鈴女(4)

 


1.凛

 


「恐れながら申し上げますが、上様、今日はお疲れのご様子、少々お休みされた方がよろしいのでは?」

家臣にそう言われたのは、江戸城の中奥で、吉宗が訴状に目を通していた時だった。

吉宗は訴状から目を離し、家臣を睨みつけた。

「そのような事はない!」

「しかし…」

家臣は、吉宗が今日読み下した訴状をちらりと見る。

読み終えた訴状の量は、いつもより遥かに少なく、処理速度は目に見えて落ちている。

そのため、この家臣は、吉宗の体調が良くないと思ったのだろう。

「わかった」

忌々しげに、吉宗は答えると、席を立つ。

「こんなハズじゃなかったのに…」

吉宗は一人ごちた。

「上様、今、何かおっしゃられましたか?」

「いや、なんでもない…、何でもないのだ」

こんなはずでは無かった。

あの日、あの男から記憶を奪い取って、それを自分のものにしたのだから、本物の吉宗にできたことは、自分にもできるはずだ。

吉宗は、そう思い、仕事を始めたのだが、知識として知っている事と、それを実践する事では、まるで勝手が違っていた。

今の吉宗は、前のように自分の記憶を適切に取り出せない。それ以上に、決断が下せないのである。そのため、処理能力が大幅に落ちているのだ。

「しばし、休む」

そう言い残し、吉宗は自室に戻った。

自室に戻ったといって、他にやる事があるわけでもなく、吉宗はいつのまにか眠りに落ちていった。



 

 

 


 

 




ごうごうと鳴く風の音、戸を激しく叩く雨の音、それに、パチパチとはぜる薪の音が聞こえる。

その音で、目を覚ますと、そこは先ほどまでいた江戸城の自室ではなく、薄暗い6畳ほどの狭い部屋だった。

吉宗は、自分が膝をかかえて座っているに気がつく。

目の前には、小さな囲炉裏があって部屋をぼんやりと照らしている。

「凛、また寝とうたんか?」

囲炉裏の向こう側から、声が聞こえた。

視線をあげると、囲炉裏の向かい側で、若い女が藁で何かを編んでいる。

凛というのは、鈴女が吉原に買われて来る前の名前だった。

今、凛と呼んだ若い女は、鈴女の母だった。

お母・・・。

鈴女は、驚いて、思わず声を漏らす。

いや、漏らしたつもりだったが、なぜか自分の口が動かない。

「ううん、おっ父は?」

凛の口が、鈴女の意志と関係なく勝手に動いていた。

鈴女は凛の体の中にいても、身体を動かせず、その様子をただ眺めるしかできないようだった。

「そうだねぇ、もうだいぶ、遅うなるが、どうしんたんじゃろうね」

母は、言いながらも、手際よく藁を編む手を動かしている。

「おっかあ、おいらもやるよ」

また、凛の口が勝手に動く、こんどは身体も勝手に動き、囲炉裏をまわって母の方へちかづいていく。

「あんたにできるかねぇ」

母は笑いながら、藁を数本、凛の小さな手に渡して、ゆっくりと編んでみせた。

凛も、それを真似して編み始める。

するすると綺麗に編んでいく母の指とは違い、凛は、不器用な手つきで、藁を編み合わせていく。

鈴女は、母の様子を見ていたかったが、凛は集中しているようで、視線は藁からまったく動ず、母の表情は分からない。

そうして、四半時ほど編み続けて、ようやく藁が形を成していった。

「どうじゃ?」

凛は、できたものを、得意げに母に見せる。

「これじゃあ、だめじゃあ」

母は、苦笑する。

「もういっかい、やってごらん、ほれここをこうしてな」

母は、凛にもういちど、編み方を教えてやった。


凛は、また編み始めた。

今度も、なんども失敗したが、その度にやり直した。

前よりもだいぶ綺麗に編めたそれを、凛はもう一度、母の所に持っていく。

「どうじゃ?」

「おお、上手じゃねぇ」

母が嬉しそうに笑う。凛も嬉しくなった。

凛の喜びが、中にいる鈴女にも伝わってくる。

その時、突然、誰かが外から戸を叩く音がした。

「おや、お父が帰ってきたのかねぇ」

母は立ち上がり、戸の方に近づいていった。

その時、凛の中にいる鈴女の胸の中で、なにか黒い塊が湧き上がる。

その塊は、またたく間に広がり、凛の心へも染み渡る。



「おっ母、あけちゃなんねぇ!」

凛は叫んだ。

「なに、言ってるんだい、きっと、お父だよ」

母が、言いながら戸を開ける。あけられた戸から強い雨が吹き込んできた。

戸のむこうには男が立っていた。

鈴女は、その男に見覚えがあった。子供の頃、近所に住んでいた喜八という男だ。

喜八は、顔を青くして母をみつめる。

「どうしたん、喜八さん?」

母は声を掛ける。

「お吉さん、総兵衛が・・・、総兵衛が川に・・・」

男は、やっと口を開くと、そう言った。

 

