#1

「どうして、こんなことになってしまったんだろう」
 知らず知らずのうちに声を出していたことに気がつき、ぼくはもたげていた頭を上げた。
 電車に乗っている周りの人たちのようすを、ひそかにうかがう。
 よかった。どうやらぼくの声は、誰にも届いていなかったようだ。
 もっともこんなつぶやきひとつ聞かれたところで、周囲の人にぼくたちの秘密を推測できるとは思えないし、もしできたとしても、こんなことを信じる人がいるなんてとても考えられない。
 激しくうち続ける心臓の音を感じながら、ぼくは自分にそういい聞かせた。
 気をまぎわらせるために、ぼくは窓の外の風景をながめることにした。
 夏の日差しをさけるために下ろされていたカーテンの留め金をはずす。カーテンは跳ね上がり、勢いよくサッシに備え付けられていた箱の中に収納されていった。
 窓ガラスの向こうで、残照が空と街を悲しいくらい蒼く染めあげているのが見えた。
 やがて電車は踏切を過ぎ、駅に到着した。
 扉が開く。
 晩夏とはいえ外はまだまだ暑い。顔を真っ赤にした全身汗だらけの会社帰りのサラリーマンたちが、蒸し熱い空気ともみ合いながら車内に進入して来た。電車は冷房を精一杯利かせてがんばっていたけれど、彼らと夏の大気が電車の努力をだいなしにしてゆく。
 ようやく扉が閉まると、窓の中にある街がゆっくりと流れはじめた。
 駅を離れてしばらく経ったとき、電車がビルの陰に入った。街が暗くなった。ガラス窓は鏡のように車内にある蛍光灯の光を反射し、ぼくの姿を映しだした。
 空のような色の浴衣。それを着ている女性。
 伊藤美穂(いとう みほ)さん。大学生。
 胸が大きくて、足が長くて、腰がきゅっとくびれていて、つまりはスタイルがいい。それもモデルみたいなかっこいいスタイルというよりも、どちらかといえばグラビアアイドルのようなエッチな肉付きをしていた。
 それがぼくの、いまの体だった。

    *

 駅を発(た)ってからだいぶ時間がすぎた。
 車内はふたたび涼しさを取り戻していた。涼しいというよりも、ちょっと寒いくらいなほど冷房が利いていた。
 それなのに、ぼくの体は激しい熱を帯びていた。
 ぼくの体が熱を帯びている原因は、さっき乗ってきた会社帰りのサラリーマンたちのせいだ。彼らから発せられるいやらしい男の視線が、胸やお尻に突き刺さって、ぼくの体を熱くしていた。
 彼らは全身が疲れ切っている様子だったのに、その目だけは飢えた獣のように、隙を狙ってはぼくの体を盗み見している。
 こんな感覚は初めての経験だった。
 ほおに血が集まってくるのがわかる。
 ぼくだってこんな視線なんか無視したい。でもこの体が、どうしても男たちの視線を敏感なまでに感じ取ってしまうのだ。
 心臓の鼓動がふたたび聞こえてきた。それは激しく、列車がレールを走る音よりも大きく聞こえた。
 ぼくだって同じ男として彼らの気持ちはよくわかる。こんなにも美人でスタイルもよい女性が、浴衣姿でそばにいれば、自然と目が行ってしまうのはやむ得ないことだろう。でも、だからといって、このまとわりつくようないやらしい視線の気持ち悪さは堪えきれない。
 そのとき、鉄橋を抜けたところで、電車が大きく揺れた。男たちの視線に気を取られて、吊革をつかむ手がゆるんでいたぼくは、大きく体(からだ)を崩した。あわてて吊革を掴み直そうとするが、指は吊革の輪をすり抜けてしまう。足で踏ん張ってバランスをとろうとしたが、なれない女性の体のせいか力がでない。
 だめだ、倒れる。
 その時、しっかりとした腕が、ぼくを力強く包み込んだ。
「大丈夫?」
 ぼくの隣に立っていた男の子がいった。
 背はぼくの肩くらいの高さで、Tシャツにジーンズを身につけていた。
 それはぼくの体になってしまった美穂さんだった。
 美穂さんとはいとこ同士で、ぼくのあこがれの人だ。
「なれない体なんだから気をつけなくちゃ。
 さっきの車内アナウンス、ちゃんと聞いていなかったの? この先は揺れるから気をつけろっていうの」
「ごめんなさい」
 ぼくは体を小さくしてあやまった。
 その声は、美穂さんと同じ声だった。
 反省したぼくを見て、ぼくの体になった美穂さんは笑顔を見せてかるくうなづいた。
 気がつくとあれほどしつこかった男たちのいやらしい視線が、いつの間にか消えていた。中学一年生のこどもとはいえ、そばに男がついていてガードしていることが知れ渡ったためらしい。
 美穂さんは、窓から闇が間近になった空を見ていた。
 ぼくは、その横顔を見続けた。
 ぼくの体には美穂さんの心が入っている、そして美穂さんの体にはぼくの心が入っている。ぼくたちは入れ替わってしまったのだ。
 それでも、ぼくになった美穂さんに、不安の色は見られなかった。すくなくとも、その横顔からは感じ取れなかった。美穂さんだって、慣れないぼくの体になってしまい大変なのに。大学生くらいになると、しっかりしているんだな。やっぱり年上の女性は頼りになるな。ぼくはそんなことを思った。そんな美穂さんの横顔を見ていて、ぼくも少しだけ勇気が出た。そして、ぼくもしっかりとしないといけないと自分を叱った。
 そうだ。心配していたってなにも始まらない。
 どうしてこうなったのか、その原因を求めるために、ぼくは記憶をさかのぼることにした――。



プレコーシ(La Precocite) ぼくとお姉さんの入れ替え物語
作・JuJu


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