『淫魔のジャコマ アフターストーリー』 その20 作:JuJu 冷たい大地に横たわる魔獣を、満ちた月が煌々(こうこう)と照らしていた。 ――突然、魔獣の体が大きく震えた。 水を吐き出すと、息を吸い込んだ。呼吸とともに腹が上下に動き始める。 「ココデ死ンデ……ナルモノカ……」 うわごとのように、つぶやく。 隆々(りゅうりゅう)とした肉体が、鼓動に合わせて波を打ち出す。全身から黒い霧がふき上がり、魔獣をつつみこむ。 「コレホドノ屈辱ヲ受ケタノハ初メテダ……。コノ屈辱ヲハラスマデハ……死ヌワケニハイカナイ……」 やがて魔獣は、生きていることを確かめるようにゆっくりと目を開いた。 「アイツラ、皆殺シニシテクレル」 * 敏洋たちは山道をふもとに向かって歩いていた。 ジャコマがひとりだけ、敏洋と真緒から離れて後からついている。彼女の目に、不機嫌そうな表情で早足で歩いている敏洋と、その敏洋の隣を幸せそうに歩いている真緒の姿が映っていた。 「あーあ。シスターにとっては至福の時間なんだろうけど、目の前でいちゃいちゃする姿を見せつけられる、アタシの身にもなってもらいたいもんだね」 翼を持つ彼女は、ほとんど歩くことがない。だが山道は木々にさえぎられて、満足に飛ぶことが出来なかった。そのために彼女は、慣れない山道を歩かなければならなかった。そのうえ彼女のはいている靴は、女性の色気を引き出すには充分だったが、山道にはあまりにも適さないものだった。 おかげで体は疲れ切っていた。つい、愚痴が口をついて出る。 「いいかげん本に戻りたいけど、本を開いてくれないだろうねぇ。ご主人さまはすっかりヘソを曲げちまっているからねぇ。ちょっとシスターと一緒になってからかっただけなのに、この仕打ちはないよ。はあ……」 ぼやいていたジャコマは、ふいに背後から魔力を感じた。胸騒ぎにあわてて振り返ると、彼女の表情が一変する。 「あの影は……。まさか!? ご主人さま! シスター! 後ろっ!!」 緊迫したジャコマの声に、敏洋と真緒が立ち止まって身をひるがえす。 敏洋が遠くを見ると、木々の間を縫うようにして迫り来る物があった。 「魔獣……!! 生きていたのか」 「見ツケタゾ!! オマエラ全員、八ツ裂キニシテクレル!! 手始メニ人間ノ女! オマエカラダ!!」 敏洋は真緒をかばうように前に立った。だが立ちふさがったところで、もはや対抗できる手段は何ひとつ残されていなかった。 (魔獣も最後の力をふりしぼってのことだろう。だが、そんな抜け殻のような相手なのに、俺にはなんの手だても打てない) 敏洋はそう思った。そしてそんな自分が心底くやしかった。 「ご主人さま、なにぼんやりしているんだよ! アタシの本で身を守るんだよ!!」 敏洋にジャコマが叫んだ。 「し、しかし……」 敏洋は手に持っていたジャコマの書を見た。あいつぐ戦いで、表紙も裏表紙もぼろぼろにすり切れていた。こんな状態でふたたび楯(たて)として使えばどうなるかは目に見えている。 「そんなことをすれば、お前が……。 それにこれは、お前の前の主人の、唯一の形見のはず……」 「死にたいのかい!! 躊躇(ちゅうちょ)しているひまはないよ!! 依代(よりしろ)がなくなったってアタシは死にはしない。アタシは空に逃げればなんとかなる。でもこのままじゃ、ご主人さまもシスターも確実に死んでしまうんだ!! ご主人さま! シスターをまもりたくないのかい!?」 敏洋は直前まで迫っている魔獣を見た。そして背中に、恐怖に身を縮こまらせている真緒の気配を感じた。 魔獣は牙をむき出すと地を蹴り、敏洋たちに飛びかかって来た。 「ジャコマ、すまない!!」 敏洋は両腕を伸ばしてジャコマの書を突き出した。 魔獣はとつぜん目の前にあらわれたジャコマの書にぶつかった。ジャコマの書に触れた痛みに、体をひるがえらせると地面にくずれ落ちる。 ジャコマの書は魔獣から比べればはるかに小さな楯だったが、まるで目の前に見えない巨大な壁があるように魔獣の突進をさまたげた。 だが、魔獣はひるむことはなかった。すばやく立ち上がると、目を細めて敏洋をにらんだ。わずかに後退して助走の距離を作ると、勢いをつけてジャコマの書に頭から体当たりをした。 魔獣は低いうなり声をあげ、ジャコマの書が作る見えない壁に頭を押しつけた。