姉の旅行
Tira


(8)

「あの、優奈です」
 姉の部屋の前で扉をノックすると、「どうぞ」と三木畑の低い声がした。不思議に思いながら扉を開けると、三木畑が自分の姿で腰にバスタオルを巻き、ベッドに座っていた。
「えっ……」
「ごめん、驚いたかな。早く扉を閉めて」と、部屋から声が漏れない様に囁いた彼に「あっ、はい」と、慌てて扉を閉めた優奈は、立ち上がった三木畑に視線を移した。
 広い肩幅に、薄っすらと割れている腹筋。バスタオルの下に見える太ももや脹脛は、ラグビーで鍛えられた筋肉で盛り上がっていた。男性らしい肉体美に、自然と鼓動が高鳴る。
「あまりジロジロ見ないでくれないかな。こんな格好を女子高生に見られるのは恥ずかしいから」
「す、すいません」
 視線を外した彼女の目に留まったのは、ベッドの上で綺麗に折り畳まれている、髪の毛が付いた肌色のスーツだった。
「ねえ優奈ちゃん。このスーツに興味があるなら、一度来てみないかい?」
 三木畑は、そのスーツを持ち上げ、服を合わせる様に体の前で広げて見せた。
 厚みが無く、のっぺりとしたスーツは三木畑が着ていた時よりも二回りほど小さく見えた。ガタイの大きな彼が持つと尚更小さく見え、本当に着ていたとは思えない。それほど伸縮性があるのだろう。髪が垂れて幽霊の様にも見える。彼はスーツの背中を見せると、割れ目に手を入れて左右に引っ張った。
「ここからズボンを穿く様に足を入れて、下半身を着るんだ。その後はスーツを引っ張りながら両腕を入れて、頭を入れる。両肩がきちんと入れば、自然に割れ目が閉じるよ」
 丁寧に説明する三木畑に、「あ、あの。私は別にそれを着たいと言ったつもりは……」と、呟いた。
「他人に変身出来る機会なんて、まず無いと思うんだ。しかも葵さんみたいにとても魅力的なスタイルの女性にねっ」
「それは……そうですけど……」
「僕が着ていたからかな? ちょっとスーツの中を触ってみてよ」
 三木畑は優奈に近づき、スーツを差し出した。無言で受け取った彼女は「か、軽い……」と言って驚いた表情を見せた。
「薄手の服と同じくらいじゃないかな。優奈ちゃんが思い切り引っ張っても破けないよ。僕が引っ張ってもまず無理だからね」
「そんなに強い素材なんですか」
「うん。伸縮性もすごいけどね」
 スーツの両肩を引っ張ってみると、ゴムの様によく伸びる。
「それよりも、スーツの内側を触ってみて」
「あ、はい」
 言われた通り、割れ目に手を入れて内側を触ると、とてもすべすべして触り心地がいい。まるでシルク生地の様な滑らかさがあった。
「すごい……」
「このスーツは常に清潔さを保つための清浄効果もあるんだ。スーツを着ると自分の皮膚と一体化するから汗などはスーツから外に出ていく。要は人の体から排出される全てのものはスーツを介して外に出る。もちろん、表面は普通に洗えば……だから、僕がそのスーツを着て風呂で洗ったから大丈夫だよ」
 優奈は無言でスーツを色々な角度から見ていた。顔は皺くちゃになっているが、眉毛の一本一本が精密に付いていて、唇の縦皴も非常にリアルだ。乳首の色や手入れされた陰毛、足や手の爪も人工のものとは思えない。本当に姉の皮を剥いだ感じだった。
「試しに頭だけ被ってみたら?」
「えっ?」
「どんな感じか想像がつくと思うよ」
「は、はぁ……」
 彼の提案に少しの抵抗を覚えながらも、優奈は背中の割れ目を両手で広げ、髪を避けつつ内側から頭の中を覗き込んだ。目や鼻の穴に当たるところ、また唇の隙間から光が入っている。
