変わる身体、皮る体 作:灯台守 「ほら、入ってきなよ」 扉越し、細く開いた隙間から彼女がそう語りかける。 そこから覗いていて彼女の姿から目を離せずにいた僕は、たった今起こったことに対する整理がつかないまま、ただ唖然とすることしかなかった。 彼女がこの学校に転校してきたのは、夏休み明けのことだった。 高校生にしては小柄だったけど、アイドルかと見紛うほどの容姿の彼女が注目されるのは当然のことだった。 そして彼女は容姿だけではなく、明るくも落ち着いた性格に、勉強も運動もできるまさしく文武両道ということもあり、2日も経たない間に学校内で人気ものになったのだった。 休み時間になる度にワッと女子に男子に群がられる彼女を横目に、それほど学校でのヒエラルキーが高いわけでもなくその様を遠く離れた自分の席からしか眺めることのできない僕が彼女に抱いた第一印象は、まるで虫を寄せ集める食虫植物のようだ、というものだった。 だがそれは、単に人が群がる様子のみから得られた印象というわけではなかった。 転校初日、彼女が先生に呼ばれて教室に入ってきた時。明らかに香水、それも臭いというわけではないが割とキツめの芳香が即座に教室に充満したのだ。 この学校は別にデオドラントスプレー等の使用は校則でも禁止されていない。しかしここまでキツい香水だと、流石に注意されるレベルだろうと思った。 自分以外にもそう感じている人がいるだろうと軽く周囲を見回すも、みんな転校生がどんな人物なのかに興味があるのか気にした様子の人はいなかった。 そのときはそんなものかと思ったが、自己紹介が終わって、HRが終わって、1限までの時間に彼女に人だかりができても、それどころかその日の授業が全て終わっても、そのことを指摘する先生や同級生は誰もいなかった。 ──そう、そのときは『匂い』のことに関して、まるでその認識だけ抜け落ちているかのように、誰も、誰一人として話題にする人がいなかったのだ。 その様が、まるで匂いを使って虫を集める花を持った食虫植物のように見えたのだ。 それが、彼女に抱いた最初の『違和感』であり、話しかけることはできずとも彼女のことを『観察』してしまう一つの要因でもあった だがその印象は、すぐに塗り替えられることになる。 前述の通り、どんな運動でもそつなくこなす彼女は女子の運動部からすれば是が非でも欲しい人材だろう。 実際、体育があった日からは運動部員たちから割としつこく勧誘をされていたようだった。 そうでなくとも人だかりができる彼女の周りに、ますます人が増える。 これでは大変だろうなと思っていたが、1週間ほど経ったある日を境にぱったりと人だかりがなくなったのだ。 何かをやらかしたのかと思ったがそうでもないらしい。普通にクラスの人と親しげに話しているし、驚いたのは部活動は全て断ったらしいということだった。 そりゃあ、拒否し続ければいつかは勧誘や集まる人も徐々に減るだろう。しかし、あれほどいきなりいなくなることなどあるだろうか? そしてその頃から、彼女の印象が変わった。 周囲に人を誘引する食虫植物から、周囲の人を統率する女王蜂のようになったのだ。 もちろん、あからさまに命令をしている訳ではない。 だが、なんだろう……ある議論でクラス全体に『A』の流れがあったのに、彼女が『B』と言ったら周囲の人も同調して『B』になる、という感じだろうか。 つまるところ、彼女の言動に対して否定をする人がいなくなったように見えた、ということだった。 別に、何かおかしな事を言って強権的に振る舞っているわけではない。ただ、明らかに『彼女が中心になって物事が進む』ことが多くなっていったのだ。 それは傍から見ていないと気が付かないことだったのかもしれない。それによって、何か問題が発生したわけではなく、むしろその結果『何もかもが上手くいく』ことによって誰しもが彼女のことを信頼したことによって自然とそうなったかのように一見すると感じられたからだった。 実際僕だって、気が付けなかったかもしれない。 クラスで何かを決める時、特に議題に参加することもなく流れに任せていた身としては、いわば結果がどうなろうとどうでもよく思っていた所もあるからだ。 しかし、その2つ目の『違和感』に気が付いたのは、それとは全く別の部分からだった。 元々小柄で、胸などもほとんど膨らんでいない、良く言えばスレンダー、悪く言えば幼児体型に近いとも言えた彼女の体型。 