バイパスの開通により旧道になった峠は、日中だとそれなりに通行はあるものの、深夜10時を過ぎたこの時間に走る車はまずいない。
そんな峠道で、俺はアクセルを思い切り踏み込んだ。
大音量のエキゾーストノート、あっという間にコーナーが目前に迫ってきた。
ブレーキングと同時に素早くハンドル操作とシフトダウン。車がスキール音を上げ横滑りを開始、カーブを描きつつコーナーに進入する。
ガードレール激突寸前にハンドルを戻すと、車はグリップを回復して猛スピードでコーナーを脱出する。
すべてのコーナーをほぼ全開で通り抜け、峠出口の看板通過時にストップウォッチを止める。
「よしっ」
俺は小さく呟く。しばらく落ちていたタイムが、かなりベストに近くなっている。
ベンチャー企業の社長という立場……しかも最近の対人関係の変化によりストレスが溜まりまくっている俺にとって、この峠道はほとんど唯一のストレス発散の場になっていた。
満足した俺は、目的地に向けて再びアクセルを踏み込んだ。
真夜中の研究室
作:ライターマン
小さな山のふもとには、小さな鉄筋二階建ての建物がひとつあるきりで、他には何も建っていない。
ここは俺の会社の商品開発研究所。つい半年前、「静かな場所で研究がしたい」という所長の希望により、人里離れたこの場所に建てられた施設である。
その建物の一室にはいまだに明かりが点いていた。予想通り、まだ中で作業を続けているらしい。
門扉は閉まっていたので、俺は180度ターンで道路と門扉の間に車を滑り込ませる。どうせ中の人間は1人しか残っていないだろうから、誰の迷惑にもならないだろう。
俺はカードキーを差し込んで、中に入った。
「……よお、来たのか。相変わらず派手な運転だな」
研究室の扉を開けると、中の人物が振り返ることなく声をかけてきた。年齢は26、若く顔立ちも整っているのだが、少し伸びた無精髭がだらしなさを感じさせる。
まったく、髭くらい毎日剃って欲しいものである。
「そうかあ?」
俺は首を傾げながら、そいつに近づいた。
こいつこそがここの所長……我が社の共同設立者にして、現在の主力商品のほとんどを開発している俺のパートナーである。
いろんな分野で非凡な才能を発揮したこいつは、自由気ままな性格で、学生の頃から趣味と勢いにまかせてやたら変な発明をしていた。
俺は「マッドサイエンティスト」とあだ名されたこの同級生に惚れ込み、誘いをかけた。研究テーマに制限は設けない。好きな研究をしてその成果を報告すればいい。俺はそれを事業化する。
こいつは俺の提案に二つ返事で承諾してやってきた。そして俺は、こいつの発明を元に今の会社を立ち上げたのだ。
実際に事業化できるのは10の発明の中の1つくらい。それでも会社はおおむね順調といえるくらいに成長し、ここに研究施設を建てられるまでになっている。
「それにしても……」
椅子に座ったまま、そいつが目を細めて俺の方を見る――正確には俺の胸のあたりを……だ。 「な、なんだよ?」
「いや……立派なバストになったもんだと思って」
その言葉に、俺の顔はあっという間に真っ赤になった。ぐっ、こいつは……
「あのなあ、誰のせいでこんなになったと思ってるんだよっ!!」
声を荒げる俺の胸で、二つの膨らみが揺れた。
「そう怒るなよ。まさか新しく発明した人工甘味料に、性転換の副作用があるなんて夢にも思わなくって――」
「そんなもんをコーヒーに混ぜて人に飲ますなっ!!」
まったく、こいつというやつは……
こいつの発明で迷惑をこうむった事は一度や二度ではないのだが、ここまではた迷惑なのは初めてだった。
にもかかわらず、こいつは苦笑いを浮かべるのみで、反省の色が全然見えない。
そう。三ヶ月ほど前、ここで出されたコーヒーを飲んでから、俺の身体は急激に変化していった。腰は張り出し、身体は丸みを帯び、ウエストは細くくびれて……
そして胸が膨らみ始めた頃に、ようやく原因に気がついた俺は、すぐにこいつに元に戻すための研究を開始するように命じた。研究中のテーマがあると最初は渋っていたこいつだったが、両方のテーマを同時に進めるということで、ようやく研究が開始されたのだ。
「……で、どうなんだ? 治療法の目処はついたのか?」
「まあまあ、そう慌てなさんな」
身を乗り出す俺に、のんびりとした口調で答えが返ってくる。相変わらずマイペースな奴だ。
「これがサンプルとして取り出したお前の体組織……そしてこれがその遺伝子だ。見てのとおり染色体は44+XX、完全な女性体だ」
「……ああ、それは前にも見た」
「……で、この組織を培養して、考えうる12の方法で処置を施してみた。その結果が……これだ」
