作:つるりんどう


 それはいつもの帰り道のことだった。
 六時間目までの授業を受けて、その後は進学クラスだけの希望者対象補習授業をこなし、帰る頃にはもう真っ暗。
 冬服になっているとはいえ、結構寒い。
 俺は、早く家に帰って、夕飯を食べたいと思いながら、住宅地の中では結構車通りの多い路地を自転車で走っていた。

「ねえ、あれ、かわいかったでしょ?」

「うんうん」

 近所の県立高校の(紺色のセーラー服の)制服を着た女子が二人が楽しそうに話しながら、自分とは逆方向に歩いていくのをちらっと見ながら、少しいいなと思ってしまう。

 もしかすると、俺も通っていたかもしれない、県立高校。
 高校受験の偏差値でいえばまあまあ……いや、はっきり言ってしまうと、市内にある県立高校の中では一番低いんだけれど……隣の市にある県立高校で、もっと偏差値の低い高校があるからマシに思われているだけで、国公立大受験を目指すなら避けるべきと言われている高校だ。
 だから、(徒歩圏という意味で)通う可能性が全くなかったとは言えないものの、地元の公立大学を目指している俺が受験することは結局なかった。

 そう、今は(少し遠いけれど)自転車で、進学校として名高い私立の男子校に通っているんだ。

「今の元二中の子かな?」

 ちらっと見えた学年章は一年だったけれど、自分のいた一中の同学年にあんな子はいなかったはずだから、校区的にすぐ隣の二中出身の女子だろうか?

 そんなことを考えながら、俺は路肩に駐車中の車を避けていく。

 そんなとき……

「うん?」

 電線ばかりが張り巡らされた(既に)真っ暗な空でパッと光が輝くと、一瞬にして辺り一面が白く照らされたんだ。

 所謂流れ星というヤツだろうか?
 俺は、ブレーキをかけながら、空を見上げる。
 今までほとんど見えなかった空の雲まではっきりと見え、その上、彩雲というのだろうか?
 雲が赤や緑に彩られ、すごく綺麗に見える。

「なんだ………?」

 ただの流れ星ではない。
 いや、そもそも流れ星なんかではないのかもしれない。
 そう思った瞬間、俺は世界から音が消え去るのを感じると同時に、あまりの眩しさに目を瞑った。

 そして、それから一秒もしない内に、全身の感覚がなくなって、意識が真っ白になっていくのを感じたのだった。





「おや、この結界の中でも意識を保っていられるとは珍しいですね?」

 どこかとぼけたような中年男性っぽい声が聞こえる。
 視界は真っ暗で、身体の感覚もなくて、どうにも眠い。
 何というのか、身体がふわふわする。
 一体どうなっているのだろう?

 そう思いつつ、俺は瞼を上げようとする。
 そう……瞼を上げようとしたけれど、瞼は上がらず……けれども、視界だけはぼんやりと取り戻していた。

「なんだ?」

 ようやく見えた光景は、先ほどよりほんの数メートルほど進んだ住宅街の中の景色。
 ただ、世界の全てが彩雲のように、妙な色合いを帯びている。
 いや、もうすっかり真っ暗になっていて、街灯や車のヘッドライト、住宅の灯りくらいしか光はなかったはずなのに、辺りが昼間のように明るくなっていること自体おかしくないか?
 俺はそんな疑念を抱きながら、辺りの様子を伺い、

「……止まってる?」

 周りの車や自転車、人が全て動きを止め、何の音も発していないことに気が付いたんだ。
 まるで、SF映画の時間を止めた世界のように、俺の周りがなっている。
 向こう側で自転車に乗っているおばさ……中年女性なんて、綺麗にバランスを保ったまま、じっと動かないのだから、あまりにもおかしい!

「……どうなってるんだ?」

「ほほう、よいでしょう。
 まずはあなたに決めました」

「だ、誰だっ!?」

 今更のように中年男性の声のことを思い出し、声のする車道側を見る。
 すると、そこにはもやもやした黒い煙? 霞?……に覆われた、太った男性の影のようなものがあったんだ。

「ふふふ、わたしが誰かなんて、どうでもいいことですよ。
 それより、面白い思考実験をしてみませんか?」

「は、はあ? いや、というより、これ、何が起きているんですか?」

 世界にこんな異常現象が起きているというのに、やけにのんびりとした……マイペースな雰囲気の男性に、俺は呆れながら訊いてみる。
 もしかすると、この男性は、何が起きているか分かった上で、話しかけてきているのかもしれないと直感的に思ったからだ。

「何といいますか、わたしの顕現に、わたしから直径六十六フィートの範囲の人間が巻き込まれてしまいましてね。
 といいますか、あなたが一番近かったんですが……まあ、魂が身体から飛ばされてしまった訳ですよ?」

「ぃ、意味が分かりませんが……」

 けんげん?
 権限?
 フィートって、メートルが標準になっている今でも、海外の一部の国で使われている単位だっけか?
 というか、なんでフィートなんて使うんだ?

「まあ、気にしないことです。
 それよりも、あなた、思考実験をしましょう」

「はあ? そ、そんな場合ではないと思うのですが」

 俺は、この男性がどうにも現状を理解しているのか怪しく思えてきて、少し焦り始める。

「大丈夫です。
 思考実験が終われば、すぐに結界を解いてあげますから」

「はあ、だ、大丈夫なんですか? これ……?」

 しかし、男性が余裕たっぷりに言うものだから、取り合えず、俺は男性の話にひとまず乗ることにした。





「さあ、思考実験をしましょうか?
 まず周りを見て下さい、わたしたちの周り、六十六フィート内にいる人間は今全て中身が空っぽなのです」

 中年男性が大げさに腕を広げて、俺に周りを見回すように言う。
 確かに、さっきの中年女性も、あの車を運転しているおじぃさ……高齢の男性も、こちらに背中を向けている先ほどの県立高校の女子生徒二人もみんな止まっていて、手足どころか目の動きすら伺えない。
 中身が空っぽ。
 先ほどまでそこにいた人間の代わりに、人形を配置したと言われた方がしっくりとくるくらいだ。

「もちろん、そこのお宅の中にいる人も対象ですよ?
 うーん、二階に七歳になる男の子がいて、一階には母親でしょうか、三十三歳の女性がいますね」

「は、はあ……」

「あら、向こうのお宅には、〇歳の女の子までいますよ。
 うーん、まさに十人十色! 色んな人生が揃っています!」

「そ、そうですね」

 これのどこか思考実験になっているのか、よく分からない。

「さて、では考えて下さい。
 あなたは、今自分以外の人生を選ぶよう迫られているとしましょう。そして、この六十六フィートの範囲内にいる全ての人間は空っぽで、あなたが入ることのできる器として存在しているのです」

 男性は、なかなかにすごいことを話し出した。
 俺としては、今までに考えたこともないような話だ。

「は、はあ」

「そして、あなたは今から十分以内に、自分の新しい器を見つけ出して、そこに入らなければならない。
 そうしないと、あなたはこの世界から消え失せることになるのです」

「そ、それは……こ、怖いですね」

 思考実験っぽくなってはきたけれど、普通に怖い話に思えてくる。

「ふふ、それでは、あなたは、どの器がいいと思いますか?
 その理由も一緒に考えて、わたしに教えて下さい」

「そ、そういう思考実験、ですか……」

「そうです。そうですとも」

 黒い靄に包まれた男性がニヤリと笑ったような気がした。

「ほら、あの高齢の男性なんて紳士のようですよ。車も高級車に乗られていますし、きっとお金持ちなのでしょう。
 逆にそこのお宅の七歳の男の子、あなたがもし小学生からやり直したいと思うなら、悪くない選択かもしれませんね」

「さ、さすがに、それだけ年齢が離れているのはちょっと」

 六十六フィート内にいる、人間の中から(今の自分のものではない)自分の人生を選べと言われても、そこまで年齢が離れているのは、まずいと思える。

「ふふ、そうですか?
 何も男性に拘る必要もありません。向こうのお宅で赤ちゃんに授乳してあげている女性になるのも、母性を知るいい機会かもしれませんよ?
 そういう選択肢もあるのです」

 いやー、さすがに授乳している大人の女性になるとかは……たとえ、思考実験だとしても勘弁して欲しいと思ってしまう。
 だって、まともな恋愛すらしていないのに、いきなり結婚して赤ちゃんもいる女性になるとか、色々すっ飛ばし過ぎでしょう?

