キーン、コーン、カーン、コーン―――
ベルが鳴り終るとほぼ同時に担任の教師が教室に入ってきてホームルームが始まる。
「それじゃあ出欠を取るぞ、相川」
「はい」
教師が名前を呼び生徒が応える。朝の学校で行なわれるごくありふれた光景……の筈なのだが。
「小泉」
「はあ〜い」
10番目に呼ばれた奴が色っぽい声で返事をすると教師の表情が変わる。
「小泉、ふざけてないでちゃんと返事をしろ」
「わかりましたわ。せ、ん、せ、い」
「だからそんな女みたいなことを」
「だって今の俺、女だもん」
そう言ってそいつが身体をくねらせると教室のあちこちから笑い声が漏れ、男子の一人がガタンと音をたてて椅子から立ち上がった。
そいつの、小泉の言うことは間違ってはいない。最初に名前を呼ばれた相川も、さっき俯きながら返事をした麻生も、そして小泉も見た目は完全に女子生徒である。
しかし――
「不条理だ……何もかも」
頬杖をついてそんな光景をぼんやりと眺めながら俺は呟いた。
入れ替わり騒動記
作:ライターマン
俺の名は緒方知明(おがた・ともあき)、高校2年生。
取りたてて言うほどの特技とかは何もなし。クラス全員を含めてどこにでもいる普通の高校生……だった。2ヶ月前までは。
2ヶ月前――
「本日はどうもお疲れ様でした」
運転席の隣にいるバスガイドの明るい声が疲れた身体と頭に響いてきた。
山奥の村での体験学習。
村の歴史や特徴の説明……はもうほとんど忘れた。民芸品の作成は結構面白かった。しかし農作物の収穫作業の手伝いは予想以上に過酷だった。
ふだん農作業とかしたことのない俺たちは体力を使い果たし、終わった頃には全員もうへとへとになっていた。
「緒方、そこのバッグからジュースを取ってくれないか?」
すぐ後ろのクラスメイトが俺に声をかけてきた。何で俺に声をかけてきたかというと座席の関係で俺が中央の補助席に座っていたからだった。
俺はバスの中を見回す。
1台のバスに1つのクラス。45人の生徒全員、男の担任と女の副担任、そして運転手とバスガイドも含めて中央から右側が男で左側が女ときれいに分かれていた。
俺が補助席を出して座っているからそいつはバッグを取れない。仕方なく俺は立ち上がった。
「今は通ってるこの道は昔、村と外とをつなぐ唯一の道でした。村の守護とこの道を行き来する際の安全のためにこの先のカーブにお地蔵様があるのですが、このお地蔵様には『みがわり地蔵』という――」
バスガイドの説明を特に興味なく聞きながら俺はバッグを取るために補助椅子から立ち上がり2、3歩前に進む。
その時、
バキッ、ドオォォ――ンッ!!
大きな音と共に斜面から岩が転がり落ちてきた!!
