モエルフ氏-エルフな教授の彼女 著者:アンナ・ ストライヤー ・メリルリンチ |
序章 戸口に立っていた彼女 その日は陽射しも穏やかな小春日和でした。私はいつもと変わらない仕事(私は皆様御存じのモエロフ・e・レフリホース教授の御宅でハウスキーピングを勤めさせて戴いておりました。)を、いつものように一段落させ、いつものように午後の休憩に入ろうかとしていた時です。ニ頭立ての馬車が小道をこちらにやってくるのが見えました。 「お客様かしら?」 教授の御宅は閑静な住宅地の外れにあります。小道をやってくるとすれば、目的地はここでしょう。 ましてや二頭立てです。戸別配送であるはずがありません。教授のお帰りの時間にはまだ間があります。 どなたでしょう?教授の御友人の御訪問なら前もってその旨を伝えられるはずなのですが。 家の前で馬車が停まる音が聴こえました。私はこういう時の応対を頭に浮かべて玄関に急ぎます。 見繕いと息を整え、ノッカーが鳴らされるのを待って私は扉を開けました。 「どちらさまでしょう?」 戸口、私の前に立っていたのは、魔法学院の制服を着て大きな鞄を抱えた可愛い、いえ既に青春の盛りを過ぎた私にさえ、どきりとさせる輝きを持ったエルフの娘さんでした。 私にはもちろん、エルフの方々と間直に接する機会はございません。ですからその時は、目の前の娘さんの纏う神秘的な輝きが 「あら、学生さん?先生に御用なのかしら?ごめんなさい、先生はまだお帰りになってないのよ」 私の顔をじっと見た娘さんは、それからもじもじと下を向いてしまいました。 「恥ずかしがり屋さんなのね。先生に質問かしら?困ったわね…」 娘さんが尋ねて来た先生、私の雇い主のモエロフ教授は、ちょっと気難しいところがありまして、よほど親しい御友人以外はお家に入れるのを嫌がるのです。 とはいえ学生、それも女子学生が教授を尋ねてくるなどはとても珍しいことで、私は彼女に興味を引かれました。いえ、その容姿に惹かれたというだけでなく。 「…ワシじゃ、モエロフじゃ」 消え入りそうな声で、彼女がやっと言いました。 「え?ごめんなさい、声が小さくてよく聴こえなかったの。もう一度お願いね」 私の応えに 困った様に眉をしかめて、うつむいてしまった彼女は、それでも意を決したのか、顔を上げ、今度は真直ぐ私の目を見て今度ははっきりと言いました。 「その‥ワシがこの家の主人のモエロフじゃ」 「は?」 その声には似つかわしくない言葉遣いと、真っ赤になってやっと言ったということから、私はこれが彼女たちの間の遊びではないかと見当をつけました。 「…お嬢さん、なにかの冗談?それとも罰ゲームかなにかなの?」 「本当じゃ!信じなさい!」 私を見る彼女のまなざしは真剣そのもの。そしてその眼の奥には見慣れたものがあるような気がしました。 「ええいっこんなところで話していても埒があかん!入るぞ」 「いえ、あの、困ります」 私を押し退けてドアをくぐった彼女は「これならどうじゃ!」とある韻句を唱えました。 途端にドアが閉まり、閂錠が降ります。それは面倒くさがり屋の旦那様の開閉呪文でした。 それは単文で構成されていて、両手が塞がっている時などは非常に便利なのです。もちろん、防犯の為もあり、家人以外は知るものはありません。 それを知っている彼女。 「…え?」 私の頭の中では、考えがレース場を走る犬達の様にある種の喧噪を持って駆け巡りました。そして抜きん出た一匹がゴールに入る様に、私の考えもある一つのものに辿りつきました。期待もされていない犬が一着になる様な大きな驚きを伴って。 「ええっ?え〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!! ………………………………………旦那様?」 「判ったか!馬鹿者が!」 