母さんのハイヒール
 作・夏目彩香


「凛太朗。急用ができてしまったので父さんは今からちょっと外出してくるよ。お昼過ぎには戻ると思うから一人でおとなしくしているんだぞ」

そう言って凛太朗の父親は家を出て行った。静まり返る家の玄関には凛太朗が一人取り残されていた。玄関には凛太朗の声だけが響いていた。

「今日こそ父さんと遊べるかと思ったのに〜」

凛太朗の家は父子家庭だった。凛太朗の母親は中学校に入学してすぐに病気で亡くなってしまったのだ。母親が亡くなって一年が経った命日であり祝日であるこの日は凛太朗も14歳になっていた。凛太朗の父親はその死から遠のこうとしてか懸命に働くようになっていた。だから、週末だと言えども父親と遊べるような時間は無いのだが、いつも祝日だけが父とゆっくり過ごせる時間だったのだ。こんな家庭環境のせいなのか凛太朗は思春期に入っても父に反発することもなかった。

「こんな時こそ一緒に遊べると友だちがいればいいんだけど、塾だの習い事だのどこぞの大会があるという輩ばかりだからな。祝日には父さんと過ごすってみんなに言っちゃってるし、今から一緒に遊ぼうというのも無理だよなぁ。父さんが帰ってくるのを待つしかないか」

玄関でしゃがみ込んでいた凛太朗がゆっくりと立ち上がろうとすると、靴箱の片隅にある棚に目を止めた。

「あっ、これは?」

それは母親のお気に入りだったエナメルピンクのハイヒールだった。ヒールの高さが九センチはありそうなピンヒールが棚の隅で寂しそうに置かれているのだが、何故かホコリを被ることも無かった。凛太郎はその片方を手に取ると微かに残る母親の匂いを感じていた。

「母さん。。。」

亡くなる直前まで元気だったのに病に打ち勝つことはできなかった。凛太郎は病室で最期を看取ることができたのだが、亡くなる前日にはこのハイヒールを履いてドレスアップ姿で病院の廊下を歩く姿が目に浮かんだ。

「母さんの遺品は全て処分されていたと思っていたのに、父さんが捨てずにいたなんて、しかもずっとここにあったのに気付かなかっただなんて、なんだかなぁ」

そう言いながら凛太郎は母親の残したハイヒールをよく観察してみた。靴底にはサイズが24.5と書いてあったのを見ると、それを床に置き自分の右足をゆっくりと収めていった。

「わぁ。今の僕にピッタリ入ってしまうなんて、こりゃびっくりだ!」

凛太郎はそう言うともう片方を取り出し、左足も収めてみるとぴったりフィットしたのだ。玄関の姿見にはエナメルピンクのハイヒールにちょこんと乗っている少年が立っていた。ジーンズにグレーのパーカーを纏っていたので、フェミニンな男性かボーイッシュな女性のようにも見える。それはまるでボーイッシュな姿の母親がそこにいるようで、母親の面影が浮かんで来るようだった。

「母さんのハイヒールを履いた僕の姿、なんだか意外とサマになっているよなぁ。やっぱり母さんに似ているのかも」

この時、凜太朗の心のなかでは母さんに会いたいという気持ちが少しずつ大きくなっていた。そして、ある思いが凛太郎の心の中に与えられていたのだ。もしかすると、母親の遺品がどこかに残されているのではないか、そう思うといてもたってもいられなくなった凛太郎は、ハイヒールを履いたままなぜか扉がほんの少しだけ開いている父親の寝室に忍び込んだ。

「母さんの遺品は表向きは処分したように見えるんだけど、残っているとすれば、やっぱりここしか考えられないんだよな」

バランスを崩しながら歩きながらも凛太郎は床をカツカツと鳴らしながら、父親の部屋のウォークインクローゼットの扉を開けた。父親のものしか見当たらないが、突き当たりにある壁が気になった。夫婦別々で隣り合う部屋を使っていたので、怪しい壁の向こうには母の部屋があるはずだ。