 恐る恐る顔を近づけ、割れ目に頭を入れると、フルフェイスのヘルメットを被る様に押し入れた。滑らかな裏生地がおでこや頬に当たって気持ちがいい。優奈の顎がスーツの首を通過すると、スッキリとした首元になった。鼻が綺麗に収まったかと思うと、自然と目や唇の違和感が無くなった。頬に感じていたシルク生地の様な滑らかな触れ心地も消え、マスクを被っているという感覚もない。
「えっ……」
 頬を触ると、自分の頬の様に触られた感触がある。呟いた唇も、元々自分の唇であるかの様だ。軽く髪を引っ張ると、頭皮にその感覚が伝わる。
「どう?」
「あ、あの……」
 三木畑が壁際にある姿見を指差した。その姿見の前に立つと、皴の寄った姉の小さなスーツを体の前にぶら下げ、不思議そうな表情で見つめ返す葵がいた。
「お、お姉ちゃん……」
 姉が鏡に向かって呟いている。
「僕はあまり視力が良い方じゃないから、葵さんのマスクを被った時はよく見える様になったよ。視力も葵さんと同じになっているから、優奈ちゃんと葵さんの視力が違うなら、その変化を感じる事が出来ると思うけど」
「私は別に……っていうか、声がお姉ちゃんみたいな感じ」
「そうだね。首まで被っているから葵さんみたいな声になってるけど、もう少しきちんと着なければ本当の葵さんの声にはならないよ。もちろん、僕たちが聞く葵さんの声と、葵さんの立場で聞く声とは少し違って聞こえるけど」
「ほんとにお姉ちゃんが私を見てるみたい。それなのに、私の喋りに合わせてお姉ちゃんが喋ってる」
「面白いよね。僕も最初はそう思ったよ。そのままスーツを強引に引き延ばして、背中の割れ目から体を入れる事も出来るけど、一度頭を脱いで、足から入る方がいいと思う。それに……」
 三木畑はタンスからパステルブルーのブラジャーとパンティを取り出すと、先ほどまで着ていた白いパジャマと合わせて優奈に差し出した。
「裸になって着なければならないから、自分の部屋で着ておいで。出来たら、葵さんのスーツを着た優奈ちゃんを見てみたいから、戻って来て欲しいんだ」
「あ……はい」
 姉に似た声で返事をした優奈は、頭からスーツを脱ぐと、手渡された姉の服と共に部屋に戻った。
 心臓がドキドキと跳ねている。自分が姉の姿になるなんて――。
 一度呼吸を整えた優奈は裸になると、姉のスーツを手に取った。そして、ベッドに座りながら背中の割れ目に片足ずつ入れた。滑らかな裏生地が優奈の足を包み込む。ストッキングを穿く様に引っ張りながら立ち上がり、尻まで包み込んだ。
「す、すごい……」
 足の指先から踵、脹脛や太もも――更には下腹部や尻までがスーツと一体になっている。足の裏には絨毯の感触が伝わり、足の指も思い通りに動く。これが姉の足なんだと思いつつ、割れ目に両腕を入れ、五本の指を姉の指に押し込んだ。
 自分の体が包まれている部分から同化してゆき、葵の皮膚となる。いつの間にか身長も姉と同じ高さになっている様な気がした。
「後は頭を被れば……」
 胸の前に垂れている姉の頭を手に取り、髪を気にしながら先ほどと同じ様に被ると、全身からスーツを着ている感覚がなくなった。
 壁際に置いている、姉の部屋にあった物とお揃いの姿見の前に立つと、思わず「あっ……」と声を上げた。その姿見には、一糸まとわぬ姿で優奈を見つめる葵が立っている。
「お姉ちゃん……。私、ほんとにお姉ちゃんになったんだ」
 はっきりとした姉の声。そしてDカップの胸に括れたウェスト。尻から足まで伸びる滑らかな曲線。優奈も羨む、抜群のスタイルがそこにあった。