その言葉を聞くと、母の顔も喜八と同じように青ざめていく。

「とにかく来てけれ」

喜八の言葉にしたがって、母は家を出た。

よくわからないが、後を追おうとした凛に、母は待つように言い残して、家を出た。

 


その日、母は帰らず。

凛も、だいぶ遅くまでまっていたが、いつのまにか眠ってしまった。

そして、翌朝、雨音がよわくなってきたころ、憔悴しきった母が帰ってきた。

凛は、父の総兵衛が川で流されて命を落とした事を教えられた。

 

その後、母は一人で凛を養っていたが、一年ほどしたある日、風邪をこじらせ、帰らぬ人となった。

村では不作がつづいていて、残った凛の面倒を見る余裕のある家はなかった。

凛は、地方を廻っていた人買いの男に売られることとなる。

 

 


 

人買いの男に連れられてこられた吉原で、凛は奉公をすることになった。

そこで、禿という役割と、『鈴女』という新しい名前を与えられて、弥生という姉女郎の雑用をすることになる。

弥生は、ふくよかな美人で、女郎には珍しく、おだやかで気立ての優しい女だった。

頼まれ事は多かったが、なにかしてあげると、弥生はよくお菓子をくれたり、綺麗な櫛をくれたりした。

綺麗で優しい姉女郎を持った事を鈴女は誇りに思い、同年輩の禿によく自慢しては、喧嘩になった。

 

そうして、それなりにおだやかな生活が続いたある日、凛は、弥生の部屋からの叫び声を聞いてしまう。

覗き込むと、そこには裸で、絡み合う弥生と男の姿があった。

あまりのことに、凛は、思わず叫び声を上げてしまい、弥生にひっぱたかれた。

弥生に叩かれたのは、それが最初で最後だった。

 

季節が過ぎて、凛の年が3つほど増えた頃、ある日から、弥生が病気で寝込むようになる。

始めは手厚く看病していた郭の遣り手たちも、弥生の病状が回復しないのを見ると、

弥生を、大部屋にいれるようになり、お燐は、弥生からはずされ、新しい姉女郎、夏目につけられる。

凛は、新しい姉女郎の雑用をこなしながら、また年は経ち、新造になって夏目と一緒の座敷にでるようになる。

そうして忙しく過ごすうち、いつのまにか弥生が郭のどこにもいない事に気がついた。

弥生は死んだんだ…。

誰に言われずとも、鈴女はわかった。

おそろしくなった鈴女は、郭を逃げ出したが、大門をくぐる事はできず、つかまって厳しい折檻をうけた。

折檻をうけながら、鈴女は呪った。

自分たちをひどい目に合わす郭を、その郭に群がる男たちを、そして、何もしてくれない将軍を。

 

 

 



 

吉宗が目を覚ますと、そこは江戸城内の自室だった。

横では、小姓の若者が心配そうに吉宗を見ている。

「わしは…、どれくらい寝ていたか?」

吉宗は起き上がりながら訪ねる。

「半時にございます」

吉宗の問に小姓はすぐに返事をする。

「ながい事眠っていたと思ったが、半時か…」

吉宗は、再び執務室へともどり、家臣に、急いで吉原の郭の営業を停止させ、すべての女郎達を自由にするふれを出すように命じた。

遊女達を自由にしてやれば、皆あの苦しみから解放されるのだ。

それこそが自分がこの身体を得た理由だと吉宗は思った。


 


 

2.吉原

 

