えたかと思うや気を失ってしまった。実はこの時、文恵の身体は徐々に小さくなっていたのだ。そして、文恵が身に着けていた会社の制服もスルリと身体から落ちて行き、小さくなりながら身ぐるみ剥がされて行った。小さくなり全裸姿となった文恵の身体は小さな小瓶に向かって飛んで行き、その中にすっぽりと入ってしまったのだ。それから男子更衣室の扉が閉められた。

男子更衣室の入口の扉の前に田口が立っていた。小さな小瓶を手に持っており、怪しげな笑みを浮かべながら小瓶のフタをしっかりと閉めていた。更衣室の中央にある長椅子の上にその小瓶を置くと、床に置かれた文恵の温もりが残っている制服や下着、そして、さっきまで文恵が手に持っていたスマホも長椅子の上に置いた。そして、田口は大きな姿見の前で服を脱ぎ始めると、そこには全裸姿となった田口の姿が映し出されていた。小瓶の中には小さくなった全裸姿の文恵が閉じ込められていたのだ。

「こんな姿になっても文恵さんはやっぱり可愛いよね」

田口は小瓶の中で気を失っている文恵に向かって話しかけていた。そして、長椅子の上に置いた小さめのスマホを手に取ると、とあるアプリの画面を眺めていた。

「しっかりと捕獲できたので、次は変身機能を実行しよう」

アプリの中にある変身機能を田口がタップし中央にある「実行」をタップすると『小瓶の中にいる人物に変身します。アプリで変身を解除するか、小瓶のフタが開けられるまで元に戻れなくなりますが、よろしいですか?』と確認メッセージが出た。ここで田口は迷うこと無く『はい』をタップしてスマホを長椅子の上に置いた。

田口の身体が熱くなったかと思うと一つひとつの細胞が作り換えられて行った。そして、意識が遠のいていったと思うとすぐに意識が戻ってきた。しかし、意識が戻った時の全身の感覚はいつもとは違っていた。姿見の前には全裸姿の文恵が立っていたのだった。

「やっぱり、この小瓶の威力ってすごいよなぁ」

男子更衣室には似合わない女性の声が響いていた。しかもいつも聞く文恵の声とは違う声だった。そして、長椅子の上に置いておいた文恵が身に着けていた下着を手に取ると、身体の感触を確かめながらゆっくりと身につけていったのだ。すると姿見の前には下着姿の文恵の姿が現れた。

「じゃあ、そろそろ文恵さんに起きてもらうかな」

下着姿のままさっきのスマホを手に取るとアプリにある、捕獲管理機能を使って小瓶の中に閉じ込められている本物の文恵を起こした。

「可愛い文恵さんがお目覚めだね」

小瓶の中にいる文恵は目の前で起きていることが信じられなかった。透明な小瓶を通して外が見えるのだが、そこには下着姿となっている大きな自分の姿があったからだ。小瓶の中で叫んでみたり小瓶の壁を叩いて見るが、外には何も伝わっていないようだった。

「いいかい、よく聞くんだ。この小瓶の力を利用して俺は文恵さんに変身したんだよ。俺が文恵さんでいる間は小瓶の中にいてもらうしかないだろう。この中でおとなしくしてくれよな」

文恵に変身した田口は、そう言うとさっきまで文恵が着ていた制服を身に着け、床に置き残されていた紺のサンダルに足を入れた。そして、姿見の前で自分の姿を確認するとさっきまで目の前に席で仕事をしてた文恵と寸分違わぬ姿になったのだ。田口が身に着けていたものは田口のロッカーに入れ、小瓶をベストの胸ポケットに差し入れると、中に閉じ込められた文恵にも文恵に変身した姿をしっかりと見せつけてから、ポケットの奥に隠し入れた。

「じゃあ、ここからは俺が桜井文恵をやらしてもらうね」

そう言って、誰もいないことを確認して男子更衣室から出ると、中央の階段から執務室へと戻った。当然のことながら周りからは桜井文恵としての視線を受けていた。総務課にある文恵の席に戻ると田口の席にある一番上の大きな引き出しにに田口のスマホを入れ、文恵の席の上に置かれている化粧ポーチを手に取って、昼休みの休憩を取るとにした。いつもは会計課の恵美と一緒に休憩していることを思い出したので、恵美には用事があると言って会社から出て来た。

会社のビルから出ると、文恵はコンビニでおにぎりと飲み物を買って公園のベンチに座り食べていた。いつもは田口として同じように昼ご飯を取るのだが。文恵の姿で同じことをしてみると周りから飛び込んで来る視線が違っていた。行き交う人々の視線が自分に向かって来るようだった。食べ終えると公園の中を文恵の動き方を真似るように歩いてみた。誰にも聞こえないように文恵の話し方も練習してみるのだが、いつもの文恵と変わりが無かった。そして、胸ポケットの中から小瓶を取り出すと閉じ込めらた文恵に外の景色を眺めさせた。

「ねぇ、文恵さん。小瓶の中は快適よね。桜井文恵としてちゃんと振る舞っているので心配しないでね」

本物の文恵のように閉じ込められている文恵に文恵に変身した田口は話しかけていた。この小瓶を使って変身すると変身した相手の能力や記憶まで全く同じように使えることだった。自然に文恵の動きができている。本物の文恵が悔しいと思うほどに成り切ることができるのだ。田口は文恵の身体を動かすことで興奮せずにはいられなかった。胸ポケットの中に小瓶を隠すと昼休みが終わる時間となったので会社のあるビルに戻った。そして、エレベーターを待っていると後ろから総務課長の柴田から声をかけられたのだ。課長の前でも文恵に成りすましてみたが、田口と接する時とは目つきからして違っていたのだ。午後に仕事をしていても、きつく叱ってくることは無かったので、文恵として仕事をするのは田口として仕事をすることよりも楽しかったのだ。



「文恵、文恵」

水が入れられたグラスを持ったまま考え事をしている文恵に、化粧室から戻った恵美が声をかけていた。

「何、思い出し笑いしてるのよ」

恵美は持ち場に戻ってしまったウェイターを目で探しながらそう言っていた。

「ん?別になんでも無いわよ」

とぼけ方もいつもの文恵と同じだった。

「でも、何か変な感じだったわよ。ここで変な表情をしていると周りから見られているんだからね」
「は?い、わかりました。今日は思いっきり飲みましょうね!」

文恵の目はいつもよりも輝いていたが、それに恵美は気づいていなかった。二人のテーブルにさっきのウェイターが料理を運んで来た。文恵はウェイターの胸元についているネームプレートを見た。そこには五十嵐祐介(いがらしゆうすけ)という名前が書かれていた。恵美が彼に気があるらしい様子なので覚えておくことにした。文恵の前にはカルボーネが、恵美の前にはアラビータが置かれ、祐介はボトルワインを手に持っていた。彼のネームプレートをよくよく見るとソムリエという文字が併記されていた。彼はどうやらただのウェイターでは無かったようだ。

祐介がワインをグラスに注いでいる間、恵美はその祐介の動きをしっかりと目に焼き付けているかのようだった。その表情を文恵はしっかりと観察しているのだった。ワインを注ぎ終えると祐介は持ち場に戻ってしまった。テーブルの上に置かれたワイングラスを手に持ち乾杯をすると食事を始めたのだ。文恵はフォークをスプーンの上にのせてパスタとソースを絡め、口に入れると絶妙な味に驚いた。さすがに口コミアプリで高点数がついているだけあった。恵美の方もアラビータに舌を打っていた。二人ともご満悦の様子で、会社での無駄話や世間話をしながら楽しく食事を進めていた。

さらに上機嫌になっていた文恵はワインを一本追加すると言って、ソムリエの祐介に今の状況にピッタリのワインを持って来てもらったのだ。祐介がワインをグラスに注いでいる間、恵美は祐介に自分の名刺を渡していた。裏面には個人携帯の番号を自分で書き添えていた。祐介は一瞬ためらったものの満更でもない様子で、渡された名刺を素早くベストの内ポケットに入れていた。

「あとで電話かLINEちょうだいね」

恵美は本当に祐介のことが好きになったようだった。祐介が持ち場へ戻る間際に一言伝えていた。その時、文恵はワインのアルコールに負けたのかかなり酔っていた。顔が真っ赤に火照っていて、なんだかぼーっとして来たようだ。一方の恵美はというとお酒に強い体質のため、顔色を変えることも無く数杯目のワインを飲んでいた。会話が途切れたまま二人は運ばれて来た全ての料理を食べ終えた。

食事を終えて文恵は化粧室に行こうとしたが、立ち上がるとバランスを崩したらしく左足のパンプスが脱げてしまった。すぐに恵美がサポートして脱げたパンプスを左足に入れ直した。文恵がアルコールに弱い体質ということはわかっていたが、ボトルワイン一本分に相当する量はさすがに多かったようだ。一旦席に座りなおすと祐介が持ってきたウコンドリンクを一気に飲んで少し休んでから動くことにした。

