序章 白昼夢

 東京の郊外に建てられた高層ビルの地下には厳重にガードされた大きな部屋
があった。この部屋は世界最高機密レベルSとして極秘の内に設置されており
その存在を知る人間は世界中を探しても10人の職員を除いたら両手で数えら
れるほどであろう。

 数分前からこの部屋の中央に配置されたコントロール装置のディスプレーに
非常事態を知らせる赤いランプが点滅しているのである。

「どういう事だ?ミュウ」
金髪で細身の男性が隣でキーボードを操作している女性に向かって話し掛けた。
しかし、女性は男性の言葉が聞こえているのかいないのか、キーボードを打ち
続け答えようとしない。しばらくして女性の細く白い指が動くのを止めた、男
が再び話しかけようとすると、それを見越したようにミュウと呼ばれた女性の
可愛い唇が動いたのである。

「マーク!わかったわ。スクリーンを出すわね。」

ミュウと呼ばれた女性がキーボードのENTERキーを押すと、大きな部屋の
空間に巨大な立体スクリーンが映し出されたのである。立体スクリーンの中に
は無数の小さな発光点が蠢いている。

「ブロックT25648のワールド」

確かに立体スクリーンの中にT25648の立体文字が読みとれる。

「警報の原因はこの二つの世界ね」

ミュウが再びENTERキーを押すと、無数の点は消滅し二つの点のみが残っ
た。

「この二つの世界がどうかしたのか?」
「ちょっと待って」

二つの点から赤い糸のようなものが表示された。

「これが今までの経緯で・・・こっちが予想経緯」

スクリーンの中で二つの点から青い線が引かれたのであった。そして二つの線
は交わるようにしばらく伸びた後、再びそれぞれの奇跡を描き出したのであっ
た。

「このままだと二つの世界はニアミスを起こすな」
「えぇ、本日の12時15分から約一週間が同調の危険時間帯ね」
「二つの世界が融合した場合、この世界への影響は考えられる?」
「もちろん影響もなんらかあると思われますが、どのような影響かは予測出来
 ないわ」
「至急、ニアミスの原因を追求してくれないか」
「えぇ」

西暦2300年、21世紀にアウゼンによって提唱されたブラウン多次元理論
は昨年立証されたばかりなのである。人類は現在、過去、未来に存在する無数
の世界を監視する技術を手に入れたが、介入は出来ない状態であった。



「木村君!」

窓際にある課長席から遠藤学は今年入社したばかりの木村瑞穂を呼んだのであ
る。窓際というと仕事が出来ないような印象を受けるが、営業一筋の彼は入社
以来つねにトップの成績を維持し、昨年、30代前半では異例とも言える課長
への昇進を果たしていた。

木村瑞穂は課長の遠藤に名前を呼ばれ一瞬心臓の止まる思いをしていた。営業
畑一筋の遠藤は声が大きい上に、このように呼ばれる時は決まって何かのミス
を発見した時なのである。

「はい」

木村瑞穂は蚊の鳴くような返事をすると自分の席を立って課長席の前に来た。

「なんだね!これは・・・・、間違えだらけじゃないか」
「はい」
「ここは、これと、これを加算するんだろ?、こっちも・・・」
「すみません」
「これは足し算が違っているし」
「はい」
「はい、じゃないよ。式を入れるだけでコンピュータが自動計算をしてくれる
  だろ!大して頭を使わなくて済む仕事もろくにできないのか??」
「すみません」
「よく、これで短大を卒業できたものだ。可愛いだけじゃ仕事は務まらないぞ」
「・・・・・」
「君は前にも同じミスをしただろ?、少しは注意をしなさい」
「はい」

殆どの人が外出しており20名程の営業第一課のフロアーには3,4名程度の
営業マンが残っているだけであるが、遠藤の声は隅々まで届くような大きな声
であった。

「君は3時からの会議で僕に恥をかかせるつもりなのかね?」
「そんな・・・」
「わざとしているとしか考えられない。そうでなければ救いようのない・・・」
「・・・・・・」

遠藤は自分が少し言い過ぎたと思い言葉を途中で切った。木村瑞穂の瞳が赤く
なっているのである。

「もういい、早く直してくれ」
「はい」

瑞穂の瞳からは今にも涙が溢れ出そうなのである。遠藤は泣かれては困ると考
え、怒っている感情を押し殺した。

(すぐに女は泣くから扱い辛いんだ。一種の特技だな・・・・これも)

丁度、その時、昼休みを告げるチャイムが鳴ったのである。瑞穂が自分の席に
戻ると同僚の田中瞳が話し掛けてきた。

「大丈夫?瑞穂」
「ええ」
「気を取り直して食事に行きましょう」
「これを直してから行くわ。先に行って」
「そう?わかたわ・・・早くきてね」

フロアーには木村瑞穂と遠藤学の二人だけとなった。彼女は急に溢れてきた涙
を拭くと差し戻された資料の修正を始めたのである。

その時、突然、ビルが揺れ出したのである。遠藤は平静を装っていたのだがい
つまでたっても揺れは収まらなかった。

「木村君、大丈夫か!」

遠藤が木村瑞穂の方を見ると彼女はこの揺れの中、黙々と資料の手直しをして
いるのである。よく見るとどうもおかし、揺れているのは遠藤一人だけで机の
上に置かれた物も微動だにしていないのである。

