死んだ少年、死なない情念 作:果実夢想 ただただ、痛かった。 体も、心も。 ただただ、憎かった。 自分自身も、世界そのものも。 どうして、僕がこんな目に遭わなければいけないのか。 僕が、一体何をしたというのか。 そう自問を繰り返してみるも、答えなど一向に返ってはこなかった。 痛む頬を押さえながら、空を見上げる。 青い……はずの空が、今は赤く染まっているように見えた。 苦しい。 息苦しい。 何だ、ここは。 なんて、生きにくい世界だろうか。 僕は、一歩を踏み出す。 ここから進めば、僕は楽になれる。 あと、一歩だけ。 それだけで、全て終わらせることができる。 「……はは。ははははっ」 自然と、笑みが漏れた。 今まで耐えてきた自分を、精一杯生きてきた自分を、これでもかと褒めてあげたい。 だけど、それももう終わりだ。 僕は――。 「……せめて、もうちょっとだけ。僕も、みんなみたいに普通に生きてみたかったな……」 そう、呟いて。 マンションの最上階から、身を投げ出した。 静かに、涙を流しながら。 § ピピピピ……とけたたましい目覚ましの音が鳴り響く。 布団から腕だけを伸ばし、枕元に置いてある目覚まし時計の音を止める。 そして時刻を確認してみると、午前十時過ぎ。 昨日寝たのが遅かったからか、こんな時間まで眠ってしまっていたようだ。 それと、自分で思っているよりも疲れていたのだろうか。 まさか、今になってあんな夢を見てしまうとは。 ゆっくりと、上体を起こす。 先ほどの夢のせいか、忘れたいはずの記憶が、忘れたつもりだった光景が、脳裏に焼き付いて離れなかった。 「……僕は……」 自身の手のひらを見つめながら半ば無意識に呟きかけ、頭を左右に振った。 違う。あの幼くて弱い少年は――僕は、もう死んだ。 「……よし。今日も行くか、俺」 黒で統一された服とズボンに着替え、その上から赤いロングコートを羽織る。 それから僅かな支度を整え、家から出た。 学校じゃない。仕事でもない。 けれど俺が毎日のように行っている、いつも通りの日課へ向かうために。 § 変わらない平穏な日常だ。 少なくとも、上辺だけならそう見える。 鳥が飛んでいる、青い空。 肌を撫でる、心地よい風。 公園で遊んでいる子供たちを、少し離れたベンチから微笑ましそうに眺めている親。 友人と駄弁りながら、ファーストフード店へ入っていく若者たち。 そうか、今日は土曜日だから休みの日か。 今となってはもう、曜日感覚すらなくなってきていた。 ……でも。 こういうときにも、平穏を乱す悪い芽というものは生まれてくるものだ。 「だ、誰か、その人捕まえてぇぇ……!」 ふと。そんな掠れた声が、背後から聞こえてきた。 慌てて振り向くと、高齢の女性が地面にへたり込み、その前方を顔の隠した男が鞄を持って走っていた。 「……ちっ」 俺は荒々しく舌打ちを鳴らし、すぐさま駆け出す。 状況から推測するに、これはいわゆるスリというやつだろう。 現代日本において、こんな古典的な悪行を働くやつがまだいるとは。 しかも、こんなに明るいうちから。 さすがにバカと言うほかない。 俺は走り、スリの男を追う。 幸いと言うべきか、奴の足はそこまで速くはない。 現に、俺との距離は徐々に縮まっていた。 追いながら、腕を伸ばす。 もう少し。もう少しで、奴の身体に触れられる――。 「……チェンジ」 指先が肩に触れ、俺がそう呟いた瞬間。 目の前の景色が、一変した。 視界は狭く、自身の手にはシンプルな鞄。 そして目の前に追いかけていたはずのスリの男の姿はなく、代わりに背後には俺と全く同じ容貌をした男。 見て分かるほどに、驚き戸惑っている様子だった。 そう。 俺とスリの男が、入れ替わったのだ。 身体に触れ、俺が「チェンジ」と呟いたことによって。 「な、何だ……一体、どうなって……?」 俺の顔、そして俺の声で呟く男を完全に無視し、地面に座り込んでしまった高齢の女性へと歩み寄る。 そして鞄を手渡し、深く頭を下げた。 「すみませんでした。どうぞ、通報なり何なりしてください」 「え……? あ、ああ……」 突然の変わりように女性は困惑していたものの、鞄を受け取って警察に電話をかけ始めた。 後ろでは、俺の姿をした奴が未だに呆然と立ち尽くしているが……まあ、無理もないか。 それから少し経ってパトカーのサイレンが聞こえたかと思うと、警察が駆けつけてくる。 そろそろ、か。 警官の一人が視界に入ってきた瞬間を見計らい――。 「……リターン」 誰にも聞こえないような声で、小さくそう呟いた。 刹那、目の前には高齢の女性の眼前で立ち尽くしているスリの男の姿が。 そっと、自身の身体を見下ろす。 手のひらを見つめ、握ったり開いたりを繰り返す。 よし、これで元の身体に戻れた。 「お、おい、待ってくれ! 俺じゃ、一体何が……!」 スリの男は警察の人たちに連行されながら、言葉が纏まっていないのかよく分からないことをがなり立てている。 仕方ないとは思う。いきなり近くにいた男と身体が入れ替わり、そいつが勝手に警察に通報なんてさせたのだから。 こんな非現実的なこと、普通は信じられないものだ。 たとえ、今さっき自分が体験したばかりだとしても。 俺は――僕は、昔死んだ。 この世界に嫌気が差し、自分を殺すことで世界から逃げようとした。 でも。なぜか、できなかった。 目を覚ましたのは、いつも通り自分の部屋のベッドの上だった。 違っていたのは、ただひとつ。 この「自分と誰かを入れ替える」という能力が身に宿ったということだけ。 死ぬことすら許してくれなかった世界は、当然恨んでも恨みきれなかったが……。 この世界に蔓延る悪を消し、この世界をもっと平和なものに変えようと誓った。 それからだ。 あの頃の幼く弱かった少年はもう死んだという意味で、一人称を「僕」から「俺」に変えて。 毎日、こうして悪事を働くやつらをこらしめているのである。 でも。俺の目的は、それだけではない。 むしろ、本当の目的はそんなことじゃなくて。 ただ、俺は――。 「すっっっごぉぉい!」 不意に。そんな奇妙な叫び声が聞こえ、俺の思考は掻き消された。 前を見ると、そこには小柄な女がいた。 背が低く……百五十センチもないのではないだろうか。 腰の辺りまである長い髪に、スカートから覗く黒タイツ。 整った顔立ちをしている女子だが、その瞳はなぜかキラキラと輝かせ、俺のほうをじっと見つめていた。 「今の今の、どうやったんですかっ!?」 挙げ句、ぐいっと俺のほうへ顔を近づけてそう問いかけてきた。 周りには他に誰もいないと思っていたのに、まさか見られていたとは。 「……何の話だ?」 「とぼけないでくださいよー。さっきの悪い人を追いかけてるところ、ちゃんと見てました! 何とか捕まったみたいですね」 「ああ、それのことか。別に、俺は何もしていない。あいつが自ら持ち主に返したんだ。きっと改心したんだろ」 「そうですかねー? あんなに必死に逃げていた悪い人が、そんな急に改心とかすると思います? わたしには、あの人の身体に触れたときか、近づいたとき辺りであなたが何かしたように見えました」 ……ほう。バカそうに見えて、意外と観察力もあるし頭が切れるみたいだな。 「……ほう。バカそうに見えて、意外と観察力もあるし頭が切れるみたいだな」 「ちょっ、バカそうに見えるって何ですか!? こう見えて、意外と勉強はできるほうなんですっ!」 俺としたことが、考えていることがそのまま口に出てしまった。 というか、自分でも意外とって言ってしまってるじゃないか。 それにしても、これは困った。 どうやら誤魔化しきれる雰囲気でもないし、腹を括るしかないか。 まあ、あくまでただの初対面の女子。長い付き合いになるわけでもないのだから別にいいだろう。 「……しょうがないな。けど、絶対に誰にも言わないとだけ約束してくれ」 「もちろんですよー、わたしは口が堅いので大丈夫です!」 「全然、全く、これっぽっちもそんな風に見えないが」 「ひ、ひどっ! ほんとだから大丈夫ですよー! それにしても、やっぱりあなたが何かしてたんですねー? 嘘をついたり誤魔化すの意外と下手くそなんですねぇ〜、このこのー」 「……そうか、さよなら」 「わーっ、冗談です冗談です! わたしが頭いいだけでした! 天才でごめんなさい!」 こいつの調子に乗るスピードがマッハすぎるな……。 俺は嘆息しつつ、ゆっくりと能力のことを話し始める。 過去にあったこと、そして自殺を試みたことなどは適当に省いて。 「ほえ〜……すっごい能力ですね〜。なんというか、すっごいかっこいいです! 主人公みたいです! かっこいいです!」 「……お前の語彙力どこに行った」 俺の話を聞き終え、この女は瞳の輝きを失うことなくそう口にした。まあ、語彙力は完全に失っていたが。 こんな非現実的で有り得ない能力のことを、バカにしたり疑ったりすることなく、あっさりと信じてもらえるとは思わなかった。 それが、素直に嬉しかった。 「どうして、こんな話を信じられる?」 「えっ? どうしてって言われても……こんな嘘をつくとは思えないからですよ。話してるときの目、口ぶりがすごい真剣でしたし……それに、わたしはあなたが何かしたからあの男の人を捕まえることができたんだと思ってますからね。まあ、つまりそういう色んなことが諸々で……えっと、あれ……?」 「……ふっ」 最後まで締まらないやつだが、俺は無意識に笑みが漏れてしまった。 自分でもびっくりだ。信じてもらえただけで、こんなにも温かい気持ちになるとは。 そもそも、この能力のことを話したのは今が初めて。 俺が話そうと思えたのにも、こいつの持つ人格がそうさせたのかもしれない。 なんて、思ってしまった。 「な、何で笑うんですかっ!?」 「いや、何でもない。それじゃあな」 「あっ、ちょっと待ってください!」 話を終え、立ち去ろうとする俺を。 今までよりも真剣な眼差しで、呼び止めた。 「何で、こんなことしてるんですか? もちろん、悪い人たちは裁かれるべきだとは思いますけど……こんな、正義のヒーローみたいに……」 警察でもない一般人の俺が、こうして能力を使っては悪事を働く者を懲らしめている理由。 まあ、疑問に思うのも仕方のないことか。 人によっては、この能力こそ自分の欲求を満たすために悪用したがるものかもしれないし。 「正義のヒーロー、か。それは違う」 本当は、初対面の女にこんなことまで話すつもりなんてなかった。 だけど、気づけば俺の口は次々と言葉を紡ぎだしていく。 「俺は、探しているんだ。自分を傷つけた奴らを、俺にもう二度と修復不可能なくらいの傷を与えたくせに、今もなおのうのうと平穏に生きている奴らを。そして見つけることができたなら、俺が必ずこの手で――復讐してやる」 「……っ」 俺の答えを聞き、女が息を呑む。 引いているのか。怯えているのか。それともよく理解できず戸惑っているのか。 それは分からなかったが、途中で口を挟むことなく耳を傾けてくれていることだけは分かった。 「ま、他の悪人どもまで懲らしめているのは、俺みたいに辛い思いをする人たちを増やしたくないというのもあるから、そういう意味ではヒーローと言えなくもないのかもしれないが……あくまで俺の目的は復讐。これも全て、自分自身のためだ」 そう。