数分後、文恵は化粧室の個室の中に入るとスカートをたくし上げ、パンティを足元に下ろして便器に座った。我慢していたせいもあってか、思ったよりもたくさんの量が出てきた。全て出し切るとトイレットペーパーを軽く当てて吸い取って、パンティを上げてスカートを整えてから個室から出た。洗面台の前にはアルコールで顔が赤くなった文恵の姿があった。手を洗い、化粧ポーチの中から小瓶を取り出していた。

「こんなにアルコールに弱いなんて思ってもいなかったわ。それにしても赤くなった文恵さんもかわいいよなぁ。恵美さんの前では俺の正体をバラすことは無いから心配しないで、もう少しこの中でおとなしくしてくれよ。これからが本番なんだから」

文恵は小瓶を化粧ポーチの中に入れ直すと簡単に化粧直しをしていた。化粧を直しながら頭の中でこれからの計画をしっかりと考えていた。化粧室を出て席に戻ると会計を済ませ恵美が待っていた。いつもは割り勘なのだが、今日の食事代は上機嫌となった恵美が全部出してくれたのだ。

外に出るとさすがに夜風が冷たかった。しかし、文恵にとってはこの風が気持ちよく感じていた。二人は地下鉄の駅に向かってあるき出したが、文恵は青いパンプスを引きずるような感じで歩いていた。文恵が思った以上に酔っていることに気づいた恵美は文恵に声をかけた。

「文恵、大丈夫?今日はこれ以上は飲めないんじゃない?」
「大丈夫よ。これくらいなんてことないわ」

そう言いながらも文恵は恵美に支えられながら歩いていた。

「でも、明らかに飲みすぎているわよ。今日はこの辺でお開きにしない?」

恵美がそう言うと文恵の歩みが完全に止まった。

「えぇ〜っ、もう帰るっていうの?夜はこれからだって思っていたのに〜」

文恵はまるで子供が駄々をこねるような感じだった。

「じゃあ、しょうがないわねぇ。これから私のうちに一緒に帰りましょう。うちで飲み直すってのはどう?」

恵美の提案に文恵は大喜びだった。

「えっ!?恵美の家に一緒に帰るって?じゃあ、泊まって行ってもいいの?」
「うん、いいよ。文恵のように実家暮らしとは違って、私は一人暮らしだからね。会社から三駅しか離れていない場所だし、ここからならすぐに帰ることができるもの」
「じゃあ、恵美の家に行きましょう!」

文恵は空に向けて両手をあげてバンザイをしながらそう叫んでいた。

「わかった、わかった。静かについて来るのよ」

人とすれ違うたびに二人はジロジロと見られる始末、恵美はとりあず文恵を安全な場所に連れて行く必要があると、自分の家へと連れて行くことにしたのだった。



イタリアンレストランを後にした二人は、会社の最寄り駅から地下鉄に乗って三駅隣へと移動し、恵美が住んでいる駅直結マンションの共用玄関に到着していた。文恵は酔いが多少覚めたものの、所々で恵美は文恵を抱えてここまでやって来たのだ。恵美は自分のバッグからカードキーを取り出すと共用玄関の鍵にかざしていた。大きなガラス扉が開くとエレベーターが降りてくるのを待った。

恵美は文恵を下から支えるようにしてエレベーターに乗り込むと扉が閉まり十階に向けて動き出していた。十階に到着すると文恵をエレベーターの前に取り残し、恵美は自分の家の玄関を開けてバッグを置き、サンダルを持って文恵の元へと向かった。

文恵のパンプスを脱がせサンダルを履かせると、文恵はフラフラになりながらも一人で恵美の家まで歩くことができたのだ。玄関の扉は開けっ放しの状態となっていたので、サンダルを脱ぎ捨てて、恵美の部屋の中へと入って行った。

「お邪魔しま〜す」

誰もいない家の中に向かって文恵は叫ぶように聞こえるほどの大声を出していた。恵美は玄関の扉を閉めると、手に持っている文恵のパンプスや玄関に脱ぎ捨てられたサンダルを整理して部屋の奥へと入って行った。

「文恵はソファの上にでも横になってね」

恵美がそういう前から文恵はすでにソファの上に身体を横たえていた。恵美は冷蔵庫の中からミネラルウォーターを取り出すと、文恵に手渡していた。そして、駅前のコンビニで買って来た缶ビールを食卓テーブルの上に置いた。

「文恵。あなたと一緒に飲み直せないのは残念だけど、まずはゆっくりと酔いを覚ましてちょうだいね」

ソファの上で横になっている文恵の表情はさっきよりもよくなっていた。そして、ミネラルウォーターが入ったペットボトルのフタを開けて一気に飲み切ってしまった。

「ここって、恵美の家よね。もう少し休めば酔いから覚めちゃいそう。私も恵美と飲み直したいなぁ」
「そっか、ノンアルだったら大丈夫よね。それなら確か冷蔵庫の奥の方にあるわ」

恵美は冷蔵庫の中に手を突っ込むと奥の方にあったノンアルコールのカクテル風飲料を取り出しテーブルの上に置いた。

「これでいいわよね……それにしても、文恵がこんなにお酒に弱いなんて知らなかったわ。まぁ、いつも会社の飲み会ではアルコールは遠慮しているし、プライベートでしか飲まないって聞いてたから、私と一緒にお酒を飲むのって初めてのことなんだしね。私とは違ってお酒に弱いってことが証明されたってわよね」

「そっかぁ。恵美と一緒にお酒を飲むのって初めてだったんだぁ」

そう言うと文恵はソファの上から飛び起きて、リビングの中央に仁王立ちして部屋の中をうかがっていた。恵美の部屋はキッチンが一緒になったリビングと一部屋、それに洗面所とユニットバスがついたタイプ、リビングとキッチンの間には食卓テーブルが置いてあり、白い革張りのソファと小さめの壁掛けテレビがあった。そして、引き戸を開けるとベッドとクローゼット、それにドレッサーが置かれている部屋が隣にあって、それが全部だった。

「恵美の部屋ってモノトーンで統一されてるんだね。シンプルな感じがするわ」

そして、食卓テーブルの前に置いてある椅子に座るとカクテル風飲料を手に取った。

「わっ、つめた〜い」

冷蔵庫の中でギンギンに冷やされた缶飲料は思った以上に冷たかった。恵美はキッチンの棚からおつまみを取り出し、文恵に向かい合うように椅子に座った。

「それじゃ、これから飲みなおしましょうか」
「じゃあ、乾杯〜」

文恵が手に持っているカクテルの缶を恵美の缶ビールにぶつけて乾杯をすると、さっきと同じように会社での話や、何気ない雑談をしながら飲みなおし始めた。恵美が目の前の文恵が本物ではないということに気づくことがないくらい、完璧なまでに文恵を演じ切っていた。



テーブルの上には空き缶でいっぱいで物の置き場がないくらいになっていた。恵美がふと時計に目をやると二時をゆうに過ぎていたのだ。次の日は会社が休みとは言え、そろそろ寝なくてはならない時間だった。話の途中でさりげなくトイレに立つとリビングには文恵が一人残された。文恵はソファの上に置いてあった自分のショルダーバッグを手に取り、化粧ポーチを取り出した。そして、その中から小瓶を取り出すと閉じ込められている本物の文恵は、疲れ果ててしまったのか小瓶の中で眠りについていたのだ。

「文恵さん。おかげさまで、恵美さんと楽しく過ごしているよ。俺は小瓶はもちろん、文恵さんに感謝しています。とりあえず、しばらく文恵さんはこの中でじっとしていてくださいね」

小瓶の中で眠っている文恵には、この独り言はもちろん聞こえていなかった。そして、小瓶を操作するアプリを取り出すと、小瓶の透明度という設定を動かして半透明に設定した。するとそれに連動して半透明の小瓶となり、中に何が入っているかわからなくなってしまった。そして、小瓶を化粧ポーチに戻し、化粧ポーチをショルダーバッグの中に入れると、恵美がトイレから出て戻って来た。

「このまま朝までお喋りを続けたいところだけど、今日はそろそろ寝ることにしない?文恵には私のパジャマを渡すから、それに着替えてくれないかな」

そう言って恵美はクローゼットの中から自分の薄いピンクのパジャマを取り出し文恵に渡した。リビングのカーテンをしっかりと閉めると、二人はパジャマに着替え始めたのだ。文恵が恵美のパジャマに着替えるとクローゼットの横にある姿見の前に立ち自分の姿をゆっくりと眺めていた。そして、恵美は水色のパジャマに身を包んでいた。同じデザインなので、二人で一緒に着るとまるで姉妹のようだった。

「文恵に私のパジャマを着せただけなんだけど、なんだか、私たちって姉妹みたいに見えるわね」

そして、恵美は洗面所から真新しい歯ブラシを持って来て二人は歯を磨いた。

「じゃあ、ベッドはどうしようかな〜。文恵は私のベッドを使っていいわよ。私はソファの上で寝るから」

そんな恵美の提案に文恵は感動していた。

「えっ!?私がベッドで寝ていいの?恵美の家なのにそれでいいわけ?」
「だって、今日の夜は文恵が誘ってくれて、楽しい夜になったんだから、文恵にゆっくりと眠って欲しいわ。それに、まだ完全に酔いが覚めたわけじゃないんだから、しっかり肝臓を休めたらいいでしょ」

