馬鹿なことをしていると思う。

 すぐ目の前に迫るそいつの顔を見ながら、俺はそう思った。
 これは嘘。全ては偽りの結果。
 何かが成せるわけでもないし、成すつもりもない。
 いわば自分勝手な自己満足。
 いや、自己陶酔と言い切ってもいいくらいの愚かしさだ。
 それでも。

 それでも、俺は――。




 消えゆくもの
 作:光ノ影




 初めてその衝動を感じたのは、いつのことだっただろう。

 俺はどこまでも普通の人間で、そいつに憧れていたところはあった。
 小学校からの腐れ縁の友達。
 ことあるごとに奇行に走るそいつは、なぜかいつも俺を巻き込んだ。結果俺までこっぴどく大人に叱られることも多かった。
 それでもそいつは、いつでも楽しそうに笑って「またやろうな」という。
 俺はそれに呆れながらため息を吐き、怒ろうとしていた気をなくしてしまうのだった。
 全く馬鹿で変な奴だと思いながらも、自分には決して出来ない言動の数々に爽快感を感じていたこともあって。
 決定的に嫌うことも、関わらないようになることもなく、友達として付き合いを続けていた。
 それが、いつからだろう。
 あいつに手を引かれることが嬉しくなっていたのは。
 何かあったら、真っ先に俺のところに来るあいつ。
 面白いことを思いついた、と視線で言わんばかりにキラキラ輝く瞳。
 いつからだろう。あいつの顔をまっすぐ見返せなくなったのは。
 あいつはいつだって笑っていて、きさくに話しかけてきたけど。
 いつからだろう。あいつの声を聞くたびに心臓が跳ね回るようになったのは。

 この感情の正体を知ったのはいつのことだっただろう。

 最初は否定し続けた。
 そんな感情をあいつに対して持つのはおかしい。あいつは男で、俺も男なのだから。
 でも、考えれば考えるほどあいつのことが……そうである気がして。
 混乱して、頭の中がぐちゃぐちゃになって。
 その気持ちを否定したくて、一度あいつを酷い言葉で拒絶したら、あいつは辛くて泣きそうな顔をしていたけど。
 俺はもっと辛くて、その場でぼろぼろ泣いてしまったんだ。
 あいつはあわあわしながら慰めてくれた。
 あいつには――周囲にはもっと――訳がわからない奴だと思われていただろうな。
 酷いことを言って自分で泣いて、言った相手に慰めてもらっていた俺。
 馬鹿だった。馬鹿でしかなかった。
 いつしかその想いにも慣れて、顔や態度に出さないように出来た。
 あまりに自然にそういうことが出来たから、あの気持ちはきっと嘘だったんじゃないかなって思った。
 嘘じゃなくても、間違い。
 あいつに対する親愛をちょっと間違えて愛情だと感じてしまただけのことだと。
 そう思い込んでいた。思い込んでいたんだ。
 なのに。
 高校生になって――やっぱりあいつは同じ高校にいた。腐れ縁だ――あいつが一人の女子生徒をいつも眼で追いかけていることに気づいた時。
 俺の中であの気持ちがまた湧き上がってきた。
 だってその女子生徒を見るあいつの目は、腐れ縁で長い時間を一緒に過ごしてきた俺が、一度も見たことがない目で。
 その女子生徒を見るあいつの目は、一時期そいつに対して俺が向けていた目と同じように思えたから。
 俺は悩んだ。
 おかしいことだと否定した。それは、おかしいことだと。
 でも。
 あいつがその女子生徒を見るたびに、その見ている目を見るたびに。
 俺の中でその感情が蠢いた。
 一方で、あいつに見られているその女子生徒はその視線に気づかない。
 何度も何度も見られているのに。
 いつもは多少興味を持てば、それに対して突撃するあいつは見ているだけで。
 あまりの歯がゆさに煽ってみたこともある。話しかけてこいと。せめてお前にあの子の目を向けてもらえと思って。
 でもあいつはあいつらしからぬ笑顔を浮かべてこう応えた。