決して、誰かのための行動ではない。 自分勝手で、自己満足で、ただ他の悪人をあいつらと重ね、他の人たちを巻き込んでいるだけ。 「……何が、あったんですか?」 「そりゃもう色々あったよ、学生時代。ものを盗まれ、机や所有物に落書き、靴には画鋲、体育倉庫に閉じ込められ、階段から突き落とされ、踏切に突き飛ばされ、自転車で轢かれた。もちろん、普通の暴力も言葉の暴力も、毎日のように浴びせられた。一人や二人じゃなく、何十人もな」 「そん、な……」 女も、さすがに言葉も出ないようだ。 当然、俺が特別だなんて思っていない。俺と同じような学生時代だった人も、むしろもっと悲惨だった人も、世の中にはいっぱいいるだろう。 だからこそ。 だからこそ、俺はこの世から悪人を淘汰する。 あれは、俺には耐えられなかった。 およそ十年間も続いたのだ、誰が俺を咎められるというのか。 現実から逃げるべく身を投げ出した結果、死ぬことができずこんな能力を手にしたわけだが。 「これで、分かっただろ? 俺は決して、お前が思うようないい人なんかじゃないんだよ」 「……すごく、いい人ですね」 「話聞いてた!?」 今の話のどこに、いい人な要素があったというのか。 「聞けば聞くほど、いい人としか思えないですよ、わたしは。復讐したいだけとか、自分のためとか言ってますけど、それで救われてる人たちだっていっぱい……それこそもういっっぱいいるはずです。そういう人たちの気持ちも、無視しないであげてくださいね」 そう言って、女は穏やかに微笑む。 ああ……こいつ、こんな顔もできるのか。 なんて優しい、なんて温かい。 「あー、それと……なんて言えばいいのか分からないですけど。色々と、辛かったんですよね。でも、もう大丈夫ですよ。今まで辛かった分、これからはその人たちよりもいっっっぱい幸せになれるはずですから」 そうして、微笑んだまま。 俺の頭を、優しく撫でた。 年下のくせに、まるで母親みたいで。 優しくて、温かくて、心地よくて。 思わず、涙腺が緩むのを自分でも分かった。 「いいですよー、泣きたいときはたっぷり泣いてくださいね」 「ばっ……泣いてなんかない。やめろ、頭を撫でるな」 「えへへー」 「えへへーじゃない。いつまで撫でる気だ!?」 笑顔で俺の頭をなでなでしまくる女。 本当に、何なんだこいつは。 こんな話をするつもりなんかなかったし、こいつのせいで調子が狂わされっぱなしだ。 「ねっ、名前……なんて言うんですか?」 ようやく撫でるのをやめてくれたと思ったら、今度はいきなりそんなことを訊ねてくる。 名前、か。自分の名を名乗ることなんて、もう何年もなかったから。 少し。ほんの少しだけ、照れ臭い。 「……御黒(みぐろ)情(じょう)だ」 「情さんですねっ! わたしは知念(ちねん)白璃(はくり)です!」 俺、御黒情と。 女、知念白璃。 これが、俺たちの出会いだった――。 「情さん情さん。わたし、情さんの野望のお手伝いをしたいです」 「野望って言い方……間違ってはないが。というか、お手伝い?」 「はいっ! 話を聞いてみて、すごく感激したというか……むしろそんな人たちがいるんだって許せなくなったというか……。情さんはいい人ですし、わたしも一緒に……だめですか?」 だから、全くいい人なんかじゃないと言っているのに。 それにしても、これは困ったな。 当然だが、この入れ替われる能力を持っているのは俺だけ。 つまり、この女、知念にできることなど大してない。 「だめに決まってるだろ。お前はさっさと帰って、学校の勉強でもしたほうが有意義だ」 「むー、そんなの嫌です。気になっちゃうじゃないですかぁ〜。わたしも、情さんのお手伝いをしたいんです。情さんを――救いたいんです」 俺を、救う? ほんの数ミリ程度、心が動いてしまうのが自分でも分かってしまった。 救う、か。そういえば、そんなこと言われたのは初めてだ。 学校の生徒や教師からも、そして家族からも、救われたことなんて一度もない。 この能力を手にしてからは、自分が救うばかりで。 救われるなんて、そんなこと……。 ああ、そうか。 やっぱり、俺は――。 「お願いしますよー、情さん。あんな話を聞いて、放っておけるわけがないですよ。ほらほら、現役女子高生ですよ〜? 何でもしますから〜っ」 「……その性格さえなければな」 「ええっ!? 分かりました、お淑やかになります! ほら、お淑やかですわっ!」 何が、ほら、なのか分からないが。 まあ、あんなことまで話してしまった手前、断りにくいのも事実。 仕方ないか。 「……分かった。でもついてくるのはいいが、悪人を相手にする以上、危険なことはたくさんある。あまり一人で突っ走ったり無茶はするな、そして最中はできるだけ離れていろ。それだけ約束してくれ」 「は、はいっ、もちろんです! いや、かしこまりましたわっ!」 「……その口調はやめろ」 何ともまあ、騒がしくてめんどくさい仲間ができてしまった。我ながら、やっぱりもっと強く断ればよかったかと、早くも後悔してきたくらいだが。 でも、こうして協力してくれるような、そういう仲間と呼べる存在は初めてで。 何だか胸が温かくて、自然と口角が上がってしまう自分もいた。 まあ、性格と態度には少々難ありかもしれないけど。 「それじゃあ情さん、ここから何をするんですか?」 「そうだな……辺りを注意深く観察しながら、ぶらぶらと街を歩く。当然、この近くだけじゃなくて、電車や飛行機などに乗って遠くへ行くことも多い」 「そんな無計画な……闇雲に探して見つかるんですか?」 「……未だに見つかっていないから、こうしているわけだが」 「そんなクールぶってかっこつけているくせに、ほんと意外とポンコツですね〜」 「そうか、じゃあお前とはここでお別れだな」 「わーっ、冗談! 冗談ですからぁ! 情さんがポンコツなんじゃなくて、わたしが天才なだけでした!」 「それやめろ。そういう天才な知念は、どうするのが最適だと思うのか聞かせてくれ」 「…………さぁ行きましょう!」 「お前もポンコツだろ」 などと話しながら、俺たちは肩を並べて歩く。 こんなポンコツコンビで大丈夫なのか不安ではあるものの。 今まで俺一人だったから、二人になったというだけですごく新鮮で、少し楽しいとも感じ始めていた。 あれから、あいつらがどんな進路を辿り、現在どこで何をしているのかなんてものは一切不明。 だから、こうやって自分の足で闇雲に探すしか方法はない。 たとえ何年かかったとしても、必ず見つけ出してみせる。 そう誓ってから、もう何年が経ったのか。 一向に手がかりのひとつも見つけることはできず、忌まわしい悪人は一向に減る様子がない。 本当に、生きにくい世の中だ。 § 空がすっかり暗くなった夜。 俺たちは電車で、少し離れた街までやって来ていた。 「ふへぇ……元気なことが取り柄のわたしも、さすがに疲れてきちゃいました」 知念は肩で息をしながら、露骨に疲れた声を出す。 現在は夜の八時くらいか。 かなりの長時間ずっと歩きっぱなしだったから、無理もないだろう。 「そろそろ休むか。今から帰るのも時間がかかるし、ホテルに泊まろう」 「ほ、ホテル!? それってえっちなやつですか!?」 「普通のやつだ! 当然、俺とは別の部屋にするから安心しろ」 いつもは俺一人だったから大丈夫だったが、さすがに年頃の女と同じ部屋に泊まるのは色々と問題があるだろう。 そう思ったのだが、知念は何やら唇を尖らせてしまう。 「むぅ〜……別に、同じ部屋でもいいですよ。別々の部屋も、ちょっと大変だと思いますし」 「……いや、でも」 「大丈夫大丈夫です! 変なことしてきたら、迷わず通報するので!」 「……そ、そうか」 これは、俺のことを少しでも信頼してくれているということなのだろうか。 まあ、俺が変なことをしなければいいだけではあるし、本人がいいと言ってくれているのだから言葉に甘えよう。 「俺はもう少し辺りを見てくるから、お前は先にあそこのホテルに行っておいてくれ」 「あ、はい、分かりました! 早く来てくださいねっ!」 近くに見えるホテルを指差し、お金を渡す。 すると、知念は駆け足でホテルへ向かった。 当然と言えば当然だが、夜のほうが悪人が湧きやすい。 今くらいの時間はまだそこまででもないとは思うが、念には念を。 女には見せられないような光景も、中にはあるから。 そんなことを考えつつ、どんどん人気のないほうへ進んでいく。 今日の昼間のアレは、あくまで例外。 普通は、暗い時間に、こういう人気のない場所に――。 「やっ、やめてくだ……あっ」 微かに聞こえた、若い女の声。 ……早くも、出たか。 俺は足音を忍ばせ、ゆっくりと声のするほうへ歩む。 すると、路地裏にいた。 服を脱がされ、下着が露出してしまっている二十歳前後の女と。 そんな女に暴力を働き、無理矢理覆い被さっている体格のいい男。 考えるまでもない。 女を無理矢理、強姦しようとしている……反吐が出るような現場だ。 こういうゴミクズのような男こそ、この世から淘汰すべき対象だ。 まずは、能力で男と入れ替わる。 その後、女を開放し、警察へ自白。 いつもの流れだが、それで問題ないだろう。 そう思い、ゆっくりと近づいて男の肩に触れ――る、直前で。 いきなり男はこちらを振り返り、立ち上がった。 突然の出来事に反応が追いつかず、手はその下にいた女の身体に触れ。 そして、そのまま――「……チェンジ」と呟いてしまった。 刹那、目の前の景色が一瞬にして変わる。 目の前には体格のいい男と、その近くで困惑した様子の男――俺。 やってしまった。 咄嗟のことに反応ができず、間違えて女のほうと入れ替わってしまった。 自身の身体を見てみれば、下着が露出してあり、豊満な乳房、そしてきめ細かな若々しい肌が。 思わずそっと胸に触れてしまうが、今はそんなことをしている場合ではない。 急いで解除しよう――とした、そのとき。 戸惑って眼前と自分の身体を交互に見ていた俺(中身は女)が、踵を返して走り去ってしまったのだ。 入れ替わったことなんて当然理解はできないはずだが、それでもこの状況を好機と見たのか。 まさか、俺の身体のまま逃げられるとは思わなかった。 「チッ……何だったんだ、さっきのあいつは。まあいい、さっさと始めようぜ」 忌々しげに舌打ちを鳴らしたあと、男は胸を揉み始める。 不快だ。今すぐにでも、この男をぶっ飛ばしたくて仕方がない。 だけど、女の身体になったせいなのか、上手く力が出ない。 それどころか、感情が恐怖に支配され、自然と身体が震えてしまう。 「俺のことも気持ちよくしてくれよ」 不快な声で、そう言ったかと思うと。 男はズボンを脱ぎ、そそり勃ったそれを俺に見せてきた。 やめろ。そんなものを顔に近づけるな。 やめろ。そんなものを股にあてがうな。 解除しようと思えば、今からでもすぐにできる。 しかしそうしてしまえば、この恐怖と不快感を女に返すことになり、そしてもう遠くまで走り去ったであろう俺が助けに戻ってくるまでの時間に事を済まされてしまう可能性が高い。 だめだ……もう、解除はできない。 この身体まで守ることができないのは不甲斐ないにもほどがあるが、それでもせめて最中の感情だけは俺が身代わりになるしかない。 そう決意し、目を瞑り、歯を強く噛みしめ――。 