そうして、文恵はベッドで、恵美はソファで一夜を明かすことになったのだ。すっかり疲れてしまったのか、二人はすぐにぐっすりと眠りについて朝まで目覚めることはなかった。



カーテンの隙間から一筋の光が差し込み始めると、恵美はソファの上でムクッと起き上がり隣の部屋の扉をそっと開け、ベッドの上で寝ている文恵の様子をうかがった。いつものように恵美は朝目覚めるとシャワーを浴びることにしたのだ。文恵が寝ているそばで、バスローブと着替えを準備すると脱衣室へと入り、パジャマと下着を脱いで洗濯かごの中に投げ入れた。浴室の中に入ると扉の鍵を閉めてからシャワーを浴び始めたのだった。

シャワーを浴びながら昨日のことを思い返していた。文恵から誘われたこと、一緒に行ったイタリアンレストランで胸がときめく出会いがあったこと、文恵を自宅まで運び飲み直したこと、今の会社に勤め始めて文恵と出会ったのだが、ここまで一緒に時間を過ごしたことは無かったのだ。そして、文恵に誘われたことでイタリアンレストランにソムリエとして働いている五十嵐祐介と出会ったのだ。恵美は思い切って自分の携帯番号を渡したのだが、今のところ連絡が来る気配はなかった。暖かいお湯を身体に流しながら、昨日の出来事を何度も思い返していた。祐介から連絡がすぐに来なかったのが気がかりだったが、いつ連絡が来てもいいようにと自分の身体を入念に洗っていた。

一方、文恵はベッドの中でシャワーの音を聞いていた。ついに次なる計画を実行するタイミングやって来たと言わんばかりに、飛び起きるとショルダーバッグの中から化粧ポーチを取り出した。本物の文恵が入っている小瓶を取り出すと、アプリで透明度を戻し中の文恵が姿を表した。

「おはよう、文恵さん。小瓶の中でよく眠れたかな?いよいよ、これから次なる計画を実行するけど、それが終わったらそこから解放してあげるよ。まぁ、解放される時には小瓶の中にいた記憶は全て無くなるんだけどね。まだまだおとなしくしてくれよな」

それからアプリで透明度を落とし、中が完全に見えないよう真っ白にしたのだ。まるで乳液が入っている小瓶のようにみえるので、化粧ポーチの横にさりげなく置かれていても、不思議な小瓶があるとは気づくことができないはずだ。そして、田口扮する文恵は化粧ポーチの中からもう一つの小瓶を取り出していた。それは本物の文恵が閉じ込められた時と同じ透明な小瓶だった。

「じゃあ、次なるターゲットは……クックックッ……わかってるよね」

小瓶の中に閉じ込められている文恵に聞こえるようにわざと口に出していたのだ。小瓶のフタを開けるとアプリの捕獲機能を実行した。スマホの中には恵美の部屋の中が映し出されていた。脱衣室の扉を開け手に持っていた小瓶をいったん洗面所に置いた。しかし、浴室の扉は鍵がかけられており開けることはできなかった。

「文恵、目覚めたの?シャワー、もう少しで終わるから、すぐに朝ごはん準備するわね」

シャワーの音が一時的に止まると浴室の中から恵美が話かけて来た。

「うん、わかった」

そう言うと文恵は小瓶を手に取りリビングへと戻ったのだ。食卓テーブルの上に小瓶を置くと、テーブルの上に置きっぱなしになっていた空き缶やおつまみの袋をゴミに捨てて、テーブルの上には文恵のショルダーバッグと化粧ポーチ、それに文恵を閉じ込めている小瓶と透明な小瓶が取り残された。

「恵美がシャワーを浴びているタイミングで捕獲をするのは、やっぱり鍵をかけられて開けられないので、シャワーが終わって出てきた時にこっちの小瓶に捕獲するよ。閉じ込められる瞬間が見えるように、小瓶の中から外が見えるように設定を変えてあげるね」

アプリを操作すると外から見ると真っ白の小瓶だが、中からは外が見える状態に変更されたのだ。

「これで準備万端だね。あっ、もう一つ大事なことを忘れてた」

すると田口扮する文恵は玄関へと向かったかと思うとサンダルを履いて扉を開けた。そして、ストッパーで扉を開きっぱなしの状態にし廊下に出ると玄関周辺を見回していたのだ。すると、廊下の隅でじっとしている人影を見つけたのだった。恵美の家に招き入れると玄関の扉をゆっくりと閉めた。招き入れられた人物は靴を脱いだかと思うや、その靴を手に持っていた紙袋の中に入れて物音を立てないように部屋の中へと入ったのだ。

いつの間にか窓からより多くの光が差し込んで来ていた。浴室から聞こえていたシャワーの音が止まると、バスローブに身を包んだ恵美がリビングに入って来たのだ。部屋に入って来るや否や恵美は、自分の目の前に見えている全ての物が大きくなっていくのに気づいた。そして、頭の上から大きくなったバスローブがズシリと落ちて来たかと思うと、恵美の身体は宙を浮かんだかと思うと透明な小瓶の中へと入ってしまった。フタが閉められると小さな小瓶の中に閉じ込められてしまったのだ。

「やっぱ、ちょろいもんだぜ。後藤さん、小瓶の中にようこそ」

小さな小瓶に閉じ込められた恵美は、目の前に現れた文恵と一緒にいる男の姿に驚いていた。

「そうそう、後藤さんとは何年ぶりかなぁ。俺のこと覚えているかなぁ。中学時代に同級生だった真矢直樹(まやなおき)だよ。クラスメイト全員からいじめられて、不登校だったから覚えているはずだよね」

小瓶の中で恵美が何かを訴えているようだが、小瓶の中からの声は全く聞こえて来なかった。

「あっ、ゴメンなぁ。せっかくだからその美しい声が聞こえて来るように設定を変えるから、ちょっと待ってくれよなぁ」

真矢がスマホを手に取ると画面の上で何かを操作しているように見えた。すると、恵美の叫び声がリビングの中に響き渡るようになったのだ。

「やっぱり、真矢くんなの?私を小さくしてこの小瓶に閉じ込めるって、一体どういうこと?」

小瓶の中で取り乱しているものの恵美は思ったよりも現状を冷静に把握しているようだった。

「ハッハッハ、まぁ、誰でもいきなりこんなことが起きたら取り乱しちゃうよなぁ。俺が作ったこの小瓶とアプリを実際に使ってみようと思ってさ、後藤さんに協力してもらうことにしたんだよ。実は、俺の親友が後藤さんと同じ会社に勤めていることが分かった時はすごくびっくりしたんだけど、これも何かの縁だから俺の作品の試験対象としてピッタリだと思ったんだ」
「真矢くんの親友が私と同じ会社に勤めてるって?それ、本当なの?」
「なかなか疑い深いんだね。俺だってこの世に親友が一人ぐらいいるんだよなぁ。中学時代はみんなからいじめられて不登校だったけど、高校に行かずに自分で勉強して大検を取って、大学に入学したんだよなぁ。そこで出会ったのが、後藤さんの会社で総務課に所属している田口康夫なんだよ。俺と田口はすぐに意気投合して親友になったんだけど、田口が受けた傷は俺よりもずっと深くて人生に絶望することが多かった。そんな親友を助けてやろうと思って、俺ができることは何かって追求してこの小瓶とアプリを開発したってわけ」

真矢の隣でじっと状況を見守っていた文恵がここで口を開いた。

「恵美、いや、後藤さん。私と一晩過ごして何も気づかなかったわよね。まぁ、どこからどう見ても私は桜井文恵にしか見えないでしょうけど、本当は田口康夫が変身している桜井文恵なのよ。その証拠として隣にある白い小瓶をよく見ててちょうだい」

そう言うと文恵もスマホを手に取って、画面の上で何かを操作していた。すると、白い小瓶は徐々に透明になり中には恵美と同じように小さくなった裸姿の文恵が閉じ込められているのが見えた。

「えっ、こんなことって!」

驚いた恵美はガクガクと身体が震え始めていた。

「中に閉じ込められているのが本物の文恵よ。そして、私は偽物……」

また画面を操作したかと思うと、首から下は文恵の身体で頭だけを田口の姿に戻したのだった。

「ということで、昨日の昼頃から俺が桜井文恵に変身していたんだよ。後藤さんと一晩過ごしていたのは実は俺が扮する桜井文恵だったってわけ」

田口は頭を文恵の姿に変身させていた。

「全然、気づかなかったわよね。エヘヘ」

文恵の顔を使って舌をペロリと出しながらほくそ笑んだ。小瓶の中に閉じ込められている恵美は自分と文恵に起こっている現状を理解し、諦めるしかないとすっかり落胆した表情を浮かべていた。

「そうなのね、昨日の昼頃から文恵はいつもの文恵じゃなかった。田口さんが文恵の姿に変身していたってことなんでしょ」

田口扮する文恵も真矢も、そして、小瓶の中に閉じ込められている文恵も頷いていた。

「ハハハ、そういうことだったのよね。真矢のお陰で文恵として後藤さんと楽しい一夜を過ごしたってわけ。俺…この姿には似合わないから、もう少し文恵の口調にするわね。私のことを本物の文恵だと思って気を使ってくれて本当に感謝します。そして、断りもなく勝手に小瓶に閉じ込めたことを許してください。本当にごめんなさい」

