お題「指」「桃」「香り」 傷痕 作:トゥルー 腕の傷が疼く―― あの女が最後に抵抗した時に、爪で引っかかれた部分だ。 もう1週間近く経つと言うのに、傷は中々消えてくれない。 いまだに腕に赤い傷跡が、はっきりと浮かび上がっている。 「あら、あなたどうしたの?」 寝室で腕を押さえ、座りこんでいた俺に不信感を抱いたのか、妻が声をかけてきた。 「いや……なんでもないよ」 顔を背け、俺は答える。 ――駄目だ。 妻の顔を、正面から見ることが出来ない。 当然か。 外に女を作り、半年。 その関係を終わらせようと別れ話を持ちかけた時、それを拒んだ女に腹を立た俺は、気付けば奴の首を締めていた。 我に返った時――目に飛び込んできたのは、すでに事切れた女の姿だったんだ。 あの感触……まだこの手に、はっきりと覚えている。 しかし俺達の関係を知る人間はいなかったし、殺した現場も見られてはいない。 死体は車で運んで、遠くの山に埋めた。 この事実が、世間に露呈する心配はない。 ――ない筈だ。 ああ、それにしても傷が疼く。 心なしか、痛みのある部分が広がっているような…… どんどん疼きが強くなっている気がする…… 3日後―― 「おはよう」 朝。 身支度を整えてリビングに入ってきた俺を、妻が笑顔で出迎えてくれた。 「ねえ、あなた……最近、ちょっと痩せてきたんじゃない?」 と、俺の顔を覗き込んだ妻の表情が、心配そうに曇る。 「そうか?いや……大丈夫だよ」 そう言いつつ、俺は洗面所に向かった。 鏡の前で、自分の顔をじっと観察する。 ……確かに。 随分と、頬がこけた気がする。 学生の頃から男らしい体格と言われてきたものだが、まるで線の細い優男のようだ。 本当に、これが俺なのか……? 5日後―― 「はあ……はあ……」 傷の疼きが治まらない。 すでに痛みは、腕全体に広がっていた。 あれから、体重もどんどん減ってきている。 筋肉が落ちた腕は、女に間違われてもおかしくないくらいだ。 女……? もう一度、腕を見る。 この<ゆび>…… この手…… 見覚えがある…… まさか…… いや、そんなはずは……? 1週間後―― 「うう……!ぐううう……っ!」 夜。 俺は、悪夢にうなされていた。 夢の中では死んだはずのあの女が、地面から這い出てきていたのだ。 首を締めて殺した時の表情のまま、女は俺に近付いてきた。 「はあっ!?」 そのあまりの恐怖に、俺は布団から跳ね起きた。 「あなた……?」 思わず叫んだせいで、妻も目を覚ましてしまったらしい。 激しく咳き込む俺の後ろで、そっと背中を擦ってくれている。 「どうしたの……最近のあなた、本当に様子が……」 「い、いや……すまん、なんでもない。ちょっとうなされただけなんだ」 俺は手で妻を制すると、スリッパを履き、寝室を飛び出した。 最早痛みは、全身を苛んでいた。 じくじくと悲鳴を上げる体を抱き締めながら、薄暗い廊下を通り抜けて洗面所を目指す。 そんなはずはない…… そんなはずは……! 先ほどの夢が予知夢だったような嫌な予感を覚え、意を決して鏡の前に立つ。 「……!」 そこに映る自分の顔を見て、俺は愕然とした。 「う、嘘だ……!」 思わず後ずさった背中が、壁にぶつかる。 鏡を挟んで映し出された俺の顔は、『俺』ではなかった。 それは―― あの女の顔だったのだ……! 馬鹿な…… そんな馬鹿な……! 死んだ女の呪いだとでも? パジャマのボタンを外し、前を開く。 む、胸が膨らんでいる……!? 俺の胸は、明らかに乳房の形に膨らみつつあった。 ズボンを脱ぐ。 ない…… 大事なものが、なくなっている……! ないはずのものがある胸とは反対に、下半身にはあるべきものがなかった。 それどころか剥き出しになった太<もも>は雪のように真っ白で、目に焼き付きそうなくらいだ。 まさか……俺の体が、女の体になっている……? この俺が、だんだんあの女に変化していると言うのか……!? こ、このままいったらどうなるんだ? 完全に、あの女になってしまうのか? いや……それ以前に、このことを妻や周りの人間になんて説明する? 下手をすれば、あの女との関係がばれてしまうかもしれない。 どうする……? どうすれば……! 呆然としている間にも、俺の肉体は刻々と変化を続けていた。 髪の毛もどんどん伸びている。 ああ、女性特有の<香り>が、体から漂ってくるぞ。 男の俺の体から、こんな匂いがするなんて……! 胸の膨らみに、手を伸ばす。 柔らかな弾力が、微かに掌に伝わってきた。 胸の肉が本物の乳房と化しつつあるんだ。 と言うことは―― 股間だって失くなったわけではないのか……? 鼓動が高まる。 震える指先が、パンツの中に伸びた時だった。 「あなた?大丈夫なの?」 ドアを叩く妻の声。 まずい! 今この姿を、妻に見られたら……! 「ねえ、どうしたの?あなた?あなた?」 ドアノブをつかんで、ガチャガチャと開けようとする妻。 俺は体でドアを押さえて、必死に踏ん張った。 どうする? なんて言い訳するんだ? とりあえず…… とりあえず、静かにさせないと……! ドアの隙間から、妻が顔を覗かせた。 その視線が、言いようのない恐怖を生む。 どうやって静かにさせればいいんだ…… 妻は話を聞くのか? パニックになって、大騒ぎするのではないのか? あの時の、あの女のように…… そうだ…… だったら、あの女にしたのと同じことをすればいいではないか。 首を締めれば、静かになる。 喉を潰せば、何も喋らない。 あの女のように…… 首を…… 妻の首を……! そうだ…… それがいい…… この手で…… この両腕で、あの女の首を……! 「ねえ……あなた……?」 ドアから体を離す。 恐る恐る洗面所に入ってきた女が、無防備に私の前に立った。 その顔を、真っ直ぐに睨みつけてやる。 馬鹿な女。 締めてやる。 その首を――私のように。 私からあの人を奪った、この女の首を……!
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