「えっと、俺としては、やはり同年代といいますか……せめてプラスマイナス二歳くらいの方がいいですかね。
 あっ、プラスで、いきなり受験生っていうのも困るので……マイナス二歳以内くらいが理想です」

 何せまだ高校一年生なんだし……今、いきなり高校三年生にされても、せっかくの高校生活が短縮されてしまっては、面白くないだろう。

「なるほど、同い歳、もしくはマイナス二歳以内ですね。
 一旦、その条件は固定してしまっていいですか?」

「は、はあ、いいですけど」

 ……いや、マイナス二歳を入れると、中学生が入ってしまうのか!
 うーん、下手をすると、また高校受験をする羽目になってしまう。
 ただの思考実験だとしても、少し思慮が足りなかったかもしれない。

「ふふ、となりますと、あなたの器はあちらのお二人だけになってしまいましたよ?」

「え?」

「あちらの制服を着た女の子、いや、お若い女性の方々と言った方がいいですか?
 あなたと同い歳ですよ」

 男性に釣られて振り返ると、先ほどすれ違った県立高校の女子の背中が見えていた。

「えっと、あの子たち……だけなんですか?」

「はい、そうです。
 あなたの器は、あのお二人の内、どちらかということになりますね。
 時間もありませんし、思考実験の続きをしましょう。ほら、行きますよ」

 相変わらず黒い靄を漂わせながら、すたすたと、身動き一つしない女子高生二人の方へと向かっていく男性。
 俺は、どうしようもなく、ただそれに付いて行くしかなかった。

「ほーら、こちらからご覧になってみていかがです?
 あなたの新しい器ですよ? どちらがいいでしょうか?」

 先に二人の前に回り込んだ男性がまた腕を広げて、俺に彼女たちを正面から見るように言う。
 仕方なく回り込んで、改めて二人を見ると……二人は会話途中だったのだろう……視線を向け合い、口を開いたまま、フリーズしていた。
 なんだか、リアルなマネキンって感じがして、少し怖い。

 というか、いまどき結構珍しい左右に結った髪を三つ編みにしている子は。若干半目気味で止められていて、何となく気の毒だ。
 いわゆる写真としては、撮っちゃいけないタイミングで撮っちゃった写真という感じ。

「はあ、この二人からですか?」

 思考実験として……異性になるしか選択肢がなくなってしまったというのは、まあ、しょうがないとしよう。
 ただ、やはり、条件付けを失敗したかなという気はしてしまう。

 目の前の、県立高校の女子二人は、まあ普通の容姿だ。
 特別美人だとか、かわいいとかは感じない。
 うーん、自分が好きになるかと言われると結構微妙。

 容姿だけで判定するなら、写真写りとしては残念なことになっている、三つ編みの子の方が……まだいいかなという感じ。
 俺としても、失礼なことを考えているなと思うけれど、思考実験としてどちらかを決めないといけないとなると、どこかで優劣を付けないといけないしね。

「ふふ、しっかり考えて下さい。
 もし二人の詳細な情報が必要ならば、お教えしますよ?
 何せ、自分の一生がかかっているんです。これから先、一年後、二年後、三年後……十年後、二十年後……五十年後のことだって考えた方がいいです」

「は、はあ、そういうものですか?」

 そもそも、二人の詳細の情報ってどうやって手に入れるんだろう?
 それに、これから先のことと言われても、急に想像できない。

「いいですか? あなたは、もう十六歳の女性になることが確定している訳です。
 今までの男性とはまるで違う器を、人生を選んでしまった訳ですね。
 しかし、同じ十六歳の女性と言っても、こちらの彼女と、あちらの彼女、どちらになるかだけでも人生は大きく変わってしまいますよ?」

「はあ……」

「そうですねぇ。
 あなたの価値観として、勉強ができるかどうかは大事なのでしょう?
 それで言うと、この二人は、既にあなたの条件を満たしていなかったのですよ」

 何か、とても本人には聞かせられないようなことを言ってますよね、この人……。

 でも、なるほど、思考実験としては、そこまで確認した上で、器を選ぶということをしないといけなかったという訳か。
 それはそれで分かるけれども、やはり酷いと思うし、人間としてどうかと思う。

 いや、まあ、そりゃ、彼女にするなら、栄優女学院の女子とかいいかなとか思っちゃうのも事実だけど。
 そういえば、中学三年のとき一緒のクラスだった芳野さん、才色兼備で……気になっていたんだけどなあ。
 芳野さん、栄優女学院だったっけ?

「少しだけ情報を差し上げましょう。
 こちらの彼女は、二学期の中間試験……考査ですか? それの学年順位が百八十一人中百五十九位、あちらの彼女は、百七十位ですね」

 うーん、三つ編みの彼女が勝ったと。
 でも、二人とも個人的には成績は微妙なところ。

「それで、彼女らは……陸上部? に所属しているようなのですが、こちらの彼女は……最近県大会とやらに、短距離走? で出場し、三位になったみたいですね。
 あちらの彼女は、県大会には出られなかったみたいです」

 なるほど、運動部系女子ですか!
 うーん、もしかして、三つ編みの彼女は、スポーツ推薦でも狙っているのだろうか?
 数年先まで考えろと言われると、そこまで考えてしまう。

 まあ、こちらは……体育の成績としては平均レベルだけれど、塾通いで帰宅部だし、運動部女子って少し(精神的に)距離感を感じるな。

「どうですか?
 どちらの女性の方があなたの器としていいでしょう?」

「うーん、進学を考えると……三つ編みの彼女の方かなと思いますけれど」

「ほう! そうですか?
 あと、もう少し情報を差し上げますね。
 こちらの彼女は、普通の? サラリーマン家庭? ですが……あちらの彼女は、うーん、食品会社? の社長令嬢のようですよ? 由比ヶ浜食品株式会社? とかいうみたいです」

 ああ、うう……なるほど、隣の子は、社長さんの娘さんか!
 由比ヶ浜食品って、あの!?
 確か、すごい豪邸とか、前にテレビで見たことあるような気がする。

 うーん、これも思考実験の……考えるべき要素ってことになる訳か?

「なるほど、お金持ちを選べるのは……確かに魅力的な選択肢なのかなあ……。
 うーん……」

「ふふ、お悩みのようですね。
 ついでに言いますと、あちらの彼女は既に許婚当然と言えるお相手がいるようですよ?」

「………それって、当然相手は男ですよね?」

「もちろんですとも」

 男性が黒い靄を吐き出しながら、ニヒヒと笑い出す。

「うーん、それなら……もう、三つ編みの彼女で決定ということでいいです。
 さすがに、人生の自由度が低いのはちょっと……」

「ふふふ、なるほど。
 では、あなたの器は、狩野莉子さんで決定ということで」

「は、はあ……」

 へ、へえ、三つ編みの彼女は、狩野莉子、さんって言うんだ?

 まさか女子を自分の器として選んでしまうとか、なんだかすごく恥ずかしい。
 今のを、もしユーチューブとかに晒されたら、普通に外出歩けなくなりそうだ。

「まあ、何せよ、よかったですね、あなた、わたしの一番近くで。
 おかげで、一番選択肢が多かったのですよ?」

 妙に上機嫌な中年男性。

 まあ、思考実験としては、これで終わった訳なんだろうけど……いくら思考実験としても、三つ編みの、狩野莉子、さん? が自分の選んだ器になってしまったのは、よかったのかと言っていいものなのか?
 うーん、客観的に評価しようにも悩むところだ。

 だいたい、ただの思考実験なのだから、同年代にそこまで拘る必要はなかったのかもしれない。

 たとえば、先ほど話に出た七歳の男の子。
 同性であるということと、将来の可能性を考えれば、そっちの方が客観的な評価としては高いのではないだろうか?