本当に申し訳ないと思っている時の文恵の表情で、小瓶の中に閉じこめられている二人に向かって田口は文恵の姿のまま真剣に謝っていた。本物文恵が入っている小瓶からも声が聞こえるように設定が変更されて、文恵の声もみんなに届くようになった。

「えっと、田口さん、私の姿で謝るのはやめてください。こんなことって普通は現実として降り掛かってこないものだけど、二人が受けて来た見えない傷がとっても大きかったんでしょうね。非現実的なことでもしないと、その傷は癒やされないのかもしれないとお察しします」

小瓶の中に閉じ込められてもうすぐ丸一日が経とうとしている文恵は落ち着いて話を続けた。

「でも、こんなことをする前に、心の中に秘めているその気持ちをしっかりと話してくれたらもっと良かったと思うんです。真矢さんがどういう思いを持ってこの小瓶とアプリを作ったのかは、未だにわからないことでいっぱいなんですけど、田口さんの口から話してくれたら良かったなって」

本物の文恵にそう言われた田口は反論する気持ちは毛頭なかった。

「はい、桜井さん。本当に申し訳ないです。この身体に変身してから桜井さんの思いがヒシヒシと伝わって来て感じていました。私が悪かったんです。心の底から謝ります。本当に許してもらえないでしょうか」

「そもそも、今の田口さんには『私の思い』がわかりますよね」

そう、文恵に変身している田口だからこそ、文恵が話しかけてくるメッセージが一体何を伝えようとしているのか、文恵の記憶を読み取ることができるため、それは手に取るようにわかるのだった。

「私の思い……確かに、よくわかります。だからこそ、こうして桜井さんに対して謝っているんです」

その言葉を聞いて小瓶の中の文恵は心底穏やかな表情で語り始めた。

「田口さん、わかりました。好きよ好きよも今のうちにしておいて下さいね。私、田口さんのことを憎むことができません。長々語らなくともわかるはずなんですが、心の内に閉まっているものを相手に伝える勇気って大切なんです」

このやり取りを聞きながら、小瓶の中に閉じ込められた恵美はうんうんと泣いていた。

「なんだかわけがわかんないんだけど、今回のできごとって田口さんにとって一歩踏み出すための勇気だったんじゃないのかなぁ。私たちはそのための犠牲者になってしまったわけだけど、これにはきっと深い事情がある感じがするのよね」

今度は恵美の言葉に真矢が反応した。

「俺がこの小瓶とアプリを作ったのは、田口のために役に立ちたいって思いからなんだよなぁ。何も言わずに実験動物のように扱ってしまったことは俺からも謝ります。この小瓶とアプリを使って田口が一歩踏み出せるようになったのは事実なんだなぁ。二人には本当に悪いと思ってるんだけど、この小瓶とアプリを使ってまだやり残していることがあるんだ。だから、明日の朝まで俺たちの実験に協力してもらえないかな?この通りお願いします!」

そう言いながら真矢は土下座をして「お願いします!」を繰り返していた。小瓶に閉じ込められている文恵と恵美の表情は、何か特別な感動を受け止めてしまったのか、ボロボロと涙を流しながら首を大きく縦に振っていた。

「わかったわ。真矢くんがそこまで言うのなら明日の朝まで実験に協力してあげる、それが終わったら速やかに小瓶の中から出し通常生活を送れるようにするって約束してちょうだいね」

恵美の答えに文恵も続けた。

「私も恵美と同じ考えです。私たちの姿に成り済ますんだったら、とことん成り済ましてボロを出さないようにしてちょうだいね。そして、私たちが大きく関わっている人たちに迷惑をかけることは絶対にしないってことで、よろしくお願いしますね」

そして、恵美は気になることがあったので言葉を加えた。

「あっ、もしかして……真矢くんは私の姿に変身しようと思っているの?」

その言葉が解き放たれた時には、真矢は身につけていたものを全て脱ぎ、恵美の使ったバスローブに袖を通していた。そして、スマホを手に取り画面を操作するとバスローブに包まれている身体が変化していった。背が低くなり、ゴツゴツした肩が丸くなり、バストとヒップが膨らみ、ウエストはキュッと引き締められていた。股間にぶら下がっていた真矢のモノは無くなり、ツルツルのスラッとしたふくらはぎ、太ももが現れ足のサイズも小さくなったのだ。頭の骨格も変えられて髪の毛が伸びきると、バスローブに身をまとった文恵の姿が現れたのだ。

「えっ!?真矢くんが文恵の姿に変身するの?」

真矢が文恵に変身するとさっきまで文恵の姿をしていた田口だが、自分の元の姿に戻っており真矢が履いていたトランクスによって大事なものを漏出させないようにしていたのだ。

「文恵が二人もいるなんておかしいからね。このアプリでは重複変身が禁止されていて、別の誰かが同じ人物に変身しようとすると、先に変身していた人の変身が自動的に解除される仕組みになってるんだよ。俺は自分がよく知っている人には変身したくないし、元々の計画でここからは田口が恵美に変身することになっていたからなぁ。ここからは俺が……いや、私が桜井文恵ってことで、よ・ろ・し・く・ね!」

最後に投げキッスもサービスしながら、真矢は文恵の動きを真似て成り済まし始めていた。

「そっかぁ、じゃあ田口さんが私に変身するのよねぇ。二人で何を計画したのかは詳しくわからないけれど、私たちが犠牲になることであなたたちが救われるんだったら手助けすることになるわよね」

そういうや恵美の家のリビングに田口の姿はなくなり、代わりにパジャマ姿の恵美が立っていた。

「は〜い。みなさん、おはようございます。ここからは私が後藤恵美よ!よろしく!」

文恵として約一日を過ごした田口にとって恵美の身体に変身したことは、まるで新車を買って乗り換えたような感覚だった。

「ここからは田口さんが恵美で、真矢さんが私なのね。真矢さんにも『私の思い』を覗かれちゃうのは困るけど、夜までボロを出さないようにお願いしますね」

本物の文恵が言った。

「はい、わかりました。小瓶の中はできるだけ快適に過ごせるように作ってあるので、二人ともここでおとなしくしていてくださいね。あなたたちを閉じ込めた小瓶はここに置いたままにして夜まで出かけて来るからね」

真矢はそう言うとスマホの画面を操って小瓶の中から外には音声が漏れないように設定を変えたので、本物の文恵と恵美は会話をしようにもできなくなってしまった。

「そうそう、後藤さんがシャワーを浴びている間に昨日出会ったソムリエの五十嵐祐介だったっけ、彼からLINEが入っていたよ。今日の昼頃から一緒にデートしないかって誘われたんだ。もちろん、デートするってすぐに返事を返しておいたから、待ち合わせ場所と時間を送ってくれるはずだよ。後藤さんに代わって私が彼とデートするから心配しないでね。じゃあ、さっそくデートのための準備を開始するわね」

田口扮する恵美は、クローゼットの扉を開けると薄い黄色の春物膝丈ワンピース、くるぶしのところに刺繍の入ったベージュのストッキングにさっそく着替え始めた。ドレッサーの前で入念にメイクアップ、ヘアセットを行うのだが、小瓶の中から見ても恵美が準備する様子と寸分たりとも違いがなかった。

「田口が恵美として五十嵐祐介とデートするってことだから、デートの時間からは私は別行動するわね。独身の柴田課長を誘い出してデートしようと思ってるのよ。絶対的に彼氏にしたいタイプではないけど、課長の内面を知るのに絶好の機会になると思うのよ。男性を相手にボロを出さずに一日を過ごすことができるのかっていうのが、今日の実験目的だしね。それを元にして、この小瓶とアプリにこれから必要な機能をもっと考えたいと思ってるからね。『私の思い』は課長にあるわけじゃないから、全く心配しなくていいわよ」

真矢扮する文恵は、恵美のクローゼットの中から服を借りることにした。ラメの入ったオフホワイトのブラウス、ベージュのカーディガン、ブロッサムピンクのマーメイドスカート、それにベージュのストッキングを身に付けた。これまた文恵が準備する様子と一ミリたりともズレることがなかった。

「恵美。今日のメイクって気合が入ってるわね」
「文恵。あなただって入念にメイクしすぎじゃない?」

田口も真矢もお互いすっかり恵美と文恵に成り済ましていた。リビングにいる美女たちが本物ではなく、しかも男性だなんてことに気づくことの方が不可能に近かったのだ。二人の外出準備が済む直前に、恵美のスマホには五十嵐からのメッセージがLINEで届いていたのだ。

「えっと、なになに?ここからの最寄り駅で駅前にある噴水広場で十一時半に待ち合わせようだって。まぁ、ちょうどいいわね」

田口はまるで恵美が書くようなメッセージをすぐに書き上げてすぐにLINEで返事を返した。普段の田口なら絵文字を使うこともままならないが、恵美と同じように行動できてしまうのだった。