私の頭の中は喧噪を通り越して真っ白になっていました… 第一章 とまどいの彼女 私に鞄を渡し、とてとてと居間に向かう彼女。その後をただついてゆくばかりの私。ぼふりとソファに腰を降ろした彼女は、深い溜息をつくと、脚を投げ出してそのまま沈み込んでいきました。 この傍若無人な振る舞いの娘は誰?旦那様?-旦那様がお帰りになったらお目玉を貰うわよ、学生さん-ああ、子犬のティーポットに餌をあげないと-なぜ、旦那様が女の子に?- 最近の若い娘は躾がなってないわ-ああ、お腹減った-そう言えばエルフを真近で見るのは初めてよね-エルフも学院にいたのね-いえいえ、これは旦那様-○×△□-荒れ野に飴は止めどなく降る--飴?-###---真っ白な私の頭の中はとめどない考えで渦巻いていました。 「ストライヤさん、お茶を入れてくれんかな」 「は、はい」 頭が真っ白なままでも、身体は動きます。私は台所に向かいました。 「どうしたアンナ ?呆っとして」 料理人のマンク、私とは名前で呼び合う仲なのですが、彼の普段通りの顔を見て、私の頭がはっきりするとともに、これほどの事態なのにのんびりとしている彼に腹が立ちました。 「あのね、驚かないでよ…」 私は一部始終を話しました。 「そんな、まさか」 マンクはもちろん信じようとはしません。 「あの旦那様が?」 「だったら、外からでも居間を覗いてきてみなさいよ」 私の勢いに押されたマンクは仕方ないなとでもいうように庭を回り、そして走って戻って来ました。 「ア、ア、アるられ旦那様?ほんぷいら?」 「落ち着きなさい。ええ、本当…だと思うわ。少なくとも中身は旦那様ね」 「可愛かった〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」 だらしなく顔を緩ませたマンクは私の冷ややかな眼差しに気が着いたのか、咳払いをすると、居心地悪気に肩を回す仕種、続いて深く息をしてすまなそうに私に向き直りました。 「いや、あの、でもなぜ?」 「知らないわよ」 と、呼び鈴が気忙しくなりました。旦那様のいつもの鳴らし方。 「ああいけない、お茶の用意だったわ」 慌てていつもの様に暖めたポットやティーカップとしゅんしゅんいう薬缶を持って居間に向かうと、 『けほっ けほっ けほっ』 紫煙の中に咽せかえっている女の子-旦那様の姿がありました。 「???どうしたことだ、これは?」 泪目で手の中のパイプを凝視す旦那様。 それがまだ女子学生の制服のままでしたから、私には『好奇心に負けて、悪戯をした娘』に見えて、なんだか微笑ましくなり、ようやく頭がはっきりしてきました。 「‥お体が変わられたせいではないですか?」 「フンッ禁煙を考えていたところだっ。丁度言い」 顔を赤く染めて、眉をしかめながらも、負け惜しみ?をいう姿はまさしく教授その人です。その可愛い容姿の裏側に、あの気難しいながらもかわいいところのある老人を認めました。 「あの…お嬢様…、お嬢様と御呼びした方が宜しいですか?」 「・〜っこの姿は一時的なものだ。 すぐにも戻る。今まで通りでよい」 ”お嬢様”が気に触ったのか、ますますのしかめっ面。それが拗ねた様にも見えて、なぜか私の胸がキュンと鳴りました。 「わかりました。旦那さま、お茶になさいます?」 別の身体になっても、癖はそのまま残るものなのでしょうか。考え事をしながらティーカップをもてあそぶのは以前のまま。時々、無意識にパイプを探しているのか、身体をまさぐっては胸などにあたり、眉を顰めては溜息をつく。その繰り返しに私は笑いを噛み殺していました。 「間違いはなかった。その筈だ。術式も呪文も月の運行にも問題はない…筈だ。そうだろう?」 そう聞かれても、魔法の術式の難しいおはなしはよく解りません。火起しの時の『火付け』や、眠れない時の『砂男の砂』が使えれば私には充分です。 それでも、旦那様が変身してしまわれた理由はなんとなくわかりました。 