姉の旅行
Tira


(1)

 コンコンと木製の扉を叩く乾いた音に「はい」と返事をした優奈は、扉を開いて部屋を覗き込む姉に対し、少し赤い頬で膨れっ面をしながら視線を合わせた。「入るね」と言いながら、タンスや姿見が置いてある妹の部屋を一通り目で追い、「ふ〜ん」と、両手を腰に沿えた。
「優奈ちゃん、夏休みなのに勉強してたんだ。偉いよねっ。制服姿って事は、高校に行くの?」
 姉の葵は、白いブラウスに紺のプリーツスカートを穿いた妹に笑顔で話し掛けてきた。
「もう少ししたら、友達と一緒に高校へ行くので。分からない問題を先生に聞こうと思って」
「そっか。高校の先生も夏休みまで学校に出て大変だね。まあ、部活もあるだろうから。数学? それなら教えてあげようか。大学じゃ、もっと難しい問題が出るから」
 机に向かって勉強している妹に寄り添った葵は、前かがみになりながらノートを覗き込んだ。優奈の視界に白いTシャツの胸が見え、姉が愛用している香水の香りが鼻をくすぐったが、彼女はノートを隠しながら「結構です。それより何か用ですか?」と尋ねた。
「別に用事があるわけじゃないけど、優奈ちゃんは何をしているのかなと思って」と、葵は机の後ろにある、淡いピンクの布団が敷かれたベッドに腰を下ろした。
「あの、勝手にベッドに座らないでもらえます?」
「えっ……ああ、ごめんね。普段はこんな風に話しているんじゃないの?」
 青いデニム生地のホットパンツから伸びる、艶めかしい生足を組んだ葵は優奈の背中に微笑んだ。
「いつもはそうだけど、今はそうしたいと思わないので」
 振り向こうともせず、参考書を捲りながら答える彼女に、「二人とも、今頃北海道で楽しんでいるかな?」と問うと、優奈は「ふう……」と溜息をついた。そして、机上に置いていたスマートフォンを操作し、左腕だけを後ろに伸ばして姉に見せた。液晶画面には、運河を背に自我撮りする葵と彼氏の笑顔が表示されていた。美男美女――お似合いのカップルだ。
「今日は小樽か。秋生のやつ、彼女の肩に手を回しちゃって。まあ、二人でバイトして五十万円貯めたって言ってたから、二泊三日の旅行、たくさん楽しめたらいいなっ」
「あの、勉強の邪魔になるんですけど」
「ああ、ごめんね優奈ちゃん。部屋に入った時から怒っているみたいだね。嫌な事を言ったかな? 二人が旅行から戻って来るまでの辛抱だから」
 葵はそう言うとベッドから立ち上がり、部屋を出て行った。
「はぁ〜。昼間からあんな声を聞かせないでよ。妹が隣の部屋にいるのに信じられない。全然勉強に集中出来ないしっ!」
 彼女は独り言を呟くと、大きな溜息を一つついた――。


 ――遡る事、数日前。
 優奈は姉の葵から突然の相談を受けた。
「優奈、ちょっといい?」
「あ、うん」
優奈の部屋、二人してベッドに腰掛けると、姉が嬉しそうに口を開いた。いつも優奈に自慢している彼氏と、大学生活最後の夏休みに北海道旅行を計画している――という話だった。彼氏は葵と同い年で長谷岡 秋生と言うらしい。イケメンでスポーツも出来、一流企業に内定していると話していた。
そんな彼氏と密かに思い出作りをする訳だが、異性との付き合いに厳しい両親が、泊りの旅行なんて許す筈がない。もちろん、それは分かっていたので策を練っていたのだが、その内容を聞かされた時は到底、信じられなかった。
「そんな事、出来る訳ないよ」
「それが出来るのよ。三木畑君が作った変身スーツならね!」
 姉妹の間で嘘なんて付いた事がない姉だが、流石に冗談だと思った。秋生の親友である三木畑という学生が、ベンチャー企業と共に開発した変身スーツを着て姉に成りすまし、彼らが旅行に行っている間、家に居座るというのだ。
「どんなに精巧なスーツか知らないけど、父さんと母さんにバレないなんて考えられないよ。特殊メークしたって、絶対にバレるって!」
「それが、本当に私そっくりに変身出来るの。優奈も見たらビックリするよ」
「お姉ちゃん。もう心は北海道だから、そういう風に見えるんだよ。他人が見たらすぐに分かるよ」
「秋生も全く分からないって言ったのよ。恋人なのに、見間違うってね」
「だ〜か〜らっ! 二人の心はもう北海道なのっ。目の前の事が見えなくなってるんだよ。しかも、彼氏の親友って男でしょ。男がお姉ちゃんとそっくりな姿になる? もう、何を言ってるのか分からないよ」
 優奈は、「はぁ〜」と溜息を付き、片手で目を覆った。
「――百聞は一見に如かず――って言うじゃない。旅行に行く日、スーツを開発した三木畑君と交代するから、彼をフォローして欲しいの。優奈が欲しがっていた、北海道限定のコスメを買って来てあげるから」
「お姉ちゃん……。私、三日間も父さんと母さんの不機嫌な顔を見るのは辛いよ。どうして止めなかったんだって、私に八つ当たりするに決まってる。いっその事、私も旅行に連れてってよ」
 嘆く妹に、クスっと笑った葵は、「……分かった。それじゃ、優奈が変身スーツを着た三木畑君を見て、父さんと母さんにバレるって感じたら、旅行は私の代わりに三木畑君に行ってもらうわ。親友同士で旅行に行くのも楽しいだろうし」と言った。
「えっ……でも、彼氏と……長谷岡さんと一緒に行きたいんでしょ」
「ええ。そのために二人でお金を貯めたからね。大丈夫、優奈は絶対にOKしてくれるから」
「……あの、先に謝るよ。ごめんね、お姉ちゃん」
「ふふっ。謝るのは実際に見てからにしてねっ」
 こうして葵は一通りの事を話すと、優奈の肩に軽く手を添え、部屋を出て行った。
「あ〜あ。お姉ちゃんって、一度決めた事は絶対に曲げないからなぁ。私が似てないって言っても、結局行くんだろうな。私が知らなかったって言っても、父さんも母さんも信じてくれないだろうし……」
 折角の夏休みが、姉のせいで憂鬱になる――そう思いながら、旅行当日を迎えた。

(続く)






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