「こんなメッセージをあっさりと書き上げてしまうなんて、真矢さんの作った小瓶とアプリの威力を感じてしまうわ」

一方の真矢は文恵のスマホを手に取り、柴田課長に電話をかけていた。四十代後半の課長はLINEのようなサービスを利用することが苦手で、直接電話するのが一番良いといいうことも文恵の記憶を使って分かったことだった。

『あっ、もしもし』
「柴田課長の携帯ですよね。こんにちは、桜井です」
『おっ、桜井くん。どいういう風の吹き回しなんだい?君から電話をくれるなんて珍しいねぇ』
「まぁ、そうですよねぇ。たまには課長と週末を一緒に過ごしたいなって、ちょっと思ったんです。今日の予定が無かったら一緒に食事でもしてお茶したいんですけど」
『おやっ?奢ってやるから昼飯でも付き合ってくれないかって言ったのに、昨日も君から断られたじゃないか、急に気が変わったなんてどうかしてるんじゃないか?』
「課長。そんなに疑い深くならなくてもいいんじゃないですか?私と二十歳近くも年が離れているとは言っても、人生経験も抱負でしょうし、ちょっと相談したいこともあるんです。ご一緒できますか?」
『別に疑っているわけじゃないよ。とにかく、わかったよ。これからすぐに準備するから十二時に会社の最寄り駅の改札前で待ち合わせよう』
「はい、了解しました。それでは、美味しいものを期待していますね」
『じゃあ、十二時にお願いします』

そう言い残すと課長は電話を切った。どこからどう聞いても課長と文恵のやり取りにしか思えなかった。田口扮する恵美と真矢扮する文恵のデートが決まり、ドレッサーの前で最後の仕上げとして軽く香水を振りかけるのだった。そして、玄関で恵美は黄色のハイヒールを取り出し足を入れると視界が一気に広がった。文恵は青いパンプスに滑り込ませると、食卓テーブルの上に二つの小瓶が取り残されたまま、恵美と一緒にマンションから出て行ったのだ。



恵美の家を出た二人は待ち合わせの時間まで二時間ほど余っていることもあり、駅前のネイルサロンへと向かって歩いていた。

「やっぱ、俺たちが女を楽しむならネイル交換は欠かせないよなぁ」

文恵がそう言うや恵美は文恵の口をすかさず手で覆って来た。

「ちょっと、ちょっと、文恵ったら。男言葉は使わないようにしなくちゃ、あなたは文恵・な・の・よ!」
「あっ、ゴメン、ゴメン。私ったらはしたないわよねぇ。恵美の言う通りに気をつけるわ」
「本当に気をつけてちょうだいね。ちょっとだけ地が出るのは大丈夫だけど、今のあなたは桜井文恵で私は後藤恵美なのよ。二人にも完璧に成りすましてみせるって約束したんだからね。今日はお互いに男たちとデートをしてバレないように過ごすのが目的でしょ」
「はい、はい。わかってるわよ」

耳にタコができそうだと言わんばかりに文恵は顔をしかめて恵美の話に応えていた。そして、恵美は話を続けた。

「それと、うちの会社はネイル禁止じゃないけど、ヌードカラーをベースに爪先をホワイトでハイライトしただけのホワイトフレンチネイルにするのが無難よ。ネイリストさんに頼むときは派手なネイルにしないように気をつけないと」
「恵美ったら、いつの間にそんなことまで知ってるの?」
「だって、そんなの常識じゃない」

二人は立ち止まって顔を見合わせて笑っていた。そして、そんな会話をしながら歩くうちに目的のネイルサロンへと到着、いつもの二人のように中へと入ると顔見知りのネイリストたちから施術を受けたのだが何の違和感を与えることもなく、無事にネイル交換を済ませることができたのだ。



ここは駅前の噴水広場、ネイルサロンを出て文恵と別れた恵美が五十嵐祐介が来るのを待っていた。直前に入ったLINEによると、待ち合わせ時刻ギリギリに到着するらしいとのことだったので、恵美は焦らないでいいからというLINEを送り五十嵐が来るのを今か今かと待っていた。さっきまで一緒にいた文恵とLINEでやり取りをしながら待ち時間を過ごしていた。

『五十嵐祐介なんだけど、待ち合わせ時刻ギリギリに到着するって連絡が入ったわよ。彼って絶対私に気があるのは間違いないわよね。昨日、一緒に食事をしている時も私に視線を浴びせていたみたいだしね』

恵美がそう送るとすぐに文恵から返事が返ってくる。

『そうよね。恵美も彼のことを満更でもない表情で見つめていたじゃない、今日のデートは成功するように頑張ってね!』
『ありがと。そろそろ、彼がやって来そうだから、文恵の方は課長と楽しんで来てね』

普段二人が実際に行っているようなLINEのやり取りもお手の物だった。自分たちの身体に見合ったやり取りをするだけでも、とても生き生きとしてくるのだった。そんな風にして五十嵐を待っていると待ち時間も無駄では無いと思えてくるのだ。それから、十分ほど経った頃に駅の改札を通過して来る好青年の姿が見えた。昨夜はソムリエ兼ウェイターの制服に身を包んでいたが、今日は私服のジーンズにブルゾンという出で立ちで恵美の方へと少し駆け足しながら近づいて来た。

「後藤さん!だいぶ待たせちゃったでしょ。ゴメンなさい。初めてのデートの約束をしておきながら遅刻するなんて、俺って駄目な男だよね」

すると、退屈することなく五十嵐を待っていた恵美は自分の手を差し出して握手を求めていた。その手と五十嵐の冷や汗でいっぱいの手が重なると二人はとびっきりの笑顔になっていた。

「とにかく〜よろしくお願いします。私、遅れて来たこと、全く気にしてないからね。駄目な男だなんて思わないでよ。あなたはステキな人なんだから、もっと自信を持って欲しいな!」
「あっ、ありがとう。じゃあ、お腹空いてるんじゃない?どこかでランチでも食べに行こっか」
「私はもうちょっと後でいいわ。もう少しここで祐介の手を握っていたいの」

恵美は五十嵐を何の断りもなく名前で呼び捨てていた。

「あぁ、わかったよ。恵美の思っている通り、もうっちょっとだけここにいよっか」

五十嵐も恵美のことを呼び捨てると、お互いの顔を見合わせ楽しい空気に包まれた。

「ウフフフ、私たちってまだ会って間もないっていうのに、お互いに呼び捨てし合うなんて気が合うみたいね」
「ハハハ、そうだよなぁ。これってきっとテレパシーみたいなものだよなぁ。なんだか喜んでもらえるかと思って」

二人の距離が一気に縮まった。

「いいわよ。私のことは恵美って呼んでちょうだい」
「わかったよ、恵美。これでいいかな」
「そうそう、祐介。私たちって、まるでずっと昔から結ばれていたみたい」
「それって、運命の人ってこと?」
「とにかく、好きよ好きよも今のうちにしましょうね。今日は一緒に楽しい時間を過ごしたいわね!」

そう言って、二人は噴水広場からどこへ行くともなく歩き出していた。



その頃、文恵は課長との待ち合わせ場所となっている会社の最寄り駅に到着していた。十二時の待ち合わせ時間までまだ時間があったので、改札を通り抜けると駅ビルの中に入店しているブティックに入ってみた。所狭しと並べられている店の中からブッラクのワンピースを手に取り試着室へと向かった。試着室に入ると、恵美から借りたブラウス、カーディガン、スカートを脱ぎ捨て下着姿が露わとなり、ワンピースの脇の下にあるファスナーを開くと慣れた手つきで身につけて行く、脇の下のファスナーをしっかり上まで上げるとワンピースに身体のラインが浮かび上がっていた。姿見の前に立ってみると大人の雰囲気がぐっと醸し出されていた。ワンピースのスカートはフェミニンなマーメイドスカートとなっており、大きなスリットからは脚が見え隠れしていた。

そして、文恵は試着したまま店員を呼ぶと身につけいている状態で「これください」と伝えた。店員はネームタグを切り取り、脱ぎ捨てられている服と一緒にレジへ持っていた。文恵はそのままの姿で青いパンプスに足を入れて、店員の後を付いて行った。レジではさっきまで身につけていたものを店員が丁寧に畳んで紙袋に包んでくれたのだ。レジに値段が表示されると、文恵はショルダーバッグの中から財布を取り出すしカードを差し出した。決済処理が完了すると店員はカードとレシートを渡してくれた。そして、紙袋に入れた服を渡そうとしたが文恵は閉店する時間まで預かって欲しいと頼んだので、保管してもらえることになっていた。左手の手首にはめている時計に目をやると十二時まであと十分、時間が過ぎるのは本当に早かった。

駅ビルから出て、改札前に向かうといつもとは違って、ジーンズにスニーカーというカジュアルな出で立ちの柴田課長が文恵が来るを今か今かと待っていた。化粧室で軽くメイクを直して来たので、文恵が改札前に到着すると駅の構内にある時計が正午を知らせてくれていた。緊張した面持ちの柴田課長に文恵は近づきながらあいさつを交わすと、柴田課長の緊張感はピークに達しているようだった。