なんでも基礎魔法の講義の公開実験(それがどのようなものかはさっぱりですけど)だったとか。 変身してしまった原因の推論を聞かされても、私にはよくわからないのですが、時折、私を前に講釈の練習をなさる旦那様のいつものアレだと思っている私は、適当に相槌を打ち、この後に残る仕事を考えていました。 ふと、繕いもののことを考えて、ハッと気が付きました。服はどうしましょう? 「旦那様、お召しものはどうしましようか?」 「なんだ?話の腰を折るな!」 「いえ、あの、いままでの物ではそのお体に合わないのではないかと…」 「お……成る程。確かに婦人物は無いな…。いや、シャーロッテの物がいくつかあった筈だ」 シャーロッテとはだいぶ以前に亡くなられた奥様の御名前です。旦那様はその後、再婚もなさらず、そのまま学究の徒になられてお子さんもいらっしゃいません。だから私が雇われてここにいるわけですが。 「探してまいりますね」 そう言って、私はようやくその場を抜け出せたのでした。旦那様は一旦、講釈を始めると長いのです。 納戸へ急ぎながら、ちょっとした不安が沸き起こります。 亡くなった奥様のものはサイズが合わないのはもとより、古式然としています。 サイズは良いのです。私が直しを入れれば良い事ですから。 問題は下着から何から全てが昔のものだということ。 殿方はもちろん、最近のお若い方々は御存じないでしょうが、コルセットやズロース等、昔の婦人のものはたいそう手がかかります。その上、着用感は最低。昨今のものと比べたら、肌触りも動き易さも(重さも!)雲泥の差です。 「如何いたしましょう?お嫌ならば最近のものを買い揃えてまいりますが」 納戸から引き出してきたいくつかの召し物を前に、旦那様は予想通りの苦虫を噛み潰した顔。 でも、以前とは違って、その様もなかなか微笑ましいものです。 「いや、構わん。ストライヤさんも居るから大丈夫じゃろ」 大丈夫ではないと思いますけれど。 おもむろに服を脱ぎ出す旦那様。 いえ、あの、旦那様?以前はどうあれ、今は若い娘なのですから、もう少し恥じらいというものをお見せ似なられたほうが…と、言おうとした私は現れた身体に息を呑みました。 直接、肌の上に 制服を?さすがにショーツだけはつけてられましたが、いえ、そんな事ではなく、私が驚いたのは、その身体の見事さでした。 なんといったら良いのでしょう… 古代大理石像の持つ白磁の肌に現われた理想的な曲線? たおやかな肢体に熟れる寸前の果実を思わせる胸の双房に形のよい締まったお尻。それらの微妙なバランスに加え、肩に懸かった細い亜麻色の髪が揺れる様は、私にある種の恍惚を与え、心地よい悦びの中に私は深い溜息をついていました。 生ける芸術品に見とれる私の頭の片隅に小さいながらもはっきりとした感情が閃きます。 それは怒りと嫉妬だったかもしれません。 こんなにも素晴しい身体の中に、あの偏屈な年寄りの心が宿っているなんて! 理不尽だわ! ああ、なんてうらやましい! ( 二 ) 「ええ、そう。そのまま引き上げてください」 私の指導通りにストッキングを履く旦那様。普段、私たちが何気なく行なっている動作がこれほど魅惑的になりえるものとは思ってもみませんでした。あの細い指が優雅に白い肌をなぞってゆく様は私を夢見心地にさせます。 きっと素敵なお肌なのだろうなという考えは私の胸を高鳴らせました。 いえいえ、誓っても宜しいですが、私はそんな気持ちを持ったのはそれが初めてです。 これは旦那様だからでしようか? ようやく両の脚にストッキングを履いて深く呼吸をなさる旦那様。私も息をそれに合わせてしまっていました。旦那様の持つ美しさと一体化したような愉悦に私は包まれていました。 「次はどうするのかな?………ストライヤさん?」 「あ…はいっ」 旦那様の声に私は現実に引き戻されました。 