不意に、サイレンの音がどこからか鳴り響いてきた。 訝しみ、目を開けると。 それは確かに、こちらへ駆けつけてくる警官の姿が視界に飛び込んできた。 「な……チッ、さっきのやつか……!」 そう叫ぶ男だったが、警官に取り押さえられ、抵抗もできなくなっていた。 何だ……? 本当に、俺の身体に入ったままの女が、警察を呼んでくれたのだろうか。 そんな思考する間もなく、この路地裏にもう一人見知った顔の人物が姿を現す。 ――知念白璃。 今頃ホテルにいるはずの女だった。 「情さん情さん、もう解除しちゃいましょう」 「え……? あ、ああ、そうだな……」 俺の耳元で、小声で囁く知念。 いつから見ていたのだろうか。そもそも、どうしてこんなところに……。 気になることはたくさんあったが、それよりも優先すべきことがある。 もう男を取り押さえたのなら問題はないだろうし、俺はすぐさま「リターン」と呟いた。 すると――一瞬にして、目の前に駅が。 あの女、駅に行って逃げようとしていたのか。 危なかった。もう少し遅ければ、電車に乗ってしまっていたようだ。 警察が来たなら、あの女も何とか助かったことだろう。 今回は、俺は大して何もできなかった。 少し癪だが、知念のおかげと言う他ない。 などと考えながら、先ほどの路地裏へ向かおうとしていると、横から急に俺を呼ぶ声が。 振り向けば、泊まる予定だったホテルの前に知念が立っており、大きく手を振っている。 もうホテルまで戻っていたのか。 俺は短く息を吐き出し、知念のほうへ歩み寄った。 「ふっふーん。どうですかどうですか? 危なかったですよね、情さん。わたしの大活躍ですよね、情さん。どやどや?」 せっかく素直に感謝しようと思っていたのに、すごい腹が立つ顔で調子に乗っているせいで感謝する気が失せた。 わりとその通りなのが、どうにも……。 「とにかく、今日はもう休むぞ」 「ええっ、スルーですか!? ちょっとくらい、お礼を言ってくれても……」 今度は何やらいじけてしまった。情緒不安定か、お前は。 俺は深々と溜め息を漏らし、そっと知念の頭に手を乗せた。 「お前が来なければ、取り返しのつかないことになっていた。その、まあ……ありがとう」 「……むふふー。ふへへ……ふへへへへへ」 お礼を言うだけで照れてしまった俺も俺だが、言われただけで気持ち悪いくらい照れ笑いしている知念もどうかと思う。 すごく顔が熱い。 とりあえず、誤魔化すかのようにホテルに入り、先にとっていてくれた部屋へ向かう。 部屋の中に入ると、シングルベッドが二つに大きなテレビ、そして風呂にトイレ、窓際に小さなテーブルと椅子。 然程広くはないが狭くもない、至って普通のホテルの一室だ。 「ふあああああああああっっ!」 途端、知念が奇妙な雄叫びをあげながらベッドにダイブ。 それから間もなくして、静かな寝息をたて始めた。 よほど疲れていたらしい。 今日、初めて会って。俺の過去や能力を話して、それで急に協力関係となって。 今日は特に、色々とあった一日だった。 知念ほどではないだろうが、それでも俺もかなり疲れてしまった。 それにしても、知念は学校は大丈夫なのだろうか。 俺に協力してくれるというのは、仕方ないから認めたが。実際、今日は助けられてしまったし。 でも、さすがに学校を休ませるわけにもいかないだろう。 まあ、それは明日にでも聞いてみるか。 今は、俺も少し眠りたい。 それから、およそ十数分程度で。 俺の意識は、闇へと落ちた――。 § 「情さーん、朝ですよー。そろそろ起きないと、えっちないたずらしちゃいますよー? いいんです――んがッ!?」 目が覚めていきなりそんな声が聞こえてきたせいで、咄嗟に目の前にあった知念の顔をがっしりと掴んでしまった。 もっと普通に起こしてくれ。未成年に手を出してしまうと、俺が一番危ないんだから。 「じょ、冗談! 冗談でしゅ! 痛い、痛いですっ、遺体になっちゃいます痛い!」 「……上手いこと言ったつもりか」 「もーっ! 情さんのDV彼氏ー!」 「DVでもなければ、彼氏になった覚えもねえ」 仕方なく、手を離してやる。 まあ、こいつの彼氏になった人は毎日退屈はしなくていいかもな。 俺は絶対に御免だが。 「それで情さん、今日はどこに行くんですか?」 「その前に、お前学校はどうする気だ? 明日からまた始まるんだろ?」 「あ〜……大丈夫大丈夫です。ちょっとくらい休んだって、全然問題ないですよ。ほら、わたし頭がよくて勉強できるので!」 「……そういう嘘はいらない」 「ひどくないですかぁ!? ほんとに大丈夫なんですってばー!」 よく分からないが、そこまで大丈夫だと言い張るのならこっちが折れるべきか。 本人が大丈夫と言ったのだし、その結果成績が落ちたり色々と問題があっても俺のせいではない、うむ。 まあ、親にバレてしまえばそんな言い訳も通用しないと思うが。 知念の親は、どう思っているのだろうか。 「それじゃあ、さっそく行きましょう! こうしている間にも、悪人がどんな悪いことしてるか分からないですよっ」 「……あ、ああ、そうだな」 まあ、別にいいか。 それから支度をし、ホテルのチェックアウトを済ませる。 そしてホテルから出ると、隣で知念が少し上目遣いとなって言ってくる。 「……あの。ちょっと行きたいところがあるんですけど、いいですか?」 行きたいところ、か。 悪人というのはいつどこに出てくるか、誰にも分かりはしない。 そのため、俺も目的地などはなく、ただ闇雲に探しているだけ。 だから、知念が行きたいところがあるというなら、それに従うのもいいだろう。 ただ遊ぶだけというわけにもいかないが。 「いいけど、どこに行きたいんだ?」 「えーとですね……とりあえず、こっちですこっち!」 そう答えるが早いか、知念は俺の手を取り駆け出す。 何だか、妙に楽しそうだ。 まあ、いいか。 笑顔で駆ける知念の後ろで、俺は自然と口角が上がるのを感じていた。 手を、繋いだまま。 やがて、辿り着いたのは。 入り口の横にイルカとペンギンの銅像のある、少し大きな水族館だった。 「えへへー、一度は情さんと……じゃなくて。一度くらい来てみたかったんですよね〜」 「来たことないのか?」 「そうなんですよ〜。せっかくなので、誰かと来てみたくて」 「そうか……俺も初めてだ」 「あ、そうなんです? じゃあ、お互い初体験ですね! もー、何想像しちゃってるんですか、えっちー!」 「……お前のテンションが高くて、控えめに言ってうざい」 「う、うざっ!?」 こいつのテンションが高いのは、わりと最初からではあったが。 それにしても、水族館か。 日曜日ということもあって、人はけっこう多いように思う。 こういう人が多い施設では、滅多に犯罪とかは現れないような気もするが……念のため、注意深く辺りを観察しておこう。 そう決め、俺たちは水族館の中を進む。 「ペンギン! ペンギンのショー見たいです! ペンギン! ペンとギン!」 「……分かったから落ち着け」 露骨なまでにはしゃいでいる知念を見て、俺も思わず頬が綻ぶ。 考えてみれば、こうして誰かと一緒に遊ぶといった経験はほとんどなかった。 だから、今くらいは。 俺も、知念と一緒に楽しんでみるか。 「ひゃわぁ……ペンギン可愛いですうう……。飼いたいです」 「家のどこで飼う気だ」 「あとでペンギンのぬいぐるみ買ってください!」 「少しならいいけど、ちゃんと持ち歩けるのか?」 「うっ……か、鞄も買ってください」 「……安いやつならな」 ペンギンのショーを眺めながら、俺たちはそんなやり取りを交わす。 俺もそんなにお金を持っているわけでもないが、まあ少しくらいならいいだろう。 何だか、隣で楽しそうにしている知念を見ていると、不思議とそう思ってしまう。 ペンギンのショーを終え、俺たちは次々と様々な魚を見ていく。 イルカ、アシカ、トド、金魚、クラゲ、エイ、亀、ワニ、蛙、カニ……。 他にもたくさんの綺麗な魚たちが水槽の中で泳いでおり、その都度、知念は瞳を輝かせて感嘆の吐息を漏らしていた。 「やっぱり、お魚さんたちは癒やされますね〜。毎日でも通いたいです」 「そんなに好きなのか」 「もちろんですよ〜。食べるなら、やっぱりマグロか鮭……」 「いきなり食の考えはやめろ」 とはいえ、もう昼近いのも事実。 この水族館の近くにレストランがあるのは確認済みだし、そろそろ昼食にしよう。 そう思い、俺たちはすぐ近くの定食屋に入る。 店の人に導かれるまま席につき、メニューを眺める。 定食屋だが、海鮮料理に麺類など種類はかなり豊富だ。 デザートやドリンクも充実しているようで、知念もやはりどれにしようか悩んでいるらしい。 しばらく悩んだ結果、俺は海鮮丼、知念はアジフライ定食に決定。 注文し、僅か数分で料理が届いてきた。 「わぁ〜、すっごく美味しそうです〜」 知念は箸を両手に持ち、眼前にある料理を見て涎を垂らす。 今から食事だというのに、行儀が悪い。 「あ、そうだ。情さん情さん、わたしに能力を使ってもらってもいいですか?」 「え? 何でだ?」 「わたしも入れ替わってみたいんです。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけでいいですからぁ」 どうしたものか。 正直、断る理由も別に特にはないのだが、だからといってこの能力はそう何度も使いたくない。 他人と入れ替わるなんて、悪人を懲らしめるとき以外に使ったことはないのだ。 でも……。 「しょうがないな、ちょっとだけだぞ」 自分でもよく分からないが、気づいたときにはそう答えていた。 最初から思っていたけど、本当にこの女は何なんだ。 「わーい、ありがとうございますっ!」 笑顔でバンザイをして過剰なくらいに喜んでいる知念の肩に、そっと触れる。 そして、ボソッと一言。 「……チェンジ」 そう、呟いた。 瞬間、目の前にはこちらへ身を乗り出している俺の姿。 テーブルの手前には、知念が注文していたアジフライ定食。 「わぁっ、すごい……わたし情さんになってます!?」 俺の顔と声で叫びつつ、スマートフォンのカメラ機能で自分の顔を確認している。 どうでもいいが、俺の姿で『わたし』とか言わないでほしい。ちょっと気持ち悪い。 「これが、男の人の……情さんの身体なんですね……。にゃっ……い、意外と柔らかくて、ふにゃふにゃしてます……」 柔らかくて、ふにゃふにゃ……? 訝しみつつテーブルの下を覗き込むと、知念はテーブルの下でズボンの上から股間を触っていた。 「ちょっ、どこ触ってんだ!?」 「は、はふ……ちょっとだけ、大きく……? わ、わわっ、これどうすればっ!?」 「待て待て待て! 一旦、手を離せ! 落ち着けば治まる!」 「ひゃっ……しゅみませ……っ」 俺が慌てて叫ぶと、真っ赤な顔でようやく股間から手を離してくれた。 まさか、いきなりそんなところを触られてしまうとは。この女、意外と変態だった。 「そ、そんな目で見ないでくださいよぉ……男の人の身体なんて初めてなんですから、ちょっとした好奇心というか、仕方ないんですってば」 まあ、無理もない。 俺も初めて女性と入れ替わったときは、胸を揉んだり下を確認したりしてしまったし。 「そういう情さんだって、ドキドキしちゃってるんじゃないですかぁ〜? 今にでも、わたしの身体をまさぐりたくて仕方ないんじゃないですかぁ〜?」 