「課長、お疲れ様です。だいぶ待ったんじゃないですか?」
「桜井くん、お疲れ様。心配はいらないよ、さっき来たばかりだからね」

二人はまるでいつも会社にいるかのように声を掛け合っていた。

「課長とプライベートでお会いするのは初めてですよね。なので、私はちょっと気合いを入れて来ちゃいました」

柴田課長は目の前に立つ文恵の姿に釘付けになってしまっていた。

「そんなぁ。私に会うのにそこまで気合を入れる必要なんてないのに」
「だって、今日は大切な相談もしたいと思っているので、勇気を振り絞りたくて……」
「そうだね。まぁ、私の経験で君を助けられるなら、なんでも相談していいよ」
「ありがとうございます。じゃあ、さっそく一緒に食事でも行きましょう」
「あぁ、わかったよ。君と一緒に行ってみたいと思っていたお店があって予約しておいたから、今日は私の奢りだよ」
「えっ、そうなんですか?わぁ〜、とっても嬉しいです」

そう言って、文恵は自分の手で柴田課長の腕を掴んできた。文恵との距離が縮まって柴田課長はニンマリとした表情を浮かべる。

「ここから少し歩くけど、大丈夫だよね」
「は〜い」

こうして、文恵と柴田課長とのデートも始まっった。



週末のショッピングモールは家族連れやカップルでごった返していた。モールの中をゆっくりと見て回っているカップルの中に五十嵐と恵美の姿もあった。腕を組みながら歩いている二人の様子は傍から見ると当然仲のいいカップルに見えるのだが、前日に出会ったばかりとは思えないほどの距離感だった。そして、恵美はとあるショップを見つけると組んでいた腕を解き中へと入って行く。

「これもステキだけど〜、こっちも捨てがたいわねぇ、それに〜」

目の前に並べられている商品を見ている恵美の独り言が五十嵐にも聞こえて来た。

「ねぇ、祐介。これってどうかな?」

五十嵐が駆け寄ってみると、恵美の視線はショーケースの中にある光り輝くイヤリングに向かっていた。そして、イヤリングの下に掲げられている数字に五十嵐の視線が移っていた。

「五十万円?このイヤリングって、五十万円もするの?」
「そんなにビックリすることも無いじゃない、年代物のワインだったら飲んでしまえば消えてしまうけど、これはすぐに消えて無くなる代物じゃないでしょ」

恵美はソムリエの五十嵐にわかりやすい例えを使った。

「まぁ、確かに。大切に扱えばいつまでも使えるだろうね」
「でも、いくら会社勤めをしている私でも、さすがにこれを買う余力は無いのよねぇ。これを買ってくれるような王子様でも現れない限り、私には無縁の物ってわけ」

冷静に現実を見つめ直してみると、やはりこのイヤリングは手の届かないものだった。

「その王子様なんだけど、俺が立候補したいと思ってもさすがにこの値段は無理だね。やっぱり、生活するのが優先だし、こう見えても俺って庶民派だから」
「そうだよねぇ。祐介にプレゼントしてもらえるならそれに越したことはないけど、私も庶民派なの。この手のものは無理だとわかっていても、ちょっとだけ夢を見たいじゃない」
「そうだ。恵美はお寿司を食べに行くならどっちがいいと思ってる?回る方?回らない方?」
「そりゃあ、当然回らない方に決まっているけど、祐介とならどっちでも構わないわ」
「なんだか、そろそろお腹も空いてきたから、回転寿司にでも行ってお昼にしない?」
「うん、そうしましょう」

そうして、アクセサリーの店を出るとショッピングモールの人並みに溶け込んでいった。



柴田課長と文恵は、落ち着いた雰囲気のお店で肩を並べるように座っていた。ここはオフィス街のど真ん中にある老舗の寿司屋だった。平日ならランチタイムで慌ただしい雰囲気を醸し出すのだが、今日は週末ということもあって閑散としている。平日はいつも満席でゆっくりすることもできないが、今日みたいな日は逆にゆっくりと過ごすことができるのだ。店内には先客がカウンターに二組いるだけで間隔を空けて座っていた。

「桜井くん、苦手なものはあるかな?」

そう言って、柴田課長は隣に座る文恵に好き嫌いを確認していた。

「苦手なものですか?私ってこう見えても何でもよく食べるんです。課長のオススメがあるなら、注文はおまかせしますね」

すると文恵は右脚の上に左脚をのせるように脚を組んだ。スカートのスリットから文恵の美脚が柴田課長の喉をごくりと唸らせた。柴田課長は文恵に気づかれないよう冷静を装いながら寿司屋の親方に声をかけた。

「大将。オフィス街のど真ん中で週末の営業は厳しいんじゃないの?」
「おっ、柴田さん、まいど。いやぁ。そうでも無いですよ。週末は週末で混雑する時間帯が違うんですよ。この時間はまだ閑散としてるんですが、もう少し遅い時間からいつも込み始めるもんで今は準備運動しているようなもんです。今日もいつものでよろしいですか?」
「いつものでお願いします。彼女にも同じものをください」
「はい、承知いたしました」

そう言って親方は早速二人のためにコース料理を準備し始めた。必要な材料を集めて、一つひとつに丁寧な仕事を加えて行く。その手さばきを見るだけでも実に楽しくなってしまう。職人とのコミュニケーションを取りながら食事をするのがここでの醍醐味なのだ。

「それにしても柴田さん、お連れのお美しい方はどなたなんですか?もしかして奥様?」

本マグロを捌きながら親方は柴田課長に言葉をかけて来た。

「大将ったら冗談きつすぎますって、独り身の俺に奥様がいるはずがないでしょ。彼女はいつも俺の仕事を助けてもらっている有能な部下ですよ。たまには、部下のためにごちそうするってのもいいでしょ」

柴田課長の隣に座っている文恵は親方に向かって軽く会釈をした。

「はじめまして、桜井文恵です。今日は課長に相談があってプライベートでお会いしたんですど、ランチを奢ってくれると連れて来られた店がここだったんです。会社のすぐ側なのにここに入ったことは無かったんです」
「そうなんですね。奥様じゃなかったら奥様候補かなって思ってたんですけど、会社の部下だったとは、柴田さんも隅に置けませんねぇ」
「そんな風にからかわないでくださいよ。とにかく、今日はいつもよりも美味しくお願いします」
「はい、承知いたっしゃしたぁ!」

そうやって、固くなっていた雰囲気が一気に和やかムードに切り替わっていた。次々と出される握りと料理に舌鼓を打ちながら大将との言葉のやり取りを楽しむと時間は一気に過ぎて行った。



「これで四十枚目ね」

テーブルの上に積み上げられた皿の山、恵美の見た目とは裏腹に底なしの胃袋を持っていた。ボックス席で向かいに座っている五十嵐は、勘定も心配になったのか、まだ十枚にも達していなかった。

「恵美って、よく食べるんだね」
「だって、お寿司食べるのとっても久しぶりなんだし、ここのお店って新鮮なネタで有名なんだもの〜。そして、私ったら好きなものには目がないのよね」
「それに、こんなに食べても太らないなんて、羨ましいなぁ」

五十嵐は湯呑みに入れたお茶の粉末をお湯で溶かしながら言った。

「うちの家族って太らない体質なのよね。祐介もそうなんじゃないの?もっとしっかり食べてよ」
「いやいやいや?、ランチは少なめに食べるようにしてるだけなんだって」

ゆっくりとお茶を流し込む五十嵐の目の前で恵美はレーンからもう一皿手に持った。

「じゃあ、これで食べ納めにするわね」

五十嵐はすっかり諦めた表情で天を仰いでいた。

「わかった。わかった。好きなだけ食べていいよ。本当は給料日前だから安上がりにしたかったんだけど、恵美のためだと思ったら気が楽になったよ」

最後の一つが恵美の口に入ると、五十嵐はタッチパネルでお勘定と書かれているボタンをタッチした。すると、店員がやって来てテーブルの上に山のように積まれている皿を数え上げ、五十嵐に伝票を手渡した。



「ごちそうさまでした。課長。とっても美味しくいただきました。会社の近くにこんな店があったなんて、私、全く知りませんでした」

文恵は課長から奢ってもらったランチにとても満足していた。

「うちの会社の女子社員はコンビニランチばかりだからな。たまにはきちんとしたものを食べないと体を壊すかも知れないぞ」
「確かにそうですけど、最近のコンビニランチは昔とは違ってヘルシーなものに変わってるんですよ」
「まぁ、そうやって時代は移り変わって行くんだろうね。これからはときどき私がランチを奢ってあげるよ。それに、二人きりというのも悪いから後藤くんも一緒に誘ってください」
「はい、わかりました。恵美も一緒なら私も気兼ねすること無く誘いに乗りたいと思います。お腹も満たされたことですし、これから課長に話したいことがあるのでカフェに行きませんか?」
「じゃあ、あそこにあるカフェでいいよね。君たちがランチタイムによく行くカフェだけど、今日は週末だから誰かに聞かれることもなく落ち着いて話せるだろうしね。じゃ、そこのカフェに行こうか」

二人は足取り軽くいつものカフェに向かい、柴田課長は文恵からの相談を受けていた。そんなわけで二人きりの時間を夜遅くまで楽しんでいた。



部屋の中はすっかり暗闇に包まれていた。テーブルの上に置かれた二つの小瓶の中にいる二人はシンデレラたちの帰りを待ちに待っていた。夜には帰って来るという言葉を信じるしかない二人にとって、半日ほどの時間がまるで数年のように感じていた。