「うーん、異性まで対象に入れたのは……やっぱりまずかったかなあ?」

 自分は男、すなわち、初期条件が男性だったのだ。
 女性、異性になるというのは、よほどの憧れでもない限り、リスクの方が高いと思う。
 何より、恋愛対象だって変わってしまう訳だし、選択肢に入れたのはまずかったかもしれない。

 はじめから、同性の同年代で検索をかけて、それ無理なら年齢の幅を広げた方がよかったかもしれないよな。

「まあ、何事も経験ですよ?
 それに、あなたの年代であれば、女性に興味を持つのは仕方がないことでしょう?」

 俺が考察をしていると、グフフとまた男性が何かを察したように笑いかけてきて、何かこうゾクッとしてしまう。

「はあ、と、とにかく、面白い思考実験でした」

「はい、ありがとうございます。
 あなたにとっては、多少不本意なところもあるでしょうが、これであなたの器は決まったので、さっさと入ってしまって下さいね!
 後がつかえているので、こう見えて、わたしも忙しいのです!」

「は、はあ?」

 よく分からないまま頷いていると、バシンと背中? を叩かれる。
 そして、三つ編みの彼女の身体が一気に迫ってきて……ぶつかると思った瞬間、俺は自分自身が彼女の中に吸い込まれていくのを感じ、意識を失ったんだ。



「うわっととと……」

 俺が意識を取り戻したとき、身体はなぜか前に進もうとして、たたらを踏んでしまった。
 足回りの布地がふわっとして、冷たい空気が太腿の辺りまで入ってくる。
 そして、身体の重心がおかしくなっていて、胸の周りがゴムバンドでも巻いているような……というか、何か今ちょっと跳ねなかったか?

 俺は驚いて胸元を見、赤い……タイが結ばれているのを確かめ、ついでに胸が左右とも膨らんでいるのを認識する。

「なっ!!?」

 思わず叫んでしまい、自分の喉から響き出す甲高い声。
 慌てて喉元を触れると、触り慣れた喉仏はなく、

「あ、あー、あー……」

 自分の声帯が女子の声音を響かせるのに驚愕する。

「ぃ、ぃ、一体何が?」

 呆然としながら、もう一度自分の身の回りを確かめる、俺。
 胸元には赤い……セーラータイ?
 紺色の広い襟には、白い二重線が入っていて……どう見ても、県立高校の女子制服だ。
 何より、このスカート。
 摘んでみると、確かに冷たい空気が足回りに流れ込んでくる。

 ついでに言うと、少し汗ばんだ布地が股間にフィットしているようで……どう考えても、これはトランクスではない。

「あうう」

 しかも、左右から……両頬をくすぐる髪の毛の束。
 そう、三つ編みの髪の毛が胸元近くまで伸びている!

「こ、これ、オレの髪……なのか?」

 左手で左の、右手で右の三つ編みのお下げ?(っていうんだろうか?)に触れて、軽く引っ張ると間違いなく自分の頭皮も引っ張られているのを感じてしまう。

 そして、漂う女子っぽい香り。
 シャンプーとか、リンスとかの匂いだろうか?
 ちょっといい匂いがしてドキドキしてしまう。

「っていうか、鞄!?」

 普段自分も右肩に制定鞄をかけているせいで気付くのが遅れたけれど、自分の右腋下にあるのは……やっぱり県立高校の制定鞄で、小さな猫のぬいぐるみがぶら下がっている。

「うわっ!?」

 もはや、決定的としか言いようのない状況。
 本当に、俺は、自分ではない人間になってしまっているようだ。

「な、なんで………」

「狩野莉子さん、いつまで騒いでいるんですか?」

 呆然としながら、自分のものではない小さな両掌を見つめていると、すぐ隣から中年男性の声が聞こえる。


「うわわわっ!!?」

「そんなに騒がないで下さいよ。
 狩野莉子という器を選んだのはあなた自身でしょう?
 少しだけ手助けしてあげますから、さっさと結界外に出て行って下さいね」

 中年男性は、少しだけ不快そうな響きをその声にのせながら、話しかけてくる。

 そして、俺は思い出すのだ。
 この男性に背中? を叩かれて、この三つ編み女子の身体にぶつかっていき、吸い込まれてしまったのを。
 何より、思考実験とやらで、この狩野莉子という女子の器を選んでしまったことを。

「あ、あの、ど、どうなっているんですか!? これっ!!?」

「どうも何も、先ほど説明した通りでしょう?
 わたしの周り六十六フィート内にいた人間は自分の器から飛び出してしまいましてね。それぞれ順番に好きな器に移してあげているという訳ですよ」

 いやいやいや、あれはあくまで思考実験であって、本当に器を、人生を、選ばせようとしていたとか言わないですよね?
 俺は、自分の腋から嫌な汗が噴き出てくるのを感じる。

「じゃあ、ほ、本当に、ォ、オレ、この狩野莉子、さんの身体に入ってしまったと?」

「そうです。
 あなたはそれを選んだのですよ」

 あり得ない、いくらなんでもあり得ない!
 俺は、ただ、普通に学校から家に帰ろうとしていただけなんだ。
 それなのに、いきなりすれ違っただけの女子になってしまうとか、何の冗談なんだよ!?

「まあまあ、いいではないですか?
 あなただって、ドキドキしているのでしょう? さっさと自分の家に帰ってはどうですか?」

「で、でも、隣の彼女は?」

 そもそも、三つ編み女子、狩野莉子さんは、社長令嬢とかいう隣の女子と話している真っ最中だったはず……なのに、帰れってどうしろというんだろう!?
 俺は混乱しつつも尋ねてみる。

「心配はいりませんよ。
 彼女もまたこの後、器の選択を迫られるのです。元の器に戻らない以上、わざわざ元の状況を再構成する必要なんてないんです」

「は、はあ………」

 もう本当に黒い靄を漂わせる男性が何を言っているのか理解できず、俺は呆然としたまま頷くしかない。

「ふふふ、狩野莉子さんのお家に帰るのであれば、生徒手帳? やらに住所が書いてあるみたいですが、面倒ならわたしが送って差し上げますよ?
 気が付いたら、あなたは自分のお家の目の前です」

「そ、それって、この狩野莉子って子の家なんですよねっ!?」

 半ばパニックになりながらも、かろうじて、頭の中を少し整理できた俺は、男性に訊く。

「もちろんですとも。
 いいですか? あなたはもう狩野莉子という別人に生まれ変わったのです。ですから、あなたから元の自分に近づこうとしてはいけませんよ?
 もちろん、今日のようにたまたますれ違ったというだけなら問題ないですが、元のあなたの身体だと意識して話しかけたり接触したりしてはいけませんよ?」

 理性を必死に保とうとしているのに、この男性は、またとんでもないことを言い始めるんだ。
 元の自分、俺に接触できないって、本当に訳が分からない。

「そ、そんな滅茶苦茶な!」

「滅茶苦茶なんてことはありませんよ、心外ですねぇ?
 そもそも、狩野莉子さんとあなたは、先ほど器選びを始めるまで、何の接点もなかったではありませんか?」

 いやいやいや、そもそもあれ、本当に器選んでいるとか思ってもみませんでしたから!
 あんたの方が滅茶苦茶でしょ!

