『淫魔のジャコマ アフターストーリー』 その17
作:JuJu



「うわーーーっ!!」
 敏洋の目に、大地が突き刺さるように迫ってくる。
『まだ地面に当たった訳じゃないんだ! 空にいる限り、絶対にあきらめるんじゃないよ!』
 ジャコマが必至に叫んだ。
「敏洋さん! 風です!!」
 その時、真緒の声が届いた。
「真緒?」
『――そうか! ご主人さま! 羽を広げて! おもいきりっ!!』
 敏洋の気は動転していた。それでも彼は、ジャコマの声にすがるつもりで指示にしたがった。恐怖を押して、再び翼を大きく広げる。
「ぐぅっ!?」
 敏洋は、翼全体に風圧がかかるのを感じた。
 彼の翼は、真緒の放った風を全身で受け止める。
 地面に叩き付けられる寸前で、敏洋の体は真緒の作りだした風に乗った。今にも体が地面をこすってしまいそうな高さで、大地を滑走する。土埃と枯れ葉が彼の後を追うように舞った。
(真緒……?)
 敏洋は風の中に、真緒を感じた気がした。
(そうだ、俺には真緒がついている!)
 敏洋は、真緒が作り出した風が追い風となって、自分の体を浮かせていることを理解した。それはあたかも、弱気になった敏洋の背中を押すように、彼の後ろから吹きつづけていた。
 真緒の作った風は、敏洋の弱り切った心にふたたび活力を与えた。敏洋は恐怖を振り払った。
『ご主人さま! 目の前!』
 その時、ジャコマが言った。
 真緒が切り開いた広場が終わり、ふたたび密集した樹林が迫って来ていた。
(ジャコマだっている!)
 敏洋は頷くと、ジャコマに力強く答えた。
「ああ。任せておけ!」
 翼に全身の力を込めた。敏洋の体はロケットのように、一気に星空を目指して舞い上がった。

   *

 敏洋は星空を目指して空を飛んでいた。
 彼は自分の背中から、風を受け流す羽音がするのに気がついた。自由に空を飛ぶ翼の音だ。それを発しているのが、自分の体の一部だと思うと、不思議なような、同時に誇らしげなような、そんな気持ちになった。
(どうやら、生き延びることに無我夢中になっている内に、翼を自在に操れるようになったらしい)
(『飛び方は言葉では教えられない。感覚で掴むしかない。羽に当たる感触で風を読んで、風を受け流しながら飛ぶんだよ』)
 ジャコマのことばを思い出した。
(翼で読み、受け流すように飛ぶ……。
 今ならば、ジャコマの言葉の意味が理解できる。
 そうか。淫魔の体が、いまの俺の体なんだ。淫魔の体に任せて、素直に翼を動かせばよかったんだ)
 敏洋は、ゆったりと大空を舞った。
「敏洋さーん、敏洋さーん」
 真緒の声が聞こえた。
 地上に目を移すと、真緒が敏洋に向かって腕を振っていた。敏洋が気がついたことを知ると、腕だけではものたりないらしく、今度は鉄槌を振りながら敏洋を呼んだ。

   *

 真緒は顔を上げ、空を舞う敏洋を見ていた。頭の上で鉄槌を振り、彼の無事を喜ぶ。敏洋は雲一つない星空を、青白い月明かりと満天の星を翼に浴びて、軽やかに飛んでいる。こうして、地面に足を着けているのがばからしくなってくるほど、真緒の目に映る空は広かった。
 真緒は、うまく空を飛べるようになった彼を見て嬉しいとともに、自分もあんなふうに空が飛べたらと羨ましくも思った。
(そしたら、敏洋さんとふたりで仲良く、空を飛べるのに)
 そんなことを考えながら敏洋を目で追っていると、彼は魔獣のそばに降り立った。ジャコマの入れ知恵らしく、目の前で尻を叩いたり、舌を出したりして魔獣をからかっている。頭に血をのぼらせた魔獣が襲いかかって来ると、敏洋はすばやく空に逃げた。
 真緒はあぶなげなく魔獣を翻弄する敏洋を見て、今度は自分が勇気を奮う番だと思った。

    *

 真緒は地面を見つめていた。
 彼女は魔法陣を描(か)いたことがなかった。はたして魔法陣をうまく描くことができるのか。描けたとしてもちゃんと発動するのか。そんな思いが、真緒の心の中で渦巻いていた。
 せめてそばに敏洋がいてくれたら、どれほど心強いだろう。そう思った。
 だが、迷っている場合ではないことは、彼女自身もよくわかっている。ここからは、自分ひとりでやるしかないのだ。
 真緒は小さく頷くと、魔法陣を描く作業に取りかかった。
 口紅に魔力を込めて、床に大きく二重の円を描いた。
 魔力のこめられた線は不思議なことに、地面からわずかに浮いた。
 マザーからもらった口紅を使いながら、真緒は思いをはせた。
(きっとマザーは、いまのわたしよりも大変な決心を、何度も何度もくぐって、そして生き抜いてきたんだ。
 それが魔物退治師として生きていくことなんだ)
 円で作った枠の内側に、さらに八角形の枠を作る。そうして出来た枠の中を、細かい記号と魔法の文字で埋めてゆく。
 真緒の描いた線は、月明かりを浴びて、しずかな光を放っていた。

   *

 しばらく時が過ぎた。
「はあ……はあ……」
 敏洋は苦しそうに、肩で息をしていた。
 飛べるようになったばかりの敏洋にとって、休むことなく飛び回ることはとても体力を消耗させた。また命を賭けた魔獣との駆け引きが、彼の精神力まで蝕む。
 さらに困ったことに、魔獣が敏洋の挑発に慣れつつあった。
 そのことに気がついた敏洋は、小石を拾い魔力を込めて魔獣に向かって落としたり、ジャコマの指導で魔力を使って水を作って魔獣の頭にかけるなど、工夫を凝らして注意を向けさせた。しかしそれも、今ではほとんど効果が無くなっていた。
 敏洋は疲労を取り次の手を考えるために、天高い場所でわずかな休息を取ることにした。ふと地上を見ると、真緒によって引かれた線が光り輝いていた。彼はしばしその静かな光に見とれた。闇に浮かぶ線は、彼女によってさらに伸びつつある。敏洋は計画が順調に進んでいることに安堵した。そして、魔獣を翻弄する苦労がむくわれていることに満足した。
 と、その時、ジャコマが叫んだ。
『ご主人さま! 魔獣のヤツが!』
 敏洋が魔獣を見ると、魔獣は真緒に向かって歩き出していた。ついに魔獣は、真緒が無防備になっていることに気がついたのだ。
「真緒、あぶない!!」
 真緒は魔法陣に集中していて、敏洋の危険を知らせる声に気がつかない。
 獰猛で短気な魔獣が慎重で静かに歩む姿に、敏洋は不気味さを感じた。
「敏洋さん、ジャコマさん。もう少しだけがんばってください。あと少し……、あと少しで魔法陣が出来ますから」
 魔獣は慎重に、ここまで来れば反撃出来ないだろうという距離まで近づくと、立ち止まり、頭を低くして狙いをさだめた。
 魔獣が真緒に飛びかかろうとした。
 その時、空から急降下してきた敏洋が、魔獣に向かって体当たりした。
「させるかぁ!!」


(その18へ)


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