ファスナーを開けて

輝晒 正流 作



 そう、僕は始め夢かと思った。夜だし、うとうとしてたから。
 窓辺に女性が立って、いや少し浮いて、僕の方に微笑んでいる。
 少し輝きを帯びた身体が、スッと床に降り立った。
 それまで寝ぼけ眼でぼんやりと見ていた僕は、ようやくそこで、ハッと我に返った。
 だれなんだ、この人は?
 その疑問に答えるかのように、彼女は口を開いた。
 「私は神のもとで、人々を幸せにする道具を作っている者です」
 美しい声だ。
 「それで、あなたがモニターに選ばれました。受けて頂けますか?」
 へ!? なにそれ?
 「特に使用した感想とかは、書いて頂かなくても結構です。全てはこちらで観察させて頂きますから」
 僕は、彼女が目の前にいるということ、話している言葉の意味は理解出来た。けど、彼女が何なのか? 道具って何? 何でモニターなの? とさまざまな疑問が頭の中を駆け巡っていた。
 「すみません」
 突然彼女が謝った。
 「私、今日が始めてなもので、説明不足でした」
 「自己紹介も、まだです」
 彼女が何なのかということも知りたくて、付け足した。
 「私は、神に仕えるものでソプラノと申します」
 「天使?」
 「天使と呼ばれるには、私はまだ修行が足りません。作った道具がすばらしいと神様に判断されると、ようやく、天使になるための専門課程に移れるのです」
 へぇ、天使になるって大変なことなんだ。
 「あぁ、私余計な事までしゃべっちゃった。すみません、忘れて下さい」
 「そんな忘れろって、無理だよ」
 「それじゃぁ、記憶を消しますから、じっとしてて下さい。えっと記憶を消す呪文は・・・」
 えっ! なんか、危なそう・・・
 「あー! 忘れます。忘れました。もう覚えていません。誰にも言いません」
 「そうですか。良かった。それで、モニターのことなんですけど、受けてもらえますか?」
 「受けろって言われても、どういう道具のモニターか聞かないと受けるかどうか判断出来ないよ」
 「話したら受けて頂かなくてはならなくなります」
 「そんなむちゃくちゃな。じゃぁ、受けない」
 「そうですか、仕方がないですねぇ。では、私に会ったことも忘れて頂かなくては。えっと、呪文は・・・」
 げげ! ということは、受けなければ、あやふやな怪しい呪文で記憶を消されるということか?
 「記憶消されるんだったら、道具のこと聞いてからでも一緒じゃないの?」
 僕は、呪文を受けるのを少しでも先のばしして、活路を見いだそうとした。
 彼女は、しばらく考える。おい、そんな考えることか?
 「私、受けてくださると信じてますから、お話します」
 なんか、一大決心という具合に力がこもっている。
 「まず、モニターについてお話します。
 私たちが作った道具は、モニターテストを受ける前に十分な実験をして、危険がないかとか、どこまでなら安全かとか、長所短所とかいろいろと試験をしているので、使用条件を守って頂ければ安全です。
 安全を確かめた上で、実際に人間に試してもらい、その人がどれだけ幸せになれたか、或いは効果なかったかを調べるのです。レポートは、私が天界から客観的に観察した結果と、一定期間使用後の感想を聞いてまとめます。
 ご理解頂けたでしょうか?」
 僕が頷くと、彼女は嬉しそうに笑顔を見せた。
 「では、道具の説明に移ります。これがその道具なんですが・・・」
 そう言って彼女が取り出したのは、どう見てもファスナーだった。ブルゾンの前や、ズボンの前、セーラー服の脇についている、別名、ジッパーとかチャックとかいうやつの、その部分そのものだ。
 そんなのずっと以前に発明されている。天界の文明は遅れているのか? だいたい、こんなのでどうやって幸せになるんだよ。そりゃ、なければトイレや着替えで不幸になるかも知れないけど・・・
 「あ、あのう、この見た目はカモフラージュでファスナーに見せかけてるだけです。問題はその機能なんです」
 僕の様子を見て取ってか、彼女は申し訳なさそうに言った。
 「で、その機能なんですが、これを背中に張り付けてから開けると、今の自分の身体から脱皮するように抜け出すことができて、一時的ですが思い描いた姿・性格の人間になれるんです。別な人間を体験出来て、ストレス発散になるかなぁと・・・」
 自信なさそうな言い方だ。
 「ほら、変身願望って、誰にもあるでしょ。それを実現させるためのものなの」
 突然テンションの高い言葉。勢いで言いくるめようとしてるな。
 けど、変身か。ちょっと憧れるよな。ただものがしっかりしていればだけど。
 「ところで、どうして僕が選ばれたの?」
 「この道具の性質からして体験していただくのは、ある程度人生を歩んできて、今の自分のおかれている状態が気に入らないとか、繰り返される日常にあきあきしているとかいう人で、かつ自由な時間がある程度ある人がいいんです。大学生の人くらいがちょうどなんです」
 「僕は高校生ですけど」
 「あははは、誤差の範囲です。それから、できればその人に万が一のことがあっても、他の人への影響が少ないというのが理想なんですが・・・」
 小声で早口に、彼女は付け足した。
 それって、やっぱり万が一のことがたまには起きるってことか?
 「だから、あなたがぴったり」
 ぴったりとは言われたくない・・・
 確かに僕は、勉強のできる兄貴がいて、そのせいで親の期待が大きく、尻をたたかれ続けての勉強ばっかりの日々にあきあきしている。それに、ハンサムで快 活で優しいから女性にもモテモテの兄貴に比べて、僕はそれほどルックスは良くなくちょっと暗いという性格のためそんなにモテない。ソプラノのいう理想に、 かなりマッチしているのは確かだ。
 しかし、なんだか腹が立つなぁ。
 「受けて下さいますか?」
 「さっき言ってた使用条件というのは? 守らなかったらどうなるの?」
 自分に守れることかどうかを聞いて、いけそうなら記憶を消されるよりはましかと思い、清水の舞台から飛び降りる覚悟で受けるつもりでいた。
 「当然の事ですが、悪用しない、他人には話さない、それからあとは、変身は長時間しないということです。1回25時間以内、1週間では100時間以内にして下さい。もし、越えると・・・」
 それだけの時間があれば十分だろう。
 「越えると?」
 僕は繰り返す。そこが重要なポイントだ。
 「越えると、どうなるか分かりません」
 「なんだよ、それ! 実験したんじゃないの?」
 「はい、実験しました。だからこの時間までは安全だと。これ以上は時間がなかったので試していません。ですのでどうなるかは分かりません」
 ちょっと勘弁してよ。これじゃあ、このファスナーの安全性もかなり怪しい。引き受けると実験台、引き受けなければ下手な呪文の練習台。どっちもやだぁ!
 「引き受けて頂けますか?」
 どっちも嫌だけど、ファスナーの方が一応実験済みと言うことで、下手な呪文よりかは、安全かも知れない。
 「引き受けて下さいますよね!」
 僕は頷いた。もうどうにでもなれ!
 モニター契約が成立してしまった。

