6.焦らされて

その夜、香山は寝付けなかった。それはそうだろう。初めて自分以外のしかも男性に体をまさぐられ、あげくの果てに信頼していた同僚にキスまでされてしまった。「女ってこうなんだわ」独り言になってしまった。男性だったなごりですべてを論理的に整理しようとしていた。

 

 (女の悲しさと、たぶん喜びなのね。自分が突然レイプを 受ける恐怖。それは女である以上いつも注意しなければいけなくて、それが女の弱さなんだわ。だから女はたえず男性に守られたいと思うんだ。初めてのキス。 女はキスだけで満足するのって本当かもしれない。守られてるって実感できるのね。だって、好きでもない相手にやさしくキスされただけで、私は安心したん だ。そうね、好きでもない? そうよ、松下課長は男性よ。この私が男性を好きになる? 考えられないわ。恋人でもない男性にキスされたっていうのもレイプ と一緒じゃない。冗談じゃないわ。ああ、でも安心したのも事実よ。私、変だわ。)

 

 自分を守ってくれた男性に好感をいだかない女性はいな い。その男性にキスされた。だからうれしい。でもそれが初めてのキスだったから戸惑っている。ただそれだけの話なのに、実は感情は既にそう思っているのだ が、男性だったゆえに理性ではそれを認めようとはしなかった。悶々としながら深夜、ようやく香山は眠りについた。(ああ、こんな、一人エッチするのも、眠 るためよ。あ、、だめ、、松下課長、、い、や。。松下さ、、ん・・・・)

 

 「松下課長、昨日はありがとうございました。」たまたま会議室で二人きりになっていた。

「いえいえ、そんな。気にしてはだめですよ。普通に、普通にです。」

「でも、やはり気にします。女性ですから。」

暗に香山はキスのことに触れたつもりだった。

「そうですけど、女性は多かれ少なかれ同じような目に遭う んです。私も女性のときはありましたから。大人の女性になるためには必要なことかもしれません。そうですね、こういうことを相談できる人もいないでしょう からはっきり言いますけど、今日は化粧がやや濃い気がします。ケバケバしいといってもいいかもしれません。失礼ながら、大人の女性はうろたえないことで す。たぶんそれを乗り越えるとますますきれいになっていきますよ。あ、申し訳ありません、クライアントとの約束があったんだ。では、失礼します。」

松下が去った後、香山はしばらく会議室に一人残った。自分のファーストキスのことは肩すかしをくらったようだった。かなり落ち込んでいた。

(やだ、泣いちゃいそうだわ私。)ファーストキスの余韻もふっとんでしまった。

(私って、もしかして期待していたのかしら、キスされたから。大人の女じゃないって言われたのかな?なによ、実際は松下課長の方が年下じゃない。それなのに・・・・・。ケバケバしい? やだ、そんなふうに言わなくたって・・)

泣きそうになる。感情の起伏は男だったときよりも格段に大きくなっていた。

(じゃあどうしてキスなんかしたの? 遊ばれてるの? 初めてだったのよ、私には。女としてだけど。いけないわ、仕事中よ。ちゃんとしなきゃ。)気丈に仕事にもどる香山だったが時折再び同じことを考える。

(こんなんじゃ私の気がおさまらないわ。いつか確かめなくちゃ。そうだわ、確かめよう。)

これが初歩の恋の駆け引きであり、既に松下の手のひらにのせられていることに香山は気づかなかった。ウブな女子高校生のようだったが、だれも責めることはできないだろう。そう、本当にウブなだけなのだから。

 

 「それは違うと思いますよ、松下課長。」

常務を交えた営業会議で香山は松下をやり込めているところだった。張りつめた緊張感がその場を支配していた。

「1課の実績と私の2課の実績を見ればわかるじゃないですか。」

「そうかもしれませんが、あまりに近視眼的です。他社の動向を見てからでも遅くはないじゃないですか。常務、いかがですか?」

松下は常務に助けを求めた。

斎藤常務はこうした場では沈思黙考型であまり発言はしないタイプだったが、ここは収まりがつかないと判断した。

「今は臨時株主総会が近い。いわば株主向けの花火が必要な時期だ。松下課長、申し訳ないがここはひとつ香山課長の言い分を理解してもらえまいか。」

「常務がそうおっしゃるなら、仕方ありません。わかりました。」

「そうか、よかった。では今日はこれで終わりにしよう。香山課長は少し話がある。残ってくれ。」

香山と二人きりになったところで常務が口を開く。

「香山君、少々口調が厳しかったようだね。あれでは反感をかうよ。もう少し女らしくしたらどうだね。」

「常務、それはセクハラですよ?」

香山は自分の意見が通ったところなので余裕をもった微笑みで常務に答えた。

「う、そ、それはそうかもしれないが。ふぅーーー。最近特に目立つんだ。もったいないよ。女性特有の武器があるんだから、あ、特有の武器っていっても色気でだますとかそういうのではなくて、場を丸くするっていうやつなんだが。」

「常務がおっしゃることはわかるつもりです。大人になれってことでしょうけど。」

「そうそう、それそれ。頼んだよ、ね。」

会議室から出ようと二人は立ち上がる。常務が香山の肩に手をかける。

「それはそうと、そろそろいいだろう。二人で食事でもどうだろうか。私はもう離婚してるし問題ないじゃないか。」

「恐れ入ります。私は、いまはそういうことは考えられませんので」

やんわりとそれを断り、営業ルームに香山は戻った。背中に好色な常務の目を強烈に感じながら。

(いけないなー。ああいうふうに誘われるのってどきどきしちゃうわ。体が小さくなってるから大きな男性に肩なんかつかまれちゃうとクラクラしそうだわ。モテるんだから私なんかに声をかけなくてもいいのに。)

常務には好感を持っているためあからさまに拒否できない が、かなり場慣れしているらしく、誘い方はストレートではあるが悪い気はしなかった。女として自分を見てるからだ。しかし、この数週間ですっかり心は松下 に傾いていた。初めて唇を奪った男だったからそれは仕方のないことだった。

 

 この数週間、香山は松下のことを注意してみていた。女性 社員の人気は抜群に高かった。ハンサムで長身。人当たりもよく仕事もよくできた。しかし浮いた噂はなかった。元女性だから女性に興味がないのか、そう香山 は思ったが、女友達は人並みにあるようだった。だから香山はいらいらして松下に食って掛かるようになったのだ。もちろん今日のような仕事のときにだ。しか し松下はいっこうに香山を振り向かない。

 しかし、とうとう松下から声がかかった。もうこの辺でじらすのもいいだろうと松下が思っただけだったのだが。

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