ディスプレイにいろんな数値が書き込まれた数多くの画像が現れる。
「これは…………何がなんだかよく判らん」
食い入るように見つめてみたが、どこがどう変化しているのかさっぱりだった。
「やれやれ、これだけはっきりしてるのに見て判らないのか?」
「……すまん」
「じゃあ判りやすいように説明してやる。これらの処置を施す前と後とを比較した結果……」
ゴクリ……俺は思わず唾を飲み込んだ。
「どの方法も変化なし――つまり効果がなかったわけだ。治療法の目処はまだつかない」
ガクッ――!! 「おおお、お前というやつは……そんな事をもったいぶって話すなっ!!」
一瞬の脱力の後、俺は声を張り上げて叫んだ。
「……やれやれ。普通に考えれば、最初に飲んだものをもう一回飲めば元に戻りそうなんだがなあ」
頭を掻きながら呟く奴の姿に、俺は溜息をついた。それで元に戻れるのなら苦労はしない。その方法は最初に試して、最初に効果がないことが確認されている。
「だいたい……元に戻る方法なんてあるのかな?」
「お、おいっ!?」
「ちょっと考えてみろよ。XYからXXへの変換に比べて、XXの一方だけを変化させてXYにするのは数倍の困難が伴なう――そんな方法があるのかどうか……」
そう言うと、奴は溜息をつきながら首を左右に振った。だけど俺は、そんな言葉と動作に誤魔化されはしなかった。
「お前……まさかそんな理屈で俺が納得すると……本気で思ってるのか?」
「あ、あははは…………ごめんなさい」
俺が本気で怒っていることを感じ取ったのか、奴は顔を引きつらせながら謝った。
「しかしそのスタイル、そしてその顔……本当に美人になったな」
「それを言うなって――」
溜息交じりに呟く俺。出るべきところが出て、細い部分はしっかり細い身体、そして目鼻立ちの整った顔――女になった俺は、否定しようもなく美人だった。
この変化が始まった頃はいろいろと誤魔化していたが、ここまで変化しきってしまってはもう隠しようもなく、俺は結局、女性になった事を公表して体型に合った服を着るようになった。
当然、当初は大騒ぎになった……が、その後は意外なほどあっさりと受け入れられていった。
何故なら、こうなった原因を話すと聞いた人間のほとんどが、「あの人の発明で? ああ、なるほど」と返してくるからだ。
……そういう理由で納得できる話なのか? これが?
まあ、体型等を誤魔化す必要がなくなって、窮屈な思いをする事はなくなったのだが……ブラジャーやショーツといった女性用下着やスカートの感触にはいまだに慣れない。本当はスカートなんか穿きたくないしAブラジャーなぞ着けたくはないのだが、他に体型に合ったフォーマルスーツはなかったし、ノーブラでは人前に出るわけにはいかない。それに何より、会社の代表者として仕事を放棄する事はできない。
今、身に着ける女物の服の選定は、会社の女性職員に意見を聞いている。基本は濃紺のレディース用フォーマルスーツだが、場所や相手によってはベージュやピンクといった色も必要らしい。
最近は靴や下着、化粧品といった物に対する意見も多い。自宅でどんどん増えていく女物が、俺にとって最大の憂鬱の種になっている。
「なあ、前にも言ったが……そのまま女性として生きる気はないのか?」
「ないっ!!」
問い掛けに、コンマ1秒の間もおかずに俺は答えた。 「……何で俺が、女として生きなきゃならないんだよ?」
「だって、肉体的には女性だろ? 遺伝子も変化しているし……生理もあったからな。つまり子供も産めるってことだ」
「…………」
俺は顔を真っ赤にした。何でこいつが生理の事を知ってるかというと、最初の生理がこいつの目の前で始まってしまったからである。
「戸籍とかの性別変更が大変かもしれないけど……ま、書類上の話だから、できなくてもたいした問題じゃない」
……いや、それはかなり大きな問題だと思うぞ。
「それに変身したお前の女っぷりが評判になって、取引が増えて業績もアップしてるんだろ?」
「……だから嫌なんだよっ!」
こんな場所にこもってる人間が、どうしてそんな事まで知ってるんだ? 確かに業績はアップしているし、問い合わせや注文の電話は確実に増えている。以前なら、話をしても「若造が」という態度でまともに取り合ってくれなかったクライアントから、逆に声がかかるようにもなった。
それはいい……それは。だけどそいつらの目的の半分が、俺の身体目当てだと思うと腹が立つ。
こちらの話は上の空、スーツ越しに俺の身体を想像して目が異様に輝き、話が終わると決まって「懇親のために今夜一杯どうです?」などと下心丸出しの表情で誘ってくる男のなんと多い事か……