「おっさんみたいなこと言うな。それに……」 答えながら、自身の身体――つまり知念の身体を見下ろす。 凹凸があまりなく、足元までしっかりと確認することができた。 「まさぐるも何も、揉めるところすらないが」 「ばっ、バカにしてます!? 今、この場でえっちなことして白いの撒き散らしてもいいんですからねっ!?」 「悪かったからそれはやめろ!」 そんなことをされたら、俺が捕まってしまう。 それに、仮にも飲食店なんだから、本当にやめてくれ。 まあ、そうは言った俺だが。 スカートのヒラヒラとか、黒タイツの感触とか、長い髪とか、女の子特有の匂いとか。 そういうものに、どうしてもドキドキしてしまっていた。 でも絶対に本人には言わない。 何はともあれ、俺たちは入れ替わったまま食事を開始する。 身体は入れ替わったが、食べるものは元々注文したものと交換。 つまり、俺が知念の身体で海鮮丼を食べる、というわけだ。 そうして食べ始め――やがて、突然妙に味が不味くなった感覚を覚えた。 他の、マグロやイカ、サーモンなどは問題ない。 だが、どうしてもいくらだけがすごい不味く感じる。 「……お前、いくら苦手なのか」 「えっ? あ、あははー、あのプチプチ感とかちょっと嫌なんですよね〜」 なるほど。入れ替わったまま食事をしたことが今までなかったから分からなかったが、味覚は身体のものとなるらしい。 身体の持ち主である知念が苦手なものだったから、こんなにも不味く感じたのか。 しかし、どれだけ不味くても絶対に残すことだけはしないと決めている。 顔を顰めながらも、ゆっくりといくらを米と一緒に口に放り込んでいく。 そして、対面の知念((身体は俺)のほうはというと。 アジフライ定食を、凄まじい勢いでガツガツと食べていた。 「んぐ、もぐ、はっ……すごいです、この身体。こんなに食べられるようになるとは思わなかったです……美味しいですっ!」 そんな知念とは対照的に、俺は腹が苦しくなってきていた。 味覚だけでなく、胃袋までもか。 「あれ? もう食べないんです? わたしが食べてもいいですか?」 そんな声がしたかと思うと、気づけばもう知念は完食している。 そして俺の海鮮丼はまだ少し残ったまま。 知念の身体が、こんなにも小食だったなんて。 俺は無言で、そっと海鮮丼を渡した。 するとさっきのアジフライ定食のときと同様に、また勢いよく食べ始めた。 「すごいです! いくらですら美味しく感じます!」 まあ、俺は苦手なものとか特にないからな。 量も味も、今まで食べられなかった分まで食べられるようになって、知念はすごく楽しそう。 俺はもうさっさと戻りたくてたまらないが。 何はともあれ、俺たちは一応ともに完食。 少しだけ休んでから、立ち上がってレジにて料金を支払う。 そうして扉を開け、店から出よう――と、したら。 ちょうど店に入るところだったのか、目の前に長身の男性が立っていた。 男は俺たちに気にも留めず、黙ってレジのところへ歩む。 だが、俺は彼の顔を見ただけで、身体が震えるのを感じていた。 知念の身体が、小刻みに生まれたての子鹿のように。 「情さん……? どうか、したんですか?」 怪訝そうに訊ねてくる、俺の身体に入ったままの知念。 でも答えることはできず、そのまま黙って店から出た。 ずっと探していた。 忘れた日なんて、一日たりともなかった。 だけど、そのトラウマが脳に刻み込まれ、顔を見ただけで、こんなにも恐怖が蘇ってしまうだなんて。 「情、さん……?」 「あ、ああ、悪い。どうした?」 「どうした? は、こっちのセリフです! もしかして、さっきの人……」 ここまで露骨な反応を示せば、さすがに感づいてしまうか。 俺は静かに頷き、先ほどの男についてを話す。 「奴は、草堂(そうどう)輝樹(てるき)。俺と同じクラスメイトで、そして――俺を、虐めていた集団の一人だ」 俺の顔を見ても何の反応もしなかったということは、向こうはもう俺のことなんて忘れているのかもしれない。 まあ、そういうものだろう。 いつだって、被害者ばかりがその記憶から逃れることはできず、加害者はあっさりと忘れてのうのうと平穏な日々を過ごしている。 俺は、それが許せなかった。 自分たちが、一人の人間の人生を歪めたくせに。 自分たちが、一人の人間に癒えない傷を与えたくせに。 「……悪い。とりあえず、元に戻るか。リターン」 俺がそう呟くと、目の前には知念の姿。 やっぱり、自分の身体が一番だ。 「やっと、見つけることができたんですね。だったら、当然――復讐、するんですよね?」 自分が元の身体に戻ったことを確認もせず、知念は上目遣いでそう言ってくる。 その問いの答えなど、考えるまでもなく決まっている。 俺は、そのために今まで行動してきていたのだから。 「当然だ。まずは、どう復讐すべきか考えないとな」 辺りを見回す。 当然だが、こんなところに大したものがあるわけもない。 それに、俺の能力はあくまで自分と相手を入れ替えるというもの。 今まで悪人にはそれだけで充分活用できたものの、今普通に暮らしているであろう彼らにはあまり使えないのかもしれない……なんてことを、少し思ってしまったが。 「情さん情さん、それならわたしに考えがあります」 ふと。知念がいきなりそんなことを言ってきたのである。 心なしかドヤ顔なのが少し腹立つが、まずは聞いてみることにする。 「何だ?」 「んーとですね、その……こんなこと聞くのはすごい申し訳ないというか心が痛いんですけど、情さんはあの人にどんなことされたんですか? 集団にではなく、あの人単体にです」 「草堂単体に、か……」 問われ、俺は何とか記憶を思い起こさせる。 正直、虐められていた過去などもう二度と思い出したくないのだが、仕方ない。 そうだな。 確か、あれは中学生の頃――。 § 草堂輝樹。 やんちゃな少年といった中学生で、勉強は苦手でテストの点数は低かったが、運動神経はとてもよかった。 人見知りしない性格ということもあり、同じクラスだけでなく他のクラス、そして違う学年の人ともよく話しているところを見かけていた。 最初は俺の虐めに加担はしていなかったものの、虐めの中心人物がやっているところを見て、徐々に加わってきたのである。 特に、俺が一番精神的に参ったのは忘れもしない。 あれだけは、何年経とうが忘れられやしない。 いつもの朝。 俺は一人で中学校に登校し、上靴に履き替えようと自分の靴箱を開けると――。 「ひ……っ!」 その中を見て、思わず自分の顔が青ざめるのが分かる。 無理もない。 自分の上靴を覆い隠すかのように、大量の真っ黒い虫が蠢いていたのだから。 何匹いるのかなんて、数えたくもない。 全身に鳥肌がたつ。 一匹くらいならば見たことはあるが、それでも、こんなに大量のゴキ――。 「ぷっ……あはははははっ! ひっ、だって。ほら、取れよ自分の靴。じゃないと教室行けないぞ〜?」 そんな声に振り向けば、草堂のやつが腹を抱えて笑っていた。 それだけで、こんなことをしたのが誰の仕業なのかはもう歴然だ。 「な、なんで、こんな……」 「え〜? だってお前の反応、面白いし。あははははっ」 俺の震え声に、そう笑いながら答えて。 草堂は、自分の教室へと去っていく。 涙が出て仕方がないが、それでも逃げたくはなかった。 辺りを見回し、ロッカーの中からホウキを取り出す。 そして、少し離れた位置からホウキを靴箱の中に突っ込み、蠢いているゴキブリを全て外に掻き出した。 それはそれで飛び回ったりして大変だったが、自分の靴に這い続けているのよりかはマシだった。 それに、ここに大量のゴキブリが飛び回っている状況なら、困るのは俺だけじゃない。 俺だけが、辛いわけじゃない。 そう言い聞かせて、手の甲で涙を拭いながら教室に向かう。 扉を開けて教室に入ると、俺を迎えるのはみんなの冷ややかな視線と、嘲るような笑い声。 でもそれは、いつも通りの光景だった。 「……っ」 拭ったはずの涙が、また零れ落ちる。 だけど仲間なんて一人もいないこのクラス、いやこの学校に於いて、誰かに助けを求めることすらできなかった。 自分の席へ、ゆっくりと歩く。 早く。一刻も早く、この地獄から逃れたかった。 しかし、現実はどこまでも残酷だった。 昼。 うちの中学では給食も学食もないため、各自が家から弁当を持参することになっている。 こんな敵だらけの教室で食べるなんてことできず、俺は一人で弁当を持って教室から出る。 そして、トイレへ駆け込む。 便器に座り、弁当箱を開ける。 母親が早起きして作ってくれたものだ。 心の中で感謝を告げつつ、静かに食べ始める。 この学校生活に於いて、一人になれるトイレの個室だけが、俺のオアシスと言っても過言ではないのだった。 俗に言う便所飯というやつだが、一時的とはいえ地獄から抜け出せているこの時間が、学校で一番幸せだったのだ。 ――なのに。 「おーおー。お前こんなとこで食べてんの? ぷっ、きったねーなー」 不意に、嘲笑とともにそんな声が聞こえ、上を見上げると。 個室の壁によじ登った草堂が、こちらを見下ろしていた。 また、お前か。 せっかくのオアシスを、せっかくの一人で楽になれる時間を、また脅かすつもりか。 そう思って睨みつけてみるも、返ってくるのは人を小馬鹿にした笑いのみ。 更に、草堂は飛び降り、俺のいる個室に入ってきた。 そこで気づいたが、何やら右手に袋のようなものを持っている。 「へー、あんまり美味しくなさそうな弁当だな」 「……っ、母さんが作った弁当をバカに……」 「ははっ、しょうがないからもっと美味しくなるように味付けしてやるよ」 そう言ったかと思うと、持っていた袋を開け、俺の弁当の上に――。 「ひ……っ!?」 思わず、弁当を床にぶちまけてしまう。 草堂が持っていた袋に入っていたのは、紛れもない大量の虫。 ダンゴムシやら蜘蛛やら蟻やらが、俺の弁当に降り注いだのだ。 「あっ、きったねー! せっかくお母さんが作ってくれた弁当なんだろ? それじゃあ、食べないといけないよなぁ〜?」 「……っ」 「あははははっ! ちゃんと綺麗に食べるか、そこ掃除しておけよ。お前がやったんだから」 それだけを言い、草堂はトイレから出て行く。 止めどなく、涙が溢れる。 一人になれるトイレなら大丈夫だと思っていたのに、その場所すら地獄に変わったこと。 いやそれ以上に、せっかく自分のために母親が作ってくれた弁当をだめにしてしまったこと。 怒りと悲しみと不甲斐なさと……色々なもので、しばらく涙は止まってくれなかった。 嗚咽を漏らしながら、トイレの床を掃除する。 何で、どうして、自分だけこんな目に遭わないといけないのか。 考えても考えても、答えなんて一向に出てこなかった。 彼、草堂輝樹は。 当然この日だけでなく、何度も何度も俺に虫などで虐め続けた――。 中学を卒業するまでの三年間、ずっと。 § 「そんな、ことが……最っ低ですね、その人」 俺の話を聞き終え、知念は怒りを隠そうともしなかった。 今まで自分の過去を話したことがなかったが、こうしてちゃんと聞いてくれて、そして自分のことのように怒ってくれたことが素直に嬉しい。 「……ああ。大人になったから少し顔立ちも変わっているが、どこか昔の面影が残っている。