ときおり、薙払(なぎはら)うように首を激しく振った。 魔物は力ずくで通すつもりなのだろう。焼けた鉄板に肉体を押しつけているような呻(うめ)きを上げつつも、体をジャコマの書に当て続けた。 敏洋はジャコマの書から立ちのぼる細かい白い粉に気がついた。 魔獣がジャコマの書に体を押しつけると、表紙がないむき出しのページの中心部分が、まるで燃やしたように白い灰に変化した。灰は広がりページ全体にまわった。やがてその灰になった一枚は、粉となって舞い空に散って消えた。 敏洋が粉だと思ったのは、魔獣に灰にされたジャコマの書の一ページだったのだ。 「殺ス! 殺ス! 殺ス! 殺ス! タトエ、コノ身ガ尽キヨウトモ、オマエラダケハ、生カシテハオカナイ!!」 魔獣は怒りに狂った形相(ぎょうそう)をしていた。黒い巨岩のような体を、全身の力を込めてジャコマの書に押しつける。魔獣が力をかけるごとに、ジャコマの書は一枚また一枚と白い灰に変わってゆく。 敏洋は両腕で魔獣をせき止めていたものの、すでに左腕は痺れて感覚がなくなっていた。残った右腕も痺れてきており、いまにもジャコマの書が手からこぼれ落ちそうだった。 そしてついに、ジャコマの書が両手からすべり落ちはじめる。ジャコマの書が敏洋の指から離れるその瞬間、二本の腕が伸びて敏洋の代わりにジャコマの書を支えた。敏洋が腕の主を見ると、敏洋の背中にいたはずの真緒だった。怯えていたはずの彼女が、いつの間にか敏洋よりも前に立ち、ジャコマの書に手を添えていた。 それを見た敏洋は活力をとりもどした。ふたたびジャコマの書をしっかりとつかむ。 魔獣の侵攻はとどまることはなかった。容赦なく体を押しつけ、ジャコマの書は一枚、また一枚と剥がされて灰にされてゆく。 ついに、最後の一枚になった。 敏洋と真緒の四本の腕が、たった一枚の紙切れをつかんでいる。 「くうっ、もはやここまでか……」 その時、魔獣の激しい叫びが響き渡った。 「コノ俺ガ、ニンゲンナドニ負ケルナドト、信ジ……ラレル……カ…………」 魔獣は天を仰いだ。 ジャコマの書の最後の一ページは白い灰の粉となり、天に昇るように舞い散った。一方、魔獣の体は黒い炭に変化し、砂のように崩れ落ち、地面に当たると消えた。 「か……、勝った……! 真緒、今度こそ完全に決着が付いたぞ!!」 敏洋は真緒の肩をゆさぶった。 真緒はいまだに信じられないといった表情で、魔獣が存在していた場所を見た。そこには魔獣の骨さえ残ってはいなかった。 敏洋は勝利の喜びを分かち合おうとジャコマを見た。彼は、ジャコマの姿が薄く透明に近づいていることに気がついた。 「ジャコマ!? お前、体が……」 「あの本がなくなっちゃたからね」 「ジャコマさん、消えちゃうんですか? そんなのいやですっ!!」 「むちゃお言いでないよシスター。依代がなければアタシがここにいられないことくらい、アンタたちだってわかるだろう」 「だがお前は、ジャコマの書がなくなっても死なないと言っただろう。だから、俺は……」 「だますようなことを言って悪かったね。でも、あのときはそうでもしないと、アンタがふっきれないと思ってね。それに、うそはついていないよ。アタシは死にはしない」 「ジャコマ。魔物の世界に戻るのか?」 ジャコマは首を横に振った。 「召還を解かれたわけじゃないからね、魔界には帰れない。だけど依代がなくなればアタシは人間の世界にはいられない。 だから、アタシは魔物の世界と人間の世界の狭間(はざま)で漂(ただよ)い続けることになる。 そんなに辛気(しんき)くさい顔をするんじゃないよ、ご主人さま、シスター」 「でも、ジャコマの書がないと、ジャコマさんは人間の世界と魔物の世界の狭間を永遠にさまようことになるんですよ!?」 「なーに、心配いらないよシスター。 新しい依代を作ればアタシは人間の世界に復活することができるんだから。 だから、ご主人さまが新しい本を作ってくれればいいだけの話さ」 「ま、待て! 魔物の依代になる書なんか、そう簡単に作れるわけがない!」 「マザーに相談してみます。新しい依代が作れる人を知っているかもしれませんから」 「やめておきな。ほんらい魔物退治師と魔物は敵同士なんだよ。シスターだって、アタシと初めてあったときに、本気でアタシを倒そうとしていたじゃないか。