小瓶の中では空腹を感じることもないのだが、ただ待つことしかできないのが二人にとっては苦痛だったのだ。いや、それだけでは無い、二人に成りすましている二人がどんな風に過ごしているのか、そのことを考えるとこれまた別の苦痛が襲って来るために我慢するしか無かった。

そして、玄関の方から物音がしたかと思うと、暗闇の中に一筋の光が差し込んでいた。そのわずかな光は、小瓶の中に閉じ込められている二人にとっても希望の光となって心の中に入り込んでいた。その光が部屋全体に広がると楽しそうな表情を浮かべながら、ほろ酔い姿の二人がリビングに入って来た。

「ただいまぁ〜」

二人は小瓶の中にいる二人に挨拶を交わし、ソファの上に座るとパンパンにむくんだ脚を伸ばして手で揉み始めていた。そして、恵美はテーブルの上に置かれた小瓶を手に取って中に入っている本物の恵美に喋り始めた。

「後藤さん、今日はありがとうございました。お陰様で五十嵐祐介との初デート、楽しむことができました。これで俺に思い残すことはなくなりました。女性の気持ちを理解することができて、自分に自信が持てるようになったんです」

「話はともかく後回しにして、早く元に戻してくれない?」

小瓶の中に長く閉じ込められている恵美は待ちくたびれているのと同時に、早急に元に戻りたいという気持ちがヒシヒシと伝わって来た。

「今すぐ元に戻りたいところだけど、このまま元に戻ると着ているものが破れてしまう恐れがあるから、まずは着ているものを脱ぐわね。元に戻ってからの着替えも用意しないとね」

そう言って、ライトブラウンのスーツケースを奥の部屋から取り出すと、中から田口と真矢の着替えを取り出しソファの上に置いた。

「それじゃ、元に戻るわね」

二人が小瓶のフタを同時に開けると変身が解けて田口と真矢の姿、それに文恵と恵美の四人は元の姿に戻って恵美の部屋に集まっていた。そして、お互いが裸でいることに気づくや準備していた下着を素早く身につけた。すると、部屋の中は笑い声で包まれていた。



月曜日の朝、いつものように会社では朝礼が行われていた。いつものミーティングスペースには柴田課長を始めとする総務課の面々が集まって、今週のスケジュールを確認していた。先週のミーティングでも口を開くことの無かった田口だったが、今朝は気が済む様子が無いほどに口数が多かった。それにしっかりと身だしなみを決めていたのだ。そして、田口の隣に座る文恵もハキハキとしていた。ミーティングの途中で時折、田口と目線を合わせると微笑みを浮かべている場面が何度もあったのだ。

午前中の仕事が一通り片付くと珍しいことに柴田課長が田口と文恵と恵美をランチに誘っていた。会社の近場にある唐揚げがオススメの店があるということで、土曜日に文恵とデートをした時の約束を果たしたのだ。いつもなら各自が別々にランチタイムを過ごしているのだが、たまには一緒にランチタイムを過ごすのも円滑に仕事とをするためには必要だと、柴田課長がランチを奢るということで珍しいメンバーが集められた。

目的の店に到着するとすでに満席だったが、ほんの三分も待たずにテーブル席が空いて席に通された。柴田課長と田口が横並びに座り、柴田課長の向かいには恵美が、田口の向かいには文恵という配置だった。ここでも田口と文恵は時々目線を合わせると微笑みを浮かべているのだった。

「何だか今日は二人の様子が変じゃない、朝礼の時もそうだったけど、何かあったのかな?」
「まさか、二人とも付き合っているとか?」

柴田課長の言った言葉に続けるように恵美がまくし立てていた。

「そんなんじゃありませんって。だよねぇ、桜井さん」
「あっ、そうですよ。田口さんがちょっかいを出してくるから、それに苦笑いをしているだけですって」
「まぁ、そうなのかな。二人の顔に嘘って書いているような気がするけどね。本当のところはどうなのかな?」

タイミングよく唐揚げが運ばれてきて、言い逃れることができた。

「とにかく熱いうちが美味しいから、覚める前に食べましょう」

そう言って柴田課長は熱々の唐揚げを箸で掴み始めていた。



「ごちそうさまでした!」

食事を終えると文恵は席を立って化粧室へと向かった。

「田口くん、桜井くんと一体何があったんだい?」

文恵がいなくなると質問の矛先が一気に田口に集中していた。

「課長、それに後藤さん、ご想像にお任せします」

田口はそうやって微笑みながら二人に返事をした。

「まぁね。実は土曜日に桜井くんと会って相談を受けたんだけどね。その結果が現れたんじゃないかと朝から思ってたんだ」

ここまで話すと恵美も化粧室に行くために席から外れた。

「課長、二人きりになったので課長にだけお伝えしますけど、僕らは付き合うことになったんです」
「ハハハ、そうなんだ。それは良かった。桜井くんが君に告白したいと言ってたので、思いっきりぶつかってみたらってアドバイスしてあげたんです。同じ部署にいるからって振られたら気まずい雰囲気になるのが嫌で私に予め相談してくれたんです。でも、社内ではまだしばらくは内密にお願いしますね。きっと、桜井くんが後藤くんにそのうち話すだろうからいずれはわかることになるだろうけど、桜井くんから後藤くんにも内緒にして置いて欲しいって言うからね。それに、社内恋愛ってことは結婚を前提にしてもらわないと困るよ」

ランチの残骸を目の前にして上司と部下の会話が続いていた。

「はい、わかりました。課長が思っている通りに結婚を前提に付き合うことにしました。これからも僕らのことをよろしくお願いします」
「わかりました。ただし、業務に支障を起こすことの無いように気をつけてくださいね」

上司が部下にそう語ると、田口は黙って頷いた。



恵美が化粧室に入ると大きな鏡の前で文恵が化粧直しをしていた。しかし、その手つきは普段よりもぎこちなく動いているように見える。恵美も隣に立って

「文恵、もしかして田口さんと付き合ってるんじゃないの?」

唇の上でリップスティックを慎重に塗っている文恵の手が止まった。

「えへへ、恵美には隠せないわね」
「隠すも何も二人とも周りから見たらすぐに気づかれるわよ。幸せそうなオーラが出ていたからね」
「恵美、彼と私は結婚を前提に付き合うことにしたんだ。社内恋愛してるってことはまだ公表しないでね。それと、柴田課長には私から相談したのできっと今頃二人で話をしているはずよ」
「やっぱり、そうだったのね。まぁ、そうよね。こうみえても私は口が堅いから誰にも言わないでおくわね」
「ありがとう!」

文恵は恵美の肩を取り囲むようにして抱きしめながら喜びを表した。

「そうそう、恵美の方はどうなの?祐介くんだったっけ?あれからも連絡してるの?」
「もちろん、連絡もしてるし昨日も彼の店に行って来たのよ。でも、二人が一緒に休める時間がいつになるのか、それが心配よね。彼のシフトが決まらないと計画も立てられないから」
「そうだよね。一緒に休めないのはなかなか大変かも、こんなに近くに彼氏がいるってかなり幸せかもね」
「そりゃ、そうだよ。文恵の恋愛、私が応援するわね」
「じゃ、私は恵美の恋愛を応援してあげる」

二人の笑い声で包まれた小さな空間は明るさが増していた。



ここは恵美のマンション。重たい玄関の扉がゆっくりと開くと、仕事を終えた恵美がパンプスを脱ぎ捨てながらリビングへと入っていった。電気を入れ部屋の中が明るくなるとテーブルの上に載せられている小瓶を手に取っていた。

「後藤さん、ただいま」

そうやって挨拶を交わした小瓶の中には、恵美の姿が閉じ込められていたのだ。

「恵美になりすまして会社で一日を過ごすなんて本当は思ってもいなかったんだけどね。やっぱり、あの二人のことが心配で近くで監視できるように協力してもらったってわけ、協力してくれてありがとう」

小瓶の中にいる恵美はすぐに元に戻してと言わんばかりの表情だった。

「あっ、ゴメンゴメン。すぐに戻してあげるからね」

そう言うや身につけているものを脱ぎ捨てると小瓶のフタを開けて、小瓶の中の恵美は元に戻り、変身が解けると真矢直樹の姿が現れていた。

「真矢くん、今回の代償として私にもこの小瓶を使わせてくれるんだよね」
「あぁ、約束通り使ったらいいけど、俺を閉じ込めるのはやめてくれよ」

二人は何も身に着けていないのにも関わらず、ありのままをさらけ出し恥ずかしがることなく向かい合うように立っていた。

「なぁ、恵美」

この一言で部屋の中には何とも言えない緊張感が張りつめていた。

「真矢くん、何か言いたいことがあるの?」

すると、真矢は急に恵美の身体に近づき肩から通した手を背中でしっかりと掴み抱きしめたいた。

「俺、やっぱりお前のことが好きだ」

部屋の中に張り詰めていた緊張感は一気に弾けていた。そして、真矢の中に包まれていた恵美は一筋の涙を流しながら、真矢の胸の内に収められていた顔を上げてお互いの顔がしっかりと見える位置へと動かしていた。