運転手が急ブレーキをかけてハンドルを切った。バスは斜面にぶつかり、さっきバスガイドが言っていた地蔵らしき物体にぶつかって横転した。
横倒しになるバスの中で頭を打った俺はそのまま意識が遠のいていった。
目が覚めたのは病院のベッドの上だった。
そして病院内のあちこちで騒ぎが起き始めていた。
「あ、あるぅ…………ない」
「いやあ、あたしの身体どうなっちゃったの?」
「こ、これが……俺か?」
「なんで? なんであたしが浜田君なの?」
あちこちで聞こえる悲鳴と呟き。あの時バスに乗っていたほぼ全員が他の人の身体との「入れ替わり」を起こしていた。
そんな馬鹿な……と普通なら誰も信じないだろう。しかし50人近い人間が一斉に同じ事を訴えたのではさすがに無視はできない。
医者があれこれ調べたり警察が事情を聞いたりした後、「原因は不明だがどうやら本当に入れ替わったらしい」と認められた。
運転手はバスガイドに、バスガイドは運転手に。そして担任と副担任がそれぞれ入れ替わっていた。
そしてこれは単純なパターンで生徒の中では小泉が前原さんに、前原さんが神崎に、神崎が福島さんに、そして福島さんが小泉にというように4人一組で入れ替わっている連中が何組かいた。
不思議なことには全員が男→女、女→男のパターンの入れ替わりだった。
突然他人に、しかも異性になったことから全員がパニックになった。が、時間が経つと慣れてきたのかようやく落ち着きを取り戻した。
しかし問題はこれからが本番だった。
まず最初に出た問題は「退院後どこに『帰る』か?」だった。
心と身体が別々なのだから身体に合わせて帰ると「他人の家族」と一緒に暮らすことになるから落ち着けない。しかし心に合わせて帰ると家族が落ち着かないし着る物がない。
これについては親同士が話し合って心の方に合わせることになった。
事故に遭った者たちにこれ以上負担はかけられないというのが理由だった。衣類については下着を含めて必要と思われる分を入れ替わった相手の家に送ることになった。
次に学校での授業だったがこれもしばらくの間は心の方に合わせて行うことになった。
ただし体育の授業は隣のクラスとの合同でやってたのをうちのクラス単独にして着替えも体育館の更衣室を使うことになった。
俺はこれを妥当なだ話だと思ったのだが、これを伝えられたときに舌打ちをする音が女子(元男子)の多く、そして一部の男子(元女子)から聞こえてきたのを憶えている。
バスの事故についてはテレビのニュースでも流れていたが入れ替わりについてはプライバシー保護とか自主規制とかで、どのメディアでも流してはいなかった。
とはいえ人の口に戸は立てられない。俺たちは家の外では周りの注目を浴びることになった。
こうして再び学校に通うことになった俺たちだったが最初の頃は大変だった。
なんといっても関心はあっても実際に目にする事はほとんどない異性の身体が目の前にあるのだ。興味が湧かない筈がない。
しかしそれを身体の元の持ち主が好きにさせる訳がない。
結果として入れ替わりが起きた者たちが互いに自分の身体を監視しあうようになった。
登校や下校はもちろん、学校内や休みの日も一緒に行動して変なことをしないかチェックが入る。
まったく息が詰まる、とは山崎さんの身体に入った岡田が当時ぼやいていた呟きだが、恐らく全員が同じ思いをしていたと思う。
再び登校するようになって数日後、志位さんの身体に入っていた杉村が欠席した。
何か重い病気か? それともずる休みか? 教室が少しざわついたが鳩山の身体に入っていた志位さんは「大丈夫よ」と言って肩をすくめた。
2日後、登校してきた杉村はまだ体調が悪そうで顔色が悪かった。
身体の具合を尋ねた俺たちに杉村は「女なんて……」と呟いただけで後は何も言わなかった。
何がなんだか判らない俺たちだったがそれに答えたのは志位さんだった。
「覚悟なさい。あなたたちにももうすぐ『女の子の日』というのが訪れるんだから」
その言葉に元男子全員の顔が青くなった。
事故から1ヶ月が経つ頃、クラスの雰囲気が変わり始めた。
最初は監視のためだったのだが、行動を共にするようになったことでそれぞれの仲が接近し始めたのだ。
それぞれのグループの雰囲気が和やかになり始め、複数の男女が笑顔で語り合う。そんな光景が見られるようになった。
恋人同士になった奴らもいた。谷垣と安部さんがそうで、2人はキスまでしたと言うが……本来の自分の顔をした相手にそんなことができたもんだ。
もっとも一部には相変わらずの奴もいる。小泉は前からふざけるのが好きな奴だったが、最近はわざと女っぽい仕草をしてふざけては前原さんに怒鳴られている。もっとも本気で喧嘩してる訳じゃなさそうだからもしかしたら「喧嘩するほど……」というやつなのだろうか?
