タナボタ 作:greenback ――やった。 成功だ。 目の前にいるのは背が小さくて、胸がぺったんこで――色気のかけらもない幼児体型の女の子。 昨日までの、ううん、さっきまでの「あたし」だ。 やたら色白でそばかすの浮いた肌も、天パでぐりんぐりんの髪の毛も、いちいちコンプレックスだった「あたし」。 でも、もう違う。 あたしはもう、あんなちんちくりんじゃないんだ。 呆けたようにこちらを見つめている「あたし」の身体。そこに宿っているのは、今まで「この身体」に入っていた魂だ。池袋のクラブで出会った、初対面のきれいなお姉さん。 飲んでたとはいえ、ちょろいもんだったなあ。 なにげなく話しかけて、うまいこと調子を合わせて。 「へえ、大学生なの。可愛いからもっと若いかと思った」 「れっきとした大学生ですよ。明教大国文科1年」 「お、奇遇だね。あたしも明教だよ」 「ほんとですか? 何年生?」 「いやいやとっくに卒業してるから。OB、OB」 「じゃ先輩なんですね」 適当に会話を続けながら、注意深くチェックする。 見た目は100点。身につけてるものもちゃんとしてるし、お金に苦労してる感じもなさそう。数時間はしゃいでもテンションが落ちないところを見ると、健康面でもたいした問題はないと見た。うん、理想的。 「あー楽しいな。ねえねえ後輩ちゃん、この後ヒマ?」 「え?」 「良かったらカラオケでも行かない? 二人で」 「あ、はい! 行きます行きます!」 「おーし決定ぃ!」 タナボタとはこのことだと思った。 どうにかして二人っきりになる口実を考えてたら、向こうから提案してくれるなんて。 店を出て、近くのカラオケボックスに入って。さっそく選曲を始めようとするお姉さんに、あたしは小さな石のついたブレスレットを差し出した。 「あ、あの、これ……つけてもらえませんか」 「わあ、かわいいじゃん。何これ、プレゼント?」 「あ、はい」 かわいいかどうかは微妙だと思う。新宿の路上で、どこの国の人かもよく分からない女の子に売りつけられた、安っぽくて悪趣味な銀の腕輪。こんなインチキ臭い商品に5000円も出したんだから、あたしの物好きも相当なものだと思う。それに宿るという「力」を、本気で信じたわけじゃなかったはずなのに――まさか、本当に使えるなんてね。 お姉さんが装着したのを確認して、あたしも同じ形のブレスレット――こっちは金色だ――を右手に通す。 「あ、ペアになってるんだ」 「はい。お近づきの印というか。それであの、手を、握ってもらっていいですか」 「いいけど、一体なんで……ひゃっ!?」 ばしん。 差し出したあたしの右手にお姉さんが触れた瞬間、火花が身体を走り抜ける。冬場にドアノブなんかでパチッとくる静電気、あれを10倍くらいにした感じ。そのままぐにゃりと視界が歪んで、一瞬ブラックアウトして。 そう、本当に一瞬。時間にしたら1秒にも満たないんじゃないかな。気付いたときには、こうして相手の身体の中におさまっているってわけ。 「お近づきの印に、身体を入れ替えてみちゃいました。ふふ、びっくりしました?」 「いれ、か……え?」 ぽかんとした表情のまま、身体のあちこちをぺたぺたと触りだした「あたし」。その行動があまりに予想通りで、あたしはおかしくてたまらなかった。きっとまだ現実味がないのだろう。あたし自身、最初に入れ替わった時はそうだったからよく分かる。でも、本当にショックを受けるのはこれからなんだな。 「悪く思わないでくださいね」 「……?」 「このブレスレット、使用回数が決まってるんです。全部で3回。そして今のがその、最後の入れ替わりだったんですよね」 「……さい、ご?」 「そう。だから私たち、もう元に戻れないんです。ほら、ここについてる石、割れちゃってるでしょ? もう使えないんですよ。