ふれを出して、数日がたつ。

だが、吉原がどうなったかは、吉宗の元に噂は聞こえてこない。

吉宗は、本物の吉宗がしたように徳田慎之介に扮して、吉原に行ってみることにした。

吉原に行ってみると、あの華やかだった吉原は、すっかりうらぶれたものになっていた。

しかし、変わらぬものもあった。

どこの郭も戸を閉ざしているが、幾人もの女が街角に立っていて、彼女達は客引きをしているのだ。

「これはどういう事だ…、女郎達は、自由になったんじゃないのか?」

そうひとりごちた時、吉宗は、近くにいた女に声をかけられた。

「お侍様、良い男ねぇ、 ちょいと、寄ってかないかい?」

すこし、年は25くらいと年増だが、美しい女だった。

「なぜ・・・、お前は、このような事をしている? もうこんな事はしなくても良いのだぞ」

それを聞いた女は、吉宗を悲しそうに見る。

「お侍さん、わっちらは餓鬼の頃から、男にすがる事をしてきんした。わっちらには、これしかできないんですよ」

女は言う。

「しかし」

「 江戸でわっちのような女を雇ってくれるようなところなんてありゃしません。わっちの友達はね、病になって薬も買えずに死にんした」

女は言い切ると、吉宗に背を向けた。

そして、それ以上、何も言わないまま、女は他の男の所へ行って、吉宗にしたように媚態を示していた。

しなを作り男を誘惑する女の後ろ姿から目を離すと、吉宗は城への道を急いだ。

 

 



城に戻った、吉宗は、全ての女郎達を大奥に引き入れるよう命令を出す。

家臣たちは、反対をしたが、吉宗は反対をした家臣をことごとく更迭した。

そして数十日後、吉宗は、吉原の遊女たちをすべて大奥へと入れてしまう。

それでよかったと思った吉宗だが、ある日、御台所から、大奥の中で女郎出身の女中と、元からいた女中の仲違いが深刻な状態になっている事を告げられる。


一方、市中では、吉宗の評判が地に落ちていた。

吉原の女郎を独り占めする女狂いの将軍としての評判が立っていたのだ。

膨れあがった大奥の維持費が、財政を悪化させ、江戸城内の米は減っていき、逆に証文の束が日に日に増えていった。


この財政難を理由に、かねてから設立予定だった養生所を断念するにいたった。

良かれと思ってやった政策が裏目にでていく事に、吉宗はあせりを感じ始めていた。


財政難の対策として、吉宗は大増税を行った。増税は、本来の吉宗が考えていた方策だ。

だが、皮肉な事に、増税により、各地で農民達の一揆が頻発するようになる。

そして、そこに飢饉がやってきた。財政難で必要な対策を打てていなかった江戸の町は大勢の餓死者を出した。

吉宗のあせりは、膨れ上がり、一人で部屋にこもる事が増えていった。

そうして過ごすある日、吉宗が朝起きると城内が騒がしくなっていた。

吉宗は慌てる小姓達に何があったか問いただすが、明瞭な答えは返ってこない。

吉宗が新しく取り立て家臣の一人が、顔色を変えて吉宗の居室に入ってきて、町民たちによる数万人規模の反乱が起きた事を告げた。幕府の倉に押入って、コメを強奪しようとしているとの事だった。

狼藉者達を取り押さえるように吉宗は指示をだす。

反乱は数日後におさまり、吉宗の元に、反乱した者達を処分したという報告が行く。

報告書には、反乱に加担し、処分された者たちの名が、書きつらねており、そこには、吉宗が女郎の頃に知った者たちの名もあった。


 

 

