『淫魔のジャコマ アフターストーリー』 その13 作:JuJu 「――だって敏洋さんはもう目を覚ますことはないって、ジャコマさんが……」 敏洋は周囲を見渡し魔獣がいないことを確認してから、ゆっくりと歩き出した。真緒の前に立つと、地面に体温をうばわれてすっかり冷たくなってしまった手のひらを、動揺のおさまらない彼女の頭にのせる。死者を思わせる冷たい手ではあったが、真緒は確かに彼の血のあたたかみを感じ取った。 「俺は死んでなんかいない。死んだふりをしていただけだ」 ジャコマが言葉を継いだ。 「口づけする直前に、アタシがご主人さまに魔法の呪文をささやいたのを見ただろう? あれは実は呪文じゃなかったんだよ。ほんとうは一芝居打つように頼んでいたんだ。 『ご主人さま、よく聞くんだ。 いまから口づけをするから、ご主人さまは口づけをされたあと死んだふりをするんだ。 そしてアタシが良いと言うまで、どんなことがあっても死んだふりを続けること。 シスターとともに生き延びたいなら、だまってアタシの言う通りにしな』――ってね」 「それじゃ、敏洋さんの魂を吸いとったって言うのも……」 「たしかにアタシは淫魔だ。口づけで人間の魂を吸うことができる。 だからってアタシがご主人さまの命を奪うわけないじゃないか。アタシはいままで一度だって人間の命を奪ったことはないよ。 ――だましていて、悪かったねシスター」 「ひっ、ひっ、ひどいですっ! わたし、ほんとうにジャコマさんが悪い人になっちゃったのかと思っちゃいました」 「だから悪かったって言ってるじゃないか」 真緒はふくれっ面をしていたが、急に真顔に戻ってジャコマに頭をさげた。 「ジャコマさん、ごめんなさい。ジャコマさんのことをうたがったりして。最後まで信じなくて……」 「いいんだよ。だましたのはアタシのほうなんだから」 そこに、敏洋が疑問を投げかけた。 「ところで、ジャコマはどうして、こんなことをしたんだ?」 「あたりを見てごらん」 敏洋と真緒は周囲を見回した。自分たちを中心に、円形に森の木々がなぎ倒されていた。 「周辺を伐採するため……か。それには、真緒を怒らせて底力を引き出す必要があった。 たしかに月光が降りそそいで明るくなった。これならば、いままで闇にまぎれていた魔獣の行動がよく見える」 「それと、こうすれば自由に飛び回ることができる。 あんなにごちゃごちゃと枝が生い茂っていたんじゃ、邪魔になって、いくらアタシだって満足に飛ぶこともできないからね」 そこまで言うと、ジャコマは感心したようなあきれたような顔をして周囲をみわました。 「ただ、シスターがここまでやるとは想定外だったよ」 「おまえの考えはわかったが……。 木をなぎ倒して空間を作ったからと言っても、それだけのことだ。むしろ、一か八かだとしても、真緒の底力の攻撃を魔獣にぶつけた方が勝てる見こみがあったんじゃないのか? 真緒の魔力が完全に尽きた今、この状況をどう打開するつもりだ」 「ふふん。広場を作った意味はこれだけじゃないよ。 本当の目的は……こんどは空を見てごらん」 敏洋と真緒は空を見た。星の世界が丸く切り取られている。雲ひとつなく、そのてっぺんで、満ちた月が煌々(こうこう)と照らしていた。森の暗闇になれた敏洋たちの目にはまぶしいほどだ。 「今夜は満月だよ」 月光が、自慢げに立っているジャコマの姿を照らしだしている。 「ああそうだな」 「満月だとどうなるんですか? ……あ! もしかして……?」 「にぶいシスターでも、さすがに気がついたようだね。 ご主人さまはまだわからないのかい? やっぱりご主人さまはアタシがいないとだめだね。 ――ああそうか。ご主人さまは魔力を持っていなかったんだっけね」 ジャコマに変わって、真緒が説明した。 「月明かりは、魔力の源なんです」 「魔力の源?」 「その通り。満月の光を浴びて、アタシの魔力は満杯だよ」 「ああそういえば、満月を見ると人間から狼に変身してしまう、古典のホラー映画をみたことがあるが……」 「それです。満月をあびて、魔力が制御できないほど高まってしまった人の物語ですね。 それは架空のお話ですけど、月明かりが魔力を持つ者に大きな影響を与えるというのは本当です」 「なるほど。真緒に月光を浴びさせて、魔力を補充しようというわけか」 「それだけじゃないよ。月の光を浴びている限り、シスターの魔力は尽きることがない」 「無限に攻撃できるんだな!」 「そう言うことさ。どうだい、わるくない戦法だろう」 真緒が、不安げにジャコマを見つめた。 「あの、そのことなんですが……。あの……その……」 「シスターの言いたいことはわかっているって。