「母さんのハイヒールが残っていたぐらいだから、母さんの遺品がきっと残ってるはずなんだけどなぁ」

父親の衣装をかき分けながら母親の遺品探しをするものの、何も見つからない。結局は怪しい壁に到達したのだ。その壁を拳で叩いてみると何やら軽い音がするので、向こう側に空間が広がっていると感じた。

「この壁が秘密扉のようなんだけどなぁ。どうやれば動くのかなぁ」

怪しい壁がどうにか動けばこの裏にある空間にたどり着く、そう思った凛太郎はその壁のすぐ目の前に左右対称の窪みがあることに気づいた。

「あれれ?この形って、どこかで見たことがあるんだけどなぁ」

その窪みを良く見てみると足形のように見えて来た。

「これってもしかすると、靴形じゃないのか?先が尖っていて踵のあたりに小さな四角があるってことは、もしや。。。」

そう言うと凛太郎は履いている母親のハイヒールのまま、その窪みに当てはめて行くと凛太郎の予想どおりにピタリとはまったのだ。しかし、それで何かが起こることは無かった。

「この窪みにピッタリとはまったのに何も起きないなんて、一体どうしたらいいんだろうか?」

母親のハイヒールで窪みの上に立ってみたものの、何も起こらないことで凛太郎は少しずつ焦り出していた。きっと、何かを一緒にやらなければならないと考えた凛太郎はそのまま次なる一手を考えるのだった。

「母さんのハイヒールを履いて窪みに乗るだけでは何も起こらないということは、きっとこの状態のまま何かをやらねばならないはず。それはきっと鍵を回すようなもの」

すると凛太郎は壁の高い場所に何やらインターホンのようなボタンを見つけた。いつもよりもヒールを履いているだけ目線が高くなっていたので見つけられたのだ。

「もしかして、このままあのボタンを押すると何かが起きるのかも」

そう考えた凛太郎は、ボタンに向けて手を高く挙げていた。人差し指を伸ばしてやっとのことでボタンをゆっくり押すと、目の前の壁が動き出し目の前には三畳ほどの空間が現れたのだ。部屋の中は暖かみのある電球色で照らされ、ドレッサーをはじめとする母親の遺品が置かれていた。

「こんな隠し部屋があったなんて!」

その部屋の中に凛太郎は母親のハイヒールを履いたまま入って行く、狭い部屋の中には母親の遺品がキチンと整理されて置かれているのだ。凛太郎はドレッサーの椅子を引き出して、そこに座って鏡の前の自分と対峙し始めていた。

「母さんのドレッサー。いつもこうやって身支度をしていたよね。。。」

ドレッサーの椅子に座っているだけでも母親が身支度をしていた感覚が蘇って来た。ここに座って母親が何を思ったのかと考えているとどこからともなく聞き慣れた声が聞こえて来た。

『凛太郎、凛太郎』
「えっ、母さんなの?」

ドレッサーの鏡には母親の姿が映し出されていた。凛太郎に呼びかけて来たのは映像で浮かび上がる母親の姿だった。

『凛太郎、凛太郎なのよね。あなたがこの映像を見る頃には、母さんはこの世にいないことでしょう。母さんのいない生活はどうですか?あなたもだいぶ大きくなっていることでしょうね』

凛太郎は映像に映っている母親の姿を見ながら、母親の話す言葉を聞き漏らすまいと真剣に聞いていた。

『この部屋の存在のことは父さんは知っています。私がこの世からいなくなったら遺品をここに整理するように伝えておいたのよ。母さんから凛太郎に頼みたいことがあって、準備してもらったのよ。父さんには内密に準備したんだけど、私のお願いを聞いてくれますよね』

「うん、母さん」

凛太郎が母親の話に合わせて答えを返すと母親は微笑みで返してくれた。久しぶりに見る母親の姿にドキドキと胸の鼓動が高鳴っていた。

『凛太郎なら「はい」と答えてくれると思っていました。母さんからのお願いなんですが。。。』

そこまで母親が言うとクローゼットが開き、母親が死の前日に着ていた衣装が現れた。そして、話が続けられる。

『この衣装はあなたも知っていますよね。私の大のお気に入りの衣装です。あなたにはこれを着てもらい、父さんの心を慰めて欲しいのです。凛太郎がこの部屋を見つけるのは私と父さんの記念日です。その日は朝早くから父さんが出かけることでしょう。その日は父さんが一番会いたがる日なので、その役割をあなたに託したいのです』