髪型もあまり変わっていないし、間違いない」 何より、俺を虐めていた奴らのことは、何年もずっと覚えている。 忘れたことなんて一度もない。 そんな俺が、奴らを見間違えるはずもない。 「それじゃあ、さっそく復讐しちゃいましょう! あの人にされたことを、そのままやり返す……つまり、同じ目に遭わせちゃうんです!」 なるほど、それが知念の考えとやらか。 草堂にされたことはたくさんあるが、基本的に虫を使ってのものが多かった。 「それで、情さん。その能力って、人間だけじゃなくて動物とか虫とかにもできるんですか?」 「そうだな。あまり試したことはないが、問題ない」 「よかったです! それなら、ふふふ……たっぷりと虫で虐め返してあげようじゃないですかぁ……ふふふふふ」 「……何でお前のほうが楽しそうなんだ」 とりあえず、俺は辺りを見回す。 すると、すぐに見つけた。ちょうどよさそうな虫が。 入れ替わり能力を使用するには、まずその対象に触れなくてはいけないため、人間以外に使うのは少し難しいが。 俺はそっと、知念と協力して虫を追い始めた。 「わぁ〜……今の情さん、どこからどう見ても蜂でしかないですよ……正直、気持ち悪いです」 仕方ないだろ、気持ち悪いって言うな。 と答えたいのに、蜂だから人間の言葉を喋れるわけもなく。 ちなみに、蜂が入っている俺の身体は、どこか遠くに逃げてしまわないよう、知念に見張らせることにした。 解除はいつでもできるのだが、昨日の夜みたいに戻ったときに俺の身体が遠くに行っていた場合は大変だし。 「それじゃあ、いってらっしゃいです。蜂なので大丈夫だとは思いますが、気をつけてください」 答えることができないため、頷きを返す。 そして高く飛び、窓から店の中に侵入する。 飛ぶ方法は、まるで手足を動かしているのと同じ。 店内を飛び回りながら探し、すぐに発見。 壁際の席で、一人でうどんらしきものを食べている。 さて、どうしたものか。 店の人には悪いが、これも復讐のため。 俺は、草堂に向かって飛び――うどんの中にダイブした。 が、熱すぎて一瞬で飛び出した。 まずいまずい。人間の状態でも触れたら火傷するくらいなのだ。 蜂の身体で入れば、当然ただでは済まない。 「な、何だ? 蜂か……? くそっ、あっち行け」 と。俺……というより蜂に気づいた草堂が、忌まわしげに舌打ちを鳴らしながら呟いた。 残念ながら、俺はお前に復讐を果たすまで行く気はない。 そうだ。 俺は、こいつに一匹の虫だけでやられたわけではない。 こいつへの復讐には、もっと必要だ。 俺は、再度うどんの中に入る。 そして間髪入れず、リターンと心の中で呟くことで、自分の身体に戻ることに成功。 すぐ、辺りを見回して虫を見つけ、入れ替わって再び草堂のもとへ。 その身体でうどんの中に入り、また自分の身体に戻る。 それを、ひたすら何度も何度も繰り返した。 やがて蝶と入れ替わり、草堂のもとへやって来ると、うどんの中は大量の虫でいっぱいになっていた。 それを見て、草堂は唖然としている。 「な、何なんだよ、これ……どうなってんだよ、おい!」 怒り狂った草堂が店の人を呼ぼうとしているが、まだそうはさせない。 蝶の身体で必死に丼を押し、テーブルの下に落とす。 すると、うどんの汁が草堂の服にかかり、大量の虫たちが草堂の膝の上、そして足元にポトポトと落ちる。 草堂の唖然とした顔が、青ざめていく。 次が、ラストだ。 俺は元の姿に戻り、再度、運よく見つけた蜂と入れ替わる。 そうして草堂の元にやって来ると、自分の膝の上に乗った虫たちを必死に手で払い落とし、怒りに身を任せ店員を呼んでいるところだった。 店の人には申し訳ない。 でも、これが最後。 俺は急いで草堂の身体に飛びつき、思いっきり二の腕に針で刺してやった。 「いっつ……くそッ! ふざけんな! こんな店、二度と来てやるかよ! チッ」 草堂はそうがなり立てたかと思うと、露骨に憤りながら店から出て行った。 これ以上は、さすがにもう無理そうだ。 俺の復讐一人目は、これで完了か。 俺は去っていく草堂をしばらく見送ったあと、能力を解除して自分の身体に戻った。 戻ったことをすぐ察した知念は柔らかく微笑み、優しく俺の頭を撫でた。 「……あ、頭を撫でるな」 「むふふー、まずは一人目の復讐達成おめでとうございますー。どうでした?」 「そうだな……復讐をすれば、俺のこの靄みたいな黒い感情を少しでも晴らせるかと思ってたんだが……。何故だろうな、ちっとも、スッキリなんてしないんだ」 「そう、ですか……」 ずっと、昔俺を虐めていた奴らを必死に探し続けていた。 ずっと、復讐を果たせるこのときを求め続けていた。 なのに。 いざ実際に再会をして、いざ実際に俺がされたことと同じような目に遭わせても。 どうしても胸が痛んで、何だか余計にモヤモヤが悪化するかのような感覚さえ覚えてしまう。 おかしいな。 俺はずっと、復讐をしたかったはず。 復讐だけを、この目に宿していたはずなのに。 「それじゃあ、どうします? 復讐。もっと続けますか? 続けるなら、わたしは一緒について行きますよ」 「……当たり前だ。そのために、俺は行動している。たったこれだけで、やめるわけがない」 「にひひっ、了解です情さん!」 そうだ。 今の俺には、もうそれしか残っていない。 この道から。ずっと歩き続けてきたこの入り組んだ道から逃れることは、もうできないのだ。 「それにしても、あんな短時間でよくあんなにも大量の虫を見つけることができたな……」 「そうですね〜。あの人と会えたこともですし、運がよかったですね!」 俺の疑問に知念はそう答えるが、本当にそれだけなのだろうか。 上手く説明はできないものの、どうしてか妙に引っかかってしょうがなかった。 まあ、そんな答えの出てこない思考に耽っていても意味はないか。 そんなことをしている暇があるなら、少しでも前に進まなくては。 「次はどこ行きますかー? わたしはもっともっと行きたいところあるんですけど、いいですか? いいんですね、ありがとうございます!」 「まだ何も言ってないが!? まあ、別にいい。今度はどこに行きたいんだ?」 特にこれといった目的地を定めているわけでもないから、行きたいところがあるというなら断る必要などないのだ。 そう思って、次の言葉を促す。 「えっとですね〜。映画に動物園、あとカラオケも行きたいですし、遊園地も一緒に行きたいです! それと、不動産屋……とか」 「やっぱりお前が遊びたいだけだろ」 そのラインナップで、何で最後だけ不動産屋なのかは分からないが。 高校を卒業したら、一人暮らしを始めたいからとかなのだろうか。 まあ、それは別にどうでもいいけど。 当然、今日一日で全て回れるわけがない。 夜にはまたホテルに泊まるか、もしくは家に戻る必要があるため、あまり遅くならないうちに終われるものがいいだろう。 先ほど知念が言った中だと……。 そうだな、あの二つなら大丈夫か。 「映画とカラオケにでも行くか、知念」 「えっ、ほんとにいいんですか!? 失礼かもしれないですけど、情さんって映画に感情移入とかできなさそうですし、カラオケなんて全く行きそうにないです……というか歌えるんですか?」 「……本当に失礼だな」 まあ、実際あまり行った経験はないが、それでもゼロではない。 どんなところに悪人が現れるのか分からないし、どんなところにでも行ってみるべきだろう。 カラオケは個室だが、だからこそ他の部屋で何かが行われていてもおかしくない気もするし。 「それじゃ、まずはカラオケでたーっぷりストレスを発散しちゃいましょう! いっぱい歌いますよーっ!」 「……はいはい」 過剰なまでに楽しそうな知念とは反して、俺は溜め息混じりに呟く。 思わず承諾してしまったが……人前で歌うのって、恥ずかしくないか? § カラオケの個室。 とりあえずフリータイムにし、一階のドリンクバーからそれぞれ飲み物を運んできてある。 「あっ、そうだ! 情さん情さん、また入れ替わっちゃってもいいですか!?」 何を歌おうかと検索していたら、不意に知念がここぞとばかりに言ってきた。 昼食のときも入れ替わったばかりだが、そんなによかったのだろうか。 正直、俺としてはそんなに入れ替わりたくはないのだが。 「入れ替わった状態でカラオケ、楽しそうじゃないですか? ね? ね? だめですか?」 「はぁ……しょうがないな」 知念なら、変に悪用したりはせず、ただ楽しむだけで留まるだろうし。 乗り気ではないものの、先ほど味覚や胃袋が身体のものになったということもあって、どうなるか単純に気になるのもまた事実。 俺は嘆息しつつも、知念の肩にそっと触れ。 小さく「チェンジ」と呟いた。 「おー、2回めの情さんの身体です! そ、それじゃあ、さっそく歌っちゃいますね!」 知念はしばらく俺の身体になった自分を見下ろし、テンションが高いまま曲を入れた。 それは、比較的低音な男性アーティストの曲。 若干音程がズレているところもあったが、それでも下手ではない。 というか、これは……知念の歌というより、俺の歌だ。 自分が歌っているところを、こんなにも近い距離で見ているのは……何というか、すごく恥ずかしい。 早く終わってくれ。 「ふー、いつもなら歌いにくい男の人の歌でも、情さんの身体なら安心して歌えますね! でもけっこう音程がズレちゃったんですけど……情さんの身体だからなんですかね?」 「……俺が音痴みたいな言い方やめろ」 あまり強く否定できないのが悲しいが。 とりあえず知念が歌い終わったところで、今度は俺が知念の身体で歌う番だ。 適当に曲を入れ、マイクを握る。 そして緊張を覚えながら、歌い始め――。 思わず、自分で歌いながらも、その歌声に驚愕してしまう。 自分の喉から発せられているとは思えないほどに、可愛く、それでいて綺麗な歌声。 いつも通り歌っているはずなのに、音程は全くズレず、ビブラートなども綺麗に出せる。 身体が違うだけで、こんなにも違うものなのか。 知念のやつ、まさかここまで歌が上手だったとは。 「知念、お前すごいな」 「そ、そ、そうですか……? なんかすごい恥ずかしいですね……えへへ」 照れながら笑う知念は可愛いはずなのだが、俺の身体でやられると気持ち悪いだけだから複雑な気分である。 ただ、この知念の身体で歌うのはすごく楽しくて、もっと歌っていたくなる。 「あっ、ちょっとすみません。トイレに行ってきますね」 そう言うが早いか、知念は俺の身体のまま部屋から出て行く。 俺の身体でトイレって……正気か、あいつ。 間違えて女子トイレのほうに行っていないかとか、ちゃんと男のトイレできるのか、とか色々不安なことは多いが。 何より、俺のアレを見られてしまうのはさすがにマズい気が……と、そこまで考えたところで。 「……ぁっ」 俺にも、強い尿意が襲ってきた。 解除するべきか。それとも、このままトイレへ急ぐべきか。 そんな思考もまともにできないくらい尿意が強くなり、股間を手で押さえながらもぞもぞとしてしまう。 だめだ、このままでは知念の身体で漏らすことになる。 それだけは避けなくてはいけない。 俺は急いで部屋から出て、トイレへ直行。 そしてトイレに入り――。 「あっ、すみませ!」 間違えて男子トイレに入ってしまい、慌てて女子トイレのほうへ入り直した。 くそう。