 「では、早速使い方の説明です。とっても簡単ですので、すぐ覚えられます。まず上半身、裸になって下さい」
 「え!」
 そんな、突然裸になれって。しかも女の人の前で。
 「下まで脱いでと言ってるのではないですから」
 彼女は僕の服をつかむと、強引に脱がそうとした。
 そうやって攻防を続けていたときだ。
 兄貴の雅也が、
 「おいうるさいぞ!」
 と怒鳴り込んできた。
 あぁ、こんなところを・・・
 「あれ。ソプラノさんまだいたんですか?」
 「へ!? どうして彼女の名前を知ってるの?」
 「あ、雅也さん、先ほどはどうも・・・」
 ソプラノは、ひきつった笑みを浮かべている。
 先ほど? 僕は交互にじと目を送る。
 この状態から推測するに、どうやら兄貴に断られたソプラノは、僕の方へやってきたみたいだ。
 「ひょっとしてお前、引き受けたのか? ばかだなぁ、こんな怪しい話、引き受けてどうすんだよ」
 ちょっと自尊心が傷ついた。
 その恨みは、ソプラノに向かう。
 「これはどういう事ですか? 人に言うなと言っておいて、どうして兄貴がこのこと知ってるんですか?」
 理性をぎりぎり保って、僕は彼女を責めた。
 「それは・・・ 同じように説明したんですが、引き受けていただけなくて・・・ それで、呪文で記憶を消したはずなんですが・・・ 消えなかったんですぅ」
 消えなかっただぁ! くそう、それをもっと早く言えよ。それなら、僕も受けなかったのに。
 「ところで、それなに?」
 兄貴がソプラノの持ってるファスナーを指して尋ねた。
 そうか、兄貴は内容までは聞いてないんだ。
 「これを背中に張り付けて、あんな人間になりたいと願ってファスナーを開けると、脱皮するように変身が出来るのです。すごいでしょ」
 ソプラノが自慢げに説明する。
 「他人に話しちゃいけないんじゃなかったの!」
 「あっ! わたしどうしましょう」
 地獄行きだ!
 気付くと、兄貴の目つきが変わっている。
 「お前、もう何になるのか決めたのか?」
 僕は頷いて、少ししてからつぶやいた。
 「かっこいい男」
 兄貴みたいなと思ったけど、そんなの恥ずかしくて口が裂けても兄貴には言えない。
 「そんなのつまらんぞ。見た目だけで付きまとわれてみろ、うっとうしいだけだぞ」
 兄貴は言うなり、ソプラノの持ってるファスナーを取り上げて、僕の背中をめくりそれを張り付けた。
 うわ! まだ心の準備が出来てないのに。ちょっと待ってよ。
 「どうせ好かれるなら、献身的で従順なのがいいだろ? ちょっと思い浮かべてみろ」
 そうだよな、ずっとつき合うなら僕につくしてくれる女性が理想だな。それでいてかわいい娘。
 僕は兄貴の意見に惑わされて頷いた。
 そのときだ! 
 兄貴が、僕の背中のファスナーを引き下げた。
 「あっ・・・」
 僕の言葉は途中で途切れた。
 身体の感覚が一瞬途切れ、意識も一瞬途切れたような感じがした。