それ自体は特筆すべき点もない、まあ発育が遅いのだろうと思える彼女の体だった。 1週間。ちょうど人だかりが消えた頃。 ふと、自己紹介の時に教壇の横に立っていた時と体型に関する印象が変わったかのように感じた。 その感覚はさらに1週間経った後に、確信に変わった。 明らかに、太っている。 『太っている』と言っても、全体が満遍なくというわけではなく、例えばスカートから覗く太ももや半袖から伸びる二の腕、といった辺りがほんのりと肉付きが良くなり、むっちりとした印象になった、というべきか。 もしかしたら、転校という環境の変化によるストレスで太ってしまったのかもしれない。 そのときは、まだそう思える程度の変化だった。 だが3週目にもなると、その変化が更に進んで太ももや二の腕だけでなく、制服の上からでもわかるくらい胸やお尻が膨らんできているのが見て取れるようになっていた。 そう、それは太ったというより、メリハリがついた、いわばトランジスタグラマーのような体型へと変貌していた、というべきだろう。 流石にその変化はありえない。3週間で太るのも中々大変だが、そうですらなく胸やお尻などピンポイントでこの短期間で大きくすることなど、整形をするしかできるものではない。 この異常に、流石に誰かが指摘するだろう。そう思っていたのだが。 そのことについて一切触れる人はいなかった。 それどころか、転校当初は「細くて羨ましい」なんて言っていた女子が、その時になると「胸が大きくていいよね」などと評価が変わっていたのだ。 友達に彼女の体のことを聞いてみても、特に変わった様子はない、などと本気で嘘を言ってる風でもなく答えられてしまった。 そして1ヶ月が経った日。前日は更に3週目から徐々にむっちりになった体で、もはやどこまで膨らむのかと思っていた彼女は、それまでが嘘のように転校初日の細身の姿で登校してきたのだ。 明確な異常に、それでも誰も気にしない。まるで、彼女の姿が変わっていることが当然であるかのように昨日までと同じように彼女と接していた。 その時に、彼女の言動に対する周囲の反応への違和感、そしてこの異様な事態に気付いているのは自分ひとりであることを認識したのだった。 それからは、彼女の観察が僕の日課になった。 だけどそれは単なる興味の範疇であって、彼女の正体を突き止めるとかそういったつもりは一切なかった。 とは言うものの、できることといえば毎日徐々に変わる彼女の体を眺めることだけだった。 細身の体型に戻った日から、再び彼女の体は膨らんでいった。どうも1回だけではなく、1ヶ月程度の単位で膨らんで、また戻るを繰り返しているようだと推測できた。 わかることといえばそれぐらいのことで、部活動をしていない彼女は授業が終わると友人との会話もそこそこにそそくさと帰宅してしまうため、私生活に関しては全くの謎だった。 あとは会話の節々から、どうやらそれなりのお金持ちのお嬢様らしいとのことぐらいがわかった程度だった。 だからこそ、また1ヶ月経って彼女の体が恐らく最大限まで膨らんだ日の放課後、いつもならすぐ帰っている彼女が、普段は殆ど人の行かない実技系の教室のある階にひとりで向かっているのを見かけた時、何か直感めいたものに導かれ気が付けば彼女の後を追っていたのだった。 気付かれないように、後をつける。ふわりふわりと香る彼女の香水の匂いを辿れば姿が見えない位置でも容易に追いかけることができた。 実験室の並ぶ階の、授業でもほぼ使われていない教室の、そのさらに物置代わりに使われている準備室に入っていくのが見えた。 鍵が閉まっているはずなのに、どうやって入ったのだろう。そもそも、一体何のためにあの部屋に……? 音を立てないように、忍び足で近づくと、部屋の扉が僅かに──丁度中を覗いてもばれないくらいの幅に開いているのがわかった。 その誘惑に勝てず、僕は扉の隙間に顔を近づけた。 隙間からは、ツンと彼女の香水の匂いが立ち込めていた 中には当然だが彼女が一人、バッグを置いて佇んでいた。 よく見るとバッグも普段と違ってかなり大きめのショルダーバッグだ。 何度も言うが、彼女は部活動をしていない。だから、学校に持ってくる荷物など、基本的には教材や筆記用具、お弁当、あとは小物ぐらいなものなのだ。 そのため、あんな大きなバッグを持っているのは、それも普段は持ってきていないものを持っているというのは、どこか違和感があった。 そんなことを思っていると、目の前の彼女が制服を脱ぎだした。 僕は慌てた。