「先ほどまでの狩野莉子さんがそうであったように、あなたも狩野莉子として、元のあなたと不自然に接触してはならないということです。
 そうでないと因果律が乱れてしまいますからね」

「い、意味が分からないよっ!」

 俺は、男性に食って掛かろうとして、でこピンで弾かれる。

「うくっ!」

「さ、送って差し上げます。あなたにこれ以上時間をかける訳にもいかないのですよ。
 さあ、狩野莉子としての新しい人生をお楽しみ下さい。あなたの楽しみはわたしの喜び。
 新生狩野莉子さん、誕生おめでとうございます!」

 額の痛みに耐えつつ、男性を見上げようとした瞬間、景色がぶれる。
 まるで何かの映像の切り替えエフェクトを見ているように、彩色の世界が消え、真っ暗な世界が目の前に現れる。

 気が付いたとき、俺は狩野莉子の自宅。
 狩野家の門扉の前に立っていたのだった。





「うう、寒っ!」

 枯葉を巻き上げながら、足元からスカートの中に入ってくる寒さに我に返る俺。
 門柱の上に灯る明かりに、『狩野』という表札を見つけ、呆然と一戸建ての家を見上げる。

 先ほどまで自転車に乗って、自分の家に帰ろうとしていたはずなのに、狩野莉子という女子の身体になって、セーラー服を着て、スカートを穿いて、彼女の家の前に立っているなんて、まるで現実感がない。
 けれど、自分の周りを取り囲む冷たい空気は本物で、今も太腿に鳥肌を立てさせているのも事実なんだ。

「取り合えず、こ、この家に入るしか……ないか?」

 俺は意を決してインターフォンを推すと、おそらく彼女の家族が出てくるのを待つ。
 案の定、十五秒もしない内に、

「莉子、お帰りなさい。
 今開けるわ」

 大人の女性の声がする。
 どうやら、間違いなくこの家が狩野莉子の自宅であり、今の声が彼女の母親なんだろう。

「ふぅ、どうやら家の中に入れそうだ……」

 階段を上がった先にある玄関の鍵がガチャリと開く音が聞こえて、俺は慌てて門扉を開けて、彼女の自宅の敷地内に足を踏み入れる。
 白いタイル張りの階段が上り、見上げる家は、普通の一軒家。
 敢えて言うと、俺の家よりは少し小さめだった。

「ふーん……というか、入っちゃっていいのか、これ?」

 戸惑いながら、階段を上がり、レバー式の扉を引っ張り開ける。
 女子になったせいか、少し重い。
 そして、中に入ると、三つ編みの彼女に似た雰囲気の母親が玄関先で待ち構えていたんだ。

「お帰りなさい。
 で、部活のバッグは?」

「あ、えーっと?」

 『お帰り』の挨拶に続いて、唐突に『部活のバッグ』について問い質され、頭がまた真っ白になってしまう俺。

「はあ、また置いてきたの!?
 いくら寒い時期とはいえ、あんた、一昨日持っていってそれきりでしょ? 男の子じゃないんだから、ちゃんと持って帰ってきなさい!」

 母親は制服鞄だけを肩にかけた俺を見て、部活のバッグを置いてきたと判断したらしい。
 いや、まあ、そうなんだろうけど……えっと、狩野莉子、さんは、部活バッグを毎日は持ち帰らなかったりするらしい。

 なるほど、陸上部女子である彼女は、ずぼらな一面があるようだ。

「は、はい………」

「はあ、言い訳しないのはいいけど、さすがに三日連続とかダメでしょ?
 明日は予備のショートパンツ、鞄に入れていきなさいね!」

「う、うん……」

 少しパニックになりかけながらも、必死に頷き、波風を立たせないように努める。
 いや、そもそも初めての帰宅で、叱られるとか本当に想定外だし……。

「はあ、まあいいわ。
 お夕飯まで三十分くらいあるから、着替えて休んでなさい。
 お風呂入りたかったら、入っていいわよ」

「はーい」

 取り敢えず無難そうな返事で誤魔化し、革靴……ローファーっていうヤツかな?
 それを脱いで、家に上がる。

「あんた、それ、お父さんのスリッパ!」

「うわ!」

 そして、続く母親の指摘に慌てて、オレンジ色のスリッパに履き替えたんだ。





 玄関先の吹き抜けと、そこからまっすぐに上がる急な階段。
 二階は吹き抜けを囲むようにL字の廊下になっている。

「うう……いいのかなあ? ホントに」

 どうやら、L字の廊下の行き止まりが、狩野莉子の部屋のようで、『Rikoの部屋』というプレートがかかっている。
 とても落ち着かない気分になりながら、その行き止まりまで辿り着くと、深呼吸を何度か繰り返す。

 やっぱり、女子の部屋に勝手に入るなんて、普通に罪悪感を感じずにはいられない。

「はあ、ふぅー……。
 そりゃあ、まあ、今日はここで過ごすしかないんだろうけど……」

 覚悟を決めた俺は、ドアノブを回してその扉を押し開ける。
 真っ暗ながら、さぁーっと流れ出す、女子の部屋っぽい……いい匂いのする空気。
 それが暖かいのは、母親がエアコンを入れてくれていたからだろうか?

「ここが、狩野莉子、さんの、部屋?」

 心臓がバクバクするのを感じながら、俺は足を踏み入れる。
 なんだか、後戻りできない感がすごい。
 普通に家に帰ろうとしていただけのはずなのに、どうして県立高に通っている女子の部屋なんかに入ったりしているのだろうと思ってしまう。

「はあ、やばいよな……」

 扉すぐ近くの壁で光っているスイッチを見つけて、電気を点けると、白熱灯色のLEDシーリングライトに、少し……いや、結構散らかった女子の部屋が照らし出される。

「うわ…………」

 服とか、紙袋とか、漫画雑誌とか、床に置いてしまうのがいけないんだろう。
 ハートのプリントが入った絨毯も敷かれているが、その上すら物置スペースになってしまっている。
 玄関先で、部活のバッグを持って帰っていないという話からずぼらな感じはしていたけれど、片付けができていない辺りも、やっぱり……という感じだ。

「でも、女子の部屋、だよなあ………」

 (買い換えてもらったのだろうか)学習机ではない、かわいらしい曲線のラインが多い白い机。
 それ付属の本棚の右端には、リラックスベアとコアラのぬいぐるみが座っていて、その左隣も小物が色々乗せてあって、辞書が数冊並べてあるのを除けば、本棚もただの小物置きだ。
 そもそも、机の上には、電子辞書も普通にあるから、普段は辞書もほとんど使っていないだろう。
 机の上の電気スタンドは、笠や支柱がピンクだし、パイプで音符を形作っているベッド端の部分もいかにも女子受けする雰囲気のものだ。
 ベッドの上の羽毛布団カバーもピンクの花柄だし、その上で脱ぎ捨てられているパジャマもピンク!

 高校生男子にとっちゃ、こんなの、どうにも落ち着かない!

「現実感が全然ないよな……」

 俺は、机傍の姿見に歩み寄って、肩にかけた制定鞄を床に置き、自分の姿を鏡越しに見てみる。

「うっ!」

 鏡の中に、あの中年男性に背中を叩かれるまで他人として見ていた狩野莉子という女子の姿……が、左右反対になって映っているのを認めて、思わず呻いてしまう俺。
 暫くこの姿を見ていなかったせいだろう、意外に衝撃が大きい。

 そう、だって、今も俺は気持ちの整理が付いていないんだ。
 いや、状況把握だって、正直ろくにできていない。

 ただ、あの男性に狩野莉子の身体に放り込まれ、そして、この家まで飛ばされて、今ここにいるだけなんだから。

「し、信じられないな………」

 遊びのはずの思考実験で、男性の言葉を借りるならば、『器選び』とやらをしてしまった自分。
 自分の新しい器として選んでしまったのが、この狩野莉子という女子なんだ。

 なんだって、また……と思わずにはいられない。

「ふ、普通の女子だよな……」

 あのときも思った通り、特別かわいいとか、美人だとかは思わない。
 それでも、よくもなく悪くもなく、平均的と言うか、目立たない程度に普通の容姿で、告白されれば……今の俺ならば、うーん、前向きに考えますという感じ?
 うう、なんか嫌なこと、考えてるなあ、俺。

「でも、成績はあまりよくなくて、スポーツで頑張ってる感じかあ」

 人生の方向性で言うと、やはり、俺とはまるで違うと思わざるを得ない。
 俺だって、運動神経が悪い訳ではないけれど、運動方面に頑張ろうという気はまるでなく、勉学方面に力を注いでいる方だしな。

 そう考えると、どうして、彼女……狩野莉子を選んでしまったのだろうと思ってしまう。

「いや、そもそも………どうにも、考えに、思考に、制限がかかってるような気がするんだよな。
 色々おかしいことがいっぱいあったはずなのに……どうなっているんだ、オレ?」

 空に流れ星が流れて、世界が明るくなって、時間が止まったようになって………そもそも、あの男性は何者なんだろうか?