目の前の光景が遠のきながら小さくなったと思うと暗闇が遠藤の前に広がった。
「なんだぁ?」



「遠藤君、出来たかね?」

遠藤の視野が急に明るくなり目の前に光景が広がった。遠藤は声の方向に振り
向くと見知らぬ男性が立って自分の方を見ているのである。部長に声を掛けら
れたと思ったのである。実際、このフロアーには遠藤を君付けで呼ぶ人間は部
長しか居ないはずなのだ。

「また、ボーっとしていたのかね」

見ず知らずの人間にそんな口をきかれる覚えは無いのであるが、その男は明ら
かに遠藤を知っているかのようなのだ。

(なんだ?こいつは・・・)
「どれどれ・・・」

男は遠藤のパソコンをのぞき込んだのである。

「もう少しだな、僕は食事に行くから今度はしっかり頼むよ」

そう言うと男はその場を立ち去ってしまったのである。男の後ろ姿に声を投げ
かけようとした遠藤であるが、言葉を呑み込んだ。

見慣れたフロアーであることに違いないが、その光景はいつも見慣れた遠藤の
席から見る光景では無かったのである。自分の席は少し離れたところに認めら
れた。男はそちらの方向から現れたのであった。そして遠藤の座っている席は
木村瑞穂の席だったのである。

確かに机の上には可愛い鉛筆立て、小さな鏡やカレンダーが置かれており遠藤
の記憶する木村瑞穂の机なのである。また、パソコンには、先程、遠藤がチェ
ックした表が展開されておりシートが直されていた。

(いつのまに・・・移動したんだ?)

自分の席に戻うと、遠藤が腰を浮かすと、突然、下腹部に鈍い痛みが走ったの
である。

「うぅ・・」

再び、椅子に腰をおろして痛みの根元に目をやると。そこには淡いグレーのタ
イトスカートとストッキングを穿いた可愛い太股があったのである。

(えっ?)

その太股は遠藤の思い通りに動くのである。遠藤は自分の手を少し膨れたお腹
に充てた。視野に入ってきた手は透き通るような小さな白い手であった。指先
の爪は長く、ピンクのマニュキュアで綺麗に手入れもされている。

(まさか・・・)

遠藤は机の上にあった小さな鏡に顔を近づけ自分の容姿を確認したのである。
そこにはカーリーヘアーの女の子が映っているではないか。どことなく木村瑞
穂に似ていた。頬を指で摘まんで引っ張ると鏡の中の女性の頬も柔らかく伸び
たのである。

「痛い・・・・」

小鳥の鳴くような声が聞こえて来た。こんどは膨らんだ胸に手を充てた。まが
い物のバストではなかった膨らんだ胸は中身がしっかり詰っているのである。
それどころか乳首が磨れるように痛いのである。ズッシリと痛い下腹部の痛み
が強くなったような気がする。

「瑞穂、何をしているの?」

遠藤は自分の胸から手を離すと慌てて声の方を見たのである。そこには遠藤も
知っている田中瞳がいた。木村瑞穂とは同期入社だったはずである。

「もう!なかなか来ないから戻って来ちゃったわよ」
「・・・・・・・」
「終わったの?」
「あっ、もう少し」
「今日は変よ。・・・アノ日なんでしょ?」

遠藤は一瞬、田中瞳が何を言っているのかわからなかったのであるが、下腹部
の痛みがその答えを教えてくれたのである。

「私が変わってあげましょうか?」
「いいよ、自分でやるから」

遠藤は田中瞳の好意を断りパソコンに向かって電子シートを直し始めたのであ
る。指の長い爪がキーを叩きづらくするのだがコツを覚えると大して苦ではな
かった。

「無理しないで帰った方が良いんじゃない?」
「大丈夫。ありがとう」

遠藤は下腹部の痛みを堪えながらキーを叩き続けたのである。シートを作りな
がら遠藤は今の状況を分析しようとしていたが頭は混乱し考えがまとまらない
のである。

(僕が瑞穂だということは・・・課長の僕はどこに行ってしまったんだろ)
(さっきの男・・・確か・・・木村と言う名札が胸に・・)

遠藤は先程の光景を思い浮かべていたのである。

(そうか、僕が遠藤瑞穂で・・・木村瑞穂が木村学・・・)
(でも、どうして・・・・突然)

どう考えても解はみつかりそうも無かったのである。女の姿をした鏡に写る現
実の自分を説明出来るはずがなかった。

(なんで・・僕が、こんな痛みを堪えながら表を作ってなきゃいけないんだ)

考えはまとまらなかったが電子シートの作成がやっと終わったのである。何故
か遠藤の中で満足感が沸いて来たのである。

(なんだ?・・なんで、こんな表を作ったくらいで満足しているんだ?)


再び遠藤の目の前が大きく揺れだしたのである。先程と同じだった。遠藤の目
の前は暗闇に閉ざされたのであった。


「課長!遠藤課長!!」

遠藤の目の前が明るくなった。目の前には見慣れた木村瑞穂が嬉しそうに立っ
ていたのだ。

「できました」
「あっ、、あぁ・・ありがとう」
(夢だったのか?)

遠藤は受け取った表を見ると再びミスを発見してしまったのである。遠藤には
このミスに思い当たるふしがあったのだ、確か田中瞳と話しをしながら・・・
式のコピーをしようとしていたところである。うっかりコピーをしたつもりに
なっていたのである。

「よろしいですか?」
「ok、でも、変更があるかも知れないからFDを貰えるかな?」
「はい」
「良く頑張ってくれたね。食事をして来なさい」
「はい」

木村瑞穂は嬉しそうに遠藤の席から離れていったのであった。この時、遠藤は
変な夢を見てしまったと考えていたのだが・・・・・





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