着替えなら見ていてはいけない。これではただの覗きになってしまう。 そう感じるも、なぜかどうしても彼女の着替えから目が離せない。 ブレザーを脱いだ彼女は、そのままブラウスも脱ぎ去る。幸いなことに背中を向けていたので前側が見えてしまうことはなかった。 そのまま彼女は、スカートも、そして下着さえも脱ぎ去り、一糸纏わぬ姿になった。 その姿は、太もも、お尻にむっちりと肉が付き、後ろからでも見えるくらいにおっぱいがぶるりと震えている。 少し汗ばんだ肌が、窓からの光に照らされてきらきらと光っているように見えた。 全身が柔らかそうな彼女の姿は、覗きをしているということを忘れてしまいゴクリと唾を飲み見惚れてしまうほどに美しかった。 だがその先に起こったのは、それさえ頭から吹き飛んでしまうようなことだった。 全てを脱いだ彼女はきっとその大きなショルダーバッグから替えの服に着替えるのだろうと思っていた。 しかし、それは思い違いだった。彼女はまだ、『全て』を脱いでいなかったのだ。 背中を向けたままの彼女がその両手を項に添える。 そのまま、背筋に爪を立てるように力を入れた。 ぱしゅ、という音ともに、彼女の背中が『開いた』。 そして開いた隙間に指を入れて、ウェットスーツを脱ぐように肌を両側に引っ張った。 ずるる、と肌の擦れる音が聞こえて彼女の背中が大きく開き、中から更に『背中』が出てくる。 湯気が立つくらい汗ばんだ背中が、彼女の中からずるりずるりと這い出してくる。 そしてすぐに、首の方から汗でしっとりと濡れた髪の毛と共に彼女の頭が引っ張り出された。 ふう、と一息ついた彼女は、そのまま服を脱ぐように『彼女』を脱いでいく。 その様子を、僕は唖然と見つめることしかできなかった。 今までだって彼女に関してはおかしなことは色々あった。だが目の前で起こったことはあまりにも現実離れしていて、理解が現実に追いつかなかった。 自分の体を脱ぐ、とは一体どういうことだろうか。着ぐるみを着ていたとでも言うのだろうか。 それにしては精巧すぎる。それに、汗までかいているんだったらやはり着ぐるみとは思い難い。 そうこう思っている内に、彼女が体を脱ぎ切っていた。 その姿は、転校初日の……細身の体型だった。 ますます意味がわからなくなった。いや、一つわかったことはある。 細身の姿が本来の姿で、徐々に膨らむ豊満な体はその上に着ていたナニカだったということだった。 それがわかったからと言ってその理由がわかったわけではない。 一体何のためにそんなことをする必要があったのだろうか? 頭の中をぐるぐると思考が回っていた僕は、その目線の先が彼女の目に合っていたことにしばらく気が付かなかった。 目が合っている。彼女はいつの間にか顔をこちらに向け、その目は隙間の向こうの僕をしっかりと見据えていた。 バレている。それはすなわち、着替えを覗いたことによる社会的な死。 逃げなくては、それとも謝るべきか。 選択が定まらず動けない僕に彼女は驚くべきことをした。 手招き。微笑みながらひらひらと手を動かし、部屋に入れと誘っている。 そんなことがあるだろうか。裸を見られて、そして尋常ではない肌を脱ぐという行為を見られて、それでも落ち着いている彼女が信じられなかった。 「来ないの? 来ないなら、君のこと着替えを覗いた変態だって言いふらしちゃうけど」 微笑みながらそんなことを語りかけられる。それは僕から選択肢を奪うに等しい言葉だった。 「ほら、入ってきなよ」 しばらく頭の整理がつかず身動きが取れずにいた僕は、観念して裸の彼女が待つ部屋へと足を踏み入れた。 「ふふ、素直なんだね。隙間越しじゃ誰だかわからなかったから逃げちゃえばよかったのに」 部屋の中で彼女と対面して、そう言われてみればそうだったと後悔した。だけど、さっきは彼女の有無を言わさぬ気迫にどうしても逃げてはならないと思わされてしまったのだ。 そしてこうしてのこのこと正体を見せてしまった以上、最早後の祭りというわけだ。 「まあ、姿を見なくても君だってわかってたんだけどね」 ……どうやらそうでもないらしい。どのみち運命は決まっていたということだろうか。 項垂れる僕に、彼女は続けた。 「君、ずっと私のこと見てたでしょ? 君だけは私のこと、他の人とは違う視線で見てた。そうだよね?」 ドキリとする。今日のことだけでなく、普段見ていたこともバレていたことに冷や汗が出た。 「ああ、ごめん。別に責めてるわけじゃないだよ。