一度、不覚にもかなり強い酒をそうと知らずに勧められるままに飲んで意識が朦朧となってしまい、介抱と称してホテルに連れ込まれた事がある。幸いその時は、ブラウスの第3ボタンを外される寸前で酔いが醒め、相手の股間を蹴り上げて危機を脱出――後日、それをネタにそこから15億の注文をゲットしたのだが、思い出すたびに今でもふつふつと怒りが込み上げてくる。
「とにかく俺の身体を早く男に戻せ。一刻も早くだっ」
「そんなに女は嫌か?」
「……ああ、嫌だね。大嫌いだ」
「どうして? 人類の半数は女性なんだぞ。やってみると女もそう悪いもんじゃないと思うんだが……いったい何が気に入らないんだ?」
「それはだな……女の履く踵の高い靴だと、ヒール・アンド・トゥがやりにくいんだよっ!」
「それが理由かいっ!!」
ヒール・アンド・トゥ【heel and toe】 1.競歩などで、後足のつま先が地面を離れないうちに前足のかかとを地面につける歩き方。 2.右足の踵でアクセル、爪先でブレーキを踏むことでエンジンの回転数を落とさずに減速するドライビングテクニック。
「それよりもお前……ここにこもってる間、インスタントラーメンぐらいしか食ってないんだろ?」
「……あ? ああ、そうだけど……それがどうかしたか?」
「はああ……そんな食生活を続けていると、いまに身体壊すぞ」
こいつは研究に没頭すると寝食を忘れるタイプなので、自宅よりここにいるほうが長いと噂されているが……事実である。今回も四日間ほど家に帰っておらず、その間に口にするのはカップ麺とスナック菓子のみというのが、いつものパターンなのである。
「だからさ……ほらっ、これ食えよ」
そう言って、俺は持ってきた包みを机の上に置いて開いた。
現れたのは弁当箱――中身は麦を少し混ぜたご飯に卵焼き、炒めたソーセージと茹でて味をつけた人参とブロッコリーだ。
「これ……お前が作ったのか?」
「……まあな そんな事いいからさっさと食え」
ポットに入れて持ってきた味噌汁を容器に移して、目の前に置いてやる。
「んじゃ遠慮なく……いただきます」
こいつは妙な所で礼儀正しく、食べる前に両手を合わせて一礼する。
夜食を食べ始めたそいつを置いて、俺は研究室脇の扉を開けた。仮眠用のベッドを置いてあるそこは、予想通りカップラーメンの容器や菓子の袋やらで散らかっていた。
「…………」
俺はそれらを燃える物と燃えない物に分別して、それぞれのごみ袋に放り込んでいった。
「ご馳走様でした」
部屋の片づけが終わって戻ってきたのとほぼ同時に、小さな呟きが聞こえてきた。
俺は早速、机の上の弁当箱と容器をまとめ始める。
「……うーん、本当に美味しかった。これなら絶対にいい主婦になれるよ」
「『主婦』なんていうなっ!!」
ぜんぜん褒め言葉になっていない言葉に、俺は文句を言い返した。
「でもさあ、どうして急に夜食を? しかも自分で料理して?」
「え? いや……それは……その……」
そう指摘されて、俺はしどろもどろになった。
確かに、今まで深夜に訪れる事はあっても夜食の差し入れなんかした事はなかった……だけど、「インスタントな食生活じゃ栄養が偏ってるんじゃ?」なんて思うと、急に気になって――
「なんだかよく見ると、仕草も以前と少し違うような気もするし……行動がかなり女らしくなってないか?」
「ええっ!?」
そんなまさか……でもそういえば今夜の夜食、わざわざ材料をスーパーで買ってエプロンなんか着けて鼻歌交じりに――
「だああああぁぁぁ~っ!!」
思わず俺は頭を抱えてしまった。 「……ど、どうしよう?」
「どうしようって言われても、すぐには元に戻れないからな。諦めて女を受け入れたら?」
「できるかっ!!」
まったく、こいつはとんでもない事を言う。俺が女としての自分を受け入れるってことは、つまり……その…………
「大丈夫、心配しないで。お前には俺が……俺がついてるから」
「え? うわっ!?」
突然俺は両腕で強く抱きしめられた。男の体臭に、俺の心臓がドキドキと早鐘を打つ。
しばらくすると腕の力が弱まり、俺が身体を離すと、今度は顎をクイッと持ち上げられる。
なかなか男前な顔じゃないか……ってそんな事に感心してどうするっ!?
「俺と君はパートナーだ……だけど、それをビジネスの関係だけにしたくない。これからは人生のパートナーとして、共に生きてお前を支えたい。俺の……俺の妻になってくれ」
突然の告白――プロポーズ。
俺はその言葉に顔が真っ赤になる。そして次の瞬間、俺は目の前にいた男を殴り倒したっ!!