知念のことを心配していたのに、俺のほうが間違えてどうする。 それにしても、さっき男子トイレに俺の身体の知念がいなかったような気がするのだが……個室のほうに入っていたのだろうか。 まあ、別にいいか。 俺は個室に入り、そっとスカートと下着を下ろす。 そこには、当然だが生えていない秘部が。 こ、これは、どうすればいいのだろうか。 このまま座れば、ちゃんと無事にできるのだろうか。 心臓がバクバクするのを感じつつ、そっと便器に腰を下ろす。 そして力を抜き、息を吐くのと同時に。 ちょろちょろ……と水音を伴い、小便が出た。 少し気持ちがよく、半ば無意識に息が漏れる。 今の俺は、少し顔が赤くなっているかもしれない。 ただの排泄行為じゃない。 女の身体というだけで、こんなにもすごいだなんて。 確かにこれは、悪くないかもしれない……なんてことを、少しだけ思ってしまった。 部屋に戻ると、既に俺……じゃなくて知念が座って待っていた。 何故か頬が赤く、それでいてどこかスッキリとした顔になっている気がする。 「あ、情さんもトイレに行ってたんですね。どうでした? わたしの身体でトイレ」 「えっ? ただの排泄行為に、どうもこうもないだろ」 「ほんとですかぁ〜? わたしみたいに、個室で何か変なこととかしちゃってたりしないんですかぁ〜?」 「そ、そんなことするわけ……ん?」 危うく聞き逃してしまうところだったが、今確かに知念が気になることを言っていた。 「お前、今なんて言った? わたしみたいに?」 「あっ! い、いや、えっと……さぁ! 時間がもったいないので歌いましょう!」 「おい誤魔化すな! ちゃんと吐け!」 「もう既に下から吐いたので! 許してください!」 「どういう意味だ!? おい!?」 結局、何をしたのかは頑なに教えてくれなかったが。 こいつ、もしかして……いや、だめだ。絶対に考えたくない。 思考を必死に掻き消し、とにかく二人で歌い続けた。 夜になり、カラオケのメニューで適当に夕食にし、それからもしばらくずっと。 カラオケで、こんなにも楽しいと感じたのは生まれて初めてだった。 § 「すごい長時間歌っちゃいましたねー、喉がちょっと痛いです……」 カラオケから出て、自身の喉を撫でながら知念が言った。 ちなみに今はもう入れ替わりを解除し、お互いの元々の身体に戻っている。 七時間以上は軽く歌い続けたことになるのか。 疲れたのは間違いないのだが、それでもたまにならいいかもしれない。 「この時間だと、今から映画は難しいかもな……」 「仕方ないですよ〜。まあ、明日以降もありますからね!」 分かってはいたが、やっぱり明日以降もついてくる気満々のようだ。 学校のことや親のことなど、本人は大丈夫と言っていたけど……本当にどうするつもりなのか。 最後までついてくるつもりというなら、俺もあまり時間をかけていられないな。 早く、早く見つけ出さなくては。 「それじゃあ今日は、ここに泊まりましょう!」 そう言って知念が指差した先には、昨日とは異なるホテル。 泊まる場所には特にこだわりなんてものはないため、ここでいいだろう。 そうしてチェックインを済まし、俺たちは部屋へ。 昨日よりも広く、更に綺麗な一室だった。 「わぁ〜、すっごいです! はふぅ〜」 知念は楽しそうに叫び、ベッドにダイブ。 俺もベッドに仰向けに倒れ込む。 「そういえば、情さんって、その……こういう活動をしてるんだし、お仕事とかってしてないですよね……? お金って、どうやって稼いでるんですか?」 と、横になったまま知念はそんなことを訊ねてくる。 まあ、疑問に思っても仕方がないか。 実際、俺は職に就いているわけでもないのに、こうやってホテルに泊まったり色々なところへ行ったりしているのだから。 「ああ……それは、ネットで色々とな」 「ネットで!? すごいですね! どんなことをしてるんですか?」 「ちょっとした小説を書いたり、曲を作ったり、動画を作ったり……まあ、その程度だ」 「その程度って、めちゃくちゃすごいじゃないですか! わたしにも何か作ってください〜」 「いいけど、金はとるぞ」 「うっ……お、お金はないので、えっと、身体で……」 「やめろ脱ごうとするなやめろ!」 本当に服を脱ぎ始めてしまったので、慌てて止める。 そうまでして何か作ってほしいのか……。 「身体での支払いは無効だ、作ってほしいなら金を用意してからだな」 「はーい、分かりましたよー。まあいいです、わたしは情さんと行動をともにできているだけで充分嬉しいですから!」 「そんなにいいことか?」 「もちろんですよー。いっぱい一緒に遊べてますし、いっぱい楽しいことしてますからね!」 そういえば、知念は遊んでばかりだから、楽しいと思っていてもおかしくはないか。 そういう俺も、知念と色んなところに行って色々と遊ぶのは楽しいと感じているところもあるし。 「明日はどこに行くんですか〜?」 「そうだな、今日行けなかった映画にでも行くか?」 「ほんとですかっ? やったー、いっぱい見たいのあるんですよー」 「いっぱいあっても、見れるのはひとつだけだぞ」 「ちぇー」 知念は唇を尖らせつつも、明日が心底楽しみなのか、俺でも分かるくらいにうずうずとしていた。 どうやら映画も好きみたいだ。 レンタルをして家で見ることはあっても、あまり映画館に行くことがなかったからな……俺も楽しむとするか。 それから、しばらくして。 俺たちは明日に備え、早めに就寝した。 § 翌日。 宣言通り、俺たちは少し離れた駅を訪れ、映画館にやって来ていた。 予想以上に人で賑わっている。 もう少し人は少ないと思っていたが、読みが甘かったようだ。 とりあえず知念が見たい見たいと叫んでうるさかったので、その映画の券を購入。 上映までまだ少し時間があるため、ひとまず売店へ向かった。 パンフレット、キーホルダー、ボールペンにシャーペン、服、コップ、下敷き、定規……などなど。 様々な映画にちなんだグッズが並び、知念は瞳を輝かせながら物色している。 偏見だとは思うけど、女子はこういう買い物とか好きなイメージあるしな。 きっと、こうやって見ているだけでも楽しいんだろう。 「お前はここで待ってろ」 「えっ? どこか行くんですか?」 「ただのトイレだ」 「あー、なるほど。買ってほしいものを選んで待ってますね!」 「……三つまでな」 そう半眼で返し、映画館の隅にあるトイレへ向かう。 歩きながら警戒して辺りを見回すが、当然こんな人が多く分かりやすいところに悪人がいるわけもなく、平和そのものだった。 もちろんいいことなのだが、あれから俺の目的に進展がないことに多少なりとも苛立ちを覚えてしまう。 まあ、心の中でよからぬことを企んでいる者ならもしかしたらいるかもしれないけど、実行しているところを目撃でもしない限り分からないし、そんなことまで疑っていたらキリがない。 ともあれ男子トイレに入り、用を済ます。 そして出て、知念が待っている売店へ戻ろうとした――瞬間。 「――久しぶりだな、御黒情」 不意に、背後から低くよく通る美声が聞こえてきた。 どうせ別の人に話しかけているのだろうと、特に気にせず無視するつもりだった。 でも、できなかった。 当然だ。 そんなにもはっきりと、自分の名を呼ばれてしまっては。 「……誰だ?」 おずおずと背後を振り向きながら、問う。 すぐ近距離にいた、ガタイがよく長身の男性は目深にフードを被っており、その顔がよく見えない。 「俺を忘れたか? 忘れ、られるのか?」 そう言ってフードを外した男の端正な顔を見た途端、自然と顔が青ざめていくのが自分でも分かった。 間違いない。 忘れるものか。 他の奴らのことなんかよりも、この男だけは絶対に。 「赤、霧……ッ」 俺が睨みつけながら名を漏らすと、男はニッと不敵に口角を上げた。 これは驚いた。 まさか、相手のほうから俺に近づいてくるだなんて。 男の名は――赤霧(あかぎり)俊汰郎(しゅんたろう)。 勉強ができて運動神経は抜群、それでいて顔立ちも整っており声もいいことから、学校ではかなりモテていた。 小中高と、ずっと同じ学校に通っていたわけだが……今なら、それはこいつが意図していたのだと分かる。 赤霧の場合は、自分で手は汚さない。 誰かに様々な材料を用いて命令し、誰かを操り人形にして――俺を遠隔で虐め続けてきた男なんだ。 俺が自殺するために身を投げ出したあの日まで、ずっと。 つまり。 俺に対する虐めの、黒幕とも言える存在なのだった。 「最近どうだ? お前にも彼女とかできたか?」 「……」 「お前はずっとひとりぼっちで寂しそうだったもんなー。可哀想でしょうがなかった。お前だって顔はいいんだから、ちょっと積極的になれば女くらい――」 「――黙れッ!」 俺は思わず、ここが映画館であることも、周りに人がいることも忘れて、感情のままに叫んでしまった。 復讐の対象が、平気で暢気にそんなことを宣っているのを、もう聞いていられなかったのだ。 「どの口が言ってる……? この俺から、まともで普通の人生を奪ったくせに!」 「一人で寂しそうだったから、あいつらを使って退屈じゃないようにさせてやっただけだ。おかげで、退屈ではなかっただろ?」 「ふざけるな! 一人の人間の人生を歪めて、性格も歪めて、そのくせに自分はのうのうと何事もなく生きている……。いい加減にしろ。ただで済むと思うなッ!」 「ははっ、せっかくの再会だってのに怖いなぁ〜」 俺の叫びにも動じず、赤霧はただそうやって笑うだけ。 それが何よりも、腹が立った。 「赤霧……今更俺に近づいて、何の用だ」 「用なんて何もない。ただ、御黒っぽい姿を見かけたから声をかけただけ。昔、色々あった縁だしな……はは」 いちいち腹が立つ。 その声も、その顔も、喋り方も、笑い方も、一挙手一投足その全てが。 昔俺を虐めた奴ら、その中でも特に赤霧には絶対復讐してやる。 そう意気込んで、ようやくこのときが来たはずなのに。 俺の身体は、口以外まともに動いてくれなかった。 いや、そもそも。 俺の復讐の手段は、あくまで入れ替わり能力のみ。 この状況で、復讐する肝心の方法が特に思い浮かんでくれなかった。 昔と変わっていないのなら、おそらく力でも敵わない。 腹が立つ。 何年経とうと、入れ替わり能力を手にしようと、結局自分自身は無能なままじゃないか。 「じゃあな、御黒。妻が待ってるからさ」 そう言って、赤霧は不快な笑みを浮かべながら去っていく。 妻。 そうか……結婚、したのか。 追いかけることも、呼び止めることもできず。 俺は強く拳を握りしめ、その場で俯くことしかできなかった。 「情さん――あの人が、黒幕ですか?」 ふと。そんな声に背後を振り向けば、いつの間にそこにいたのか知念がこちらをじっと見つめてきていた。 今の話、どうやら聞かれてしまっていたらしい。 「……ああ、そのようなものだ」 「だったら、また復讐するんですよね? 思いっきり、気が済むまでやっちゃいましょう!」 「……」 奥歯を強く噛みしめる。 前回の草堂とは違って、今回は明確に復讐方法があるわけじゃない。 俺がされたことをそのままやり返すといった復讐をすることに決めたはいいものの、俺は赤霧自身には特に何もされていない。 あいつは、他の人を操っていただけなのだから。 「……また、聞かせてください。