ただ、入れ替わった身体だけは全然戻る気配がなかった。
結構頻繁に病院に行って調べてもらっているのだが、原因は相変わらず不明で元に戻る方法が見つかるのなんてまだまだ先、という感じである。
地元の人の話であの事故のとき、なぎ倒した地蔵がその昔、村娘を助けるためにその身を入れ替え悪党たちをひきつけた伝説があったとか、バスの座席が並んだ者同士で入れ替えが行なわれていた、とかは判ったのだが元に戻れなければそんな事に何の意味もなかった。
そうこうしているうちに新しい身体に順応し始めた奴らが出てきた。
唇が乾くと言ってリップクリームを塗る元男子、強くなりたいからと身体を鍛え始めた元女子。
昼休みに他のクラスグループに混じり女の子同士(?)の会話をしたり、男同士(?)でサッカーをやったり……そんな光景が違和感なく見えてしまう。
みんな元の身体に戻ること諦めた訳じゃない。
ただ、戻る可能性が見えてこない現状では、新しい身体で人生をやり直すことを考えたとしても誰も非難できないのじゃないのだろうか?
政府や役所は元の身体に戻す事を諦め、近いうちに戸籍の性別を書き換えて事故の処理を終結させるつもりらしい。
それは噂だったが俺たちにはかなりの現実味を帯びて聞こえてきた。
仕方ないと溜息をつく者、簡単に諦めるなと怒る者、あるいは嘆く者、新しい身体に馴染もうとする行動をとる者、逆に拒絶する者、と噂に対する反応は様々だった。
などと今まで起きたことを思い出しながらホームルームの様子を眺めていると、突然ドアが開いて担任……もとい副担任の教師が入ってきた。
「大変です。管君と森さんが……」
今日休んでいた2人が例の事故現場の斜面下で倒れているのが発見されたというのだ。
教室中がざわめきだしたのを担任が抑えて事情を聞いた。
2人はお互いの身体が入れ替わり、お互い仲良くはなったものの新しい身体に馴染めず本来とは逆の性別であることを悩んでいた。
そこで昔上映された映画のように入れ替わった場所で2人抱き合って斜面を転げ落ちる事を考え実行したらしい。
救出された2人は気絶しているものの幸い打撲だけで命に別状はないとの事でこの近くの病院に搬送されてくる予定らしいと聞いてクラスの全員がほっと安堵の溜息をついた。
俺はこの話を聞いて安心すると同時に彼らに同情した。
映画の話は俺も知っている。
現実はそう単純じゃない、そんな方法で元に戻れるなら誰も苦労はしない。判ってはいるだろうけど、2人はそれをやってしまうほど追い詰められていたのだ。
あの2人をどうやって励まそう? もしかして気がついた2人は絶望して自殺したりとか……そんな心配が俺の頭の中をよぎった。
ところが……
「ない……あ、ある……元の身体だ」
「あたしたち……元に戻ったのね」
……どうやら世の中は思ったより単純らしい。
目の前で喜んでいる2人を見て見舞いに来た俺たちの方が大騒ぎになった。
「ようし、次!!」
担任がピッとホイッスルを鳴らすと抱き合った男子と女子がゴロゴロと斜面を転がっていく。
怪我をしないように斜面にはマットが敷かれ、その先には巨大な緩衝材が立っている。
見る角度を変えれば体育の授業と錯覚しそうだが、順番を待っている連中の表情はみな真剣である。
こんな事したら上手くいかなくなるんじゃ? という心配は実験台として最初に実行した担任と副担任の身体が元に戻ったことで打ち消された。
続いてバスの運転手とバスガイドが、そして生徒たちが次々に転げ、下では気を失った彼らを少し離れた場所へと運び出されていた。
4人一組で入れ替わった連中は元男子同士が最初に入れ替わり、続いてそれぞれの元女子と入れ替わることで戻っていった。
そして周囲からは「やった、入れ替わった」とか「元に戻ったわ」などという声が聞こえてきた。
そんな連中の様子を俺は最後尾からやや緊張しながら見ていた。
俺の順番は一番最後、そして俺と入れ替わる相手は……誰もいない。
あの事故のとき、俺は中央の位置で移動中だったためにどこの列にもいなかった。
