『淫魔のジャコマ アフターストーリー』 その9 作:JuJu 「真緒!」 敏洋は叫んだ。 だが、真緒にその声は聞こえていなかった。なぜなら、彼女は心を閉ざし、外界から五感を切り離していたからだ。そうでもしなければ、迫り来る死の恐怖に、彼女の心は押し潰されていただろう。 我が身をなげうって敏洋を助けた英雄。最後まで果敢に魔獣と戦った魔物退治師。自分の殻に閉じこもり、一心にそれらにすがりつくことによって、彼女はかろうじて理性を保っていた。 正気を支えられているうちに、すべてを終わらせて欲しいと願っていた。 恐怖に自分を見失わないうちに、人間としての理性を保っていられるうちに、死ぬことを願った。 それが魔獣に対する、彼女のせめてもの抵抗だった。 * 敏洋は懸命に走っていた。 揺れる視界の先に、真緒が立っている。 大きな花をうなだらせて枯れ行く晩夏のヒマワリのように、真緒は闇の中で、うなだれながら自分の命が消える時をしずかに待っていた。 そんな彼女の悲しい影に胸が詰まり、敏洋はふたたび叫んだ。 「真緒っ!」 その時、森に風が吹いた。 風が、敏洋の叫びを運んだ。 風が真緒の髪を揺らした。彼女の体を包み込んだ。 * 全身を包んだ秋の風の冷たい刺激に、真緒はわずかだけ意識を外界に向けた。 (!? 敏洋さん?) 敏洋の叫びが、生きることを捨てた彼女の心の奥深くに力強く届いた。 真緒は体を震わせて驚いたものの、すぐに今起こった現象を否定した。 居るはずがない。これは幻聴だ。自分がおとりとなっている間に、敏洋は遙か遠くに逃げ延びているはずだ。 だが、いま心に響いた敏洋の声は、あまりにも実感をともなっていた。 真緒は真実を確かめようと思い、目を開き、ゆっくりと顔を上げた。 「ひっ!」 顔を上げた途端、真緒は息をのんだ。 魔獣が目の前にいた。 血みどろにされた口を大きく開いて、今にも彼女に喰らい付こうと迫っている。 見開いた彼女の瞳に、魔獣の姿が広がってゆく。 真緒は叫びを上げようとしたが、声が出ず、開いたくちびるが、恐怖に震えるだけだった。 ――真緒は背後から、自分の体が強く抱かれたのを感じた。 そのまま抱きかかえられると、体を振り回された。 目前まで迫っていた魔獣の姿が、視界から一瞬にして流れて消える。替わりに、目の前になにかが現れた。その物体がなにか彼女にはわからなかった。が、すぐにそれが敏洋の肩だと気が付いた。 * 魔獣と真緒の間に割って入った敏洋は、左腕で真緒の肩を抱いて胸中に引き寄せながら、ジャコマの書を掴んだ右腕を伸ばし、魔獣に向かって突き出した。 (前の魔獣とは体躯(たいく)がまったく違う) 大きいとは思っていたが、目の前で見ると、魔獣のその体格に圧倒される。 (それに、こんな手が、そうそう何度もうまく行くとも思えない。 だが、魔力を持たない俺には、これしか方法がない。 頼む! 守ってくれ!!) 魔獣は割り込んて来た敏洋にひるむこともなかった。むしろ、手間が省けたとでも言いたげに、うなり声を大きくした。 魔獣はその巨体を勢いにまかせて体当たりしてきた。 体格の差は歴然だった。 魔獣の衝撃で、ふたりは軽々と弾(はじ)き飛ばされた。 敏洋は、ジャコマの書を捨てて、両腕で真緒を抱きしめた。体をひねって、彼女の下に入る。 「ぐッ……」 敏洋は背中に痛みを感じた。 さらに飛ばされた勢いは止まらず、敏洋と真緒は地面を転がった。巨木の根本に当たって、やっと回転が止まった。頭上で梢が揺れている音がした。 地面に叩き付けられた痛みに堪えながら、敏洋は薄目を開けて魔獣の姿を捜した。 魔物の姿はすぐに見つかった。 それが至近だったことを知り、敏洋は逃げるために体を起こそうとした。しかし、背中の激しい痛みに、すぐには立てそうにない。 よく見ると、魔獣の様子がおかしい。敏洋が動けないのに、間合いを詰めるわけでもなく、追い打ちをかけるそぶりもなく、ただ腹這いに寝ているだけだった。顔をしかめ、宙を見、何かに堪えているような低いうなり声を上げている。 敏洋は、その理由をすぐに理解した。 やつもまた、自分と同様に、地面に打ち付けられた痛みに堪えているのだ。 敏洋は戦いの結果を知った。おそらく、相打ちだったのだ。 (ジャコマの書が、俺たちを護ってくれたんだ。 やはりジャコマの書はただの本ではない。ただの本が、あれほどの巨躯の体当たりを防げるはずがない。 マザーは魔力のこもった道具などは無いと言っていたが、この本には間違いなく魔物を避ける力がある。 その理由が、ジャコマが封じ込められているためか、あるいはまったく別な原理なのかまではわからない。 だが、魔物に対抗できる力があることは確かだ。 だとすれば、やつは全速力で壁に体当たりしたような物だ。