ただ、私のことを『ちゃんと』見てくれてる人がいるなって思ったからずっと気になってたの」 笑いながら彼女は話す。とは言うものの彼女は相変わらず真っ裸なので視線を上げることはできない。 「君、気付いていたんでしょ? 私の香水とか、この体のこととか」 そう言いながら、彼女は脱いだ『彼女』の体を持ち上げ僕の目の前に持ってくる。 それも裸なので、慌てて目をそらした。 「あはは、別に見ちゃってもいいよ。だってさっきまで全部見てたんでしょ? 今更だと思うけどなあ」 そう言いながら彼女は苦笑いをする。確かにそう言われればそうなのだが、本人と面と向かうとどうしても罪悪感と恥ずかしさが勝ってしまう。 「それより、知りたいんでしょ? 私のひみつ」 それは核心だった。何のために彼女の後を追いかけて覗きまでしたのか、本来の理由を今更ながらに思い出したのだった。 下から覗き込むようにこちらを見る彼女に、僕は好奇心から頷かざるを得なかった。 「よかった。私も『私のことを知ってくれる人』ができてうれしいよ」 にこっとわらった彼女に思わずどきっとする。なんだかんだ言って、やぱり美少女に笑いかけられるとドキドキしてしまうものなのだ。 「まずいつも付けてるこの香水なんだけど……これはね、私に対する人の認識を弄っちゃう成分が含まれてる、特別な香水なんだ」 彼女がぱたぱたと手で顔を扇ぐ。揺れる髪から彼女の甘い体臭と香水の混じった匂いが流れてくる。 「たぶん気付いてると思うけど、簡単に言うと私の言ったことや行動なんかが、以前とは矛盾していたり周囲と齟齬が生じていても、『そういうものだ』と納得させちゃうような効果があるっていうことね」 その説明で、大体のことは腑に落ちた。 彼女の周囲から人だかりが急に消えたこと、議論で彼女の思う通りに進むこと、体型の変化のこと、そしてその香水の匂いそのものさえ、周囲の人達にとっては『そういうもの』という認識になっていた、ということだろう。 「だけどこの香水、ごく稀にだけど効かない人がいるんだよね。……そう、それこそが君。前の学校でも誰もいなかったし、今まで誰も効かない人とは会ったことはなかったからもう一生ないかと思ってたんだけど、やっぱりあるもんなんだねえ」 自分だけが彼女の違和感に気が付けた理由は単なる運だったようだ。 「でもだからこそ、君の視線に気が付けた。教室に初めて入ったときから、君の私を見る目は、匂いに惑わされた目じゃなくて、はっきりと困惑の色をしていたからすぐにわかったよ。 そして同時に思ったの。君は私の本当を見てくれる唯一の人だってね」 彼女の言い回しに、どきりとする。思わず視線を上げて彼女の顔を見つめてしまった。 「やっと顔を見てくれたね。さて、じゃあなんでそんな香水を付けているのかと言うと、もうお察しのとおりだと思うけど私のこの体質を隠して日常生活を送るため、って言ったら良いかな」 再び彼女が肉のついた彼女の体を持ち上げる。 「私はね、特異体質で体の中である物質を溜め込んでいっちゃう性質があるの。 生まれた頃からそうだったんだけど、小さい頃はまだ生成される物質の量がほとんどないくらい少なかったから問題なかったんだけど、その内それが日常生活に支障をきたすくらいになってきちゃってね……」 そう言って彼女は持ち上げた抜け殻の胸をぼにぼにと揉む。 「ほらこんな風に、おっぱいとかおしりとかに重点してその物質は溜まっていくんだよね。もちろん、外見的な問題だけだったらなんとかなったんだろうけど、そうはいかなかった」 抜け殻の胸を揉むのを見せつけながら彼女は続けた。 「その物質は溜まれば溜まるほど、気持ちよくなっちゃう……謂わば、快楽物質だったの」 彼女の言葉にぶるりと体が震える。そうなると、目の前の抜け殻の状態は…… 「溜まりすぎるともう何も考えられなくなっちゃうくらい気持ちよくなっちゃう。実際、生成されるスピードが上がってきた当初は大変だったよ。 その物質を抑制する薬はないけど、吸着できる素材はあった。 だけど吸着する速度が遅い上に、全身に溜まる快楽物質を取り除くには丸一日中その素材で全身をぐるぐる巻にするしかなかった。でもそんなんじゃ到底普通の生活なんて送れるわけがない。 そんな私が日常生活を送るために開発されたのが、この香水と、この『スーツ』というわけ」 抜け殻の顔は、力なくだらりと虚空を見つめている。 「このスーツは完全に私の体を模していて且つ、さっき言った快楽物質を吸着してくれる素材でできてるの。