「でも、母さん。僕がこれを着るなんてできないでしょ。女装したところで母さんに見えるわけじゃないしね」

すると映像の中の母親は予想したかのように言葉を続けていた。

『母さんがこう言うと凛太郎はきっとそんなことできないと思っているでしょうね。心配することはありません。凛太郎、ドレッサーの一番上にある棚を開けてください、もちろん鍵は開けてあります』

母親に言われるままにドレッサーの一番上にある棚を開けると、そこにはサプリメントを入れるようなプラスチック製の容器がいくつも入っていたのです。

『このプラスチックの容器の中には、私のDNA構成を再現できるタブレット錠剤が入っています。この錠剤を飲むと身体の隅々までDNAが組み替えられるので、あなたが飲めば母さんと全く同じ姿になるわよ。ただし、母さんの記憶を百パーセント同じになるわけじゃないけどね。この錠剤を飲んだ人の脳には私の行動記録や日記と言った膨大なデータが書き込まれるようになっているわ。周りから見れば母さんにしか見えないくらいの必要な情報は全て揃ってるから、私の得意料理だってすぐに作れるわよ』

「それって、この錠剤を僕に飲めってことなの?」

『まぁ、いきなりこんなことを言われても半信半疑なのが普通よね。だから、まずはお試し用にほんの五分間だけ母さんの顔に変わる即効性の飲み薬もあるので、それから試してみるのもいいわよ』

棚の中にはタブレット錠剤だけでなく、飲み薬、さらにカプセル薬が入っていた。

『母さんからのお願いは凛太郎に伝わったわよね。この映像はあなたにしか再生できないから、もう一度見たくなったら鏡の下にある一番左のボタンでリピートできわ。母さんからのお願いをあなたに託しますね』

母親の映像が終わると鏡の中には自分の姿が映し出されていた。鍵の掛かっていたドレッサーの棚も凛太郎だけが開け閉めできるようになっていた。部屋の中を見回すと母親のバッグや衣装からコート類にいたるまで、ドレッサーの他の棚にはメイク道具や小物のアクセサリーの類のものまで用意されていた。

「これが、さっきの映像で母さんが言っていた薬か。。。」

凛太郎は隠し部屋という静寂な空間の中でポツリこぼしていた。目の前に並べられているプラスチックケースに面と向かいながら、母親の言葉に半信半疑な状態だった。様々な薬の中から飲み薬を真ん中に置いて考え出していた。

「この飲み薬を飲むとほんの五分間だけ母さんの顔に変わるって言ってたよなぁ。まずは母さんが言っていることを確かめてみないとね」

飲み薬は一回分の飲み切りタイプのため、その場で一口で飲み込んだ。

「母さんの話だとすぐに母さんの顔に変わるはずなんだけど、何も起こらないなぁ」

鏡の中を覗いていても凛太郎の顔は何の変化も起きなかった。しかし、次の瞬間になって首から上が高熱を出したかのように熱く感じていた。まるで頭の上から自分がバターのように溶けていくようだった。首から上の感覚が無くなったかと思うとすぐに新しい感覚として戻ってきた。その感覚は凛太郎がいつも感じている感覚とは違うものだった。

「わっ!!」

甲高い声が響いたかと思うや、目の前に映る姿を見て凛太郎は驚愕してしまった。肩から上が凛太郎の母親の姿に変わっていた。凛太郎は自分の顔のパーツを一つ一つ手で触りながら確認していた。

「サラッとした母さんの黒い髪、広いおでこにスッとした鼻筋、何よりも唇とほっぺたが柔らかくて気持ちがいい。きれいな歯並びも母さんそのものだし、艶々の白い素肌も母さんと全く同じで、僕がいつも聞いている母さんの声とは違う、母さんの地声が聞けるなんてね」