これからずっと、入れ替わったまんまなんです」 「!」 ふふ、驚いてる驚いてる。 いい気味だよ。あんな……ヤケになって行き慣れないクラブに出かけるような精神状態にあったあたしを、じろじろ見てきたりするからいけないんだよ。どうせあたしのことバカにしてたんでしょ? 貧相な身体だと思って、優越感に浸ってたんでしょ? だから、決めたんだ。ブレスレットを最後に使う相手は、この人にしようって。身体を入れ替えて、あたしのみじめさを思い知らせて……ついでにあいつのことも見返してやろうって。 「そ、それって、ほんとなの?」 「ええ」 「一生、この身体のまま?」 「ええ」 ああゾクゾクする。鈍感なお姉さんも、ようやく飲み込めてきたみたいね。さあどうする? 泣く? 叫ぶ? 怒る? 今さら何やったって、無駄なんだけどね。ふふふ。 「そうなんだ……」 ぽつりとそうつぶやいて、その後にとった「あたし」のリアクションは、予想したどのパターンとも違っていた。 ほら、なんて言ったっけ。不思議の国のアリスに出てくる、あの変な猫。あいつみたいに、歯をむき出しにした満面の笑みを浮かべたのだ。今まであたし自身が鏡で見たことのない、いやらしくて気味の悪い笑顔だった。 「な、何がおかしいのよ」 「3回が限度か。おかしなもんだね、こっちと同じだ」 「え?」 「なんとか使いは引かれあう、みたいな?」 にやにやしながら、上機嫌で「あたし」は言葉を続ける。でも、言っていることの意味がちっとも分からない。この女……ショックのせいでどこかいかれちゃったの? 「ああそうだ。同じと言えば、今日が3回目だってのも同じだ。最後だ。残念だなあって思ってたんだ。あは、あはははははははははっ!」 もう我慢できない、というように「あたし」は爆笑をはじめた。その異様なテンションについて行けず、あたしは次第に正体不明の不安にとらわれ始めていた。 「ちょっと、何言ってんの? 意味わかんない。同じってどういうこと?」 「すぐ分かるよ。ほら、痒いでしょ」 言われてはじめて気付いた。いつの間にか、無意識に自分が左腕を掻いていたことに。綺麗にマニキュアを塗った長い爪が、肉に食い込むほど強く。すでに肘のあたりには縦横にみみず腫れが走り、けっこうひどいことになっている。 「3回目の”時間切れ”が近づいて来て、考えたんだよ。この姿でいるうちにそのへんの女の子に声かけて、どっか連れ込んだりできないかなって。で、ターゲットを探してるところに、お嬢ちゃんと目があっちゃったわけ」 痒い。痒い。痒い。 腕だけじゃなく、脚が、胸が、背中が痒い。 あたしは必死になって全身を掻きむしる。 「そういう大人っぽいスタイルも嫌いじゃないよ? でも、ほんとはこういう素朴でカワイイ感じの方が好みなんだよね。二人っきりになったら正体あらわして、あわよくばやっちゃおうかと思ってたんだけど……この展開は読めなかったなあ。まさか身体を入れ替えられるとはね。いやーびっくりした」 掻けば掻くほど、痒くなる。 頭の中が熱に浮かされたようになって、「あたし」の言葉を理解できない。というより、話を聞いていられない。 何が起きているのか、どうすればいいのか。生まれてから一度も味わったことのない極限状態の中で、あたしはいつしか涙を流していた。 このままじゃほんとに、頭がどうにかなっちゃう――! その危機感が、指先に込める力を後押しする。血が吹き出してもおかしくないほどに深く、強く。ばりばり、ばりばり――。 ぷつん。 ……あれはどこのお土産だったっけ。丸くてかわいい、風船に包まれたようかん。ぱんぱんに張りつめたその表面に、つまようじを突き刺す瞬間が、あたしはけっこう好きだった。薄いゴムの膜がようじを押し返す手応えを楽しみながら、「ぷつん」とそれを突き破る快感。 