そのためだろう。クラスのみんなが入れ替わったと大騒ぎする中で俺だけが自分の身体で目が覚めた。
事故直後から翌日まで高熱と腹痛はあったものの、入れ替わり現象にまきこまれなかった俺はそれを幸運だと思っていた。
退院するとき筋肉が落ちて少し体が華奢になっていたが、俺は大して気に留めていなかった。
「緒方、お前髪伸ばしてるのか?」
「いいや、日曜に切ったばかりなんだが……もう肩にかかりそうだな」
「成長期か?」
「まさか。鬱陶しいけど小遣いもう無いし、切ってもすぐ伸びるからこのままにしてみるかな?」
「緒方、お前結構きれいな肌してるんだな」
「そうか? 一昨日起きたら体毛が抜け落ちててさ、それからこんな感じなんだよ」
「肌も白いしすべすべしてるし」
「おい、撫でまわすなよ」
「感じてるのか?」
「ば、馬鹿っ!!」
「緒方、お前最近痩せてきたんじゃないか?」
「そうなんだよ。最近上着がぶかぶかでさ、ベルトなんか20センチ近くも短くなったんだぜ。ただその下の方は太ったみたいで最近ズボンが窮屈になっちまってんだよな」
「ふうん、部分太りなのかな?」
クラスメイトとこんな会話を交わしつつも、俺はそれほど深刻には考えていなかった。
しかし事故から1ヶ月後――
「ま、まじかよ……」
俺は洗面所で呆然と呟いていた。
目の前の鏡には上半身裸になった俺の体が映っていた。
幅が狭く撫で肩になった肩、艶やかに肩の下まで伸びた髪、筋肉の代わりに脂肪がついて丸みを帯びてきた身体、細くなったウエストと大きくなった腰、数日前から気にはなっていたのだが……
だが俺を驚愕させたのは胸の部分だった。
わずかだがはっきりと見える2つの丸い膨らみと先端の大きくなった突起物、それは前日までは無かったものだった。
朝、起きようとした俺の手が胸に触れ、その感触に慌てて飛び起き洗面所へ駆け込んだのだった。
「そんな……これじゃまるで女じゃないか」
震える声で呟く俺、その声もよく聞くと男とは思えない高い声だった。
「おはよう、今日は早いのね」
背後からお袋が声をかけてきた。
慌てて俺は胸を隠しながらトイレへと逃げ込むように入り込んだのだが……パンツを下ろした俺は声にならない悲鳴を上げた。
俺は……「男」を喪失していた。
俺はすぐに病院に連れて行かれて検査を受けた。
その結果、性染色体はXX(ダブルエックス)、体内に子宮と卵巣の存在を確認、つまりは完全に女性……俺は医者にそう告げられた。
どうやら俺も他の連中同様「みがわり地蔵」の影響を受けていたようだった。
ただし俺の場合は他の連中のように他人との「身替わり」ではなく、自分自身の性別が女へと……「身変わり」を起こしたということらしい。
村の言い伝えではあの地蔵の前で高熱を出して倒れた修行僧が女人になった、という伝説もあるらしい。
原因や治療法はやはり不明だった。
ショックに打ちひしがれる俺とは対照的にお袋は喜んでいた。以前から娘が欲しかったらしい。
部屋の中には女物の衣類や下着が増え、先週「あれ」が始まったときは赤飯が炊かれて俺の気持ちは思いっきりブルーになってしまった。
他の連中と違い本人の身体だから遠慮する必要がないということらしいが……少しは遠慮して欲しい。
家族に口止めをし、俺は男の格好をして周囲にこの事を隠し続けた。他人ではない自分の身体なのに女の格好なんて絶対にしたくなかった。
幸い、というかクラスの他の連中の身体が入れ替わっていたために、俺だけ更衣室が別になっていたので着替え中にばれることはなかった。
しかし事故前の写真と比べると顔の輪郭はずいぶんと女の子っぽくなっていた。髪の毛はうなじのあたりで縛っていたけど、これを解いて髪を整えたりなんかしたらもうすっかり女の子だ。
それにさらしで隠してはいるけど、うっかり背伸びとかするとだぶだぶになった制服の上からでもはっきり見えるくらい胸の膨らみが大きくなっていた。