 ・・・・・・

 心が違和感を感じている。
 全身をごわごわした何かが覆っている。ちょっと息苦しい。
 ボクがこのごわごわしたものを脱ごうともぞもぞしたとき、背中から誰かがそれを手伝ってくれた。
 「ふはっ!」
 上半身がそれからようやく抜け出せた。
 ぷるん! と形のいい乳房がボクの胸で揺れる。
 「きゃっ!」
 ボクは反射的に、さっきまで着ていたごわごわしたもので前を隠した。
 そのごわごわしたものは、それは“僕”だった。“僕”の皮膚がウルトラマンの着ぐるみのようになっていて、その開いた背中からボクが上半身を出しているのだ。
 周りを見回すと、お兄ちゃんとソプラノさんがボクのことを見ている。
 ソプラノさんはボクのことを、びっくりしたような目で見ている。
 「成功だわ! 良かったぁ」
 彼女は言ってから口を押さえる。やっぱり実験台だったんだぁ。
 お兄ちゃんは、ボクをじっと見つめて、
 「おぉ! かわいい」
 だって。
 なんか、とっても嬉しくて、はずかしい。
 ボクはどうしてしまったんだ。
 自然と女の子の反応をしてしまう。姿だけでなく、心まで女の子になってる。
 「さぁ、そんなもの脱いで、これを着て」
 そう言ってお兄ちゃんが、Yシャツをボクの肩に掛けてくれた。
 “そんなもの”扱いされたのはボクの抜け殻だ。けどそんなことなど、今のボクは気に止めることもなく、優しいお兄ちゃんに、
 「ありがとう」
 と、純粋に言っていた。
 ボクは立ち上がる。着ているのは、ダボダボのYシャツ1枚だけだ。
 「さあ、お兄ちゃんの部屋においで」
 言いながら、ボクの手をとって連れて行こうとする。
 あーん、お兄ちゃんに悪戯される。
 「ちょっと待って下さい!」
 ソプラノさんが、お兄ちゃんを引き留める。今はあなたが天使に見えます。
 「変身する姿や性格は、本人の自主性に任せてあげて下さい。それでないと正確なデータが得られません」
 ボクの身よりも、データなの? 鬼ィーッ!
 「女の子になりたかったのは、お前の意志だよな?」
 お兄ちゃんが、笑顔でボクに尋ねる。
 「うん」
 従順なボクの心は、そう返事することしか出来なかった。
 「それならいいのですが・・・
 それでは、後は天界から観察させてもらいますので」
 あーん。そんなに簡単に信じないで、助けてよぅ・・・
 ソプラノさんは、現れた時と同じ窓辺から空へ向かって、すぅっと消えていった。
 ボクはそれからのひとときを、お兄ちゃんと一緒に過ごし、元の“僕”に戻るころには、女の子になることも悪くないなと思うようになっていた。

“ファスナーを開けて” ひとまず、完

登場する人物は、すべて架空の存在です。実在のものとは、一切関係ありません。

この作品は1998年発表のものです。
2011年 輝晒正流

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