 普通に、ただの中年男性として認識していたけれど、今思えば、人間離れしたあの姿に、絶叫したっておかしくないように思えてくる。

「まるで、神か、悪魔か……………ぁ、悪魔?」

 急に頭痛がしてきて、俺は、思わずコメカミを押さえ、頭を左右に振る。
 嫌な予感に、心臓のドキドキが治まらない。

「と、とにかく、オレ……あのときには、魂だけの存在になっていて………自分以外の器を選ぶことしか許されなく、なっていたって言うのか?」

 やけに楽しそうに、俺の『器選び』(思考実験)に付き合ってくれていた男性。
 あのときの会話を思い出せば思い出すほど、今、自分がどういう状況になっているのか、どんどん不安になってくる。

 何せ、あの男性は、自分の一生がかかっていると言っていたんだ。
 そう、一年後、二年後、三年後……十年後、二十年後……五十年後のことだって考えた方がいいと言っていたんだ。

 つまり、それは………この狩野莉子の器に入ること、狩野莉子として一生を送ることをちゃんと考えろということであり……一年後も、二年後も、三年後も……十年後、二十年後……五十年後も、ずっと狩野莉子のままだったらどうなるか、考えた方がいいということなのだ。

「オレが、ずっと、この狩野莉子のままだったら………?」

 しっかり考えようとすればするほど、背筋がゾクゾクしてくる。
 たとえ、ただの思考実験であったしても、『異性』を対象に加えたのは思慮不足だったとあの後思ったのは、自分自身だったのだ。 

 男性は俺をからかうようなことも言っていたが、やはり、男の俺が、同年代の女子を『器選び』の対象にするのは間違いに違いない。

 だいたい、女になったとして、女の生活に、そう簡単に適応できるだろうか?
 たとえば、長い髪の手入れをしたり、下着に拘ったり、お出かけで化粧をしたり、おしゃれ関係にお年玉やお小遣いをたくさん使ったり……高校生でいる間だけでも、相当大変そうだ。

 それに、女って生理っていうのがあるし……だいたい、男相手恋愛して、結婚して、男とセック○とか、絶対に無理だと思う。
 その上、妊娠、出産とか……今まで自分の人生にそんなのが割り込んでくるとか、一度だって考えたことがない。

「だって、オレ、男なのに………」

 もしこのまま、狩野莉子として生きていくことになったら、耐え難いことがあまりに多いと思う。

 現実的な話、二年後受験生になった俺は、進路をどうする気だろうか?
 たとえば、スポーツ推薦で、どこかの私立大学を受けたりして、まさに体育会系の人生を進んだりするんだろうか?
 就職のときだって、女として、狩野莉子としてどんな会社に就職するんだろう?
 どんな仕事に就きたいと思ってるんだろう?
 結婚して、子供を作るとした場合、女になってしまった自分は、どれくらい働き続けられるものなんだろうか?

「うわあ……、ぁ、頭が、おかしくなりそう……」

 今まで、女子、女としての人生なんて、考えたこともなかったんだ。
 パニックになったって、仕方がないと思う。

「けど、もう……オレは、狩野莉子として生きていかなきゃいけないのか……」

 気が付いたとき、俺は、セーラー服のジッパーを無意識に下げ、セーラー服を脱ごうとしていたんだ。
 どうしてそんなことをしようとしたかは分からない。
 けれど、ただ、今の自分を確かめたい、そんな思いに囚われていたんだ。




 一瞬汗臭さも感じながら、セーラー服とプリーツスカートを脱ぎ、スクールインナーも脱ぐと、ブラジャーとショーツ姿の狩野莉子の半裸が鏡に映る。

「う、見ちゃった…………」

 まあ、スポブラとかなりシンプルなショーツだから……同級生の水着姿を見ているのと大差はないようなものだけど、下着だと思うと、心臓の高鳴りが止まらない。
 本当にこんなのを見てしまっていいのだろうか?

「でも、今は……オレの器なんだし………」

 躊躇しつつも、ゆっくりと視線を鏡に走らせ、自分のスタイルを確かめていく。

 うん。顔はまあ普通という感じだけれど、スタイルは結構いいみたいだ。
 胸は、多分、高校一年女子の平均以上はあると思う。
 ブラをしていると、おっぱいとおっぱいがくっ付いているくらいなんだし、C以上はあるじゃないだろうか?
 ウエストだってキュッと締まっているし、脚のラインもすらっとしている。
 やっぱり、陸上部で鍛えているせいもあるんだろうなと思う。

「はあ、なんでだろう……初めて、本物の女子の裸っていうか、下着姿を見てるはずなのに……」

 妙に冷静というか、いつものような激しい興奮がないのは、チンチンがないせいなのか?
 それとも、女の身体になってしまっているせいなのか?

 やっぱり……何かしら意識に干渉がされているせいなんだろうか?

「普通、男子だったら、もっと興奮するはずだろう?」

 わざと口に出してそう言ってみると、興奮が少しだけ増したような気がする。

 だいたい、男子だったら、見たり、触ったり、してみたいと思うはずなんだ。
 何せ、今なら、狩野莉子の全ては、自分のもの、自分の器なんだから。

 うん、ちょっとくらい触らせてもらってもいいよな?
 ……って?

「う………なんか、オレ、いつものオレと、何か違う気がする……」

 そう思いつつも、俺はそっとスポブラごしに自分のおっぱいを確かめずにはいられない。
 スポブラでしっかり押さえ付けられていても、この存在感。
 しっかりした布地のスポブラ越しに触れていても、結構大きいと思える。

「ぬ、脱いじゃうか?」

 もちろん、今の間接的な触り方でもすごいことをしていると自分でも思うけど、どうにも我慢ができない。
 直接見てみたい、触ってみたいと思わずにはいられないんだ。

「ん」

 Tシャツとかと同じ要領で脱ごうとするけど、スポブラの下の裾のゴムがきつくて、脱ぎにくい。
 思い切りゴムを伸ばして、隙間を作って持ち上げてみたけど、乳首にゴムが当たってピリッとした痛みが走った。

「痛っ」

 それでも、何とか我慢して、スポブラを脱いでみる。
 俺の眼下に、二つの肌色の膨らみが現れ、鏡には、綺麗な形のおっぱいと小指の先くらいの乳首が映っている。

「!」

 紙面や画面以外で、初めて生で見る女性の胸。
 それが自分自身に付いているなんて、とてつもない衝撃が俺自身に走る。

 きっと、本物の狩野莉子自身にとっては、毎日、お風呂や着替えの度に見たり触ったりする、当たり前の自分の胸。
 けれど、今の俺にとっては、初めて自分の身体に備わった、イレギュラーな存在なんだ。

「ホントに、本当に……女のおっぱいが、俺にあるんだ……」

 息が乱れるのを感じながら、俺は改めて自分の胸を掌で包み込むように触れてみる。
 う、うん……独特の柔らかさというか、感触というか……掌に吸い付く、張り付くような感じがするのは、部活で汗をかいていたせいだろうか?
 まさか、初めて触る女性の胸が、自分のものだなんて、嘘みたいな話だ。

「そ、それにしても、ち、乳首が大きいんだな……」

 俺は、掌を離してから、おそるおそる人差し指の腹で、その出っ張りに触れてみる。

「ん!」

 思った以上に敏感で、痛いくらいの感覚。
 しかも、胸の先端で突っ張っているという感覚が、こうして常にあるのは、とてもおかしな気分だ。

「というか、陸上部の短距離走で……この胸は大変そうだな」

 スポブラで、胸を押さえてあったときも結構苦しい感じがあったし……さっき転びかけたときは(スポブラをしていても)胸が揺れるのを感じたくらいだから、全力疾走したら、かなり揺れるんじゃないだろうか?

「ちょっ、ちょっと、待てよ………。
 も、もしかして……いや、もしかしなくても、オレが、これから、か、狩野莉子として、陸上部の女子部員として、短距離走をやっていかなくちゃ、ぃ、いけなくなるのか?」

 もし、あの中年男性の話が本当ならば、『器選び』で狩野莉子を選んでしまった自分は、本当に陸上部の女子部員、運動部系・体育会系女子として、頑張っていかなくちゃいけなくなるんだ。
 そう……ほんの一時間前の自分は、進学校の補修授業を頑張って受けていたっていうのに、これからは勉強よりも部活に、陸上に頑張る県立高校の女子生徒としてやっていかなくちゃいけないってことなんだ。

「う、嘘だろう……?」

 俺は、呆然と呟きながら、なぜか無意識に右手をショーツに宛がってしまう。
 そして、汗ばんだ、シンプルなショーツに……ちょっと汗じゃない湿り気を感じてしまう。

「うくっ、何、してるんだ、オレ………」

 明らかに何かがおかしい。
 意識が、こう、何かに、誘導されているような気がするんだ。

 だいたい、そう、一番おかしいのは、ついさっき『器選び』をしてから、三十分も経っていないはずなのに……も、元に戻ることを前提に、動こうと、考えようとしていないこと。
 もう狩野莉子として生きていくしかないんだと、思ってしまっている時点で、おかしい!