クラス、いや学校の中でも薄々気付いている連中がいるようで、最近は俺を見てひそひそ声で囁きあう連中が増えてきた。
俺は反対するお袋の声を無視して今日この場所へやってきた。もうこれ以上女の子でいるのもお袋のおもちゃになるのもごめんだった。
「次、これでラスト」
自分の身に起きた出来事を思い出しているうちに俺の番が回ってきたようだ。
クラスメイトの何人かが斜面を登ってきて俺の姿を見ていた。
ここに来る前、担任から俺の身体の事がみんなに伝えられた。が、やはりほとんどの連中は気付いていたようだった。
ま、今のこの姿じゃ気付かれたとしても仕方ないんだろうな。しかしこの斜面から転がり落ちれば俺も……
俺は前に出て斜面の前に立った。
上から見ると結構急な傾斜に思え、俺はごくりとつばを飲み込み大きく息を吸い込んだ。
ピッ
ホイッスルと共に俺は斜面へと飛び出した。
キーン、コーン、カーン、コーン―――
ベルが鳴り終るとほぼ同時に担任の教師が教室に入ってきてホームルームが始まる。
「それじゃあ出欠を取るぞ、相川」
「はい」
教師が名前を呼び生徒が応える。朝の学校で行なわれるごくありふれた光景。
「小泉」
「はあ〜い」
「お前は男に戻ったんだからそういう返事はやめろっ!!」
担任が怒鳴ると小泉はぺろっと舌を出し、周囲からどっと笑いが起こる。担任も本気で怒っているわけじゃないからすぐに苦笑いの表情になる。
そして笑い声がおさまると担任は再び出欠を取り始めた。
あれから1週間経った。
例の試みは大成功と言っていいのだろう。
予想通り斜面を転がり落ちた男女は入れ替わり……いや、元に戻り、それぞれ本来の身体で自分の家に戻っていった。
それまで借りていた衣服や下着はクリーニングしてから持ち主の元へ戻された。……数が足りないと騒ぎになる奴もいたみたいだが。
もっと色々楽しみたかった、という奴もいたが「じゃ、もう一度あそこで入れ替わってみるか?」と訊くと身震いをしながら首を横に振ったのでみんな大笑いをしていた。
相手の立場を身をもって体験したからだろう。元に戻ってから男女間がすごく親密になった。
結果としてはクラスのみんなによい影響を与えたといったいいのだろう。
こうして「入れ替わり騒動」はほぼ終息した……のだが。
俺はホームルームの様子をむすっとした表情で見ていた。
本来ならとっくに呼ばれている俺の名前がまだ呼ばれていない。担任は俺が存在していないかのように次々と他の男子の名前を呼んでいく。
担任は続いて女子の名前を呼び始める。
「青山」
「はい」
担任の低い声に高音の声が返事をする。
「大原」
「はい」
「緒方」
(くそっ、やっぱりかよ)
「おい緒方!!」
担任が再び呼んだので俺は仕方なく
「……はい」
と応えた。
それは高く済んだソプラノだった。
そう……俺の身体は結局女のままだった。
斜面を転がり落ちたものの、身体が変化する兆しはまったく見えなかった。
元になった伝説が違うのだから効果がなかったのだろう、と誰かが言っていたがそれが誰だったかはもう思い出せない。
ちなみに伝説によると村娘の場合はしばらくすると元に戻ってめでたしとなっているけど、修行僧の場合は庄屋に嫁ぎ5人の子供を産み、男に戻ったという記述がどこにもないらしい。
恐らく女性のまま生涯を終えたのでしょう、とのことだった。
この結果にお袋が大喜びしたのは言うまでもない。
「あー、知っている者もいるだろうが、緒方は今日から正式に女子生徒になった。緒方、自己紹介してくれ」
担任の言葉に俺が立ち上がると制服のスカートがふわりと揺れた。
今までは男子の制服で通っていたのだが、今日から女子生徒ということで学校からはセーラー服の着用を言い渡され、以前の制服はお袋が処分してしまった。
おかげでセーラー服姿の俺は学校に入ったときから周りの注目を浴びまくっていた。
「緒方……あ、明穂……です」
俺は顔が真っ赤になり、それだけ言うのが精一杯だった。
(お袋っ!! なんでこんな名前にしたんだよ。思いっきり女の子じゃないか!!)