あの人からされたこと」 「今回は、大して参考にならないかもしれないぞ」 「それでもです。少しでもあの人の話を聞けば、何か思いつくかもしれないですし」 「そう、か」 草堂のときも、知念に話したことで草堂への復讐を果たせたようなものだ。 だから、俺は静かに話し出す。 黒幕が赤霧俊汰郎だったのだと知った、あの日のことを。 § 中学二年の秋、放課後。 俺は教師に呼び出され、職員室を訪れていた。 「最近、よく体調を崩しているようだが……大丈夫か? 何かあったら、先生に相談するんだぞ」 「はい……大丈夫です」 担任の教師は優しく心配してくれたが、それでも俺は虐められているだなんて話すことができなかった。 教師にも、家族にも、誰にも。 心配させたくない、迷惑をかけたくないっていう気持ちも当然あったし。 何より、誰かを頼った経験があまりにも乏しく、その方法が分からなかったのである。 職員室から出て、教室に向かう。 俺は特に部活をしていなかったから、あとはもう帰るだけ。 ようやく家に帰れる……そう胸を撫で下ろしながら、教室の扉を開けようとしたとき。 不意に、聞こえてきた。 クラスメイト数人の、不快感しかない声が。 「俊くん、今日は部活は〜?」 「あー、今日は大丈夫大丈夫。一日くらい休んだって、急に下手になったりしないし」 「そっか! じゃあ一緒に帰ろ〜?」 「おー、いいぞー。あ、でも、ちょっと待っててくれ」 その声は、顔を見なくても分かる。 クラスの人気者で運動神経も成績も抜群のイケメン男子、赤霧俊汰郎。確か、部活はバスケ部だったはず。 もう一人の女子は……あまり名前を思い出せなかったが、赤霧に惚れているというのは傍目からでも分かった。 あの女子も俺を虐めてきたり、露骨に嫌がらせをしてくることが多かった。 「おい、輝樹。どうだった?」 「んー? あー、もちろん今日もいっぱいしてやったぜ」 更に、もう一人男の声。 赤霧が呼んだ名からしても、草堂輝樹であることは疑いようもない。 「トイレの個室にいっぱい虫を入れたり、靴箱に虫を入れたり、鞄の中に虫を入れたり、机の中に虫を入れたり……お前の言った通り、あいつすげえビビってやんの」 「ははっ、だろー?」 お前の言った通り。 そう。それは、草堂がしてきた虫関連のいじめも全て、赤霧が指示していたことを意味する。 「虫は可愛いのになぁ……」 「そう思うのはお前だけだって。ま、おかげであいつの怯える顔が見れてるのはいいけどな」 「俊くん、私もあいつのもの隠したりしたよ」 「おー、そっかそっか。ありがとな」 無意識に奥歯を強く噛みしめ、拳を強く握りしめる。 何だよ、それ。 今までのいじめは、赤霧のせいだったということなのか。 そう察するのと同時に、別の疑問も浮かび上がってきた。 全部、赤霧が指示した結果なのだとしたら。 あいつらは、どうしてそこまで従っているのだろうか、と。 いくら人気者でも。 こんな人道に反した行い、みんながみんな従うとは思えない。 だが、そんな疑問は。 次に女子から発せられた一言で、一気に解消された。 「でも、本当にこれでデートしてくれるの?」 「おー、もちろん。頑張れば頑張った分だけ、一緒に色々しようぜ」 「やったあ! 明日からも、俊くんのために頑張るね!」 全身から、力が抜けていく。 デート。 そんなもののために、あの女は俺の人生を歪めようとしていたのだ。 そして――。 「で、俊汰郎。虫を集めるのも大変だったし、アレも本当にしてくれるんだよな?」 「当たり前だろ。お前もありがとな、輝樹。みんなのおかげで、毎日退屈しなくて済む」 「よっしゃ! ようやく彼女ができるのかぁ〜……へへへっ、あいつをいじめんのも楽しいし、こっちこそありがとだ」 どいつもこいつも、腐ったやつばかり。 いじめというのは、一人の人間の人生を、そして性格を歪め、永遠に癒えない傷を与える行為だ。 人気者からとはいえ指示されてそういうことをするからには、何かそれなりにちゃんと理由があるのかもと少なからず思っていた。 だけど、そんなことはない。 一人の人間とは言っても、あいつらにとっては俺なんか他人でしかない。 そいつの人生が歪もうと、あいつらにとってはどうでもいいことなのだ。 今、自分たちが楽しければ、それで。 ……ああ、もういい。 あんな悪人どもなんて、いなくなっちまえばいいんだ。 § 「……なるほど。他の人を操り人形に、ですか」 俺の話を聞き終えると、知念は神妙な面持ちで呟いた。 赤霧自身からは特に何かをされたわけではないものの、あいつがいなければきっと俺はもう少しまともな学校生活を送れていたはず。 クラスメイトのほぼ全員、そして別の学年のやつまで。 何十人もの人たちが、何年間もずっと俺を迫害し続けていたのは――他でもない、赤霧が他のやつらを裏で操っていたから。 元々、草堂たちをはじめとする周りにはそういう腐った思想のやつらしかいなかったというのを抜きにしても。 赤霧が指示したことで、俺への虐めが始まり、そして徐々に徐々に悪化していったことに変わりはない。 「……分かりました。だったら、あの人にも同じように復讐しちゃいましょうよ。あの人にされたことを、そのままやり返してやるんです」 「やり返すと言っても、あいつ自身からは特に何も……」 「何言ってるんですか。他の人を操って、情さんを虐めさせたんですよね? だったら、やることはひとつですよ」 そこまで言って、知念は微笑む。 そして、自分の平坦な胸をぽんと叩き、その言葉を言い放つ。 「――わたしを、操ってください」 § 「どうですか? いましたか?」 耳に当てたスマートフォンから、聞き慣れた男の声が聞こえる。 俺はその言葉に耳を傾けつつ、壁の陰に隠れたまま前方を確認。 いた。 赤霧俊汰郎と見知らぬ女性の二人が、テーブルを挟んで座っている。 あの女が、赤霧の妻か。 あの憎い男にはもったいないくらいの、美人で穏やかそうな女性だ。 「……ああ。妻と思われる女と一緒にいる」 知念の声で、俺は静かにそう答えた。 現在、俺――御黒情と、知念白璃は入れ替わり中。 そして電話番号を交換し、男子トイレの中にいる、俺の身体の知念とこうして話しているというわけだ。 俺が知念と入れ替わっているのは、もちろん復讐のため。 こうして、知念の身体を操っているのだ。 「でも、本当にいいのか? この身体で復讐なんてしてしまうと、お前が……」 「大丈夫ですよ。情さんと違って、わたしはあの人と接点なんてないんですから。たぶん、これからも会うことなんてきっとないはずです。存分に操って、たっぷりとやっちゃってください。あ、でもわたしの身体でえっちなことするのはほどほどにしてくださいよっ!」 「分かってる……というか、ほどほどならいいのか……? そんなことしないし、むしろ俺の声でわたしとか言うのをやめてほしい」 「それは無理ですよーん。わたしは白璃ちゃんなんですからぁ〜」 「やめろ気持ち悪いな!」 と、まあ、そんな風に知念のおふざけに付き合っている暇もない。 目の前でするのは、あの女性に申し訳ないし、何より騙すようなことをしてしまうことに心が痛むが……。 あの女性に、心の中で謝罪をしてから。 俺は、ゆっくりと赤霧に向かって歩を進めた。 そして。 昔、赤霧に惚れていた憎い女のことを思い出しながら――その腕に、勢いよく抱きついた。 「あっ! 俊くん、こんなところにいたの〜? 急にいなくなっちゃうから、どうしたのかと思ったよ〜」 精一杯の高い声を作って、そんなことを言いながら。 途端、赤霧と妻の女性が驚愕に表情を歪める。 「な……っ!? 何だ、お前?」 「俊汰郎くん……誰、その子?」 「し、知らない! 俺だって聞きたいくらいだ!」 案の定、二人は驚いて言い合っている。 悪いな、奥さん。まだまだ、ここから畳みかけさせてもらう。 「あ、この人が俊くんの奥さんなの〜? わたしとデート中だったのに、奥さんとも会ってたなんて」 「はぁ……? デート……?」 「昨日も一緒にラブホテル行ったばかりなのに、今日もこのあと一緒に……へへ、しちゃうんでしょ〜? わたしほんっとに楽しみでぇ、もう想像だけで濡れてきちゃいそうなんだもぉん」 「お、おい、待て……」 「最近、奥さんとはあんまり夜に盛り上がれなくなってきたって言ってたもんね〜? やっぱり、若い身体のほうがいいのかなぁ……今日も、たっぷり気持ちよくさせてあげちゃうね〜? へへへへっ」 「だ、だから、何を言って……」 「大丈夫大丈夫、わたしはただの愛人でいいから……このあともいっぱいイチャイチャしようね! あ、明日もデート、いいかなぁ?」 反論の余地も与えず、俺は次々と演技で言葉を積み重ねていく。 だが、そこで言葉を中断せざるを得なかった。 赤霧の正面に座っていた妻の女性が、いきなり勢いよく机を叩き、バンッと大きな音が辺りに響き渡ったから。 驚いてそっちに視線を移すと、まるで鬼のような形相で睨みつけてきていた。 俺を、じゃない。 正面の、赤霧を。 「……それ、どういうことだてめェ」 先ほどからは想像もつかないほどに低く、ドスのきいた声。 口調も明らかに変わり、ブチ切れているのが痛いくらいに分かる。 というか、怖すぎる。 「ち、違う! この女が勝手にわけの分かんないことを――」 「はぁッ? 見知らぬ若い女の子が、そんな嘘つく必要どこにあるってんだァ? あたしに隠れて、そんなことしてたのかお前」 「だから違うって! 俺は何も――」 「黙れチンカス野郎。お前がそんな浮気者のクズ野郎だとは思わなかった。覚悟してんだろうなァ? ああ?」 「いや、だから――」 赤霧も顔を青ざめ、上手く言葉を紡げずにいるようだ。 無理もない。いきなり知らない女の子が身に覚えのない発言をし、そのせいで妻をブチ切れさせているのだから。 でも、このままだと俺も巻き込まれそうで怖すぎる。 そっと赤霧の腕から離れ、ゆっくりと後退る。 「そ、それじゃ、またね、俊くん!」 最後にそれだけを告げ、俺は急いで立ち去る。 それから間もなく、赤霧の悲鳴が遠くから聞こえてきたような気がした。 「情さん……わたしの身体ってこと、覚えてます?」 ふと、知念が待っているトイレに向かっている途中で。 電話を再開させると、開口一番に俺の声でそう言ってきた。 顔は見えないが、ジト目になっているのが想像できる。 ちなみに、俺が赤霧への復讐を行っている最中はスマートフォンをポケットに入れ、ずっと電話は繋げたままだった。 つまり、俺が知念の身体と声で、あんな演技をしていたこともバレバレなのである。 「あ、いや……復讐だから、な? 徹底的に、な? ほら、お前もえっちなことはほどほどにならいいって、な?」 「な? じゃないですっ! それはもうほどほどとかそういう問題じゃないです! これじゃわたし、ただのビッチみたいじゃないですかぁ!」 「……すまん」 「いや、そんな素直に謝られても……ああもう、いいですいいです。身体を貸したわたしにも責任があるんですし……とにかく、トイレの前で待ってますからね?」 そうして、通話は切れた。 最初は、ほんとによく分からない女に絡まれたと思ったものだが。 なんやかんやで、知念には色々と助けられてしまったな。 でも、そのおかげで。 俺もようやく――復讐は完了した、と言っていいだろう。 