魔物退治師であるシスターが魔物を呼び出す品を作ってくれなんてふれまわったら、魔物退治師界から追放されちまうよ。 それにご主人さま。魔獣の前でアタシを召還したとき、一緒に戦ったらアタシが望む物をくれるって約束したよね。いまさら忘れたとは言わせないよ」 「確かに約束したが、しかし……」 「いままで、アタシを召還した人間は何人もいた。それなのにアタシは誰ひとりとして主(ぬし)として受けいれなかった。それは、前のご主人さまにおよばないからだったからだ。けれども、たとえ前のご主人さま以上の人が現れてもやっぱりアタシは受け入れなかっただろうと思う。 アンタを認めたのだって、アンタに前のご主人さまを感じたからだ。それは結局、前のご主人さまの代理がほしかったってだけにすぎない。 でも、それじゃだめだって、あの本を失って気がついたのさ。もう、前のご主人さまはいない。それを認めて、新しいご主人さまを見つけなければいけない、とね。 あの本はアタシの前のご主人さまの形見だった。だから、あの本が目に入るたび、アタシはいつだってご主人さまのことを想い出していた。 だけど、あの本がなくなったことで、ようやく吹っ切れたよ。 いいや、ほっとしているのはむしろ前のご主人さまのほうかもしれないねえ。前のご主人さまにも、そろそろ、アタシからの想いの束縛から放ってあげないとね。アタシがいつまでも未練がましく想っていたんじゃ、前のご主人さまの魂はいつまで経っても安らかに眠れない。アタシを悲しませた罪も、そろそろ刑期を終えてもいい頃合いだろう。 もちろん、前のご主人さまに対する想いはいつまでも変わらないし、変えるつもりもない。ただ、その想いは、心の底の奥深くに、大切にしまっておくことにするよ」 ジャコマは敏洋を見つめた。 「淫魔の誇りに賭けて、アタシは男を見る目があるつもりだ。そしてアンタには、間違いなく前のご主人さまと同じものを感じた。だからアタシは、アンタに賭けてみようと思う。 そりゃあ荷が重いことくらいはアタシだってわかっているよ。だからシスター、ここはひとつご主人さまを手伝ってやってくれないかい? ひとりでは無理でもふたりならば、どうにかなるかもしれないじゃないか。 ――おや?」 ジャコマは自分の手を見た。 敏洋たちがジャコマを見ると、彼女の体を通して後ろにある木々が透けて見えた。 「そろそろ限界みたいだね。ご主人さま、約束したよ」 敏洋は、勝手に話を進められても困るといった顔をしていた。だが、今にも消えそうなジャコマの体を見て、ためらっている余裕などないことをさとった。 「――わかった。お前がそこまで言うのならばやってみよう」 「それでこそ、アタシが認めたご主人さまだよ」 「ジャコマさん! 次に会うときには、わたしの料理を食べてください。ジャコマさんは淫魔ですから人間の料理は口に合わないかも知れませんけど、わたしにはそのくらいしか得意がないんです……。それから、えーとえーと。おいしい紅茶をいれます。お菓子も作ります。たくさん作ります! それから、それから、……だから、次に会うときには……会うときには……」 影の薄くなったジャコマの手が、言葉を詰まらせた真緒のほおをなでる。 「シスター。なんて顔をしているんだよ。それに料理しか得意がないなんて。 アンタは魔物退治師なんだろう? もっと自信を持っていいんだよ。つぎに会うときに、どれだけ立派な魔物退治師になっているか楽しみだね。 それじゃ、そろそろ眠りにつかなければいけないようだ。 シスターのいれる紅茶を楽しみにしているからね。そうそう! あのスイトウってやつで紅茶をいただきたいね」 「はい。次に会うときは、三人でお茶会を開きましょう!」 「それじゃ、ふたたび会う時を楽しみにしているよ」 ジャコマは、真緒から手を離すと敏洋を見た。 敏洋は力強くうなづいた。 ジャコマはふたりを見つめてほほえむ。 「ご主人さま。シスター……。 アンタたちの未来に幸(さいわ)いあれ!」 その声を残して、ジャコマの姿が消えた。 ジャコマが消えると共に、朝日が木々の隙間からふたりを照らした。 敏洋と真緒は、まぶしい光に気がついて空をあおいだ。ふたりは、朝日に照らされて輝いていた。 (エピローグへ) |