目にもとまらない早さで風船が収縮して、あとに残るのはつるんとした中身だけ。味はまあ普通のようかんなんだけど、そのプロセスが楽しくて、ついつい食べすぎたものだった。 あたしがこの時味わった感覚は、その風船ようかんにそっくりだった。掻きむしっていた首筋でぷつん、と何かが破れる音がして、そこから「穴」が皮膚を押しのけるみたいにしてみるみる広がって。次の瞬間、ずるん、というやたら汚い音とともに、あたしの全身を正体不明の感触が襲った。 体中を駆け抜けるような圧倒的な感覚に、一瞬めまいを覚える。開放感と何かとんでもない喪失感が混ざり合った、どこか甘くて奇妙な感覚。それが何を意味するのか考えるより早く、あたしの視界にとんでもない光景が飛び込んでくる。 それは、自分の身体。ついさっき手に入れたばかりの、優美なフォルムを描いていた、あたしの新しい肉体。これからの人生を共にするのにふさわしい、理想そのものを絵に描いたような姿……の、はずだったのに。 何これ。 何これ? 何これっ!? 頭の中が疑問符でいっぱいになるのと同時に、あたしは絶叫していた。 「い……嫌ぁああああああっ!」 「そう、それが本当の俺の姿。いや、もうあんたの姿って言った方がいいのかな。美人の皮を着て、つかの間の女性体験をエンジョイしてた、どこにでもいる健康で平凡な中年男性だよ」 わざわざ言われるまでもなく、あたしの五感がその残酷な事実をありありと伝えてくる。 全身についた贅肉。あちこちから顔を出す貧相な体毛。油っぽい汗と共に、むっと鼻につく独特の加齢臭がわきあがる。 そして何より、股間にぶら下がっているグロテスクな物体。 あたしには……女にはけして存在しないはずの、あってはならないはずの器官。その重み。 「やだ、やだ、うそ、やだ」 「いや、見物だったなあ。今までは脱ぐときもちゃんと手順を踏んでたんだけど、最後はあんなふうになっちゃうんだね。何ていうの、脱皮? というより、破裂? たしかにこりゃもう使い物にならないわな」 リノリウムの床には、びりびりに破けた「皮」があちこちに散らばっている。破片を一枚手に取ってみたが、急激に乾燥してぼろぼろと崩れていってしまった。 「変な外人が路上でこれ売ってるのを見たときは、おかしなジョークグッズくらいにしか思わなかったんだけどさ。なんか妙に気になってね。今思えば、5000円は安い買い物だったなあ。あ、もちろん弁償しろとか言うつもりはないよ。どうせ今日が最後の変身だったんだし。それに、どっちみちもう俺の物とは言えないよな。俺が持ってたものは、全部あんたの物なんだから。顔も、身体も、人生も」 「い、嫌ぁっ」 「ちょっと肝臓がくたびれてる以外は特に持病もないし、借金も犯罪歴もない。『中古物件』にしちゃ悪くないと思うけど……まあ、見た目はアレだわな」 「嫌……嫌よこんなの!」 「そう言われてもねえ、そっちが勝手にやったことだし」 「違う! あたしはこんな、こんな姿になりたかったんじゃない!」 「そりゃそうだろうな、気持ちは分かる。でももう、戻りたくても戻れないんでしょ? あんた自身が言ってたんだぜ」 「あ、ああ、ああああっ!」 思わず抱えた頭に、髪の毛がほとんど無いのに気づく。何かの間違いだと信じたくて、夢なら今すぐにでも覚めてほしくて、頬をつねればその痛みよりもじょりじょりした髭の感覚が「現実」を突きつけてくる。 ――私たち一生、この身体のままなんです―― それはまぎれもなく、さっきあたし自身が放った言葉。頭の中で山彦のように何度も、何度も響きわたって、その隅々までを真っ黒に染めあげていく、無邪気で残酷なリフレイン。 嫌だ。 こんなの嫌だ。 誰か、誰か、誰か誰か誰か、助けて……! 「ん?」 カラオケボックスの中に耳慣れた旋律が響きわたったのは、まさにその瞬間だった。あたしの携帯から響く、このIXAELは――あいつの、指定着信。 