鈴女(2)

 

江戸城の中奥、一人の男が、うづと詰まれた町民達からの訴状に目を通していた。

男の名前は徳川吉宗。つい半年前に将軍になったばかりの男だが、元は紀州藩の藩主であり、藩主になるやいなや切迫していた紀州藩の財政を見事にたてなおした凄腕の実務家である。

吉宗は将軍になってからすぐに幕府の改革にとりかかった。幕府の実権を握り続けていた側用人の罷免、身分にかかわらず能力の高い者の登用、質素倹約の徹底など、さまざまな改革を行った。

その改革の一つに目安箱の設置がある。これは、町民の直訴を奨励するもので、市中におかれた箱に、町民が訴状を入れることができ、集められた訴状は、家臣たちの検閲を通して吉宗へと届くしくみである。紀州藩時代にも吉宗はこの手法を使って成功を収めており、江戸でもまた吉宗は、町民たちの声を政治に反映させようと取り組んでいた。
 
吉宗は訴状の山を猛烈な速度で読み下していくなか、一通の訴状で目を止めた。それは江戸の公認の風俗街である吉原の女郎からの訴状だった。そこには、吉原における遊女達の過酷な労働環境と廓での搾取についてつづられていた。

「これは、捨て置けんな」

訴状を読み終えた後、吉宗はつぶやくと家臣達に後の処理を任せ、早速、吉原に出向くこととした。



あの老人との不思議な体験から、数日がすぎていた。結局、無事に体を老人から返してもらった鈴女は、店に金を借りて、老人の代金の不足している分を立て替えてやった、というよりは、ほぼ全額を鈴女が出すことになった。その代りに鈴女はあの老人より、あの薬を手に入れたのである。

鈴女はいつもどおり、店の外から見える座敷に座っているが、数日前に起きた事が頭から離れない。いまでも懐に老人から買ったふた包みの薬を忍ばせている。

まぐわった相手と体を取り替える薬、これを誰に使おうかと悩む鈴女に、老人がいくつかの助言を与えた。

新しく将軍についた吉宗は、目安箱を使って町民からの訴状を広く集めていて、それらの訴状は吉宗自身が読む事。吉宗は時折お忍びで町にやってくるらしいという事。そして吉宗は武士の風紀と町民の安らかな生活を重んじる将軍らしいということ。

その助言を受けた鈴女は、ひとつの計略を思いつく。それは、吉宗をおびき寄せ、彼と体を交換するというものだった。

老人に頼んで、吉宗をこさせる為に書いた訴状を目安箱にいれてもらってから数日が過ぎていたが、それらしい客はやってきていない。だが鈴女自体、本当に将軍がやってくるとは思っていなかった。彼女は、ただ大きな企てを起こしてみたかっただけなのかもしれない。鈴女は今までに感じたことの無い大きな興奮を胸に、格子の外の男たちを眺めていた。

そうしている彼女の目に、一人、他の男たちとまったく趣の異なる浪人風の男の姿が目に写る。ぴしりと伸ばした背、涼やかな瞳、品のある立ち居振る舞い。あきらかにその男は、周りの男たちから浮いていた。本来ここにいるべきでない人間の雰囲気をかもし出している。

呼び込みの男達も、男の雰囲気にどこか気圧された感じで、普段の威勢の良い声をかけられないのが見て取れる。だが、浪人風の男は番台にすわっている妓夫に何か耳打ちした。
男は、この店に決めたらしい。

座敷の女郎たちも、その浪人風の男を気にしているようで、座敷内がざわめいた。

「きっと、あたしに決めたんだよ」

少し太めの女郎が、上目遣いにおどけて言うと、皆がにぎやかに笑う。

女郎達は、笑いながらも、あの男が自分に来ないかと思案している様子だった。

だが、数分後、名前を呼ばれたのは鈴女だった。

「鈴女、あんたに客だよ」

鈴女は、にんまりと笑みを浮かべて立つと、男の待つ座敷へと足を運んだ。



鈴女が座敷に入ると、男の前には徳利がひとつ、お決まりの料理が一品あるだけだった。男は胡坐をかいているが、その背筋の正しさは崩れない。

「鈴女にございます」

鈴女は、三つ指を揃えた、いつもはしないような丁寧な挨拶を男にした。

「お前が、鈴女か」

男の声は渋く、重く落ち着いたていた。

「ええ、あたしが鈴女ですが、どちらかでお会いしましたか? お武家様のような素敵なお方なら、お会いした事は忘れないと思うのだけれど」

「いや、知人からお前の事を聞いていてな、一度直に会いたいと思っていたのだ」

「あら、嬉しい」

鈴女は、そう言いながら吉宗の猪口に酒を注ぐ。

「でも・・・、それは嘘でしょ? お武家様はあたしに聞きたい事があっていらしたんじゃござんせんか?」

男は女郎の言葉を聴いて苦笑する。

「どうも、俺は嘘が下手なようだな。言うとおりだ、俺はお前に聞きたい事があってきたんだ」

「なんなりとお聞きくださいな」

男は、訴状こそ見せなかったが、質問の内容は、鈴女が書いた訴状の確認を取るものだった。質問は事務的で、鈴女もただそれに答えていった。

本来、目安箱の訴状の確認は、書いた本人を城に呼び出して行うらしいが、鈴女の訴状には、この事がしれると郭より折檻される事が書いて会ったので、わざわざ確認に来たのだろう。優しい男だ、と鈴女は思った。

質問が終わる頃、鈴女は泣いていた。

質問に答えるごとに、いろいろと辛いことを思い出す。

そういう演技をしていたのだ。

それを知らない男は、優しい瞳を鈴女に向ける。

鈴女は男に抱きつくと、漏らすような甘い声で、男に囁く。

「お武家様のようなお方は初めてで、宿世の縁を感じるのです。もし、アタシを哀れな女とお思いになるのならば・・・」

「一度だけで良いですから、アタシを抱いてやってください」

男にしなだれかかる鈴女の頬を涙が伝っている。鈴女の潤んだ瞳を見た男は、鈴女に誘われるままに、布団のしいてある部屋へと入った。

鈴女は、男を先に部屋へ入らせると、懐より赤い包みにはいったあの薬を取り出し、すこし躊躇った後、それを飲みくだしたのだった。

 

 

つづく



inserted by FC2 system