「あ、う……」

 俺以外にもあの場にいた数人……十人くらいだろうか? 彼ら、彼女らだって、今『器選び』を強制され、狩野莉子を含めた中から誰か一人が、俺自身の中に入る、入ろうとしているに違いないんだ。
 こんな状況で、なんで、狩野莉子としての人生を受け入れようとしているんだろう?

「で、でも、オレ……もう、自分には接触できないって………話だったよな」

 そして、唐突に思い出される、あの中年男性から聞かされた注意事項。
 元の自分との接触は許されないと。
 元々の狩野莉子がそうだったように、元の俺とは知り合うことなく、狩野莉子として生活していけと……ヤツはそう言っていたんだ。

「接触しちゃうと……ど、どうなるんだ?」

 それを考えようとすると、何か、こう、とてもよくない感じがする。
 考えちゃいけないって感じがする。

 そんなリスクを冒すくらいなら、大人しく、狩野莉子として生活していった方がマシに思えてくるんだ。

「ど、どうしちゃったんだよ、オレ……」

 元はといえば、俺の、思考実験中の短慮が原因で、この狩野莉子という名の女子の器を選んでしまったのも事実。
 とはいえ、あの謎の中年男性は、明らかに俺が思考実験の中で、狩野莉子を選ぶ羽目になっていくのを楽しんでいたように思える。

 いや、そ、そもそも、俺の魂が、俺の身体から追い出される……きっかけだって、ヤツが作ったものじゃなかったのか?

「うぐ………どっちにしろ、今オレが狩野莉子の器に囚われているのは確かで……」

 頭痛がする。
 思考がループする。
 何か、こう、頭の中に妙な仕掛けを作られてしまっているような気がする。

「あ」

 そして、急に……自分の股間に、自分の右手の指が押し当てられている感覚が強まるのを感じてしまったんだ。

 布地越しとはいえ、初めて触れってしまった、本物の女子の大事なところ。
 そう、確か、オマ○コって言うんだっけ?

 ああ、俺、すごいことしちゃってない!? ダメだって、そんなの!

「んく、ホントにチンチンがない………ああ、オレ、狩野莉子のオマン○触っちゃってる!」

 思考と口から漏れる言葉が乖離していく中、ゆっくりと力を込めていくにつれてグニッと変形するそこは、チンチンもキンタマもなく、男子だったときの感覚の名残なんて何もなかった。
 何より、キンタマがあったはずの辺りの割れ目の奥から何かが滲んできている感じがある。
 これが、女子の感覚だって言うんだろうか?
 本当に、俺、とんでもないことになっちゃってると自分でも思う。

「ああ、み、見たいよな、やっぱり」

 このままでいれば、全てが許される。
 そんな気になりながら、俺はショーツを一気に脱いでしまっていた。





「うう、はあ、まずい……どう考えても、やばいよ……」

 頬はすっかり熱く火照り、腋や足の裏からは汗が滲む。
 心臓は激しく鼓動し続け、呼吸もまるで走っているかのように乱れるばかりだ。

 そう、俺は手鏡を手にベッドの端に腰かけ、脚と脚の間に差し込んで、自分のオマン○を観察している真っ最中だった。

 当たり前だけど、狩野莉子本人には見せられないし、見せたくもないし……自分でもまずいことをしているのは分かっている。
 でも、もしこの器が一生自分のものならば、許される……そんな意識が、俺を突き動かして、止められなくなってしまっていた。

「はあ、変な形というか、すごい形、してるんだな……」

 最初は閉じ気味だった割れ目も今は少し開き気味になり、指で押し開いてやると、グリュっと中身まで見えてしまう。
 かなり衝撃的だったのは、やっぱりおしっこの孔だろう。
 クリトリ○っていうのは、い、一応、知識として知っていたけれど、直接見るのは初めてだったし、これが男のチンチンに対応しているのかと思うと不思議な感じだった。
 一方で、男ならば、チンチンに内包されるおしっこの孔がそこから垂れ落ちるようにして、割れ目の囲いの中で、女にしかない孔、え、えっと……膣の方に寄ってきているのを見ると、な、なるほど、男のチンチンって、性器が発達する中で随分元の女性器とは、別の形に変形しているんだなって思ってしまう。

「はあ、興奮が止まらないよ………」

 そう、この観察だって、エッチな行為に没入してしまうのにかろうじて堪えようと思ってやっているようなものなんだ。
 本当のことを言えば、今にもクリトリ○というのを弄って、女の快感っていうものを実感してみたい。
 もっとグリグリしてみたいという気持ちでいっぱいになってきてる。

「でも、はあ、それを、しちゃうと……はあ、多分、オレ、戻れなく、なっちゃうよな……」

 そうなんだ。
 分かってる。
 分かってるんだってば。

 俺は俺で、元の俺のままでいたいのに、このままでいくと、自分は狩野莉子として生きていくしかないって思ってしまうに違いないんだ。

 女になるつもりも、狩野莉子になるつもりも、最初は全然なかったのに……狩野莉子として生きていくしかない自分にゾクゾクしてしまう。

「ああ、どうしよ、オ、レ……」

 そう、元の俺のままでいたいっていう気持ちを抱えつつ、本当の俺自身とは全く接触もできないまま、狩野莉子としての人生に埋もれていくに違いない、オレのこれからを考えると、ドキドキしちゃうんだ。

 元の俺の家がどこにあるのかも、元の俺がいつ頃どのルートで学校、塾に通っているかも、知っているはずなのに……今のオレは、本来の狩野莉子としての生活パターンに囚われて生活するしかなく、元の俺自身を意識して見つけに行ったり、声をかけに行ったりしてはいけないなんて、どんなサディスティックなルールなんだと思ってしまう。

 でも……そんな生活をずっと続けていく内に、オレが、俺を諦めるしかなくなって、狩野莉子として生きていくことを受け入れていくしかないと思い込むようになるのかと思うと、クリ○リスが切なくなってきて仕方ないんだ。

「ああ、しっかりしろよ、オレ………」

 オレはエッチな気持ちを振り払って、自分の一年後、二年後、三年後のことを考える。

 オレ……ぉ、俺自身としては、本当なら、自ら望んでなりたいとは決して思わないだろう、狩野莉子という……今まで何の接点もなかった県立高校の女子高校生。
 今の時点でも、あの成績のことや、ずぼら性格のことや、陸上に全てを捧げているような感じから言っても、まるで気の合わない、赤の他人のはずなんだ。

 けれど、明日、明後日には……オレは、そんな狩野莉子の生活パターンに従って、生活する他なくなってしまう。
 さっきまで着ていたあのセーラー服を着て、(市内の県立高校の中でも、偏差値が一番低い)あの県立高校に通って、勉強より部活に、陸上に熱を上げて、狩野莉子らしく生活していかなくちゃいけなくなるんだ。

 そうなったら、オレは……今までのように、熱心に勉強に取り組まなくなるだろうし、目指していた地元公立大を受験することだってなくなるだろう。
 スポーツ推薦を目指して、もっと陸上の成績を上げることに取り組むしかなくなってしまうのかもしれない。

「オレが、陸上部の女子部員……」

 実際、県大会で三位というのは、かなりの好成績だし、狩野莉子の身体は、陸上短距離走者として相当鍛え上げられているということになるんだろう。
 つ、つまり、これからは、オレが彼女の代わりに、もっともっと、この身体を鍛えるべく、陸上のフィールドで毎日毎日汗を流して走り込みをするようになるんだ。

「ああ、我慢できない!」

 学校に置いてきたという陸上部のユニフォーム、ショートパンツを穿いて、陸上部員らしいフォームで、この大きい胸を揺らしながら、全力疾走する自分。
 それを想像するだけで、自分の大事なオマン○を弄るのを我慢できなくなってくる。

「んあっ!」

 とうとう、オレは、クリトリスにそっと中指と薬指を揃えて宛がい、クリュッとした硬めの感触を感じながら、その性感に身を委ねてしまった。
 まるで、男子だったときは違う感覚。
 これがチンチンに該当するものと言われても、やっぱりかなり違うもののように思える。

 だって、こんなに興奮して、気持ちよくなっているのに、男子の射精が近づていくあの感覚が全く起きないんだから。

「き、気持ちいい! はあ、あぅ!」

 狩野莉子の器を選んでしまったせいで、こんな気持ちよさを知ってしまった自分。
 これから、ただの狩野莉子としてずっと生きていくんだとしたら、時折、たまに、こうして、こうやって、自分を慰めるようになるんだろうか?