俺は心の中でお袋に盛大に文句を言った。だいたい戸籍の変更なんてそう簡単にできるもんなのか?
「明穂ちゃん可愛いっ!!」
「お昼一緒に食べよう!!」
「今度デートしてっ!!」
教室のあちこちから男たちがはやしたてる。
…………好き勝手言いやがって。お前ら憶えてろよ!!
「静かに!! これから緒方は体育は女子と一緒に、そして家庭科の授業も受けてもらう。色々と大変だろうから女子は彼女をサポートしてやってくれ」
担任が言うと教室のあちこちから「はいっ」という女子の返事が聞こえた。
「……いいのかよ? 俺は男だぞ」
と言ってみたのだが、女子たちには全然効果がなかった。
「何言ってるの。こんな可愛い子が男のはずないじゃない。あなたはもう立派な女の子よ」
「あたし明穂とだったら着替えとかも全然OK!!」
「セーラー服、似合ってるわよ」
「あとで女の子のいろんな事を教えてあげる」
「今日帰りに一緒にショッピングに行きましょうね」
…………どうやら俺は家の中だけでなく学校でもおもちゃにされる運命らしい。
「不条理だ……何もかも」
俺はがっくりと項垂れ、力なく椅子に座りながら呟いた。
(おわり)
おことわり
この物語はフィクションです。劇中に出てくる人物、団体は全て架空の物で実在の物とは何の関係もありません。
「…………はあぁぁぁ―――――っ」
俺は鏡の前で超特大の溜息をついた。
鏡の中には上半身裸になった女の子が映っていて、その胸には薄いピンク色をした布切れ……いわゆるブラジャーが着けられていた。
(これが……俺だなんて)
身体が変化して2ヶ月、女の子として学校に通い始めてから2週間ちょっと経つが、いまだに俺は自分の姿に戸惑いを感じている。(……というかそう簡単に慣れてたまるか!!)
