『淫魔のジャコマ アフターストーリー』 その10
作:JuJu


 真緒は視線を落とした。
 きつく結んでいた右手を胸の前まで持ち上げると、ゆっくりと指を広げる。
 体は冷え切っているのに、手のひらはわずかに汗ばんでいた。
 冷たい大気が、手から熱を奪ってゆくのがわかる。
「このままじゃ敏洋さんまで……」
 彼女は広げた手に向かってつぶやいた。
 外気にさらされた手のひらは、いつの間にかすっかりと冷たくなっていた。それでも、魔獣に倒されたあと、地面から起こされる時に繋いだ敏洋の手のぬくもりは、いまだに自分の手に残っている気がした。
「死んじゃいます……」
 真緒の目から涙がこぼれた。
 手に残った敏洋のぬくもりが、抑え付けていた真緒の感情を崩壊させた。
「わたしのせいで、敏洋さんまで……死んじゃいます」
 真緒の心に、様々な思いが襲いかかった。
 敏洋が残ってくれていたこと。
 ふたりとも生きていた喜び。
 わずかに伸びただけの死期。
 目の前まで迫った魔獣の顔。
 魔獣から護るために、抱きしめられたときに感じた、敏洋の体のぬくもり。
 それらが、一気に真緒に襲いかかった。
 そして、最後に、ひとつの結論にたどり着く。
(わたしを助けたばっかりに、あの温かかった敏洋さんの手も、もうじき冷たくなってしまう。
 わたしがマザーのような魔物退治師になりたいなんて、かないもしない夢を見たために、温かい敏洋さんの体は、もうじきこの大気と同じくらいに冷たくなってしまう)
 真緒は泣きじゃくりながら、敏洋に向かって頭を下げた。
「ごめんなさい……。届きもしない夢に巻き込んでしまったために、敏洋さんまで……」
「謝らなければならないのは俺の方だ。今回の魔物退治を真緒にけしかけたのは、俺だからな」
 敏洋は振り返ると真緒の元まで歩いた。彼女の頭に手を置くと、やさしくなでた。
「敏洋さん……」
「このまえ、マザーにお茶に呼ばれてな。
 おまえがいない時だったから、マザーとふたりっきりのお茶会だったんだ」
 敏洋は語り始めた。

   *

 俺はマザーに呼ばれて、教会の居間で紅茶を飲んでいた。
「ねえ? 赤ちゃんって泣きながら産まれてくるじゃない?」
「何ですか急に」
 マザーはいつも突然、思いついた話をぶつけてくる。
「いえね。魔物退治師なんてやっているとね、死と隣り合わせの稼業のせいか、くつろぐと、ふと、自分の最期を考えちゃうのよね。
 それで、人間って泣きながら産まれてくるなと思って。あたしも泣きながら産まれてきたんだなと考えて。だったら死ぬときは笑いながら死にたいなって。そんなことを思ったのよ。
 わたしは、魔物と戦っていて、ついに後がない状況で、それでも笑っていられるかなと思って。
 でも、それって変よね? だって死ぬのよ? あたしは、この世ので一番怖いことって死ぬことだと思う。だから、そんな時でも笑ってられるって、どんな状態かなと考えたら、それは、充分がんばって、それで死ぬ時だと思うの。
 未練が残らないように、自分が出来ることはすべてやった、自分の力を限界まで出し切った、これでもかってほど悪あがきをしまくって、それで、その上で、それでも魔物に負けたのならば……ま、笑えはしないかもしれないけれど、穏やかな気持ちで死ねると思うの」
 そしてマザーは紅茶をすすると、今の話とはまったく関係のないことを話しはじめた。