「いいんだ。見ているだけで」

 あいつは周りに自分が変人だと思われていることを知っていた。
 そんな自分が近づいたら迷惑をかけるだけだと。
 あいつらしかぬ――哀しそうな笑顔で。そう言った。
 俺はそんなあいつの顔が嫌で仕方なかった。
 お前はもっと良い笑顔が出来るはずだと。

「俺には迷惑をかけていいのかよ」

 そう言ったのは、別に困らせたかったわけじゃない。
 軽いジョークみたいなもので、あいつがいつもの笑顔を取り戻せればそれでいいと思って言った。
 案の定、あいつはにっこりと笑って。
 いつものように、笑って。

「迷惑だと、思ってないだろう?」

 と言った。
 なんてずうずうしい。なんて厚かましい。
 でも。
 その通りだったので、何も言えなかった。
 俺は、ばかやろう、と呟くことしか出来なかった。

 馬鹿は俺の方だった。





 そんなある日のこと。
 俺は不思議な出店を見かけた。
 色々と怪しげなものが置かれている出店だ。道の少し奥まったところにあり、薄暗さもあって胡散臭さ満点の出店だった。
 それでも、ふらふらと近づいてしまったのはなぜだったのだろう。
 売っているのは変な格好をした男だった。フードを深く被っていたので顔はよくわからない。
 雑然と並べられた商品の中に、その薬を見つけたのは、偶然だったのだろうか。
 火に誘われる蛾のような手つきで、俺はそれを手に取った。
 タブレットケースに入ったその薬。『幽体離脱ノ薬』というラベルが貼ってあった。
 なぜその薬を買ってしまったのか――かなり高かったのに――わからない。
 ただ、薬を売っていた男が言っていた『誰かに乗り移ることが出来る』という言葉が耳から離れなかった。
 リスクはあった。
 その薬は不完全で、永遠に憑依し続けることはできないだろうこと。
 身体から出るときに消えてしまう可能性もあること。
 むしろリスクばかりで良いところはほとんどないと言ってよかった。
 幽体離脱が出来るだけ、ひととき人に乗り移ることができるだけ。
 それでも俺は――。
 それを、その薬を飲むことに決めた。
 すでにその時には、俺は戻れないところまで思いつめていたのだ。
 たとえ一時でも、あいつと『そう』なれれば、それで構わないと思った。




 タブレットを呑んだ瞬間、俺は猛烈な吐き気に襲われた。
 体がその薬を体の中に入れておくことを拒絶していた。内臓が裏返るような、凄まじい嫌悪感。
 その時点で俺は死ぬかもしれないと思った。それでも――我慢して、吐き出すことを堪えた。
 そして、タブレットを飲んで数分が経過したころだっただろうか。
 急に全身の吐き気が治まった。いや、全身自体が消えてしまったかのような感覚だった。
 俺はなんだかふわふわとした感覚の中に浮かんでいた。
 それは体を失ったために意識がぼんやりとしていて、消えてしまいそうになっているからだった。
 必死に自我を保とうとしても、強烈な睡魔に襲われているような感覚が、絶え間なく襲いかかって来て、気を失ってしまいそうだった。
 それでも、薬を飲んだ時の気持ちを――想いを思い出し、俺はある一人のことを思い出した。
 あいつがいつも眼を向けていた女子生徒。一時的でもいいから、彼女になりたい、と。
 願った。
 その瞬間、周りの景色が揺らぐ。電車に乗っているときのように周りの景色が前から後ろに流れていることに気づいたのはずいぶん経ってからだ。
 ふと気づくと、目の前にあの女子生徒がいた。家で勉強か何かをしているのだろう。机に向かっているところのようだ。
 気を抜けば途切れそうになる意識を必死になって繋ぎ止めながら――俺はその子に向かって手を伸ばした。