凛太郎が表情を変化させると鏡の中にいる母親の顔も同じように表情を変化させてくれる。どうやら凛太郎は肩から上が母親の姿になってその状況を楽しんでいるようだった。

「凛太郎。母さんからのお願いを聞いてくれますよね」

凛太郎は母親の口調を真似てみると全く同じトーンで喋ることができてしまった。さっき飲んだ粉薬によって喉から上は母親の姿に変えられたことが間違いないのだ。凛太郎はそのまま立ち上がり身体に目を向けたのだが、身体は凛太郎のままだったので、母さんのメッセージが本当だった。さっき母さんが言ったタブレットを飲めば完全に母親の姿に変わることができるのだと確信する気持ちに変わっていた。

「凛太郎。今こそタブレット錠剤を飲みなさい、そうすればあなたの身体は母さんの身体へと変わるのです」

まるで母親が命令しているかのように、自分に自己暗示をかけている凛太郎だったが、どうやらここで飲み薬の効果は無くなってしまったようだ。鏡の中には自信に満ちた凛太郎の姿がはっきりと自分を見つめ返していた。

「母さんがさっきの映像で言っていたことって本当だったんだね。これから母さんからのお願いを叶えてみせます!」

まるでそこに母親がいるかのように凛太郎は鏡に向かって話かけていた。ここでさっきの映像をリピートしようと鏡の下に目を向けると、いつつかのボタンがあることに気づいた。

「確か、さっきの映像をリピートするには一番左のボタンを押すんだったよな。でも、こうなると他のボタンが気になってしまうんだよなぁ。他に何か準備されているかもしれないから、一番右にあるボタンでも押してみよう」

一番右のボタンを押すとさきほどと同じように母親の映像が流れ始めた。

『凛太郎、あなたったらやっぱり母さんの思った通りだったわ。一番左のボタンを押しなさいと言えば、一番右のボタンを押すのはわかっていたわ。母さんの用意した薬について確信を持ったわよね』

凛太郎の母親は最初からこのボタンを押すことがわかっていたかのようなメッセージが流れてきた。

『きっと、これからタブレット錠剤を飲もうとしているのよね。この薬はさっきの飲み薬よりもすごくて、内面から母さんのように振る舞えるようになるわ。思春期に入ったばかりの凛太郎には刺激が強すぎるかも知れないけど、薬の持続時間は約二十四時間、一緒に入っている仁丹のような銀色の粒薬を飲めば効果を無くすこともできるわ。それじゃ、凛太郎。父さんのことはあなたに任せたわね。よろしくお願いよ』

目の前の映像が消えると寂しさとともに緊張感が高まって来た。寸分違わずに母親の姿になれる。そう思うだけで凛太郎の胸の高鳴りは抑えきれなくなっていた。

「母さんの身体で何かやましいことをするんじゃなくて、父さんを慰めるためにすることなんだから」

そう言って凛太郎はドレッサーの前で立ち上がり、隠し部屋の中をグルリと見回しながら母親の持ち物を確認していた。ここにある母親のものは全て凛太郎が自由に使っていいのだ。吊るされている衣装、トップス、ボトムス、衣装ケースの中にキレイに収納されている下着、キレイに並べられたヒールの高い靴に至るまで、コーディネートは自由だった。ドレッサーの棚にあるメイク道具も使い放題で外出用の小物も自由に使えるのだった。凛太郎のスマホが振動すると父親からのメッセージをすぐに確認した。

『凛太郎。昼過ぎには帰るって言ったけど、たぶん二時ごろに戻るよ。悪いんだけど昼ごはんでも準備して待っててくれ』

オーケーのスタンプを送り返した凛太郎は、自分のスマホの電源を切り母親のドレッサーの棚に仕舞った。スマホはここに隠しておくようにという母親のメッセージが棚の中にあったためだ。

「父さんが帰ってくるまで、あと四時間あるのか。。。」

時計に目をやるとちょうど十時を回ったところだった。目の前にあるタブレット錠剤を飲めば父親が出社する明日の朝までは十分に母親の姿でいられる。凛太郎はタブレット錠剤の入ったプラスチックの容器を開けると薬を手に取って口の中に放り込むのだった。