   *

 こんな時に、なぜ敏洋がお茶会の時の会話などを語りはじめたのか、真緒は疑問に思った。
 が、すぐに敏洋の言いたいことを理解した。
 マザーが今の自分と同じ状況におかれたら、彼女は命が燃えつきるまで魔物と戦い続けるだろう。どんな目にあっても、最後まで絶対にあきらめないだろう。
 ならば、同じように戦ってこそ、マザーの弟子ではないのか。
 そう、敏洋は言いたいのだ。
 真緒が理解したのと合わせるように、敏洋が言った。
「魔物退治師として、誇り高く死ぬ。
 なるほど立派な死に方かもしれない。
 だがな、それでマザーが喜ぶと思っているのか?
 魔物退治は命がけだと言うことは、マザーが一番よく知っているはずだ。だからこそ、マザーの願いは、おまえが生きて戻ってくることだろう。違うか?
 だったら、最後まで望みを捨てるな。どんなにみっともなくても、かっこわるくても、生き延びて、マザーの元に帰るんだ」
 真緒は泣きやんだものの、頭はうなだれたままだった。
「敏洋さんの言いたいことはわかりました。その通りだと思います。
 でも、生きて帰ると言っても、一体どうやって……。
 わたしには、もう魔力がありません。
 ジャコマの書だって……」
「ひとつだけ、俺たちが生き延びられるかもしれない方法がある」
 敏洋は、ジャコマの書を真緒の目の高さまで上げた。
「こんなになってしまっては、もう楯としては役に立たない。
 だが、さいわいなことに中は無事だ」
 敏洋はジャコマの書を見つめた。
「――ジャコマを呼ぶ」
「えっ!? でも……それって……」
「こんな状況で召還するなんて、ジャコマに一緒に死んでくれと言うようなものだ。生き延びるために、無関係な者を巻き込むなんて、確かに身勝手な話だ。
 しかし、俺たちにはもう、やつを呼ぶしか手段がない。
 ジャコマが最後の希望なんだ。
 召還した後はジャコマの意思に任せる。俺たちと共に戦うのも、空を飛んで逃げるのもあいつの自由だ」