3.悪い夢

憔悴しきった吉宗を、どこからか呼ぶ声が聞こえる

それは家臣達の声ではない。

おぼつかない夢遊病者のような足取りで、吉宗は声の方に歩いていく。

耳には聞こえないが、まるで囁くように聞こえる、その声を追いかけて、吉宗は歩く。

場内の者達も憔悴しきっていて、吉宗のこの奇行を止めるものもなく、ただ見ているだけだった。

声の元へと歩いていくと、その声は大奥の方から聞こえていた。


声は、さらに奥女中たちが住む長屋の奥から聞こえてくる。

吉宗は、その声にしたがって歩いた。

そして、声が止んだと思った時、吉宗の前に一人の奥女中が立っていた。

「鈴女…」


鈴女と会うのは、吉宗が、彼の記憶の全てを奪い取ったあの晩以来だった。

言葉さえ知らない鈴女は、何も言わずに、ただ、うつろな瞳で、吉宗を見つめていた。



「どうじゃな、将軍職は? 」

後ろから突然にしわがれた声が聞こえた。驚いた吉宗が振り向くと、あの時の老人が人の良さげな笑みを浮かべていた。

「貴様は…」

うめくように吉宗は言う。

「徳川の世は、もうすぐ終わるよ」

老人は、吉宗に蒔絵の入った手鏡を鏡を差し出した。

吉宗は老人の手から手鏡を取ると、覗き込んでみた。

鏡には、やせ細った吉宗の顔、そして不思議なことに、その後ろに各地で貧困にあえぐ民の姿が重なって見える。

「男になって、将軍になって、あんたは、やりたい事ができたかい?」

老人は、吉宗の顔をのぞき込む。

「違う…、あたしがしたかったのは、こんな事じゃない…」

吉宗は、力なく首を振る。

それを見た老人は、懐から一つつみの薬を取り出した。

「ここにひとつの薬がある。これは、今まで起こったことをなかった事にできる薬じゃ」

老人は、ぐいと自分の顔を吉宗に近づけた。

「なかった事に…? その薬を使えば、死んだ者たちも助かるのか?」

吉宗の瞳は、老人の手の中にある薬に吸い寄せられる。

「ああ、そうじゃ、お前さんに全てを奪われたそこの女も、貧困にあえぐ民も、大奥に押し込められた女郎達も、みんな元に戻る。何もなかった事になるんじゃよ」

「だがな、この薬のお代はちと高いぞ。お代は、おまえさんの記憶じゃ。女郎として生きた、将軍として生きた、あんたの記憶じゃよ。あんたは、なんもかも忘れちまう、そこの女のようにな。それでもいいかい?」

鈴女は、老人が指差した鈴女の顔を見る。鈴女は、相変わらずうつろな瞳で、こちらを見返している。

今更自分の記憶など惜しくはない。

この薬を飲めば、自分はまた、この鈴女になるのだ。

記憶をなくした女郎がどうなるかを想像してみたが、自分一人が不幸になればいいのだけのこと、今に比べれば…。

吉宗は、だまって頷いた。

「じゃあ、こいつをお飲み」

老人に渡された薬を飲んだ吉宗は、急速に意識が薄れていった。同時に、頭の中からおびただしい量の映像が浮かび上がり、消えていくのが見えた。

 

 

 

 

 




ごうごうと鳴く風の音、戸を叩く雨の音、それに、パチパチと薪のはぜる音が聞こえる。

その音で目を覚ますと、そこは小さな部屋だった。

「凛、お前また寝とうたんか?」

部屋の中央には小さな囲炉裏があり、囲炉裏の向こう側で、女が何かを編んでいる。

凛は、何か言おうとしたとき、外から誰かが戸を叩く音がした。

女は手際よく藁を編んでいた手を止める。

「おや、お父がかえってきたのかねぇ」

母は立ち上がると、戸に近づいた。

凛の胸に何か黒い塊のような不安が広がる。凛は、母にしがみつき、扉を開けるのをやめさせようとした。

扉をあけさせてはいけない。

凛自身、なぜかはわからないが、そう思った。

「なんだい、きっと、お父だよ」

しがみつく凛に構わず、女が戸を開ける。

扉が開かれ、強い雨が風と供に吹き込んでみる。

凛が、おそるおそる、扉の向こうにいる人を見あげると、そこには、男が立っていた。

それは、凛の父、総兵衛だった。

凛は、目を見開き、ついで、ぎゅっと目を閉じて、目の前の男の腰に抱きついて泣き出した。

「どうしたんじゃ、凛は?」

男はきょとんとした顔で凛の頭を撫でてやる。

「ほんになあ、怖い夢でも見ていたんかねぇ」

凛の耳に、母の不思議そうな声が聞こえた。





 

 


強い雨の中、目深に編み傘をかぶった田舎者風の老人が、外からその様子を眺めていた。

「記憶をいただくとは、時間をいただくことじゃ。約束通り、おまえさんの女郎として生きた時間をいただいていくよ」

老人はひとり言うと、強い風の吹く中、どこかへと歩き去っていった。

 


 

 

 

おわり

 

 

 

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後口上

 

黒い話にしようと思いましたが、黒い話にはなりませんでした。

まあ、途中、黒かったということで、お許しください。

 

吉原が舞台だというのに、女郎の粋や意気地もなく、

乏しい知識に無理をさせて書いたので怪しい部分が満載のお話ですが、

一寸でも楽しんでいただければ幸いです。

 

最後までお付き合いいただきまして、ありがとうございました。





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