リビングにある時計の短針が二時を少し過ぎたところで、玄関の扉が開き凛太郎の父親が予定通り帰ってきた。父親はリビングへと通じる長い廊下を奥へ奥へと進みながら、リビングの方から流れてくる懐かしい香りを感じていた。

「ただいま〜、凛太郎。おっ、昼からカレーなのか?」

父親はリビングの扉を開くと自分の声を響かせた。リビングには懐かしいカレーの香りでいっぱいになっていた。

「お帰りなさい、あなた」

凛太郎が出迎えてくれたものと思っていた父親は、聞き覚えのある声に驚いていたのだが、恐る恐る対面式のキッチンに立つ声の持ち主を確認すると優しそうな顔で微笑む白地に青い花柄エプロン姿の女性がそこにいたのだ。

「瑞希(みずき)!!」

そこに立っていたのは一年前に亡くなった妻の瑞希だった。凛太郎の父親はその瞬間、手荷物を床に落としてしまっていた。

「あなたの大好物の特製カレーライス、できましたわよ。お座わりになって」

彼女はそう言って食卓の上にあるランチマットの上に山のようなライスが鎮座し、その回りにカレーがかけられている彼好みの一皿を置いていた。父親は彼女に言われるがままに椅子に座って目の前にあるカレーライスをよく見ていた。それを見るだけでも香りも見た目も、たぶん味も瑞希のものに間違いなかった。

「『命日に会いましょう』ってお前が死ぬ間際に言ったあの言葉、本当だったんだな」

自分のカレーライスを用意している彼女に父親は話していた。

「そう言えば、凛太郎の姿が見えないけど会わなかったのか?一緒に昼ごはん食べるって返事は来てたのに、なぜかあれから連絡ができないんだ」

彼女は自分の皿を慎重に運びながら父親の向かいの席に皿を置き座った。

「凛太郎とはさっき会ったんだけど、二人で過ごして欲しいって友だちの家に泊まりに行ったみたいよ。あの子も気を使うようになったのね。そして、今日は私の命日、死の直前に言った言葉は嘘なんかじゃないのよ。あなたとこうやって再会するのを楽しみにしてたんだから」

すると父親は立ち上がり自分の部屋からの妻の遺灰が入っている骨壺を持ってきて中を確認したのだが、なぜか遺灰は無くなっていた。

「まさか、遺灰から妻が蘇ったなんて思ってるの?遺灰から骨となり、それに肉がついて再び動き出す。そうよ。そんな奇跡はまさに今あなたの前で起きてるのよ。遺言でお願いしていた通り、ウォーキンクローゼットの中にある隠し部屋に私の遺品を整理してもらって助かったわ。そうでもしなかったらこうやって復活しても恥ずかしくて自分の姿を見せられなかったかもね」

父親は彼女の姿をよく確認してみると、生前と同じように軽くメイクをして、爪先にもマニキュアを塗り、髪もキレイにブローしていた。いつも部屋着として使っているベージュのワンピースに身を纏ってその上にエプロンをかけて微笑んでいたのだ。

「瑞希、じゃあお前は本当に瑞希なんだよな。遺灰から蘇るなんてことがあるものなのか?まるで夢を見ているようだ」

すると彼女は自分の手を父親の手に重ねて合わせてきた。彼女の手からは人間としての温もりをしっかりと感じることができた。

「夢なんかじゃないわよ。今日だけ特別にこの世に戻されたのよ。冷めちゃうから早く食べましょう!」

二人の様子を黙って見ているカレーライスは、まるで食べてくれと言わんばかりだった。このタイミングで父親のお腹が鳴り響き、リビングの中は二人の笑い声で包み込まれて久しぶりの食事を楽しみ始めていた。



食事が終わってからの食器洗いはいつも父親の役割だった。二人分のお皿を洗うだけなのであっという間に終わらせると、食後のひとときが始まった。リビングに置かれている革張りのソファーに密着するように座ると、お互いの温もりを感じるのだった。ローテーブルに置かれたコーヒーカップに手を付けることもなく、ただ一緒にいることだけで良かった。