   *

 敏洋はジャコマの書を広げると、地面に置いた。
 ジャコマの名を呼ぶ。
 敏洋の呼びかけに応じ、たちまちジャコマの書に書かれた茶色い文字たちがうごめきはじめた。にじみ出した文字は、紙から溶けだし、集まり、寄せ合い、一体となって、ゼリー状の透明な塊になる。
 この本のどこにこれほどの文字があったのかと思えるほど、ゼリー状の物体はページの隙間隙間から泉のようにあふれ続ける。
 やがてゼリーは人の姿に形作られ、ジャコマの姿になった。
「お呼びかい? ご主人さま」
 目を開いたジャコマは、主である敏洋の姿を見つけると、彼に向かって妖艶なポーズを取った。
 彼女の着ているボンデージの露出度は高くなっていた。もともと男の獣欲を刺激するような過激な物だったが、それがますます官能的になっている。腹の部分が切り取られてへそが出ており、股間も大切な部分をかろうじて隠す程度で、尻の部分もほとんどが露出していた。
 それを見た敏洋は、いまにも溜め息をはきだしそうな表情をした。
「なんだいなんだい。せっかくご主人さまに喜んでもらおうと思って新調したのに、だいなしじゃないか」
 ジャコマはぼやくと、すねたように口をとがらせてそっぽを向いた。
 ジャコマは敏洋の顔を横目で盗み見たが、あいかわらず深刻な顔をしている。
 怪訝(けげん)な思いになり、周囲を見渡した。
 真緒も同じように浮かぬ顔をしている。地面にあるジャコマの書がボロボロになっている。そして魔獣の姿を見つけると、ジャコマはわずかに眉をひそめた。
「なるほど……ねぇ。
 これは、いくらあたしが魅力的だとしても、さすがにうつつをぬかしている時じゃないみたいだね」
 召還されたときから余裕を絶やすことの無かったジャコマの表情が曇る。
「それで、状況はどうなっているんだい?」
 敏洋はこれまでの経緯を手短に話した。
「そうかい。だいたいはわかったよ。
 しかし、よりによって魔獣が相手とは……。やっかいなところに呼び出してくれたものだねえ」
 ジャコマは腕を組むと敏洋たちに背を向けて、魔獣と向き合った。魔獣は伏した姿勢のまま、ジャコマをにらんだ。
「虫がいい話だと言うことは、俺も充分理解している。
 だから、共に戦ってくれたら、戦いの後に、おまえが望む物をやろう。
 何が望みだ? 淫欲が欲しいのか? それとも俺の命か?」
 敏洋が自分の命を差し出すと聞いて、真緒は驚いて敏洋を見た。
 ジャコマは肩越しに敏洋を見つめていた。やがて、横顔で笑う。そこには歓喜がにじみ出ていた。
 そのほほえみを見て、ジャコマが共に戦ってくれると確信し、敏洋はわずかに安堵した。
「シスター。念のために確認しておくよ。
 あんたの魔力は、まったく残っていないんだね?」
「え? はい……」
 敏洋のことを見ていた真緒は、ふいに我に返り、力なく答えた。
 真緒の返事を聞いて、薄ら笑いをしていたジャコマは、うなづきながら大きくニタリと笑う。
(ジャコマのやつ、笑っている……。魔獣に勝つ成算でもあるのか!?)
 敏洋は思った。
 だが、敏洋はジャコマの笑顔に妙な印象を受けた。それは明るい表情ではないと思った。どちらかというと、ずるがしこい、影のある、どろどろとした笑いだった。
(もしかして、俺がこんな所に呼び出したから腹を立てているのか?
 ジャコマは無理をして笑顔を作っている物の、腹の中は怒りで煮えくり返っているのかも知れない。
 やはり、魔獣に勝つ術などないのだろう。
 ジャコマは空を飛んで逃げるつもりだろうが、それでも、死への道連れにしようとした俺への怒りが、笑顔からにじみ出てしまっているのだろう)
 敏洋は、そう思った。
「ジャコマ。おまえの怒りはもっともだ。
 だが、たのむ。お願いだ。力を貸してくれ。
 俺たちには、もう、おまえを頼る以外に方法がないんだ」
「怒っている? このアタシがかい? どうして?」
 ジャコマはあきれたような表情をして敏洋を見返した。
「アタシは心から喜んでいるよ。
 なにしろ、この時をずっと待っていたんだからね。
 魔物に襲われて、歯が立たなくて、あたしに助けてくれと言ってくる日をね」
 ジャコマは見下した目で敏洋を見た。うまそうなごちそうを前にしたように舌なめずりをする。
「まだわからないのかい? おめでたいねえ。
 じゃあ、教えてあげるよ。もう隠す必要はないからね。
 ご主人さまは、あたしに騙されていたんだよ。
 人間に近づき、取り入り、交友を深め、信用しきって油断させた所で、魂を奪う。それが魔物さ。
 なにしろ、シスターがいつもそばにいるだろう? さすがに魔物退治師相手じゃ分がわるいからね。だから、なかなか手が出せなかったんだよ。せっかくご主人さまの魂を手に入れても、その直後に殺されちゃたまらないからね。
 だからこうして、淫欲を貢がせつつ、シスターが弱る時を待っていたんだよ。
 まっ、ご主人さまの淫欲が上等だったってのは本当だよ。だからもっと淫欲を集めさせてから、と思っていたんだけどね。まさかこんなに早く魂を喰える機会がやってくるとはね」
「それじゃ、ジャコマは俺たちを騙していたのか?
 いままでのは、すべて演技で、俺たちの魂を奪うために、親しいふりをしていたと言うのか?」
「やれやれ。
 わかったならば、もう話はいいだろう?
 あたしは人間の魂が欲しくて欲しくて、体中がうずうずしているんだよ。
 特にご主人さまの魂は楽しみだよ。上等な淫欲の人間の魂なんだからねえ。そのうえ、シスターの魔力を持った人間の魂まで一度に手に入るんだから、たまらないね。
 苦労をしただけの甲斐(かい)が、あったってもんだよ」
「ジャコマさん……? 嘘ですよね?
 あたし、信じていたのに。
 魔物の中にも、いい人はいるって。
 わたしは、ジャコマさんのことは、お友達だって……」
「はっ! お友達はよかったねえ。
 それで、言いたいことはそれだけかい?
 じゃ、そろそろ魂をいただこうかね」


(その11へ)


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