露なお胸の前で腕を組んだ、ショーツとガーターだけを身につけた若いエルフ娘。女の私にさえ、いつまでも見ていたい気にさせてくれるお姿。 とはいえ、ずっとそれを眺めているわけにもいきません。だいいち、このままでは風邪をひかれてしまいます。 奥様の服がサイズが合わないのは明白でした。得にお胸。旦那様は豊かでいらっしゃいますからね。 コルセットは小さめのサイズですが着用はできます。これに期待するしかありません。 期待?なにを? 「ウふう・・・ス、ストライヤさん、まだかね?息が苦しいのだが・・・」 私の予想通り、旦那様はまだ行程の半ばだというのに音を上げ始めました。 「なぜ真綿で首を締める様にじわじわ締めるんだ?締めるなら一気にやってくれ!」 「徐々にしていかないと、身体に良くないのです。コルセットも痛みますし…」 「やめる!こんなものを着ていては息が出来んではないか!」 昔の御婦人方は皆様がこれをつけてらしたんですけどね。息ができない?その通りです。 このコルセットが少々小さいのもありますが、そんなに豊かな胸をなさっていては当然!女の苦労が少しは解りまして? もちろんそんなことはおくびにも出しません。 「新しいものを買い求めてはいかがでしょう?奥様のお召し物はサイズが少々合わないようでございますから」 少々…アンダーは同じ位としても、サイズBのカップにサイズDDは苦しゅうございましょう。 縫製が昔のものだからガチガチに固いということもありましょう。 でも、その素晴しいラインを締め付けて隠してしまうのは天への冒涜でした。 紐を締める私の手に、つい力が入ってしまったのも神の意志だったのかもしれません。 「買い物は明日にしよう。今日の所はワシのいままでの服を頼む」 旦那様の着せ変え、いえ、着替えのお手伝いがこれで終わるのは残念でしたが、その後のゆったりめの服を着た旦那様はどこか倒錯的で、男装の麗人と申しましょうか、それはもう、余りの素晴しさに目眩を覚えるほど。 私は密かに運命の三女神の悪戯に感謝していました。 「お食事になさいますか?」私の問いに旦那様はそわそわ、もじもじ。しきりに膝頭を前後に擦り合わせておいででした。 「もしかして…お冷えになりました?」 「いや、それもあるが…学院付属の施療院で検査を受けてからずっと…その…我慢しておる」 「我慢って……まさか?何をばかなことをなさるんですか」 「御婦人と一緒になるかと想うと…………恥ずかしくてな」 「はやくおいでなさいまし」 「それが実は動くと漏れそうでな。ははは…」 こんなところで粗相をされてもかないません。私は「失礼いたします」と断って旦那様の手を取ると、トイレットへと急ぎました。 「いや、ベッド脇の溲瓶を持ってきて貰えればそれでいいのだが…」 旦那様のナイトテーブルの旦那様の下には蓋付きの尿受けがございます。寝室からトイレットが遠いということもありますが、旦那様は昔ながらに尿受けを愛用なされていたのです。もちろんこの私がそれを考えていないわけがありません。男性用と女性用では受け口の形が違います。それを申しますと、旦那様も納得されたようで、黙って先を急がれました。 なんとか戸口まで無地に辿り着き、一安心です。 「ストライヤさん、済まなかったな、ありがとう」 「え?…はっはいっどういたしまして」 エルフ娘になられた旦那様は気持ちが柔らかくおなりのようでした。こんなことで御礼を頂くなんて。昨日、いえ、その朝までは考えもしなかったことです。 「あの…手水が後ろにございますから」 「なんの事だ?」 「ちゃんと後始末をなさってくださいね」 「後始末?」 「用がお済みになった後のことです」 「ああ、判っておるわ、そのくらい!振るモノがないのだ、当たり前ではないか!」 本当にそうなのか、真っ赤にされたお顔が物語っているような気がしましたが、そのことには触れずに、私は急いでトイレットの中に駆け込む旦那様を見送りました。