「私のいない一年ってどうだったかしら?」

静まり返った部屋の中には彼女の声が先に響いていた。彼女の匂いを確認していた父親は少しためらうような感じを見せたが、ほんの少し考える時間を持ってゆっくりと口を開いた。

「瑞希のいない一年はあっという間だったよ。凛太郎もいるのに悲しんでばかりではいられないだろ。ただ、なんでもない街を歩く時にすごく寂しく感じたよ。その場所で瑞希の姿を見ることができないんだって思うと絶望しそうなくらいだった」

すると彼女はソファーから立ち上がり、父親に向き合うように立った。

「そりゃそうよね。最愛の妻を亡くした悲しみは簡単に消えるものじゃないでしょ」

彼女がそう言うと彼女をしっかりと抱きしめた。抱きしめながら父親の目には一筋の涙が流れている。

「この悲しみは時間とともにゆっくりと癒やされていくのよ。そう、こうして一緒にいることでも慰められるでしょう。こうやって一緒にいられるのは短い時間だけど、『二人きり』でいられるのは今日だけよ。明日の朝には私はまたいなくなるわ。こうやって戻って来られたのもあなたの痛みを少なくするためなんだと思うのよ」

そう話しながら自分の指を使って涙を拭ってくれた。

「じゃあ、今日は久しぶりに『二人きり』で過ごせるんだな」
「そうなるわね。私はずっとあの世で過ごすものだとばっか思っていたのよ。一年ぶりにこの世に戻れるなんて私だって驚いているけどね。とにかく今日この日を楽しく過ごしましょうね」

久しぶりに会った自分の妻は以前と変わらぬ口調で話してくれた。彼女は彼に素敵な笑顔を振りまくと自分の顔を彼に近づけて唇を奪っていた。その勢いはすぐに収まることも無く、お互いに強く抱きしめ合っていた。



さっきまで夕焼けが広がっていたはずの寒空は、すぐに真っ暗になってしまった。秋が深まって行く中、昼よりも夜の時間がだんだんと長くなっていることを実感してしまう。冷え切った玄関の扉を開け、二人が玄関に入り扉が閉まると二人は自然とお互いの唇を重ね合わせていた。

二人は外でデートをして帰って来たのだ。デートと言っても近所を散歩して気になるカフフェに立ち寄ってお茶をしたり、気になるお店に入ると小さなアクセサリーを買って、どこにでもあるような定食屋さんで一緒に夕食を済ませ、コンビニで買物をして来ただけだった。普段の何でもないようなことこそ二人が望んだ過ごし方だったのだ。

革靴を脱ぎ捨てた彼は寝室に向かっていた。玄関に残された彼女はお気に入りのエナメルピンクのハイヒールを丁寧に脱ぐと、彼女はそのヒールを見つめながら、二人の間にできた一年という時間がいかに大きなものなのかを感じつつ最後のひと時を過ごす覚悟を決めた。

彼女が寝室に入ると彼はシャワーを浴びに出ていってしまった。寝室に一人残された彼女は冷え切っている寝室の中、玄関からハイヒールを持って来るとウォーキンクローゼットの奥にある隠し部屋へと入るのだった。ドレッサーの前に座り、鏡に映る自分の姿を確認していた。

「本当にやっていいのよね……」

そう呟くと部屋の中でこれから使えるようなちょうどいい下着を探してみるのだった。こんな時はいつもダークブルーのレースを選ぶことにしているのだが、ちょうどいいものがプラケースの中に収められていた。準備ができると部屋を閉めて寝室へと戻った。もちろんハイヒールは元の棚に収めておいたのだ。

すぐに彼が戻って来たので今度は彼女がシャワーを浴びに向かった。バスタオルとさきほど準備した下着を用意して体を入念に洗っていた。素肌に直接触れるのも違和感を感じることがないのが薬の効果を感じずにはいられない、生まれて来たときからこの体だったような感覚まであるから本当にリアルなのだ。これから始めることもこの体が要求している。そんな感じが強かったのだ。

彼女が寝室に入ると二人でベッドの上に飛び込み、身体を絡み合わせお互いの距離感が無くなるように密着させていた。ベッドの上には彼女が横たわり、その上に覆いかぶさっている彼は彼女と少し距離をおいた。