そしてこれを日常的に着用することで快楽物質を生成したそばから吸着して代わりに溜め込んでくれるっていうわけ。 でも急激に変わる体型だけは誤魔化せないから、香水の力で違和感を感じられないようにしちゃおうっていうことなの」 ゆさゆさとその『スーツ』を揺らしてその快楽物質とやらがスーツに溜まっているのを見せつけられる。傍から見ればただ脂肪がついただけのように見えるがそうではないのだろう。 「まあちょっと香水の力が強すぎるところとかはあるけど、別にこれを悪用しようとかは思ってないから大丈夫。 と、いうのが私の秘密。これがちゃんとわかってもらえるのは、香水が効かない君だけ」 突拍子もない話だが、辻褄は合ってる……様な気がする。 どうであれ、彼女は『普通の生活』がしたいだけだということはなんとなく理解できた。 「……さて、ここからが本題なんだけど。さっきも言ったとおり、このことを理解してもらえるのは君だけなの。確かに香水とスーツのおかげで普通に近い生活を得ることができたけど、私はこの苦しみを分かち合える人がいないことが何より辛かった。 だから、ひとつ。お願いがあるの」 彼女は真剣な顔でこちらに向き直る。裸なのでいまいち締まらないが。 「私のこのスーツ、着てくれない?」 だが、次に出てきた言葉は理解しがたいものだった。 「私の快楽物質の溜まったスーツを着て、私の『気持ちよさ』を体感して欲しいの」 冗談かと思ったが、再度言われてしまっては彼女も本気であると認めざるを得ない。 しかし、そんなことは到底無理に思えた。 まず、物理的に不可能だ。彼女の身長はどう見積もっても僕より頭一つ分以上低い。 そんな彼女が着ていた彼女を完全に模したスーツを、着れるわけがない。 そもそも男の自分が女の子の、それも今の今まで着ていたスーツを着るなんてとてもではないができない。 そう思った僕を見透かすように、彼女は言った。 「大丈夫。このスーツは多少は成長して背が伸びても使えるよう上は2メートル、下は1メートルまで許容できるようになってるから君でも着れるよ。 それに持ち主である私が着てって言ってるんだから、別になんの問題もないよね?」 いや、問題は大アリな気がする。 何にせよ、着るわけにはいかない。断ろうと首を横に振るが…… 「……ふうん、着てくれないんだ。折角着せてあげようと思ったのに。 ところで、香水の力はさっき説明したよね?」 急に彼女の雰囲気が冷たくなる。 「わかってると思うけど、君が私の着替えを覗いたことは間違いないことだよね。 つまり私がそのことを言いふらすとどうなるか、わかる?」 彼女の冷たい目線が僕に突き刺さる。 「別に証拠がないから言い逃れもできるかもしれない。『普通なら』ね。だけど香水の力がある以上、私の言うことは必ず信じてもらえるの。だから、どれだけ君がが否定しても、私の言葉を聞いた人はみんな、君が覗きを行ったことを信じてしまう。……それがどういうことになるか、わかるよね?」 それを言われてしまうと、どうしようもなかった。なによりも、実際に覗きを行ったことは事実であることがあまりにも強い枷として行動が縛られてしまった。 今思えば、彼女を追いかけてしまった時点でこの運命は決まっていたのかもしれない。 彼女に社会的地位を人質に取られてしまった僕はスーツを着ることを承諾することしかできなかった。 「ありがと。じゃあ早速、服全部脱いでね」 承諾した途端、即座ににこやかに戻った彼女に若干の恐怖を覚えながら、僕は渋々服を脱ぎ始めた。 その様子をじっと見つめる彼女。流石に服を脱ぐ所は見ないで欲しい、と言おうにも目の前の少女の着替えを一から見ていた自分に言えた義理ではないということを彼女のにこにことした顔に訴えかけられたように感じて、何も言えないまま全裸になる。 一応股間は隠したままいると、彼女から彼女の抜け殻……スーツを渡された。 「脱いだの見てたからわかると思うけど、背中から着るんだよ」 彼女が目の前でスーツの背中を開く。 むわあと熱気が溢れ出す。同時に彼女の甘い体臭が、鼻腔をくすぐる。 そういえばこのスーツ、日常的に着続けていたということは、1ヶ月ずっと着用していたということだろうか。 そう考えるとそのスーツを着るということは色んな意味であまりにも『危険』なことではないか。 「ほら、足から入れてみて」 そう思って尻込みしていた僕を急かすように、彼女がスーツをずずいと寄せてくる。 