 髪を掻き上げてみたり、振り向いで尻を映してみたり――。
「これが私なんだ……」
 葵の声で呟く。綺麗に処理された下の毛を触ると、やはり自分の毛を触る様な感覚だった。下から掬い上げる様に胸を持ち上げると、自分の胸とは明らかに違う重みを感じた。
「すごいっ! 誰が見てもお姉ちゃんだ」
 自然に笑みが出ると、姿見にも普段と同じ姉の笑顔があった。
 姿見の前で軽く一回転した彼女は、姉の下着とパジャマを身に着けると、三木畑の待つ部屋を訪れた。
「やあ。やっぱり優奈ちゃんが着ても、葵さんそのままだね」
「私がお姉ちゃんになれるなんて信じられません。小さい頃からずっと憧れていたので」
「良かったね。一度、葵さんの真似をして喋ってみて」
「えっ……あ、はい」
 そう答えたが、いざ姉の様に喋れと言われてもピンとこない。
「あれ……。お姉ちゃんってどんな感じだったかな」
「う〜ん。僕の事を三木畑君って呼ぶよ。それから敬語は使わない」
「そうですよね。えっと……」
 迷っていると、三木畑が笑いながら「ねえ優奈ちゃん。葵さんになっているからじゃないけど、僕に敬語は使わなくてもいいよ。僕はもっと優奈ちゃんと親しくなりたいんだ」と、言った。
「えっ、あ……はい」
「じゃあ、一階にいるご両親と軽く話してみたら? 葵さんの喋り方が何となくイメージ出来ると思うよ」
「お姉ちゃんの姿のまま……ですか?」
「うん。ほら、僕がご両親と話していた時の事を思い出してみて」
「…………」
 何となく分かる気がする。それでも、姉として親と接する事には緊張と恥ずかしさがあった。もし、葵じゃないとバレてしまったら――と考えると、気持ちが前に進まないのだ。
「大丈夫だよ。誰が見ても葵さんだから。心配しないで堂々と話せばいいんだ。それに、喉が渇いたから良かったら麦茶を持って来て欲しいんだ」
 三木畑に背中を押された優奈は、「じゃあ……行ってきます」と呟き、部屋を出た。
 階段を下り、緊張した趣でリビングに入ると、父親はまだソファーでテレビを見ていた。
「どうしたの葵」
 強張った表情が気になったのか、キッチンテーブルの椅子に座っていた母親が声を掛けて来た。
「えっ。あ……うん。ちょっと喉が渇いて」
「そう。夜中にエアコン付けっ放しにすると乾燥するから、タイマーを掛けておきなさい」
「うん、分かった」
 ぎこちない笑顔で答えながら、冷蔵庫にある麦茶をグラスに注いだ優奈は、それとなく父親に視線を送った。大好きなサッカーの試合を観る父親には、葵の姿に変身した優奈は目に留まらない。両親は目の前にいる葵が妹の優奈である事を認識しなかった。
 それが妙に嬉しくて、鼓動が弾む。
「じゃあ寝るね。お休みなさい。父さん、母さん」
「お休み」
「ん……」
 両親が葵だと思って返事をする。片手にグラスを持ちながら笑いをこらえた優奈は、麦茶をこぼさない様に葵の部屋に戻った。
「どうだった?」
 部屋に戻ってきた優奈に声を掛けた三木畑に、「全然大丈夫でした。あまり話さなかったけど、二人とも私の事をお姉ちゃんと思い込んでいました。はい、麦茶」とグラスを差し出した。
「ありがとう。優奈ちゃん」
 一口飲んだ彼は、「自慢になっちゃうけど、ほんとにそのスーツは良く出来ていると思うんだ。もちろん、僕だけの手柄じゃないけどね」と笑った。
「私もこんなスーツが手に入ったらいいなって思います」
「優奈ちゃんなら、誰に変身したい?」
「私ですか? う〜ん、そうですね」