これで一安心……ではなかったのは『う"あ"っ』という、悲鳴ともつかない叫びですぐに知れました。 「どうなされまし………」 驚いて中に飛び込んだ私の前には 、固く手を握りしめ、こうべだけをこちらにむけて便座の前に立ちすくんでいる旦那様の姿がありました。 「き…気が弛んだら、安心したら、そうしたら、止められなくて、普段だったら止まるのに…」 べそをかいたような顔の旦那様!余りの可愛らしさ…はさておいて。 旦那様のズボンは濡れていました。そして床には水たまり。 「…粗相をなさったのですか?」 「便座を見たら安心して…力が抜けたら……ワシがこんな…」 旦那様の名誉の為に申し上げるなら、『男と女では身体の構造が違っていて、男の方がお小水を我慢し易い』とは聞いたことがあります。 私達生まれながらの女では長い年月の間にどうしたらよいかを知るものですが、突然に、それも先刻に女性の身体になったばかりの旦那様ではしょうがありません。 「し、仕方がありませんわ。だ、旦那様は女の身体になったばかりですから…」 驚きやら、あきれるやら、可笑しいやらで私の顔は引き攣ってしまいました。「でも、これからはすぐに御用をお足し下さいましね」 「うん」 泪目でこくんと頷く旦那様の可愛らしさっ!!!粗相の後始末の苦労など吹き飛びます。この方の笑顔が見れるなら何でもして差し上げたくなりました。 「これはなんとかならんかな」 密着したズボンを摘みあげて、肌から離そうとする旦那様。ああ…曇らせた顔もまた素敵なのですわ。 いえ、見とれている場合ではありません。 「今、毛布をお持ちします。お脱ぎになってお待ち下さい」 私は着替えと身体を拭く物を取りにいきます。粗相の始末も考えると、つい足早になってしまいます。 毛布とバケツと体賦きを手に、トイレットに戻ると、旦那様は最後の一枚を脱ぎ終えるところでした。 いえ、あの、全部お脱ぎになる必要はないのでは? こちらにお尻を向けているとはいえ、困ったものです。 素晴しい御身体を拝見できるのは嬉しいのですが、もう少し節度をお持ちいただかないと。 胸がドキドキいたしますし、仕事に集中できません。 女同士なのに目の遣り場に困っている私を尻目に、旦那様は私の手から毛布を取って体に纏うと、 「このまま風呂にしたいのだが。急いで頼む」と、スタスタと出ていってしまいました。 ああ、やっぱり。気紛れまでは変わっておりませんでした。姿はかわっても旦那様は旦那様。 濡れた衣服と水たまりを前に、私は今日何度目かの溜息をつきました。 でも、私もハウスキーパー暦、ん十余年。考えよりまず身体が動きます。気持ちだってこれくらいでは凹みません。台所でまだまごついているマンクに湯の用意を指示、次いでリネン室へ。そしてとって返して粗相の始末。こんな時はいつももうひとりぐらい手が欲しいのですが、旦那様は雇おうとなさらないし、その分、お給金も弾んでいただいているので文句もいえません。 床を拭きながら、ふと、先程の旦那様の言葉で引っ掛かっていたものが頭に浮かびました。 「したいのだが」?「頼む」? 少なくとも今朝まではお言いにならなかった語句です。先程の御礼といい、やはりお気持ちも柔らかくなられたのでしょうか? 湯殿にお湯を運びます。当世、造り付けの浴槽が流行りだというのに当家では相変わらず。あの配管が美感を損ねるだそうです。せめて湯沸かし器付きのものにしていただければ、私達ももう少し楽ですし、お湯もふんだんに使えるのですけれどもね。 いつもは湯を運び終えると、さっさと引っ込むマンクが、今日はずるずると居続けます。 やれ湯加減がどうの、今日の夕食はこうのと。もちろん旦那様を見ていたいのです。 気持ちはわかります。私だってお茶を飲みながら旦那様を眺めていられたらどんなに良いか。 