「これからも瑞希と一緒にいたいなぁ。凛太郎のためにもそれがいいだろう」

息遣いがわかるほどの距離で彼は言った。

「それはできないわ。私がここに戻されたのは今日だけなんだから」
「それは分かってるけど、やっぱり俺一人で凛太郎を育てるのは難しいよ」
「とにかく、今はこの状況を楽しみましょうね。あとの話はそれからにしませんか?」

彼女がそう言うと二人のボルテージは一気に高まり、愛情を確認するためのお互いの喘ぎ声とベッドの軋む音が寝室の中に鳴り響くのだった。それはまるで、あと少しとなった残り時間を惜しみつつ楽しむのだった。そして、二人はいつのまにか眠りに落ちてしまっていた。



ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ。

外が明るくなるや枕元の目覚まし時計が鳴り響く、いつもなら目を覚まして寒さのために布団の中に再び潜り込もうとするのだが、ゆっくりと布団から出るとトイレに向かった。個室でゆっくりと用を足しながら、凛太郎は頭の中で昨日の出来事を思い返すのだった。

それは、思いもしない出来事だった。父親が急用で家を出るとちょうど一年前に亡くなった自分の母親が愛用していたハイヒールを見つけ、その後、父親の部屋にあった隠し部屋に入るとドレッサーの鏡に亡くなった母親からの映像が流れて、その願いを叶えるべく自ら母親になりきり父親と接することになったのだ。

凛太郎にとって祝日は父親とゆっくりと過ごせる貴重な休みなのだが、昨日は特別に自分が母親になり変わって父親と久しぶりのデートを慣行した。帰宅後には母親の姿のまま凛太郎にとっての初体験を経験してしまったのだ。亡くなった母親からの願いでなければできないことなので思い出すと苦笑いしてしまった。

昨夜、やることをやってしまうと父親はそのまま眠りについてしまったので、そのまま静かに隠し部屋へと入り、仁丹のような銀色の粒薬を飲んで元の姿に戻り自分のベッドで眠ったのだ。父親が目覚める時間よりも早い時間に目覚まし時計をセットしておいたので、外がまだ明るくなり始めた頃に目を覚ましたのだ。

凛太郎はトイレから出てリビングへと向かった。

「おはよう、凛太郎」

リビングに入ると聞き覚えのある声に驚いたのだが、恐る恐る対面式のキッチンに立つ声の持ち主を確認すると優しそうな顔で微笑む白地に青い花柄エプロン姿の女性がそこにいたのだ。

「えっ!?母さん?」

そこに立っていたのは紛れもなく凛太郎の母親だった。凛太郎の母親は何やら早朝から準備をしていた。挨拶をした母親は凛太郎の目の前までやって来てとびきりの笑顔を見せながら、凛太郎の両肩に手を添えながら口を開いた。

「凛太郎。昨日は私のお願いを聞いてくれて嬉しかったわ」

母親からそう言われた凛太郎は、母親の手を振り払って父親の寝室に向かった。寝室のベッドには父親の姿は見当たらない、さらにウォーキンクローゼットを開けて見ると、隠し部屋の目の前にある床にはなぜか母さんのハイヒールが置かれていた。

「えっ、これってまさか!?」

次の瞬間、凛太郎は自然とそれに自分の足を入れて隠し部屋を開けていた。すると、凛太郎の予想した通りに隠し部屋の中にあるドレッサーの上には例の薬が置かれていた。

「このプラスチックの容器の中には、私のDNA構成を再現できるタブレット錠剤が入っています。この錠剤を飲むと身体の隅々までDNAが組み替えられるので、あなたが飲めば母さんと全く同じ姿になるわよ」

隠し部屋の出入口には、どこか聞いたことのあるフレーズを語る母親が立っていた。

「凛太郎、たぶんあなたはリビングで私の姿を見た瞬間、気づいたと思うけどあなたが慰めてくれて本当に嬉しかったの。これであなたも一緒に母さんの遺言を継ぐことができるわね」