 男子だった元の俺が、昨日の夜みたく、ああして男のオナ○ーしていたように、女子の狩野莉子になった今のオレは、こうやって女の一人エッチをするようになるんだろうか?

「はあ、興奮を止められないっ!」

 このまま狩野莉子の器に嵌まり込んでいくことに危機感を感じているはずなのに、もう手を止められないんだ。
 さっき、あの光と共に黒い靄を纏った中年男性が現れるまで、性別も、考え方も、好きなものも何もかも違っていたオレたちが、一時間もしない内に、こうして入れ替わってるなんて、誰が想像できただろう。

 オレは、さっきまで自分が俺だったことを覚えているのに、今の自分は誰が見てもただの狩野莉子で、誰もオレが俺だとは見てくれない。
 いや、それどころか、そんなオレ自身、元の俺をまるで知らない赤の他人として見なさないといけなくなってしまってるんだ。

「ああ、はあっ、もう訳が分かんないよっ!」

 オレは、自分のオマン○を弄りながら、何度も呻く。

 頭がおかしくなるような感覚を覚えながら、オレは思う。

 今のオレに、唯一残された、狩野莉子としての生き方。
 狩野莉子の器に囚われての生き方。

 それは、狩野莉子の振りをして、狩野莉子らしく生活すれば、オレは誰にも不審がられることなく過ごしていけるという……そんな生き方。

「オレは、オレなのに……狩野莉子として、狩野莉子らしく、せ、生活しろっていうのっ?」

 口では、反発してみせながらも、手の動きは更に激しくなり、女としての性感は強まるばかりだ。

 男だったオレが、俺だったオレが、狩野莉子の振りをして生活していく。
 それは、つまり……

「ォ、オレ………ぁ、あたしは、あたしが、狩野莉子ってことにしちゃうの?」

 こんな風に女みたいに喋ったり、振舞ったりするってことなんだ。

 ああ、ゾクゾクする。
 オレとしては、さすがに……気持ち悪いはずなのに、鏡に狩野莉子の姿を映しながら、この声で喋っていると、狩野莉子ってこんな感じかなって思ってしまう。

 そうなんだ。
 オレは、男として、こんなのは嫌なんだ。
 でも、分かる。
 こんなの毎日、毎日毎日続けていたら、一年後には、『あたし』と言うのが普通になってしまうんだろう。
 さっき自転車ですれ違ったときに、本物の彼女が言っていたように『ねえ、あれ、かわいかったでしょ?』とか、自分、狩野莉子の友達やクラスメイトに言うようになってしまうんだ。

「こ、こんなの、ォ、あたし、おかしくなっちゃうよ!」

 鏡の中で、背景として映り込んでいる、この女子っぽい部屋だってそうだ。
 今は、落ち着かなくて仕方ないこの部屋も、いつしか、一番落ち着ける自分の部屋と思えるようになってしまうのかもしれない。

「ダメ、ォ、オレ、あたし、オレ……あぁ、あたしが変になるぅ!」

 オレは、グリュグリュとオマン○に自分の指の腹を思い切り押し当て、一番の気持ちよさが自分を包み込んでいくのを感じていた。





おまけ


「はあ、とうとう二学期が終わっちゃった……」

 『器選び』をしてしまったあの日から、一ヶ月が経ってしまった。
 結局、あれからずっと狩野莉子という女子のまま、狩野莉子の家と県立高校を行き来するだけの生活を送ってしまっている。

 いや……もちろん、オレとしては、俺に戻りたい。
 未練があるとかそういう話以前に、オレは、狩野莉子になるつもりなんてなかったんだから。
 もし、今、俺に会って、『器選び』というか……器の選び直しをできるなら、すぐにでも俺のいるところに向かいたいくらいだ。
 たとえ、それができなくとも、『器選び』で誰が俺の身体を選んだのかは気になるし、どんな風に俺として過ごしているかだってすごく気になる。
 この一ヶ月、俺の姿を見たいがために、敢えて俺の家の前を通ろうとしたり、俺が通りそうな時間にあの道に向かおうとしかけたことだって、一度や二度じゃないんだ。

 でも、結局、ものすごくよくないことをしようとしているような、強迫観念にも似た何かに襲われて、そうすることはできないでいた。

「はあ……」

 そう……あの日から、オレは一度も俺に会えていないんだ。
 もしかすると、すれ違ったことくらいはあったかもしれないけれど……オレが俺の姿を意識して自分の視界に捉えたことは一度もない。

 まさか、こんな近所にいるのに、俺自身を見ることすらできなくなってしまうなんて……本当に思いもしなかった。

「こんなに近くに住んでるのになあ」

 中学時代で言えば、俺の家が一中の校区、狩野莉子の家が二中の校区とはいえ、お互いに校区の境界に近く、直線距離なら五百メートルも離れていないっていうのに。
 もう一ヶ月も、オレは、俺自身とも、俺の家族・友達とも、俺の家とも無関係な生活を送ってるんだ。

「器選びっていうのが、こんなとんでもないものだなんて……」

 ちなみに、今のオレ、狩野莉子と仲のよい、例の社長令嬢、貝塚優花とは、普通に友達付き合いをしている。
 当然、優花も……『器選び』で別人が入っているはずなんだけど、優花本人はそんな素振りを見せたりはしない。
 ううん、最初はちょっと怪しい感じというか、不自然な感じはあったんだけど、今じゃ、普通に優花として振舞っている。

 結局、優花の中身って誰なんだろう?

 多分、向こうも同じようなことを思っているんだろうけど、お互い言葉に出しては言えない。
 あの中年男性が言っていたように、元々の狩野莉子、貝塚優花の因果律に縛られているオレたちがそれを言うことは……許されないんだ。
 だって、本当の狩野莉子が、本当の貝塚優花に向かって、いきなり『あんた、誰なの?』と問い質すなんて、あり得ないことなんだから。
 それは、貝塚優花になっている誰かだって同じなんだ。

「可能性としては、莉子が優花になってるっていうのもありそうだけど……あの近くの家の中にいたっていう大人の女性が優花の器を選んだ可能性だってあるのよね……」

 オレは、そんなことを呟きながら、今の自分の家の門扉を押し開けた。





「ただいまあ」

 鼻腔をくすぐる他人の家の匂い。
 今じゃ、すっかりいつもの自分の家の匂いと感じられるようになりつつあるんだけど……とにかく、オレは、いつもより早く帰宅していた。
 今日はお母さんが買い物で出かけていていないから、誰もオレに声をかけてくれたりはしない。

 もっとも、今日もらった通知表のことを考えると、誰もいなくてよかったと思えるくらいなんだけど。

「はあ……」

 ローファーを脱いで、オレンジ色の自分のスリッパに履き替え、部活のバッグを持って洗濯機のある台所横の洗面所の方に向かう。

「因果律、ねぇ……」

 オレは、制定鞄の方に入っている通知表を気にしながら呟く。
 そう、この期末試験でオレの取ってしまった成績は、本当に狩野莉子らしいものだった。
 わざとじゃない。意識して間違えて、狩野莉子らしい成績を取った訳じゃないんだ。
 自分として、精一杯にやって、この成績。

