新堂奈津乃

作:紅珠




「おはようございます。いま、わたしは、大場牧場さんに来ています!」

良く通る声で、彼女は言った。

彼女の名前は新堂奈津乃(しんどう なつの)、民放局Fテレビのアナウンサーだ。

今年27になる彼女は、今までお天気コーナーを担当していたのだが、

新人の女子アナが起用されるようになり、最近ではスタジオを離れて今日のようなレポート仕事ばかりになっていた。

画面に出る回数が格段に減った彼女だが、腐ることなく、いつも笑顔で積極的に仕事をしている。

「こちらの牛さんたちは、大変なユニークなえさを食べているんですよ。 こっち! こっちに来てください!」

彼女は、カメラマンである俺のほうにむかって言うと、マイクを片手に厩舎へと走った。

俺達もその後につづき走る。マイクや、ラフ板、照明の奴らも、いっせいに奈津乃についていく。



俺達は牛達がひしめく、暗い厩舎の中に入った。

画面が暗くならないように、すかさず照明がライトを点灯させた。

奈津乃は、一頭の黒い牡牛の前に立っていた。

俺は、すぐに奈津乃の前にまわりこみカメラを固定する。

「ほら! 見てください! ここの牛さん達は、なんとこのビールを飲んで育っているんですよ!」

奈津乃は、ADの山田からビールの入ったジョッキを受け取り、カメラ目線でそのジョッキを俺の方に見せる。

「この牛さん、こんなにビールが大好きなんですよ〜」

奈津乃が後ろにいる牛を振り返ってジョッキを後ろに近づけ牛に飲ませようとする。牛は顔をジョッキからそめむけようとするが、彼女の声を合図に、近くにいた山田が、なれない手つきで牛の鼻輪につながれたロープを引っ張り、牛の顔をジョッキに近づけさせた。

「すごーい、うらやましーい。毎日ビールが飲めるなんて、この牛さんたちは幸せですねー」

奈津乃がにこやかに言った。



その途端、ビールをのまされていた牛が、突然ビアジョッキを鼻で跳ね除けて暴れだした。

ガラスのジョッキは宙を舞い、牛は木枠を跳ね飛ばすと、その勢いで奈津乃に体当たりをかました。

いきなり起こったハプニングに一瞬、俺達全員の動きが止まる。

俺も、奈津乃が突き飛ばされ、その場に倒れてしまう様子をファインダー越しに、ぼーと見ていた。

倒れた奈津乃は、ぴくりとも動かない。

我に返った俺は、あわてて彼女のほうに近づいた。

他のスタッフ達も、あばれ牛を押さえ込んだ。

不思議な事に、奈津乃を突き飛ばした牛は、なぜか簡単に押さえ込まれてしまった。

牛は、やたらときょろきょろしている。



「大丈夫か!?」

俺は倒れていた奈津乃を抱き起こす。

「ううん」

と甘やかな声を出して、彼女は目を開ける。

いつも綺麗にまとめられている奈津乃の髪は、今の衝撃でピン止めがはずれて、すっかり、ほどけて乱れていた。その頭をさすりながら、彼女は起き上がった。

奈津乃は起き上がると、横目で牛が押さえ込まれている様子を眺め、自分の体を見下ろした。

そして、彼女はなぜかニヤっとした表情で微笑んだ。

いつもの清潔感のある、彼女の快活な笑みとはまったく違う、それはどこか凄みのある笑みだった。

先ほどまで暴れていた牛は、さきほどの暴れっぷりがうそのようにおとなしくなっている。



牛は、スタッフに地面に顔を押し付けられながら、黒い瞳を見開いて、奈津乃を見つめていた。

牛は鳴いた。ひどく興奮しているようだ。

奈津乃は、その牛の視線に気が付いたのか、牛の方へ歩いていった。

「危ないよ!」

照明の竹さんが叫ぶが、彼女はかまわず、牛に近づいていった。

押さえ込まれた牛は、近づいていくる奈津のを見上げながら鳴く。

「おい!危ないぞ」

俺の言葉を無視して奈津乃は自分の顔を、倒れている牛の顔に近づけた。

肩まである、彼女の長い髪が垂れて、濡れた牛の鼻にかかった。

しかし彼女は気にする様子もなく、その牛に低い声で囁いた。



「幸せにな」



途端におとなしかった牛が暴れだして、奈津乃に襲い掛かろうとした。

その時、風船がはじけるような大きな音がした。

誰かが麻酔銃を撃ったようだ。

牛は奈津乃にちかづこうとしていたが、麻酔がきいたのか、鳴きながら、よろけながら倒れていった。





終わり



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