どのみち、僕には拒否権はないのだ。恐る恐る爪先から、スーツの内側へと侵入していく。 中は、予想通り熱い。彼女が脱いだ時汗だくだったのを思い出す。 外側のどう見ても肌にしか見えない素材に対し、内側はべったりと湿った粘膜のような感触だった。その湿り気は恐らく彼女の汗だろう。 その中へと足を差し込んでいく。その事実に、不覚ながらも股間は勃起し始める。 両足を、スーツの足の穴に合わせると、彼女がスーツを引き上げる。 ベッタリとしながらもぬるぬると足が呑み込まれていく。爪先が、スーツの爪先にピッタリと合わされる。 短くももっちりとした太ももが自分の太ももに貼り付いてくる。外から見たら完全に女の子の……さっきまでの彼女の脚がそこにはあった。 ちらりと彼女の方を見ると、何か違和感がある。 さっきまでは見下ろしていた彼女の頭が、幾分か近づいたように感じる。 いや、気のせいではないだろう。彼女のスラリと伸びる脚と、もっちりと肉づいた脚……今の自分の脚の長さが同じであることに気が付いた。 身長に合わせてスーツが伸びるという訳ではなく、体がスーツに合わせて縮んでいるようだった。 信じられないことだったが、もう信じられないことなどいくつもあったことを思い出し、深く考えることを諦めた。 それよりも、履いた脚の部分が、なんだかじんわりとした熱のような感覚に苛まれている。 その感触が何なのかわからないまま、彼女の手によって更にスーツが引き上げられる。 お尻と股間に、スーツの股ぐらが密着する。 勃起してしまった息子はスーツに覆い隠され、狭い筒のようなものに吸い込まれてしまう。 その感覚に思わず腰が引けてしまうが、その引いたお尻にも何かが侵入してきた。 前も後ろも、スーツによってしっかりと捕まってしまった。 それを気にせず、彼女はスーツの腕の穴を差し出してくる。 もう成るように成れと、半ば投げやりにその穴に手を突っ込んだ。 脚と同じように、手がずるずると彼女の腕に吸い込まれていく。 指先まで、一本一本がスーツにピッタリと嵌まる。手を動かしてみるとむちむちとした短い手先が自分の思った通りに動いた。 その時点で、すでに顔以外はスーツの中に入っていた。 脚を入れた時に感じていた熱は首から下に広がり、じくじくと刺すように感じられる。 それが何なのか、今ならわかる。彼女の言っていたこのスーツの役割……彼女の快楽物質を吸着したスーツを着るということは、即ちその快楽物質にその身をさらされるということだった。 そう理解すると、その熱が途端に全身を苛む快感であるとわからされてしまった。 体をわずかに動かすだけで、スーツと肌が擦れる。その際の摩擦が快感を生む。 スーツが絶え間なく全身を締め付ける、その感触が快感に変換される。 快感で、腰が砕けそうになる。それを彼女に支えられた。 「気持ちいいでしょ? だけどまだ。頭まで包まれて背中を閉じたら、本当の私の気持ちがわかるから」 それは優しさからではなかった。僕を完全にスーツに包み込むために支えたのだ。 彼女の手によって、スーツの頭部が近づけられる。 抵抗はできない。快感で力が出ない。 がぽっ、と音が鳴り全頭マスクのように彼女の頭が被せられた。 やはり汗でねっとりとした内部に篭もっていた彼女の匂いが、ダイレクトに鼻に突きつけられる。 それを防ぐ手段もないまま、ピッタリと合わさるように作られたスーツの頭部が顔に嵌っていく。 口にも、鼻にも、その形に合わせた管が入り込んでいった。 スーツがびったりと隙間なく顔に密着した。 そのまま、抱き着くように彼女は腕を背中に回し、開いていた穴を撚り合わせるように閉じていく。 体が、完全にスーツに閉じ込められた。 何もしていないのに、じんじんとした快感が溢れてくる。 特に胸、お尻、股間といった、今の彼女と比較して膨らんだ箇所は常に熱を持った核があるかのように快感を生み続けていた。 彼女の支えがなくなる。 ぺたりと崩れ落ちた僕の胸でぶるんとおっぱいが跳ねた。 それだけで、気持ちいい。普段なら全くそうは感じない動作で快感が発してしまう。 むちぃと床に押し付けられた尻肉がじぃーんと快感を発する。 立とうにも力を入れたら足の裏がら快感が駆け上がってきて再び座り込んでしまった。 はっ、はっと細かく息を吐いてなんとか抑えようとする。だが、その行為さえも快感を生んでしまうのでもうどうしようもなかった。 