――世界が、一瞬黒く染まる。

 激しい頭痛を感じて思わず頭を押さえた。
 押さえた手から伝わってきた髪の毛の感触に、俺は自分が違う誰かになっていることを直感した。
 少し慌てて部屋にあった鏡を見てみると、俺は自分の顔が彼女のそれになっていることを確認できた。
 憑依が出来ていた。彼女に、なれていた。


 夢のようなひととき。


 俺は次の日、あいつを校舎裏に呼び出した。
 もちろん、この体の本当の持ち主になりすまして。
 待っている間、馬鹿なことをしていると思った。
 こんなことは何にもならない。
 たぶん、あいつも、そしてこの彼女も傷つける結果になる。
 そんなことはわかっていた。
 予想するまでもない。予測するまでもない。
 でも。それでも。
 俺は。
 緊張した面持ちでこちらに向かってくるあいつを見た時、俺の中から迷いはなくなった。
 いや、それ以上に溢れ出したその想いで胸がいっぱいになった、というべきか。
 すぐ近くに来たあいつの存在を、存在だけを俺は感じていた。
 想いが、口から溢れる。
 溢れさせては、いけなかったのかもしれない。
 それでも、その想いは溢れてしまった。

「私――あなたが好きです」




 そして。
 受け入れてくれたあいつと――『俺の』想いを受け入れたわけじゃないけど――キスを、交わしたのだ。




 それは、夢のようなひとときだった。




 恋人となった俺とあいつは、色んな場所に出かけた。
 遊園地に出かけた。
 はしゃぎ過ぎて疲れ果て、帰りの電車の中であいつにもたれかかって寝てしまった。
 映画に出かけた。
 感動する映画だったが、それ以上にあいつが隣にいて、恋人として映画を一緒に見ている状況に感動していた。
 ショッピングに出かけた。
 いくらでも荷物持ちをするとあいつは言ってくれたけど、申し訳なくて小さなブレスレットを一つだけ買った。
 食事に出かけた。
 雰囲気たっぷりの場所でカップル特有の甘い言葉を交わした。
 たくさん、たくさん色んな場所に出かけた。
 時間を惜しんで。
 この時間がひとときだけだということは知っていた。
 だから。
 俺の独りよがりな感情だと、状況だとわかっていたけど。

 最後まで――幸せでいたかった。

 ある時、あいつの家に行った時のこと――。
 自然と体を重ね合わせていた。
 甘い吐息が唇を震わせて、熱いものが俺とあいつの間で交わされた。
 全てを晒して、あいつを受け入れて。
 頭がぼんやりとして、夢の中で夢を見ているようで。
 幸せすぎて、俺は泣いた。
 同時に、哀し過ぎて――俺は泣いた。
 これは、偽りの世界。
 嘘の関係。
 いずれ壊れる結末を迎えることがわかりきっていた、歪んだ世界。
 そして、壊れた後、苦しむのは俺ではなく、あいつとこの体を借りている彼女なのだ。
 結局のところ、この全ては自己満足の、自己陶酔。
 それでも、やっぱり俺は幸せで、嬉しくて、あいつが――愛しくて。
 ぐちゃぐちゃになった心のまま、俺は抱きしめてくれたあいつの腕にすがって――泣き続けた。




 壊れ始めたのは、いつごろからだっただろうか。

 突然意識が途切れるようになった。
 ふと気づくと地面に倒れていたことは二度や三度ではない。
 あいつも、彼女の家族も心配して病院に連れて行ってくれたけど、当然異常が確認できるわけがない。
 壊れているのは心――魂なのだから、体は全くの健康体だった。
 視界が霞むことが増えた。
 急に視界が歪んで、自分がいま何を見ているのかわからなくなった。
 聴覚も異常を起こし始めた。
 聴いているはずの言葉が聞こえなくなるのはしょっちゅうのことだった。
 全てが、おかしくなりはじめた。
 自分が誰なのか、不意にわからなくなる時が出来た。
 あいつが誰なのか、わからなくなる時があった。
 それでも。
 あいつが愛しいという想いだけは残っていた。
 自分が誰なのか、分からなくなっても。
 あいつが誰なのか、分からなくなっても。