ここはいわゆるランジェリーショップ(!)の更衣室。
目的は俺に合った……ブラジャーを買うため。
あの斜面での試みで俺は男に戻ることなく……逆に胸のサイズが3センチほど大きくなった。
そのため最初に用意していた(もちろんお袋がである)ブラジャーのサイズが合わなくなったのだが……まったく迷惑な話である。
土日まで待って、とお袋は言っていた。しかし前回お袋と一緒に下着や服を買いに行って暴走気味になったお袋の姿を見ていた俺は無理やり理由をつけて学校帰りに買う事にしたのだ。
シャッ――
「どう? あら、よく似合ってるわよ」
更衣室のカーテンが少し開いてクラスメイトの志位さんが顔をのぞかせてきたので俺は思わず両腕で胸を覆った。
「わっ!! み、見ないで」
「ふふっ、恥ずかしがる明穂ってかわいい」
などと言われたもんだから俺の顔がさらに熱くなる。
「ねえ、あたしたちにも見せてよ」
志位さんの後ろから前原さんの声がしたので俺は慌てて志位さんの顔を外へ押し出すと再びカーテンを閉めた。
学校帰りに買うとは言ったものの、いまだに男だという意識が強い俺にとってそれはかなりの勇気のいる行動だった。
スーパーの下着コーナーの前でどうしようかと迷っていた俺はそこで志位さんたちに見つかってしまった。
事情を知った彼女たちは俺を近くのランジェリーショップに連れて行くとそのままみんなで入っていったのだが、目の前に飾られている下着の数々に俺の頭はくらくらしてきた。
そんな俺に志位さんは彼女たちの選んだブラジャーと共に俺を更衣室へと放り込み、俺はそれらを試着する羽目になったのだ。
(くそっ、最悪のパターンだぜ。とにかくさっさと選ぼう。それにしても結構いろんな形があるんだな。飾りのついたのとかストライプとか前で留めるやつとか……げっ、何でこんな勝負下着みたいなのが混じってるんだよっ!?)
俺は感心したり顔を真っ赤にしながら大急ぎでブラジャーを選んでいった。
「やれやれ、終わった」
買い物が終わった俺はバーガーショップでシェイクを口にしながらほっと一息をついていた。
「明穂ったら店員にブラ渡すときに顔真っ赤にしてさあ……」
一緒についてきた志位さんたちが俺の隣でさっきの店での様子を話している。
最近俺は彼女たちと一緒に帰ったり、こうやって甘い物を一緒に食べたりすることが多くなった。
大半は彼女たちが誘っているのだが……こうやっているとだんだん俺が「女」に染まっていきそうだ。
「ねえ、あたしん家すぐそばだから、これからそこで明穂の新しい下着の品評会とかやらない?」
突然前原さんがとんでもないことを言い出した。
俺は大急ぎでシェイクを飲み干すと立ち上がった。これ以上そんなのにつきあわされたらたまらない。
しかし、その場を離れようとした俺はそこで何者かとぶつかってしまった。
「す、すいません」
ぶつかったのは若い男性だった。
男性は心配そうな表情で俺に顔を近づけてくる。
ドクンッ!!
「あ、あの……大丈夫ですか?」
「…………」
見詰め合う俺と男性。そんな俺のそばからひそひそ声が聞こえてきた。
「呆けてるんじゃない?」
「呆けてますね」
「見とれてるんじゃないの?」
「もしかして……一目惚れ?」
その言葉にはっとなって周りを見るとクラスメイトの女子たちがニヤニヤとして俺を見ていた。
俺は顔を真っ赤にして落としていた鞄と紙袋を掴むと一目散に走り出した。
次の日、教室では目撃者により「明穂ちゃん一目惚れ事件」が詳細に(かなりの脚色を含めて)語られていた。
(くそっ!! 無視だ無視!!)
下手に反論しようもんなら火に油を注ぐ結果になるのは明らかだ。ここは頭を低くして噂が収まるまでじっとしているに限る。
(それにしてもあの時どうして俺はボーっとしてたんだろう? まさか本当にあの男に? いや、そんな筈はないっ!!)
俺は大慌てで赤くなった顔を横に振った。
キーン、コーン、カーン、コーン―――
チャイムの音がしてみんなは席に着き、担任が教室に入ってきた。
「みんな、先週も言っていたが今日からしばらく教育実習生がうちのクラスを担当することになった。じゃあ二階堂君、入って」
担任がそう言うと教室の扉が開いた。
「ああっ!!」
入ってきた人物を見て俺は思わず声を上げて呆然となった。
「教育実習生の二階堂です。今日からどうぞよろしくお願いします。……あっ!!」
昨日バーガーショップで俺を見つめていた顔がそこにあった。
教室のあちこちから「キャーッ」という声が聞こえてきた。
(おまけのおわり)