そして、その快感を生むスーツに包まれた僕の体はぎちぎちとしたスーツの締め付けにより、最早射精寸前まで高められながらも、スーツの股間に吸引された筒の中でせき止められていた。 「すごいでしょ? それが1ヶ月経った状態の私の感覚。もう私は慣れちゃったから普通に振る舞えるけど、快楽物質に触れてこなかった人がいきなり1ヶ月分溜め込んだ体になったら動けなくなっちゃうでしょ?」 彼女の言う通り、僕はじっとすることしかできなかった。それが最も快感を抑えることができたからだった。 こんな体で彼女は過ごしているのか。ここまで溜まるのは1ヶ月後とはいえ、快楽物質は徐々に溜まるのなら、弱いながらも毎日こういう快感に耐えながら過ごさなくてはならないのだ。 それが、彼女の『気持ちよさ』……『苦しみ』なのだろう。 確かに気持ちいいのかもしれない。だがそれが常に与えられるとなるとそれは苦痛にしかならない。 それでも、無限に溜め込むよりも、1ヶ月おきにリセットできるこのスーツを着たほうがマシだということなのだろう。 だが、常人の僕はもう耐えられない。 まだ5分と着ていないが、快感で気が狂いそうだった。 だから、このスーツを脱ごうと快感に耐えながら、彼女がやったように背中に爪を立て背中を開こうとした。 だが、いくら力を込めても、背中は開かない。 無理やり引っ張ってみても、掻き毟ってみても、裂け目はできなかった。 「言ってなかったけどそのスーツ、誰かに誤って脱がされたりしないように、一度着たら1ヶ月は脱げないようにできてるんだよね」 そんな僕を見ながら彼女は言い放った。 「しかも、私じゃないと脱がせられないようにできてるんだ。つまり、これから1ヶ月、君は……」 にやにやと悪い笑顔をしながら、彼女は僕に言った。 「その体で過ごすの」 嘘だ、と思いたかった。 だが、目の前の彼女は本気だった。その凄みが、確かにあった。 だが、当然そうなると問題ができてくる。快感でうまく回らない頭で考えても、1ヶ月間、僕がこの姿のまま生活するのは無理だと導き出せる。 「大丈夫だよ」 そんな僕の気持ちを見透かすように、彼女は続けた。 「君は今、私と同じなの。つまり、香水の力も同様に、君に対しての認識を弄ることができる。もちろん、何も言わなければ、君は私として認識されるかもしれないけど、ちゃんと君が『君』であると相手に伝えれば、例え私の姿であっても君であると認識してくれるよ。……最も、それは君の姿が私になっていることが別におかしいことではない普通のことである、という風な認識のされ方だけどね」 つまり、完全に逃げ道をなくされたのだ。 僕は、この快感の檻に閉じ込められたまま彼女の苦しみを1ヶ月、強制的に体感させられることとを余儀なくされてしまったのだ。 「香水の効力は1日しか保たないから、毎日休まず学校に来てね。その時にその日の分をかけてあげる。週末はまとめてその分を渡してあげるから、家で忘れずにふるんだよ? そうじゃないと、君は私の体を着た変態だって家族や友達に思われちゃうからね」 絶望に沈む僕に、淡々と説明する彼女。 そしてさっき脱ぎ捨てた、今日一日着ていた制服をこちらに差し出してくる。 「その体だと、この制服しか合わないから貸してあげる。明日からもちゃんと着てくるんだよ?」 そしてショルダーバッグをごそごそと漁り、数枚の下着や服を渡してきた。 「これでとりあえず数日は持つと思うから。残りは明日、また持ってきてあげるね」 用意が良すぎる。ここで彼女が、全て計算していた事に気が付いた。 敢えて僕の目につくように、敢えて僕が追いかけるように、そう確信して行動していたのだと。 そして僕が覗けるように扉に隙間を開けておいたのだと。 元から、僕にこのスーツを着せるために、敢えて学校で着替えたのだろう。 バッグから、新しい『スーツ』を取り出し身につけていく彼女を見ながら思った。 僕は彼女の毒牙に絡め取られたのだ。入念に作った蜘蛛の巣に掛かった獲物だったのだと。 まるで獲物を待ち構える女郎蜘蛛のようだと、その時の僕は思った。 1ヶ月、その生活は過酷だった。 普段と違う女の子の体というだけでも大変なのに、それに輪をかけて快感が全ての動作を妨げてきた。 スーツは最早、自由に動ける拘束具といっても過言ではなかった。 そのむちむちとした脂肪のような快楽物質や、背が低く短い手足を強制するスーツは僕の動きを的確に妨害する。 そしてその動き一つ一つにより、スーツの締め上げ、スーツとの擦れ、押し付けられ染み出した快楽物質が僕の体に快感を押し付ける。 