魔獣とはいえ、無事では済んではいないはずだ) 敏洋はさらに考えた。 (今頃奴は、痛みを噛みしめながら、俺たちに復讐を誓っているに違いない。 動けるようになれば、恨みを込めた牙で再び襲いかかってくるだろう) しかし、敏洋にもう恐れはなかった。 自分たちにはジャコマの書がある。その威力は、たった今実感したばかりだ。 * 安堵すると、敏洋は自分が真緒に覆い被さったままなことに気が付いた。 急に恥ずかしくなり、敏洋はあわてて体を転がして真緒から離れた。 が、すぐに真緒の安否が心配になり、まだ痛みが残る体を押して立ち上がる。真緒を見た。彼女は仰向けに倒れたまま動いていない。瞳だけをまっすぐに、敏洋に向けていた。 「怪我はなかったか?」 問いに、真緒はかすかに頷いた。 敏洋は真緒の体を見た。確かに怪我はしていないようだ。表情は無表情だが、痛みを堪えているようには見えない。ただ、さきほどからその瞳だけは、敏洋から目を離すことなく、ずっと彼をにらみ付けている。 「もう怖れることはない。ジャコマの書には、魔物を防ぐ力がある。間違いない。真緒も見ただろう。 魔物が俺たちを襲えば、相手はそれ以上の痛手を受ける。ジャコマの書がある限り、奴はそう簡単には手出しが出来ない」 しかし、せっかく安心させようとした敏洋の話を聞いても、真緒は無感動のままだった。仰向けのまま、立とうとする素振りも見せない。 敏洋は真緒に歩み寄ると、腕を伸ばした。 胸の前まで伸ばされた腕を見て、真緒は自分の腕をやっかいそうに伸ばす。 敏洋はさらに手を伸ばして、真緒の手を握った。 敏洋は腕に力を入れて、真緒をひっぱって立ち上がらせる。 真緒は立ち上がっても、あいかわらず敏洋をにらみ続けていた。その目にただならぬ怒りがこもっている。 「真緒? どうした」 敏洋は聞いた。 だが、真緒は敏洋のことを一心に見つめるだけで、答えようとしない。ただ唇をきつく締めたまま押し黙って、敏洋をにらんでいる。 もしかして、魔獣の脅威が去っても覆い被さっていたことに、腹を立てているのだろうか。 敏洋はそんな理由を考えた。 彼は、真緒の視線にいたたまれなくなってきた。そのため、ジャコマの書を捜すことにした。 地面に目を這わすと、ジャコマの書はすぐに見つかった。 「あ……」 敏洋は思わず声をあげた。 魔獣の体当たりを耐えたためだろう。ジャコマの書は、表紙が無惨なまでに破損していた。ジャコマを描いた絵も跡形もなく削り取られていた。表紙全体が荒いヤスリでもかけたようにすり切れていた。所々破けて、幾本もの爪で掻いたような深い傷跡が残っていた。 敏洋はジャコマの書に駆け寄ると、あわてて拾い上げた。 焦る手でジャコマの書を開く。 「よかった。中は無事だ……」 ページをめくって、内部までは浸食されていないことを確認すると、かすかに安堵の表情を見せた。 それから敏洋は、真緒を救うためだったとは言え、この書を住処にしているジャコマや、この書をくれたマザーに申し訳なく感じた。 「しかし、これではもう楯として使えないな」 そこまで言った時、敏洋は物音に気が付いて魔獣を見た。 魔獣が立ち上がる所だった。 敏洋の様子から、ジャコマの書に異変があったことに気がついたらしい。ジャコマの書に頼れなくなった今こそ、復讐の時というつもりなのだろう。 が、魔獣はすぐに体を崩して地面に伏した。ジャコマの書に体当たりしたときの痛みがまだ癒えないのだろう。 敏洋は魔獣を見ながら言った。 「いまこそ逃げ出す時なんだろうが……。 逃げると言っても、僅かな月明かりだけをたよりに、真っ暗な山道を走るのは無理だ。懐中電灯を点ければすぐに見つかってしまうし、手探りでおそるおそる歩いていたのでは遅すぎる。いずれにせよ、魔獣に追いつかれて終わりだ。 見ろ、魔獣はまもなく回復する」 それは、もう魔獣から逃げる術も、身を守る術もないということを意味していた。 「どうして……」 その言葉を聞いた真緒は、敏洋の背中に向かって、非難するようにつぶやいた。 そして、つぶやきは叫びに替わる。 「どうして、逃げてくれなかったんですかっ!?」 敏洋は真緒の問いを無視した。 魔獣から目を離すとジャコマの書を広げた。確かめるように、一枚一枚ページをめくっている。 何も答えない敏洋に、真緒がふたたび叫んだ。 「答えてください! どうしてあの時、逃げてくれなかったんですかっ!?」 背中を向けたまま、敏洋は静かに言う。 「俺が逃げていたら、今頃お前は死んでいたんだぞ」 「そんなの、死ぬのがちょっと後になっただけです。 もう、助かる方法はないんですよ!? 敏洋さんがあのまま逃げていれば……。 ――逃げていれば、死ぬのはわたしだけで済んだのに!!」 (その10へ) |