「ありがとう、真矢くん、私もあなたと同じ気持ちよ」

二人の心はすでに同じ方向に向かっていたのだ。お互いのことを許し合うことで、お互いのことを愛し合うことができること、感激でいっぱいだった。

「お前の姿で一日過ごしていてわかったんだけど、俺って昔からお前のことを好きだったんだ」
「なんだか、私たちって似たもの同士よね。お互いに好きだったのに自分の気持ちに素直になれなくてね。私も色々な男の人とデートしてみたけど、真矢くんのような人をずっと探してたんだ」
「五十嵐の奴とデートするって時も実は妬いてたんだけど、田口の奴を助けるように見せかけておいて、実は俺がお前に告白するチャンスを伺ってたんだ」
「素直になれなくてごめんね」
「いや、俺の方こそ好きだって素直に伝えなくちゃならないのに、素直に伝えられなくてゴメン」

そして、二人はお互いの唇を重ね合わせていた。舌を絡ませながらのディープキス、短い時間ながら二人が知り合ってから今までよりもずっとずっと長い時間に感じるのだった。



恵美の家の中で共用玄関からの呼び出し音が鳴り響いていた。来訪客を映し出すオートロックの画面には文恵と田口の姿があり、恵美はオートロックの解除ボタンを押していた。恵美と真矢は素早く着替えを済ませると文恵と田口が家にやって来るのを待っていた。玄関の前でインターホンが鳴るとすぐに恵美は玄関の扉を開けた。

「お邪魔しま〜す」

そう言いながら田口は自分の靴と文恵が脱ぎちらしたハイヒールを手に取って、玄関にきれいに置き直していた。文恵も田口も軽くお酒を飲んできたようでほろ酔い加減だった。

「二人とも今日の一日はどうだった?」

二人がリビングに入ってくるとさっそく真矢が質問して来た。

「最高の一日だったわ。人生捨てたものじゃないわよね。希望を持って生きるって本当に楽しいわ」

文恵に続けとばかりに田口も口を開いた。

「本当に楽しい一日を過ごすことができたよ。こんなにいい友だちがいたんだって実感したよ」

それを聞いた真矢は安堵の表情を浮かべていた。

「それは、良かった。二人が付き合うようになって俺も嬉しいよ。それに……」
「私も二人のこと応援してるわ」

真矢が何かを言おうとした時に恵美が横槍を入れてきた。

「それに……」
「本当にお似合いのカップルよね。あっ、真矢くんは何が言いたいの?」

言葉を遮っていたことに気づいた恵美は、真矢が言葉を続けられるように橋渡しした。

「それに……恵美と俺も付き合うことになったんだ」
「えっ!?」

そのことを聞いた文恵と田口は一斉に声を上げていた。

「二人ともおめでとう!実は私も薄々感じていたの、二人が一緒になるといいなって」
「二人もお似合いのカップルだよ。これからは一緒にダブルデートするのもいいだろうし」

文恵と田口はすぐに冷静になって二人を祝福していた。

「ありがとう」

祝福ムードに包まれ、恵美が冷蔵庫の中から赤いボトルワインを取り出し、ワイングラス四脚持ってくるとテーブルの上に並べて注ぎ始めた。テーブルを囲むように四人が座るとささやかなミニパーティーが始まるのだった。

「乾杯!」

四人はグラスを重ね合わせながら、二組のカップルが誕生したことに対して祝福し合いながら語り合っていた。



ボトルワインの最後の一滴がグラスに注がれた頃、真矢が時計に目をやると夜の十二時になろうとしていた。

「じゃあ、そろそろ二人を元に戻そうか」

グラスに残された最後のワインを口に含んで真矢はそう言った。

「二人を元に戻すって?」

真矢の隣に座っている恵美は狐につつまれた表情を浮かべていた。

「実は、二人には新開発したアプリの実験台になってもらっていたんだ。田口の姿をしているのが桜井さんで、桜井さんの姿をしているのが田口なんだ。二人の心と身体が入れ替わったわけではなくて、お互いの姿に変身している状態。小瓶の中に閉じ込めなくてもアプリだけで変身ができるようにと新しいアプリを開発したんだけど、二人に実験台になってもらって一日を過ごしてもらっていたんだ。まだβ版の段階で実験データが必要だけど会社では柴田課長にも気づかれることがなかったし、ここでは恵美にも気づかれなかったよね。ということで、実験は成功したから二人とも元に戻すよ」

真矢は自分のスマホとは別に用意されている特別なスマホを取り出すと、開発中というアプリを立ち上げた。アプリを起動するとその中には二つの小瓶が置いてあり、それぞれの小瓶には文恵と田口の姿が閉じ込められていたのだ。

「今までのものと決定的な違いは物理的な小瓶ではなくて、バーチャルな小瓶を使うところにあるんだよ。このバーチャルな小瓶の中には膨大なデータが格納されているんだ。あまりにも膨大なデータになるため、そのデータはアプリの中では無くてサーバに保存されているよ。まぁ、細かい話は意味がないだろうから省略するとして、このバーチャルな小瓶の中に入っている人物のデータが格納されているわけだけど、それを使って簡単に変身が可能になったよ」

真矢が新開発したアプリについて語りだすと、いつ話が終わるのかわからない状態だった。

「バーチャルな小瓶にしたメリットはまだまだ他にもあるんだけど、一番のメリットは服を着替えることが無くなったことだろうね。小瓶の中で服装をコーディネートする機能を今は簡易的に準備したけど、この中でコーディネートをすると、そのコーディネートした通りに変身できるってわけ、将来的には……」

そこまで言いかけたところで真矢は恵美に口を塞がれてしまった。

「とにかく、わかったからさぁ。早く二人を元に戻してあげたらどうなの?」

恵美の手を口から振り払うと真矢は話を続けた。

「わかったよ。元に戻すためにまずはバーチャルな小瓶の中で元の服装に着替えをして、小瓶のフタを開けるだけだよ。そして、スマホで生体認証を行うと変身が解けて元に戻るってわけ、現状はこの特殊なスマホを介してでしか変身することはできないけどね。将来的には……」

恵美は真矢からそのスマホを奪うと、バーチャルな小瓶の中にいる二人の服装を元に戻して、変身を解除し生体認証を行った。すると、文恵が田口に、田口が文恵の姿に戻ったのだった。

「あっ、二人とも元に戻ったのね」
「恵美、私が一日中、田口さんに変身していたなんて気づかなかったでしょ」
「昨日の夜に、真矢から新しいアプリの実験台になって欲しいって言われた時はよくわからなかったんだけど、新しいアプリはバーチャルな小瓶を使うからね。今までみたく着替えをしたり準備したりする必要が無いからとっても便利だね」
「今のところこのアプリの課題はバーチャルな小瓶に入れるために膨大なデータを格納するから、高速なインターネット環境が必要なことかなぁ。あとはインターネット接続が切れた時の対処についてのバックアップ体制が必要なことだろうね。それに……」

そこまで言うと真矢は田口に口を塞がれてしまった。

「とにかく、真矢。お前のおかげで俺の人生はすっかり変わったよ。まるで死んだ人間が蘇ったように思えないか、古い田口康夫は死んで、ここにいるのは新しい田口康夫だよ。桜井さんと付き合うことができるなんて信じられない急展開もあったけど、本当にお前のおかげだよ。ありがとう」

田口は喋りながら目尻から一筋の涙がこぼれ落ちていた。

「いやいや、そんなことないよ。お前がいてくれるから俺もこうして助けることができたんだって、もう人生に疲れるんじゃないぞ、好きよ好きよも今のうちに言っておかないと後悔するだけだからな。これからも、みんなよろしく」

こうして二組のカップルの思い出話は夜が明ける直前まで続いたのだ。



カーテンの隙間から一筋の光が差し込み始めると、田口はソファの上でムクッと起き上がり隣の部屋の扉をそっと開け、ベッドの上で寝ている恵美と文恵の様子をうかがった。浴室の方からは水の流れる音が聞こえてくるため、真矢がシャワーを浴びているに違いない、そう思って浴室の前にある洗面所で顔を洗い始めていた。すると、浴室の扉を中から叩く音が聞こえてきたので、田口はその扉を開けてみた。

「わっ、いつの間に?」

なんと中でシャワーを浴びていたのは文恵だった。田口は急いで寝室のベッドの上を確認した。眠たい目でゆっくりと確認したがやはりベッドの上には恵美と文恵がぐっすりと眠りについていたのだ。まさかと思った田口は浴室に戻り、その扉を開けるとそこには恵美の姿があったのだ。

「えっ?まさか!待てよ?」

田口はよく見ると浴室の中に例のスマホが置かれているのに気づいた。スマホの画面には数多くの小瓶が表示されており、その中にはたくさんの人物が格納されていたのだ。浴室の扉を開けると、今度はそこに真矢が立っていた。

「寝る前に色々な話で盛り上がっただろ、そこからヒントを得てアプリを修正してみたんだ。お前もテストに付き合ってくれるよな」

そう言うと、田口も着ているものを全て脱ぎ捨て浴室の中へと突入したのだった。

(完)






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