始めの1週間は喘ぎ声を抑えることで精一杯で碌に勉強も生活もできなかった。 幸い、彼女の言ったとおり香水の力で僕がこのスーツを着ていても不審に思われることはなかった。最初に家に入ったときは流石に家族に変な目で見られたが、僕であると伝えるとみんな納得した顔になってその後は普通に接してくれるようになった。 とは言うものの、体に準じた扱いにはなっており、学校での体育などは女子に混じって着替えさせられてしまった。 その辺りは彼女にサポートをしてもらえたし、実際女子更衣室に入ることができたという役得な所もあったのかもしれない。 だがそんなことを意識していられるほど周囲に目を向ける余裕はなかった。 結局、一日中如何に快感を抑えるかということに意識を集中させることしかできなかったのだ。 最も、香水の力によって例え衆目環視の最中で自慰を勤しんでしまったとしても、それを誰かに咎められることなどはなかったのだが、『できる』からといって『やれる』かというのはまた別問題だった。 そして何よりも、誰も見ていない自室で、少しでも快感を減らそうと無駄な自慰をしたとしても、普段から感じさせられている快感──彼女の体という女の子としての快感が一段とレベルアップするだけで、その内側に封じ込められた本来の男の体には一切触れることができず、狭い空間に押さえつけられじわじわとした快感が与えられながらも決してそれ以上の感覚は得られないもどかしさは、このスーツに閉じ込められている以上発散させることができないため、例え女の子として絶頂してもどこか満たされない感覚を日々積み重ねさせられるだけだった。 そんな頭がおかしくなりそうな毎日でも、なぜか彼女がくれる香水の匂いが自身の体から立ち昇るのを嗅ぐと、不思議と幾分か心が落ち着いてくるのだ。それがまた僕に恐怖心を与えた。 だがそれも、今日で終わり。 スーツを着せられて1ヶ月。新しいスーツを着て1ヶ月が経ち、今の僕と同じ姿になった彼女があの日と同じ大きなショルダーバッグを抱えて登校してきたのを見て、やっとこの地獄から解放されると思った。 放課後、彼女に誘われるように、あの日と同じ部屋へ行く。 扉を開けると彼女は既にスーツを脱ぎ始めていた。 「1ヶ月、お疲れ様。どうだった? 気持ちよかったでしょ?」 そうにこやかに問いかける彼女に、僕は答えることなく目線で早く脱がしてほしいということを訴えかける。 「そんなにせっつかなくてもちゃんと脱がしてあげる。約束だからね」 そう言って、彼女は前から僕の体を抱きしめた。 強く、強く抱きしめられる。 彼女の体によって、僕の胸についたおっぱいが押しつぶされる。 この1ヶ月で、何度目かわからない絶頂を彼女の手によって引き起こされる。 背筋を伝い急激に昇ってきた快感の波に頭がちかちかするような感覚。結局慣れることのなかった強烈な感覚状態のまま、彼女の手によってスーツの背中が開かれた。 押し出されるように上半身がスーツから飛び出る。 まだ、脳には直前の感覚が残っていた。 今までは女の体で受け止められていた感覚が、男の体に逆流する。 更に1ヶ月、『お預け』されていた感覚が戻ってきていた。 ただでさえ男の10倍とまで言われる女性の絶頂が、快楽物質によって何倍も増幅された状態で流し込まれる。 その快感に耐えることなどできず、人生で一番強い噴出を迎えた。 彼女のスーツの中にこれでもかと吐き出された精のことを気にすることもできないまま、体は強烈な倦怠感に襲われる。 全身に力が入らないまま、スーツの中から引きずり出された。 「ふふ、こんなに出しちゃうなんて、よっぽど私の中が気持ちよかったんだね。 それなら、私の感じてる苦しみを……気持ちよさをまた1ヶ月、一緒に感じてくれるよね?」 動かせない視界の端で、彼女が今月着ていたスーツを持ち上げているのが見えた。 その瞳は、どこか光の消えた、黒い虚空のように見えた。 ああ、彼女はとっくにおかしくなっていたのだ。 きっと、スーツと香水で普通の日常を手に入れるその前に、彼女の精神は壊されてしまっていたのだろう。 そして一見日常を取り戻したかのように見えて、その内で何かが燻り続けていた。 そして、その発散対象として、僕は見つかってしまったのだ。 彼女の本当の姿を見てしまったが故に。深淵を覗き込んでしまったのだ。 覆い被さる彼女の体を感じながら、僕は最早逃げられない絶望に足を踏み入れてしまったことを悟っていた。 |