ソファに投げ出してあるカバンから携帯を取り出し、震える指で通話ボタンを押す。 「ああ、もしもし? 俺だけど――あのさ、ごめん。こないだは言い過ぎた。胸がないとか、色気がないとか、お前があんなに傷つくなんて思ってなかったんだ。悪かった。……それであの、今さらであれなんだけど、俺たち、やりなおせないかな?」 「……」 「やっぱり俺は、ありのままのお前が、一番好きなんだ。それに気付いた」 「……ありのままの、あたし……」 「え、誰? やべ、間違えました!」 「あ、き、切らないで! あ、ああ、あぁああああああああっ!」 あいつにしてみたら、喧嘩した恋人の携帯にかけたら、知らないオカマ口調のおじさんが出たのだ。とりあえず切る、という反応はいたって妥当なものだと思う。だが、あたしは心のどこかで期待していたのかもしれない。「ありのままのあたし」が好きだというあいつが、今のあたしをあたしだと認めてくれることを。 でも、ダメだった。分かっていた。誰よりもあたし自身が、今の自分が「ありのまま」だなんて受け入れられないのだから。 「今さらであれなんだけど」か。 本当に、どうして今さら? せめてあと1時間、いや10分早くこの電話をくれていれば、こんなことにはならなかったのに。あたしは「ありのままのあたし」でいられたのに。全てがうまくいくはずだったのに。もう手後れ。もう遅い。もうそんな人、どこにもいない。 ――ありのままのあたしは、もう、いない――。 再び、IXAELの着信音が響きだす。きっとあいつは番号を確認して、首をかしげながらリダイヤルしているんだろう。涙がはらはらと零れ落ちる。低くて気持ち悪い、ガマガエルみたいな嗚咽が、喉の奥から漏れてくる。電話に出たい。出られない。でも出たい。また声を聞きたい。そして言いたい、あたしも好きだよって。 「あたしも好きだよ」 「!?」 振り返ると、そこには携帯を手にした「あたし」がいた。 あたしの心の声に応えるように、「あたし」があいつと通話を始める。いたずらっぽい上目づかいでこちらを眺めながら、あいつと話を合わせていく。 「うん、うん、ありがとう。私もなんだか、自分のことがもっともっと好きになれそうな気がする。ううん、謝らないでいいよ。むしろ、こっちが感謝したいくらいなんだから」 話を続けるほどに、その可愛らしい声が、口調が、仕草のひとつひとつが馴染んでいく。その身体に入っている偽者が、新しい「あたし」を受け継いで、作り変え、使いこなしていく。楽しそうにおしゃべりを続けながらルームミラーに姿を映し、満足げに微笑む。 「あはは、ううん、なんでもないの。なんとなくそう思っただけ。気にしないで。うん、うん、そうだね。それじゃあまた明日」 通話を終えて電話を切ると、「あたし」はあたしの荷物を手にとって立ち上がった。 携帯をしまいながら、まるで独り言のようにつぶやく。 「また明日、か。そうか、そうなんだね。明日も明後日も、これから俺はずっとこの身体なんだよね。ようやくちょっと実感わいてきたかも。若いし、かわいいし、彼氏もなかなかの好青年みたいだし。こういうのをタナボタっていうんだろうな」 「!」 「改めてお礼を言うよ、どうもありがとう。そしてさようなら」 「ま、待っ……」 待って、とは言えなかった。待ってもらって、それでどうなる? どのみち、戻る方法なんてないのだから。 「あたし」はくるりとこちらに背を向け、個室の扉を開けて颯爽と歩き出す。もはやすがりつく気力すら残っていないあたしを残し、少女の後ろ姿が遠ざかる。開いた扉がゆっくりと閉じていって、あたしたちの人生を遮断する。ギロチンのように正確に、無慈悲に、完全に。 ぱたん、という音と共に廊下から射し込んでいた光は消え去り、後には薄暗い絶望だけが残された。 |