 そう……県立高校に通うようになって、使っている教科書とかも違うから、ちゃんと狩野莉子のノートを一通り目を通したり、予習したり……最初はしていたんだけど、そうしている内に、いつの間にか、狩野莉子が勉強してきたことしか分からなくなってたんだ。

 多分、これも、オレが狩野莉子の因果律に縛られつつあるってことなんだと思う。

「ま、もっと頑張ろうと思えば、できなくもないんだけど……」

 そりゃ、せっかく『器選び』をしたのに、全て相手と同じになってしまうなんて、面白い訳もなく……一応、頑張れば、元のオレの学力も取り戻せそうではあるんだ。
 一度、狩野莉子の学力にまでリセットされてしまったようなもんだけど、俺らしさが残っている今なら、前の俺並みの成績まで(一年以内には)上げることだって不可能ではないと思う。

 でも、敢えて狩野莉子として、頭のいい子になるために頑張りたいとは思えない。
 ま、元々狩野莉子になりたくて、こうしてなって、かつ頭のいい子になりたいっていうのなら、それもありだとは思うけど。

「はあ、戻るまでは、普通に陸上女子のままでいいよねぇ。
 勉強の成績よくなくても、陸上部の成績はいいんだし!」

 それが今のオレの気持ちだった。





 自分の部屋に制定鞄を置きに行き、そのついでに着替えを持って再び一階に下りてきたオレは、お風呂の隣の洗面所に来ていた。
 セーラー服を脱いでから、部活用のバッグから汗に濡れた陸上部のウェアとランニングパンツを穿き、鏡に映る自分の姿をじっと眺める。

「はあ、こうしてると、すっごく自分が違う人間になってるんだって感じるよね」

 緑色を基調にした陸上部のウェアには、県立高校の名前がでかでかとプリントされ、自分がどこの陸上部女子部員なのかすぐに分かる。
 これを着て、もう一ヶ月も毎日のようにトレーニングをしてきたオレ。
 狩野莉子の因果律に縛られたおかげで、知らない内に狩野莉子のランニングフォームで全力疾走できるようになっていた。
 スポブラで押さえているといっても、この胸は少し邪魔なんだけど……でも、この胸が弾む感じが、陸上女子になってるって実感に繋がって、ドキドキするんだ。

「はあ、この、汗臭いのも、ドキドキしちゃう……」

 先ほどのトレーニングで汗ばんだウェアの胸元を少し引っ張ると、ムワッと自分の汗臭さを感じる。
 元々のオレにとっては、異性の、汗臭さを嗅いでいると、改めて自分が本当に狩野莉子の器を選んで、狩野莉子として生きてるんだって感じるんだ。

「はあ、器選びで、あたしを選んで、失敗だったって思ってるくせに、何興奮してるんだか……」

 そう、オレ自身としては、遊び感覚の思考実験として『器選び』をして、狩野莉子の器を選んでしまったことを後悔していた。
 狩野莉子として、ただ学校の宿題をするためにルーズリーフを開くだけで、どんどん頭が悪くなっていっちゃうんだから。
 このままじゃ、何のために私立の進学校に行ったのか、何のために放課後の補習授業で頑張っていたのか、何のために塾に夜遅くまで通っていたのか、分からなくなっちゃう。

 そんな焦りと不安をあんなに抱いていた……抱いているはずなのに、たまに、こうして……こんなことをして、男子の性欲を発散させてやらないとどうしようもなくなっちゃうんだ。

「あんなにいやいや思ってたくせに、今じゃ、陸上女子として走るのが楽しくてしょうがないんでしょ? ねぇ、莉子?」

 オレは、自分をそんな風に言葉攻めしながら、そっと自分の股間に手を伸ばす。
 今日、何度も百メートル走、二百メートル走の練習メニューをこなし、すっかり汗ばんだランニングパンツ越しに自分の女の証に触れる。
 そうしていると、一ヶ月経った今、自分がどれだけ楽しんで走っているのかを思い返してしまい、そんな自分の変わりように興奮が止まらない。

 勉強ができることよりも、もっと速く走れることの方が、今の自分には楽しいんだ。

「あはは、あんたも、すっかり頭の中まで運動部女子になってきてるじゃん?
 もう、あんたにとっちゃ、陸上が全てなんでしょ?」

 それは、否定できない。
 最初は、狩野莉子が陸上部員だから、狩野莉子らしく振舞うためだけに、仕方なく練習をしているはずだったんだ。
 けれど、最近は……部活をしている間は、すっかり走ることを堪能してしまっている自分がいる。

 多分、このままで狩野莉子でい続ければ、狩野莉子の生き方が普通になってしまうかもしれない。
 そう思える。

「ああ、このままじゃ、あたし、大変なことになっちゃう!」

 オレは、そう呟きながら、ランニングパンツとその下のショーツをずらし、自分の股間に右手を宛がう。

 すっかり触りなれた自分のオマン○。
 一ヶ月前のあの日から、男子としての性欲が疼く度に、女の自分の身体でそれを慰めてきた。
 自分の身体に興奮したことは数え切れないくらいにあったし、部活や体育で更衣室で他の女子と一緒に着替えたりするのも当然刺激が強くて、毎夜毎夜一人エッチでその興奮を鎮めてきたんだ。

 だけど、それも変わりつつある。

 今じゃ、今更股間に手鏡を差し入れて、オマ○コを見たいなんて思わない。
 オマン○なんて、トイレの度に触れているんだし、今のオレには、一人エッチのオカズにすらならなくなってきちゃってるんだ。

 一方で、自分が狩野莉子に生まれ変わっていっていて、どうしようもなくなってきてるって思うと、ものすごくゾクゾクする。
 頭でっかちで、あたしにすごく失礼な評価を下してきたコイツが、あたしと変わらない存在になりつつあると考えるだけで興奮が止まらないの。

「はあ、あたし、女の器を選んじゃったせいで、狩野莉子っていう女になりつつあるんだ」

 冷静なときの自分にとって、何よりおそろしいことは、女子として生きることに抵抗がなくなってきちゃってることだと思うの。

 そう、一人エッチのオカズが変わってきてるように、今のあたしは、女子の着替えを見ても、さほど……もうほとんど興奮しなくなってきてる。
 女子トイレに入るのも、女子更衣室に入るのも、普通になっちゃってるし……女子同士の付き合い方も平気になってしまってる。

 つまり、それだけ精神的に女子に近づきつつあるんだと思うの。

「で、最近、男子が異性みたいに思えてくるようになったんでしょ? ねぇ、莉子?」

 今みたいに、オマン○を自分の性器として弄れば弄るほど、それがあることが当たり前で、以前の俺にはあって、オチンチンが見たこともない異性のものみたいに思えてくる。
 そうなの。
 こうやって、一人エッチしてる間は、特にそう。

 ふ、普段は違うのよ!
 まだまだ、オレのままだし、男子見てときめいたりなんかしない。

 でも、一人エッチで、こうして自分を融かすような快感を感じていると、別のあたしになっちゃうの。

「あたし、馬鹿よね。
 多分、こんなこと、やっちゃうから、莉子に染まってきてるっていうのに!」

 ああ、でも、多分……こうしている間、感じている自分は、以前の莉子と変わりない存在になってるんだって思うとたまらないの。
 一人エッチしている間だけ、はっきりと感じられる狩野莉子っていう自分。

 他人のもののはずのあたしの身体も、異性のもののはずのオマン○も、ずっと前からあたしのものだったように感じられるのは、一人エッチのおかげなんだと思う。

「あたし、ォ、オレが、女子になっちゃうよ」

 感じれば感じるほど、元の男のオレがどんどん遠ざかり、赤の他人の異性のように思えてくる。
 このスリルがたまらないの。

 一年後、二年後、三年後……もずっとこのままだったら、多分、あたしはただの狩野莉子になっちゃうと思うの。
 自分が元俺だったっていうのは分かっていても、もう自分が狩野莉子なのはどうしようもない事実なんだって受け入れちゃうと思うの。

 そして、その自分の変わり様に、自分を今みたいに苛めてゾクゾクするに違いないのよ!

「ああ、ダメっ!」

 それから間もなく、あたしはまた狩野莉子として、ごくごく普通の十六歳女子として絶頂に達しちゃったんだ。 










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