僕は、ママの鏡台の前に座った。あの病気にかかってから、ママはこの鏡台に座ることはなくなった。だから、この鏡台に並べてある化粧品のビンには、うっすらと埃がかぶっていた。
僕は、鏡に自分の顔を映しながら、鏡台の上に転がっているリップのケースを手に取った。そして、そのふたを開けると鼻に近づけてにおいを嗅いだ。ぷ〜んといい香りがした。それは、病気になる前のママが、お休みのキッスをしてくれたときに嗅いだ香りだった。
「ママ。」
今ではお休みのキッスもしてくれない。そんな、ママが優しかったころのことを思い出しながら、僕は、容器を回して、リップを出した。
そして、それを唇に当てた。冷たくいい香りがした。リップを唇の上で滑らすと、唇の色が、ママの唇の色に変わっていった。
「おやすみなさい。わたしの可愛い子。」
ふと、ママがいつもお休みのキッスをしてくれたときに、耳元でささやいていた言葉がリップをぬった唇からこぼれた。
玄関で物音がして、ママの声がした。
「オ〜イ、今帰ったぞ。」
僕はその声に驚いて、あわててリップを直すと、隣の自分の部屋に戻った。そして、机に向かって教科書を開いて、勉強をしている振りをした。
「お、いたか。勉強やっているのか、関心関心。お土産買ってきたから、こっちに来い。」
そういうと、ママはドアを閉めて戻っていった。僕は、机のそばのティッシュボックスから、数枚とると、唇に塗ったリップをふき取った。少し、口に入ったそれは油の味がした。

それから数週間後、ママは仕事で土日をはさんで5日間ほど出張した。その間、僕はこのうちに一人だった。僕は、土曜日は、友達の誘いを断って、うちに帰った。玄関のドアに鍵をかけ、廊下にある押入れを覗き込んで、ママが片付けていたメイクの本を引っ張り出すと鏡台のある部屋へと急いだ。そして、鏡台の前に座るとメイクの本を広げて、そこに載ったいろんなメイクを眺めた。どの写真の人もきれいだった。
「僕もこんなにきれいになれるかな。でも、ママのほうがきれいだな。」
そんなことを思いながら、基本編を開いて、勉強を始めた。基礎のお手入れ、ベースメイクに、ポイントメイク。リップ、ルージュ、アイシャドウ、アイライン、リップペンシル、アイブロウ。パフ、リップブラシ、フェイスブラシ、シャドウチップ、ルージュブラシ、アイカーラー。
いろんな化粧品や、化粧道具に、僕は魔法のアイテムを手に入れた勇者のようにどきどきわくわくしながら、自分の顔にメイクをした。
だんだんと、変わっていく自分の顔に、僕は夢中になって言った。最初は、濃すぎて、お化けみたいになったり、薄すぎて、何がなんだか分からなくなったけど、真夜中過ぎるころには、何とか見られるようになってきた。そんな自分の顔を鏡に映していると、なぜか、僕の瞳に涙があふれてきた。
「ママ〜〜。」
そこに映し出されているのは、僕が幼いころのママの顔だった。あの病気にかかる前のママの顔。僕はこうしてあのころのママに会えた。
翌日の日曜日、僕は、朝からお化粧をして、ママの服を着て、ママになった。病気になる前のママ。やさしくきれいだったころのママ。
僕はこうして、女装することを覚えた。それからもこっそりとママに隠れて、女装をして、あの頃のママに会った。
こうして、僕の女装歴は始まった。5歳のときにウィルスに侵された本田美由紀。13歳の春だった。



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