その言葉を聞いた凛太郎は何がなんだかわからなくなってしまっていた。そうしていると母親は目の前にいる凛太郎を抱きしめるのだった。

「母さんが亡くなって一年が過ぎたけど、あなたの父さんとして凛太郎と一緒にいられず寂しい思いをさせたと思ってるわ。本当に悪かったと反省しているのよ。。。でもね、それもこれも本業の傍らこの薬を開発するために頑張っていたの。それで完成させたのがここにある薬だったのよ」

母親に抱きしめられた凛太郎は、母親の香りに久しぶりに包まれながら父親の温もりを同時に感じていた。そのままの状態で話の続きをただ聞いていた。

「お父さんに送った遺言と言うのは、凛太郎にも寂しい思いをさせたくないので、私が研究していた薬のために私の身体を使って欲しいということだったの、父さんと母さんはお同じ職場で特別な任務についていたからね。結局は、私が主にやっていた研究を父さんが引き継いでほとんど完成というところまで来たのよ。あとは、人体実験が必要だったので、凛太郎にも協力してもらいたいと思ってね。こんな風に私が準備したってわけ」

すると、凛太郎は母親の胸から顔を少しだけ引き離して言った。

「と、と、か、母さん。私が準備したってどう言う意味なの?」

凛太郎を抱きしめていた母親はその場で立ち上がると、ドレッサーの一番左のボタンを押した。この部屋に凛太郎が初めて入った時に流れた映像が再生されている。

『凛太郎、凛太郎……凛太郎、凛太郎なのよね。あなたがこの映像を見る頃には、母さんはこの世にいないことでしょう。母さんのいない生活はどうですか?あなたもだいぶ大きくなっていることでしょうね』

ここまで流れた所で再びボタンを押して鏡の状態に戻してしまった。

「凛太郎は、この映像が母さんが亡くなる前に準備したものと思っているでしょうが、そうじゃないのよ。これも私が準備したものなのよ。このマンションを買ったときからあるこの部屋も普通の鍵で扉が開く部屋だったけど、母さんのハイヒールを鍵として扉が開くように改造して遺品を置くようにしたのよ。最近になって凛太郎の足のサイズだったら母さんのハイヒールが入りそうだったので、凛太郎に気づきやすい場所に置いておいたってわけ」
「じゃあ、父さんは全部知っていたってことだよね」
「確かにそうなるわね。でもね、それも母さんの遺言の中に入っていることだったから、今回の計画はその意志をしっかりと引き継いだだけなのよ。そうそう、父さんと母さんの足のサイズが実は同じだってこと知ってたかな?だから、このハイヒールを鍵にしてしまおうって考えたってわけ」
「わかったよ。さすが僕の父さん、そして、母さんだね」

そう言った凛太郎は何かモヤモヤとしていた父親とのわだかまりがようやく消え、目の前にいる母親の姿をした父親に向けて言いたいことが吹き出していた。

「もしかして、今日は母さんと僕として一緒にデートできるの?」
「もちろんよ!昨日のお礼として凛太郎とデートしようと思って、朝早く起きたのよ。さっそく準備しましょうね」
「うん!」

母と息子の久しぶりの会話が終わると二人は着替えを済ませて出かける準備をした。そして、玄関に置かれた母さんのエナメルピンクのハイヒールに足を滑らすのを見ながら凛太郎は言うのだった。

「ねぇ、母さん。母さんに新しいハイヒールを買ってあげるね。今まで貯めておいたお年玉があるから、上から下まで全部買ってこようよ!」
「凛太郎、あなたの気持ちは嬉しいけどね。それは大事にとっておいたら?」
「えっ、だってまたそのうち僕が父さんとデートしてあげなきゃいけないでしょ」

それを言った後に表情が曇り顔から笑顔に変わるのを凛太郎は見逃さなかった。

「あっ、そうなのね!じゃあ、父さんと凛太郎で半分ずつ出して母さんにプレゼントしてちょうだいね」

それはまるで家族三人が一つの空間で再会したようだった。今はとても仲の良い母親と息子として二人は颯爽と玄関から出て行くのだった。

(完)












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