 少し考えた彼女は、「やっぱり、このお姉ちゃんの姿が一番嬉しいかな」と、葵の腕で体を抱きしめた。
「そうなんだ。てっきりアイドルやモデルになりたいのかと思っていたよ。でも、葵さんもすごく美人だよね」
「憧れなんですよね。お姉ちゃんって……」
 照れながら話す優奈に、三木畑は少しだけ間をおいて口を開いた。
「ねえ優奈ちゃん。その……憧れる葵さんの事をもっと知りたくないかな?」
 少し戸惑い、視線を逸らしながら話す彼に、優奈は「はい?」と返事をした。
「僕は学生だけど、そのスーツを開発した研究者でもあるんだ。そういう意味で、その……優奈ちゃんにも少し協力してもらえたらと思って」
「協力ですか? 私に出来る事なら……」
「うん。今は優奈ちゃんにしか出来ない事なんだけど。あ、あの……」
 三木畑の顔が瞬く間に赤くなっていった。膝の上に拳を作り、次の言葉をどう切り出そうか考えている。
 その様子を見ていた優奈は、「あの……三木畑さんが言いたい事、何となく分かった気がします」と、同じ様に葵の顔で赤らいだ。
「う、うん。その……モニターとして色々と経験してもらえたら……と思って」
 彼の様子から、色々と経験するという意味が分かる。昼間、壁越しに聞いた葵の喘ぐ声。三木畑が姉の快感を体験していた事を思い出す。彼がこの体を使い、自慰に耽っていた姿を想像すると、自然と下半身が熱くなった。
「べ、別に……いいですけど……」
 姉の体への興味が羞恥心を超えた。葵はどんな風に感じるのだろうか。自分の体とはどう違うのか。姉になってオナニーをする事を考えると、鼓動が更に激しく高鳴った。
「そ、そっか。モニターになってくれるなら嬉しいよ」
 彼はまだ顔を赤くしながら優奈にチラリと視線を送った。
「その……私、具体的に……お姉ちゃんの姿で……してくればいいんですよね」
「えっ? し、してくるって?」
「え? ち、違うんですか?」
「い、いや……えっと……」
 話が噛み合っていない。どう切り出そうかと考えた三木畑は、「もしかして優奈ちゃん、葵さんの体で……その……オ、オナニーをするって思ったのかな?」と、言った。
「えっ? ち、違うんですか?」
 そう思っていた彼女は、これまでに無い真っ赤な顔を手で隠しながら答えた。
「あ……その……。う、うん。ごめんね優奈ちゃん。僕は、その……」
 彼はバスタオルを巻いた股間を隠す様に両手を添えている。その意味が分かった優奈は、「そ、そっちの事……なんですか」と、蚊の鳴く様な声で答えた。
「そ、そう……だね。そっか……そうだね。はは……確かに、まずは優奈ちゃんに一人で体験してもらう方がいいかもしれない。良かったら……試して来てくれるかな」
 何とも気まずい空気が流れる中、優奈は「と、とりあえず自分の部屋に戻って考えていいですか」と尋ねた。
「も……もちろんだよ。そ、それから嫌なら葵さんのスーツ、部屋で脱いで返してもらっても構わないよ。ほんとにごめんね。ビックリさせちゃって。でも、スーツを試着してもらうのは、僕としては誰でもいい訳じゃないんだ。それだけは分かって欲しいんだ」
 この雰囲気から早く抜け出したかった彼女は、三木畑の言葉に頷くと足早に自分の部屋に戻った。
「僕はダメだな……。自分の気持ちを上手く伝える事が出来ない。優奈ちゃん、怒ったかな……」
 上半身をベッドに預けた彼は、天井を見ながら溜息をついた――。

(続く)






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