しかし私達は分をわきまえねばなりません。 「ほらマンク、さっさと行きなさい。今日から旦那様はレディなんだから。 むつけき男がいつまでもうろうろして好い場所じゃないのよ!」 「い、いや、アンナ。まだ旦那様の御希望を聞いていない」 「朝にお聞きでしょ?さあ、行って!」 「今夜のは腕によりをかけてます〜だんなさま〜」 なんだかんだ言って、居残ろうとするマンクをなんとか扉の外に押し出しました。 「マンク君はどうしたのだ?」 「いえ、あの、旦那様のお変わりのなられ様が気になっているだけですわ」 「フンッどいつもこいつも!姿は変われど、ワシはワシだというのに!」 語気も荒く、でもなんだか泪目の旦那様。それとなくお聞きしましたところ 「学院の奴等も奴等で、助手もワシを診察した輩もデレッとしてワシを女の子扱いしおった!」 …こんなに可愛らしいのですから、それも無理はないと思いますけれど。御自分の声さえもが相手に心地良さを与えるなんて思ってもらっしゃらないのですね。 湯舟-旦那様好みの味もそっけもない脚付きの浴槽-に湯を注ぎます。いつもの湯加減、少々熱めのお湯です。 ですのに今日は脚を入れただけで「熱過ぎる!もう少し水を足してくれ」と緩めを御希望なさいます。 「いつも通りですが?」 「う?そうか?いや、でも、…今日はもう少しぬるくしてくれ」 ああ、お湯の感じ方までお変わりになっているんですのね。ええ、入浴は茹で物とは違います。身体には人肌より少々高いくらいのお湯が丁度良いのです。 旦那様が湯舟に滑り込み、ひと安心です。私は着替えを揃えて退出しようとしました。 ところが! あろうことか、旦那様は頭に、髪の毛に、絹糸のような御髪に、柔らかな光を讃える金髪に、なんと石鹸を擦り付けていました! 違う!!!! そうではない! そんなことをしてはいけない!! 「だだだだ旦那様!なにをなさっておいでですか!」 私は慌てて旦那様の手から鈍色の石鹸を取り上げました。 「何と?いつもどうりだが?」 「いけません!違います!そのような事をなさっては髪が痛みます!!髪には最近流行りの、ああ、御存じありませんわね。ええ、私、良い物を持っておりますから、少々お待ちください。そのままで!!!」 そうでした。気が付かない私が愚かでした。にわかに女性になった旦那様に髪やお肌への心遣いがあろうはずもありません! きょとんとされた旦那様を後に私は自室に急ぎました。私の思いはただひとつ。 「神の下された芸術品ををあんな安い、あんな泡立ちの少ない石鹸で台無しにされてたまるもんですか!」 廊下に出るなり、顔をあわせたマンクが私の言葉を引き取ります。 「神の…芸術品の…石鹸がなんだって?」 もちろんマンクは浴室内を窺っていたに決まってますが、そんなことはどうでもよろしい。 いえ、良くはありませんが、安物のソーダ石鹸なんかであの髪を傷めることに比べたら些細な事!彼の行いについては後できつく言い聞かせるとしましょう! 「マンク! お湯を4パイントとバケツ一杯の水を持ってきておいて! いいわね!」 マンクの応答ももどかしく、私は先を急ぎました。 近頃流行りの液体洗髪洗剤と仕上げ剤。いや、むしろ、ふさわしいのは私の秘蔵のジュエリー・ソープ! 貴婦人御用達のハーブ入りシルクミルクソープ。私のお給金二ヶ月分。私の宝物。 でも、かまうものか! あれは今の旦那様に、彼女にこそふさわしいのです!あの白磁の肌に磨きをかけれるなら、艶と潤いを与えて、一層輝かせられるのなら惜しくはありません! 私は自室に戻り、私の洗髪用具、入浴道具を小篭に用意しながらある決心を固めていました。 たとえ旦那様に叱れても、彼女を、生ける芸術品を磨こう、と! これは神様が私に下された使命に違いないのです。ええ、きっと!! ########## 「魔法書林刊『モエロフ教授〜エルフな彼女』より」 |