 あいつが――その存在が『愛しい』ということだけはわかった。

 俺は壊れていく自分を感じながら、その想いに必死に縋った。
 せめてあと数日。
 せめてあと一日。
 せめてあと数時間。
 せめてあと数分。
 一秒でも長く、あいつの傍にいたい、と願い続けた。
 それでも、とうとう身体がうまく動かなくなり、入院することになった。
 身体には全く異常がなかったため、医者に首を傾げられたがそんなことはどうでもよかった。
 終わりの時が近づいているのを、嫌でも実感していた。
 俺はあいつを求め、あいつは可能な限り傍にいてくれた。
 うまく握りしめることも出来ない俺の手を強く握って、そこにいることを教えてくれていた。
 それだけで、俺は幸せだった。
 傍にいてくれるだけで、幸せだった。


――それでも、終わりの時はやってきた。


 その日は、運が良いというべきか、休日だった。
 朝から病室に来てくれたあいつは、ずっと俺の手を握って、ぽつりぽつりと話しかけてくれていた。
 俺はそれに頷きを返しながら、最後の時が迫っていることをどうしようもなく感じていた。
 だから。
 ぼやける目を必死に凝らし、とぎれとぎれの聴覚を研ぎ澄まし、震える身体を渾身の力を込めて動かして。
 あいつにしがみつき。
 耳元で、呟いた。

「……あなた、を……愛してる」

 青臭いセリフだと、思った。
 陳腐に過ぎる台詞だと。
 でも。
 それ以外にこの想いを伝える言葉を、俺は知らなかった。
 俺の言葉の響きから、あいつも何か感じ取ったようで、俺を力強く抱きしめながら、静かに涙を零した。

「……俺も、お前を愛してる」

 それはきっと『俺』に向けられた言葉ではなかっただろうけど。
 想いが込められたその言葉を聞けて、俺は――嬉しかった。
 急速に遠のいていく意識に、俺は終わりを悟った。
 最後にもう一つ伝えようと、俺は声を振り絞った。
 けど、その言葉は――「ごめんなさい」というただ一つの言葉は――ほとんど形にならないまま。

 俺の意識は、暗闇に砕けた。







 糸が切れたように  は気を失った。

 そして目が覚めた  は、何も覚えていなかった。
 何も、だ。
 自分が誰なのか。
 俺が、誰なのか。
 全て忘れていた。
 まるで俺と過ごした時間の全てが夢だったかのように、  は全てを忘れていた。
 そしてなぜか俺は――俺と  が過ごしたあの時間の記憶が戻らないことを、確信していた。
 俺は、ぼんやりと窓の外を眺める  をずっと見つめていた。

 さらに。
 次の日、俺は小学校の時からの腐れ縁で、沢山の時間を一緒に過ごしてきた友達が、亡くなったことを告げられた。
 俺は昔から変人として有名で、俺の言動についてきてくれたのはそいつくらいのものだった。だから、特別親しく思っていた。
 数カ月前から意識不明に陥っていたその友達――いや、親友と言おう――はついに意識を取り戻すことがなかった。
 あいつも意識が昏睡状態なだけで、体は健康そのものだったから、きっといつか目を覚まして、いつも通り、俺の言動に苦笑しながらも付いてきてくれると思っていたのに。
 あっけなくあいつは逝ってしまった。

 俺は一番大事な親友と、一番大切な人――その二つを同時に失った。
 涙は出なかった。
 虚無感だけが湧いてきて、それ以外の感情がどうしても湧いてこなかった。

 ただ、  と過ごした時間は、切なく、愛しく、俺の胸の中に残っていた。




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