魔力が回復するのは、魔獣も同じだって言いたいんだろう。 大丈夫。さっきすごい攻撃を見せたじゃないか。自信を持ちな」 「確かにあれなら倒すことができるかもしれないな」 敏洋も、真緒に自信をつけさせるように頷いた。 「さて、いよいよ決戦だな。 その前に、あれを回収しないとな」 そう言って、敏洋が歩き出した。 真緒は敏洋の向かう先を見た。そこには、ジャコマの書が地面に開いたまま置かれていた。召還したジャコマの衣装に度肝を抜かれたり、ジャコマの裏切りにと忙しく、拾う機会がなかったのだ。敏洋は表面がボロボロになっていることをジャコマに知られないように、じょうずにジャコマの目から隠しながら拾った。 真緒も敏洋にならって、地面に落ちていた水筒を拾った。水筒を耳に近づけると、振って中身を確かめる。そしてほのかな期待もむなしく、水の音がしないことに失望した。 「全部飲んだんだ。入っているわけがないだろう」 「わかってますよぅ……。でも、確かめてみたかったんです」 そんな真緒を見ていたジャコマが不思議がった。 「シスター、それはいったいなんだい? きれいな音でもするのかい?」 「水筒を知らないのか? 中に水を入れて携帯するものだ。俺が愛用しているのは魔法瓶になっていて、温かい飲み物を保温したまま持ち運べるすぐれものだ」 「ふーん? つまりアンタたちは、水を持ち歩いているのかい。人間なんて、あんがい不便なもんだね。 アタシなんて、ほら」 ジャコマはそう言うと、両手の手のひらを胸の前で椀のように丸めた。そして目を閉じると、呪文をささやく。 ほどなく、何もない宙に小さな光の粒があらわれた。 光の粒は次々と生まれては、ジャコマの手でつくった器の中に落ちてゆく。 しばらく見ていた敏洋は、光の粒の正体が水だと気がついた。水滴が月明かりを含んで輝いていたのだ。 いっぱいに張った水は、ジャコマの手の中に満月を映しだした。 やがて手から水があふれ、小さな滝になり地面に落ちてゆく。 まるで奇術でも見るような目で感動していた真緒が、溜め息と共に言う。 「きれい……。すごいです」 「風の魔法をつかうシスターが大気を集めて風にできるように、水の魔法をつかうアタシは大気にある水を集めることができるのさ」 「大気から作った水……。じゃあ、飲めるんですか?」 切望するように問う真緒。 「当然だよ」 それを聞いた真緒は、あわてて水筒からカップを取り外すと、ジャコマの手から流れ落ちる水をそそいだ。 おいしそうに水を飲む真緒を見ながら、ジャコマは自嘲するように言った。 「アタシにできることなんて、こんなことくらいだよ。魔獣との戦闘に役立ちそうな術は何一つ持っていない」 真緒から渡されたカップを受け取り、敏洋もジャコマの水を飲んだ。 大気から抽出しただけあり、体の中を凍えるような冷たさが広がったが、それ以上に水を飲めることがありがたかった。失われた力がよみがえる気がする。そして、水が生命の源であることを、敏洋は体で理解した。 水を飲んでいた敏洋は、ジャコマの視線に気がついた。彼は、いつの間にか傷つきボロボロになったジャコマの書を彼女にさらしていたことに気がついた。ひさしぶりに水が飲めたために、つい気を緩めてしまったのだ。 あわててジャコマの書を体の後ろに隠したが、あきらめてジャコマの前に差し出した。 「すまん。こんなにボロボロにしてしまって」 おいしい水に感動して夢心地だった真緒は、敏洋がジャコマにジャコマの書を見せていることに気がつき、彼を守るようにあわてて言い訳をした。 「違うんです! これは敏洋さんのせいじゃありません! わたしのせいなんです! こうなったのも、敏洋さんが魔獣からわたしを守るために……」 「わかっているよ。ご主人さまは書物をむげにするような人じゃない。これでも男を見る目は確かなつもりだ」 ジャコマは敏洋からジャコマの書を手に取ると、古いアルバムを見るような目で見つめた。 「この本にはね、魔法が封じ込められているんだよ、攻撃してくるものから防御する魔法が。 アタシが本の中で眠っている間、アタシを護るようにね。 それに、この本はアタシの依代(よりしろ)だからね。この本がなくなったら、アタシはこの世界にいられなくなってしまう。 といってもしょせんは本だから、大したもんじゃないけどね。それでもすこしは役には立ったみたいだね」 ジャコマは、傷ついてザラザラになった表紙をやさしくなでながら言った。 「これをつくったのは、アタシの一番最初のご主人さまだよ。 もちろん、とっくの昔に死んじまったけどね」 ジャコマは寂しそうに語りはじめた (その14へ) |