隆は、家路を急いだ。今夜は徹夜になると思っていた仕事が思ったより早く終わったからだ。ここのところ、残業続きで、遊んでやれなかった息子とちょっとでも一緒の時間を作ろうと思ったからだ。
 一流企業の商社マンで、いつも仕事仕事で、楽しい思いでもあまりないままに死んだ親父のようにはなりたくなかったからだ。
 急ぎすぎてからみそうになりながらも、我が家の玄関にたどり着いた。そして、おもむろに、ベルを鳴らした。
ドアが勢い良く開くのを期待して、彼は身構えた。だが、ドアは静かに開き、妻の安江が顔を出した。彼の帰宅に慢心の笑みで迎えてくれた。子供の出迎えを期待していた彼だったが、妻の笑顔で、その失念も和らいでいった。
 「克はもう寝たのか。」
 服を脱ぎながら、隆は妻の安江に聞いた。安江は、黙ったまま、うなずきながら、隆の脱いだ服の皺を伸ばすとハンガーに通して、壁の衣紋掛けに掛けた。
 安江は奥の風呂場のほうに顔を向けた。隆はただうなずくと、風呂場のほうに歩いて行った。そして、いい湯加減の湯船に疲れた身体を静めた。
 風呂から上がり、食卓につくと、テーブルの上には、所狭しと、妻の手料理が並んでいた。隆は、迷いながらもうまい料理に舌鼓を打った。そんな隆を安江はにこやかに見つめていた。
 食事も済み、片付けられたテーブルの上に程よくつけた酒の入った徳利とお猪口が出てきた。その後には、ちょっとした酒の肴が酒のうまさを引き立てた。安江は、隆に背を向けて、片付けた食器を洗っていた。
 「安江、何かあるんだろう。」
 隆が言うと、安江は、振り向くと少し涙ぐんだ顔を、無理矢理笑顔にして、食器棚の引出しの中から、一枚の薄い紙を取り出し、隆の前に置いた。
 「サイン、捺印をしてくれ。」
 隆は、その紙を手に取った。それは、妻・安江の署名、捺印がされた離婚届だった。
 「安江。どういうつもりだ。」
 「もう耐えられないんだ。こんな生活に。もう耐えられないんだ・・・」
 安江はテーブルの上になき伏せってしまった。隆は、優しく安江の肩に手をかけた。安江は泣きながらその手を払った。隆は、そのことに、ただ呆然となってしまった。隆が恐れていた時がきてしまったのだ。
 それは、3ヶ月前の事だった。安江は、いま騒がれているウィルスにおかされ、男のようになってしまった。だが、息子の前ではいままでのように母親を演じてきていた。そして、隆の前ではよくしゃべり、よくわらっていた彼女が、あまり話さず、笑う事もなくなった。愛する人の前で、男になった自分をさらしたくなかったのだろう。
 あまり会話はないが、お互いの気持ちはわかっているつもりだった。だが、隆は、安江がこの生活に疲れることを恐れていた。そして、いま、それが現実となった。
 「克をこのまま、こんな母親ともおっさんともつかない俺と一緒に暮らすよりも、隆と二人で暮らしたほうがよっぽどいい。頼むから、隆。別れてくれ。」
 「安江。お前はそれでいいのか。それに、僕をもう愛してはいないのか。」
 「愛している。誰よりもお前や勝を愛しているよ。でも、この身体が拒否するんだよ。男のお前を。克の前で母親らしくしようとする俺を。」
 安江は、ただ、泣きじゃくった。隆は、そんな、安江を見詰めるだけで、どうすることも出来なかった。
 「僕や克が嫌いになったんじゃないんだな。」
 「嫌いなものか。愛する人とその人の間に出来た子供を嫌いになる奴なんているかよ。」
 安江は泣きながらも力強く答えた。
 「でも、この身体がそれをあざ笑うんだよ。男のお前が母親なんておこがましい。その身体では父親にもなれまいってね。いっそのこと、身体も男になったら、諦めもついただろうが、この身体では化け物だよ。」
 隆は、その言葉を聞いて何か考え込んでいたが、何かを決めたような晴れやかな固い意思を顔に表した。
 「安江。克が生まれたときのことを憶えているかい。」
 「ああ、お前が、俺のいる病室の前でこけたっけ。」
 「むむ、そんなことじゃなくて、二人で、克を見に行った時の事だよ。」
 「ああ、新生児室の前で、克を見ながらお前は、泣いたっけ。『俺も親父になった。親父に・・・』てな。」
 「もう、つまらない事はよく憶えているな。そのときお前が行った事を憶えているか。」
 「なんていったっけ?」
 「お前はこう言ったんだ。『あのね、隆さん。わたし、本当は男の子になりたかったの。そして、お父さんとキャッチボールしたかったの。あなたも知ってるように、わたしの父は、幼い頃亡くなったので、公園でキャッチボールしている父子を見ていると羨ましかったわ。女の子じゃキャッチボールできないでしょ。だから、男の子になりたかったの。』」
 「そういえば、そんなことをいったなあ。でもそれもかなわぬ夢だ。」
 「ゆめじゃない。安江。僕の話を聞け。いっそのことふたりで・・・・・」
 隆は、安江の耳に何かささやいた。安江は、信じられないような顔で隆を見た。
 「本気か?本気なのか。」
 「ああ、本気だ。あのときのことを思い出したときに、決心した。どうだ、安江。」
 「でも、お前は・・・・・」
 「僕は決心した。お前も、克も決して離さない。この身がどうなろうともな。」
 そう言うと、隆は、離婚届を引きちぎった。
 「隆。」
 「安江。」
 二人は、3ヶ月ぶりに抱き合った。そして、二人は、固く結ばれた。

『                                       2ねん1くみ。 こばやし まさる。
 ぼくのおかあさん
 
 ぼくには、ふたりのおかあさんとおとうさんがいます。
 ママパパとパパママです。ママパパは、まえは、パパでした。パパママはママでした。
 このあいだのふゆやすみに、とうなんアジア、というところにみんなでいって、パパは、ママパパに、ママは、パパママになりました。だから、ぼくには、パパもママも二人います。
 ぼくは、ママパパも、パパママもだいすきですまる                                                 

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