「馬鹿野郎、何言ってやがるんだっ!?
俺たちは、すでに夫婦で・・・・・『妻』はお前だろがっ!!」
俺は目の前の男……いや妻をビシッと指差しながら叫んだ。
「だいたいなんだそのセリフは?
俺がお前にプロポーズしたときのと、まったく同じじゃねえかっ!!」
すっかり「男」が板についてしまった妻に、俺は怒りの言葉を叩きつけた。
「あ、あははは……そういえばそうでした」
「忘れとったんかいっ!!」
(おわり)
おことわり
この物語はフィクションです。劇中に出てくる人物、団体は全て架空の物で実在の物とは何の関係もありません。
「さて……と」
そう言って俺は立ち上がった。
「あれっ? もう帰るの?」
「ああ、最近ちょっと身体がだるくてな――」
そのせいか、最近峠でのタイムが伸び悩んでる。この倦怠感、長引くようだったら病院で見てもらった方がいいかも知れない。
目の前の男の顔が、心配そうな表情になる。
もっともこいつ、本当は女……俺の妻なのだが。
ここは俺の会社の研究施設。時刻は深夜11時を少し過ぎたあたりである。
所長――妻が泊り込む夜はこうやっていつも来ているのだが、結局今日も進展なしであった。
一体いつになったら男に戻れるのやら……
空になった弁当箱などの容器をまとめて紙袋の中に入れる。
愛妻弁当……最近社内でそんな事を言う奴がいるが、とんでもない。愛妻弁当は妻が作るもので、妻
“に” 作るもんじゃない。
「眠気覚ましにコーヒー飲んでいく?」
「いらんっ!!」
俺は即座に拒否した。 「……ここでお前の煎れたコーヒーを飲むと、ろくな事にならないっ」
「ひどいなあ、そんなに毛嫌いする?」
「当たり前だっ!! そもそも俺が女になったのも、お前が煎れたコーヒーを飲んだのが原因だろうが。それに……」
俺が少し言いよどむのを見て、妻が苦笑いを浮かべた。
「……ああ、あの時のこと?」
そう、それは最初に夜食を差し入れた夜の出来事だった。帰ろうとした俺は差し出されたコーヒーを疑いもせずに飲んだ。
しかし――
「あれは事故だってば。……まさか特殊加工して焙煎したコーヒー豆に、催淫効果があるなんて想定外――」
「だからそんなもんを人に飲ますなっ!!」
まったく、こいつには反省の色というものが全然見えない。
「いいじゃない。俺たちは夫婦なんだし、別に問題は……」
「大ありだっ!!」
あの時、コーヒーを飲んだ俺たちは興奮状態に陥り、異様に昂ぶった欲求に流された妻は、俺の身体を軽々と抱え上げて仮眠室のベッドへと運び……
「…………」
そして行なわれたのは、いわゆる「夫婦の営み」であった。……ただし、立場が本来とは逆の。
妻の放った欲望を夫の俺が受け止めるなんて――あれ以来、ときどき身体がむずむずして変な気持ちになることがあるのだ。癖になったらどうする?
かなりアブない自分の姿が頭の中に浮かんでしまう。
俺は慌てて頭を激しく振り、浮かんだ淫らな妄想を頭の中から追い出すと、ペットボトルを取り出して中の液体を口に含んだ。
「……それは?」
「レモンの絞り汁。最近これ飲むと気分が楽になるから、持ち歩いてるんだ」
俺がそう答えると、妻は珍しく戸惑いの表情を浮かべながら考え込む素振りを見せた。 「まさか……いや、時期的には合うかも――」
「何をぶつぶつ言ってるんだ?」
「お前の症状だけど……もしかして悪阻(つわり)じゃないのか?」
「つわり? …………って、おいっ!?」
あまりにもショッキングな内容に、俺は思わず叫んでしまう。
「生理は? 最後はいつだった?」
「いつだったといわれても、二回しか経験してないから、かなり前……ってちょっと待てっ!! そういえばあれからずっと…………ということは、やっぱり…………
うわあああぁっ!! か、考えたくねえええええぇっ!!」
「き、今日はとりあえず帰ろう……運転は俺がするから。明日は休みを取って一緒に産婦人科に行こう、ね?」
いたわる妻の言葉が、俺の頭の中を通り過ぎていく。
呆然となった俺の手から、ペットボトルがポトリと落ちて床を転がっていった。
翌日――
「おめでとうございます。妊娠三ヶ月ですよ」
「ぜ……全然めでたくねえ……」
半年後、俺たち夫婦の間に長男が誕生した。
正直、死ぬかと思った。けど……もう一回くらい産んでみてもいいかな?
(おまけのおわり)