自然と、口角が上がった。 § 「おかえりなさい、情さん。そして、復讐完了おめでとうございます!」 トイレ付近に着くと、待っていた知念が俺の身体と声で言ってきた。 ずっと一人でやるつもりだったのに、きっと一人きりでは達成できなかっただろうなと今なら思う。 だから――。 「ああ、ありがとう。お前のおかげだ」 俺は素直に、知念の身体と声で、そう言った。 すると、知念は顔を赤らめ、照れたように目を逸らす。 俺の顔で、そんな乙女みたいなことしないでほしい。 やっぱり、ちょっと気持ち悪い。 「それじゃあ、復讐が終わったことですし。身体、元に戻りましょう」 「ああ、そうだな――リターン」 いつものように、そう呟き――。 「……あ、あれ?」 俺は、思わず自身の身体を見下ろしながら半ば無意識にそんな一言を漏らす。 自身の身体は、スカートにタイツ、そして長い髪。 紛れもない、知念の身体のままだ。 いつもなら、「リターン」と呟けば、その時点ですぐに元の身体に戻れていたのに。 どういうことだ。 どうして急に、元に戻ることができなくなったんだ……? 「どうしたんですか? 情さん」 訝しみ、知念は俺の身体で首を傾げる。 再度、「リターン」と呟いてみるも、結果は変わらない。 やっぱり、身体は元に戻れなかった。 「分からないが……何故か、元に戻れない」 「えっ!?」 仕方なく説明すると、知念は露骨に喫驚。 無理もない。 元に戻れないとなると、俺はこれから知念として、知念は俺として過ごさなくてはいけなくなってしまう。 そんなの、嫌に決まっているだろう。 だから、どうにかして元に戻らなくてはならない。 なのに、いつも通用していた能力が、急に使えなくなるなんて。 「……すまない。巻き込んでしまったばっかりに、こんなことになってしまった」 「い、いや、それはわたしのほうから頼んだことなので……。というか、本当に戻れなくなっちゃったんですか?」 「……ああ」 重々しく頷く。 知念と入れ替わったこと自体は、既に二回ほどある。 そのときは、何の問題もなく元に戻ることができていた。 今、急に戻れなくなった理由。 以前と違うのは……場所。いや、それ以外に何か――。 そこまで考えて、俺はとあるひとつの思考に辿り着いた。 合っている保証など、どこにもない。 むしろ間違っている可能性のほうが高い。 でも、他に理由が何も思い浮かばない以上、そうとしか思えなかった。 以前と異なっているのは、場所だけではない。 そう――状況だ。 思い返してみれば、俺がこんな入れ替わり能力を手に入れたこと自体がおかしい。 能力を手に入れたきっかけは――言わずもがな、飛び降り自殺をした瞬間。 死んだと思っていたら、実は生きていて。 そして、この能力を使えるようになっていたのだ。 そもそもの話だ。 俺は高いところから飛び降りて、どうして死なずに生きている? それは、当たり所とか偶然という可能性も当然なくはないだろう。 だけど、起きたとき傷ひとつなかった。 そして代わりに――この入れ替わり能力。 「……そういう、ことか」 無意識に、呟いてしまう。 目の前の俺の顔が、怪訝そうにしていた。 だから説明する。俺の考察を。 単刀直入に、結論だけを言ってしまえば。 この入れ替わり能力とは――俺の中に深く宿った闇、言わば憎悪の怨念とも呼べるものが、能力という形で顕現した。 そう。説明するまでもないことだが、俺の中の闇とは無論、昔の虐めなどだ。 だから、俺はずっと復讐を目的としていたわけだが……。 つまり、だ。 復讐を達成した今、その復讐という闇を失った今。 この能力は形を失い――使えなくなってしまったのではないだろうか。 今まで入れ替わりなどという現実離れした能力を使えていたのは、俺の中に深く濃い怨念が巣くっていたから。 その根城とも言える復讐の怨念が消えてしまえば、もう入れ替わり能力が住まう場所がなくなったということを意味するのだ。 そう。 俺の入れ替わり能力は――たった今、死んだ。 俺と知念の身体が、入れ替わったままで。 「……そう、なんですか」 俺の話を聞き終え、知念は神妙な面持ちでそれだけを返した。 俺だけならばまだしも、知念を巻き込んでしまったのだ。 何度、謝っても謝り足りない。 「大丈夫ですよ、わたしのことなら。そんなに気にしないでください。ほら、情さんが悪いわけでもないんですし、無理言ってついてきたわたしにも責任はあるんですから! だから大丈夫大丈夫です!」 「……すまない、ありがとう」 凹む俺に、知念は俺の身体のまま明るく励ましてくれた。 もっと怒られたり、咎められたりしてもおかしくないし、何なら今度は俺が知念の復讐相手になってもおかしくないだろうに。 だけど、そう言ってくれたことが素直に嬉しかった。 「ところで、ちょっと気になってたことがあるんです。情さんって――本当に復讐だけが目的だったんですか?」 「……どういう、意味だ?」 「そりゃもちろん、復讐を目的としていたのは本当だってさすがに分かってるんですけど。その、なんというか……それだけではなかったような、他にも何か大事な目的がありそうっていうか」 他にも大事な目的、か。 俺はずっと、復讐だけを目的に、昔のやつらを探し続けてきた――つもり、だった。 でも、本当は――。 「ずっと一緒にいて、情さんの話を聞いて、ようやく分かった気がします。復讐はあくまで二の次、本当は――自分のことを誰かに見てもらいたかったんじゃないですか?」 「……っ!」 思わず、息を呑む。 自分のことを、誰かに……。 そうだ。 俺は物心ついた頃から十年以上もずっと虐められ、恋人や好きな人どころか、友達一人すらできなかった。 俺が高校生くらいの頃に、両親は他界したし。 俺は、孤独だった。 相談なんて誰にもできず、俺のことを分かってくれる人もおらず。 ただ、我慢するだけ。 ただ、邪魔者か玩具、サンドバッグのような扱い。 苦しかった。 生きにくかった。 俺だって、ちゃんと生きているのにって。 俺のことを。御黒情のことを、もっと誰かに見てほしかった――。 「大丈夫ですよ、情さん。わたしは、ちゃんとあなたのことを見てます。あなたがどういう人で、どんな日々を過ごして、そしてどういうことを思っているのかちゃんと分かってます。だから、もう大丈夫なんですよ。わたしじゃ微妙かもしれないですけど、ちゃんとここに一人いますから。ね?」 そう言って、知念は俺の顔で微笑んだ。 何だよ、それ。 俺の顔で言われても、全く響かないっての。 何だよ、それ。 もっと早く、お前と出会いたかったって、思ってしまっただろ。 「わっ、ちょっと! 泣かないでっ、泣かないでくださいよっ!?」 「……泣いて、ない……」 「い、いや、そんなくしゃくしゃの顔で言われても!? というか、それわたしの顔! ああもう、泣き止んでくださいってばー!」 止めどなく涙を溢れさせながら、その涙を手の甲で拭う知念――中身は俺と。 その眼前で、どうすればいいのか分からず慌てふためいている俺――中身は知念。 女の身体だからだ。 この俺が、こんなにも涙を流しているのは。 知念の身体だから、涙もろくなっているのだ。 絶対に、そうに決まっている。 「全くもー、しょうがないですね。んーと、自分の身体にするのはちょっと変な気分ですけど……えいっ」 そんなことを一人でぶつぶつ言ったかと思うと、いきなり俺を抱きしめてきた。 強く、それでいて優しく。 「ほら、わたしが一緒にいますから。もう、情さんは一人じゃないんです。よしよーし」 「……子供扱い、するな……」 「そういうことは、まず泣き止んでから言ってくださいね〜?」 それからしばらく、俺たちは抱き合っていた。 人のぬくもりというものをしばらく忘れていたが、優しくて、温かくて、すごく心地よかった。 § ――ずっと見てた。 今に始まったことじゃない。 昔から、ずっと、ずっと。 始まりは、小学一年生のとき。 出会ったきっかけは、同じクラスになったこと。 好きになった理由は、こんな地味で目立たないわたしにも優しくしてくれたから。 それから、ずっと目で追い続けて、どこに行くにもずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと見続けた。 そうして、彼が他の人たちに虐められていることを知った。 でも、わたしには何もできなかった。 弱くて、地味で、ドジで、友達すらいなかったわたしには。 ただ、見てることしかできなかった。 だから、ひたすらに。 彼を苦しめる悪い人たちを呪い続けた。 心の中で、怨嗟を蓄積させた。 それと同時に、彼の力になってあげたい。彼を助けてあげたいと思うようになり――。 わたしは、彼だけでなく、虐めていた人たち全員のことを調べ尽くした。 全員、一人たりとも余すことなく。 今、誰とどこで何をしているのか。 復讐できる日を今か今かと待ち望み、一日たりとも監視をやめることはなかった。 そう。虐めていた人全員、そして彼――御黒情への監視を。 でも、そんなある日。 彼が自殺したことを知った。 もちろん、監視していたからわりとすぐに知ることができた。 わたしの人生は、これで終わったと思った。 当然だ。 彼と出会ってから、わたしは彼のために尽くそうと思っていたのだから。 そんな彼がいなくなって、わたしは何を生き甲斐にすればいいのか。 そうだ、復讐だ。 彼が自殺をしたのは、全て虐めていたやつらのせい。 彼の分まで、わたしが復讐をすればいい。 彼の分まで、わたしが呪い続ければいい。 そう。彼の分まで、ずっとずっとずっと。 小学生の頃から高校生くらいまでは、彼と虐めていた人全員を監視していたわけだが。 彼がいなくなってからは、ずっと過去に彼を虐めていた人たちだけを監視し、呪いを蓄積させ続けた。 それは、何年も、何年も、一日たりとも忘れることなく続いた。 だけど――そんなわたしにも、運が舞い込んだ。 見紛うはずがない。 昔と比べて背が高くなっていたり顔立ちも大人っぽくより整っていたりはしたものの。 その姿は――他でもない、御黒情だった。 だから、わたしはここぞとばかりに。 明るく演じながら、彼に接近した。 昔とあまりにも違っていたから、彼もわたしとは気づかなかったのだろう。 名前も、偽名を使ったことだし。 わたしが監視し続けていた経験は、ここで生かされる。 まずは手始めに、草堂輝樹。 そして彼が最も憎む、赤霧俊汰郎。 二人がいる場所も特定済みだからこそ、わたしは――彼をそこへ導いた。 全ては、彼の力になるために。 全ては、彼を救うために。 全ては、彼と繋がるために。 全ては――彼の全てを、手に入れるために。 彼の、復讐という目的は達成した。 そしてわたしの目的は――今ここで。 「よしよーし。大丈夫ですよ、情さん」 彼を抱きしめながら、そして頭を撫でながら、わたしは優しく言う。 彼の心が、わたしに向くように。 いや、わたしだけに依存してしまうように。 「これから二人で頑張っていきましょうね、情さん。いや――」 そこで一拍あけ、できるだけ優しくを心がけつつ続きの言葉を紡ぐ。 「――白璃ちゃん」 そう言って、わたしはニヤっと嗤った。 彼に、気づかれないように。 こうして、わたしは――御黒情になった。 (終) |