第四幕 その1 JuJu 暗闇の中、ふと、体が宙に舞った。 直後、激痛が全身を襲った。 「うっ!?」 『痛った〜』 ジャコマも痛がっていた。体を共有しているから、俺と同じ痛みを味わっているのだろう。 『……一体、何なんだい?』 それは俺が聞きたい。 まぶたを開くと、まぶしい光りが目に入って来た。 首を巡らせて辺りをうかがう。 体の上には毛布が載っていた。隣には、三個のイスが寄り添うように、行儀良く一列に並んでいる。あとは、板張りの床が続いていた。 どうやら、俺は床の上に横たわっているらしい。 「そうか。俺は腹が減って、礼拝堂で倒れていたのか……」 空腹のせいで頭がぼんやりとする。立ち上がる気力も持てない。が、いつまでも床の上に寝ている訳にも行かなかった。 仕方なく俺は、体に掛けてある毛布をどかし、上体を起こした。倒れそうになる体を、イスに手を突いて支えながら、なんとか立ち上がった。 立ち上がると真緒の姿が見えた。真緒は、ここから離れた聖像の前にいた。見返りながら、驚いた顔をして俺を見ている。 「大丈夫ですか!」 真緒が、駆け寄ってくる。 「ああ。なんとかな」 真緒は俺の顔を見上げながら言った。 「ごめんなさい! わたしがイスの上なんかに寝かせていたために……」 真緒が状況の説明を始めた。 要約すると、俺は空腹で倒れた後、そのまま眠ってしまったらしい。 いくら呼んでも起きないために、真緒は俺を寝室に連れていこうとした。だが、重くて運ぶことが出来ない。そこで仕方なく、イスを並べて、その上に俺を寝かせておいた。 それから一時間。 俺はイスから転がり落ちた。床に当たった衝撃で、やっと気が付いた。 と、言うことらしい。 「寒くはないですか?」 空調が効いているのだろう、礼拝堂は暖かかった。もっとも、この淫魔の体は寒さに強いようなので、暖房は必要ないのだが。 「いいや。いろいろと世話をかけたな、感謝する。ありがとう」 真緒の心遣いは嬉しかった。だがそれよりも、今の俺には空腹が問題だった。気絶していたからといって満腹になるわけではない。むしろ、時間がたったせいで余計に腹が減っている。 「敏洋さん!」 「ん?」 真緒は、いつになく真剣な表情をしていた。 「敏洋さんは、お腹がすいて倒れたんですよね?」 「ああ」 「でも魔物になったから、人の食べ物は食べられないんですよね?」 「そうだ」 「だったら、魔物って何を食べるんですか? どうして、何を食べるのか、教えてくれないんですか?」 真緒の顔が心配そうに歪む。歪んだ表情で、俺の顔を一心に見つめている。 「……」 俺は返答に困り、黙り込んだ。 真緒にすれば、俺がこんな姿になった責任を感じているのだろう。 だからと言って、まさか《俺と融合した魔物は淫魔と言って、食料は淫欲だ》などとは答えられない。 「――ん?」 この場をどうやってごまかして切り抜けようか、考えを巡らせていた。 気が付くと真緒が、俺の顔の前に指を差し出していた。 「魔物の食べ物って、人の生き血ですか? ……わたしでよければ、どうぞ」 真緒はそう言って、自分の指を俺の口元に近づける。血を吸っていいと言う意味らしい。 これが、真緒なりに考えた結果なのだろう。 真緒の事がいとおしくなり、俺は差し出された手を、左手で取った。 真緒の手に向かって、口を静かに近づける。彼女の薬指をつまむと、その指先を口に含む。そして、甘く噛む。 「んっ……」 真緒が、小さな声をあげる。 そのまま無意識に、俺は右腕を真緒の腰に伸ばしていた。真緒を自分の体に引き寄せると、両腕を彼女の後ろに巻き付けた。 「敏洋さん……?」 耳元をくすぐる真緒の熱い息に、俺は彼女を手込めにしようとしている自分に気が付いた。 手を押し返すために真緒の指を掴んだはずだった。それなのに、無意識に真緒を襲おうとしていた。 我に返った俺はこの場をごまかすために、「それは吸血鬼だ、ばか」と、耳元でささやいて、両腕で真緒をやさしく突っぱねる。まさか、血ではなく、お前の体が欲しいと言うわけにはいかない。 小声でジャコマに話しかける。 「ジャコマ! お前、俺を操って真緒を襲わせようとしただろう?」 『なんだい? ずいぶんとヤブから棒だねえ。 言っとくけど、アタシゃ、何もしちゃいないよ。 そんな能力を持っていたら、だらしないご主人様に代わって襲わせているよ』 「なるほど。それはもっともだ」 ジャコマに俺の体を操る能力があれば、今頃は次々と男を襲わせているはずだ。 考えたくはないが、空腹のあまり、無意識の内に真緒を襲おうとしていたらしい。 「敏洋さん……」 真緒が俺を見ていた。 「敏洋さんが倒れたとき、本当に心配したんですよ。いくら呼んでも起きないし。 重くて寝室に運ぶこともできない。その姿では人を呼ぶことさえ出来ない。 お医者さんを呼ぶこともできない。たとえお医者さんが来ても、魔物を看る事なんてできない」 真緒は続けた。 「敏洋さんが、ジャコマの書を持って図書室に行っている時、わたしに出来ることは祈ることでした。 そして今も、敏洋さんが倒れている間、わたしの出来ることと言えば、やっぱり祈ることでした。 ――このままでは、また、敏洋さんはお腹を空かせて倒れます」 「その通りだろうな」 真緒の言うとおり、このままでは俺はまた空腹で倒れる。さっきはイスから転がり落ちた痛みで目を覚ましたが、今度は、あの程度の衝撃では起きないかも知れない。そうして俺は弱っていくのだろう。 「わたしに、マザーくらいの力があれば、敏洋さんを救えたのに。 でもわたしには、そんな力はないから。その時になっても、わたしに出来ることと言えば、きっと祈ることだけ。 でも、もう、祈っているだけなんて嫌です。敏洋さんの苦痛を、ただ見ているだけなんて嫌なんです。 お願いです。魔物の食べ物を教えてください。 敏洋さんは、何を食べるんですか? わたしにできることならば、なんでもしますから。 このままじゃ、敏洋さん、死んじゃいます。 そしたら……わたし……」 真緒の瞳に涙が溜まる。 「わかった、話す。全部話すから。だから、泣くな。な?」 ここまで来たら、きちっと語らないと、真緒が納得しないだろう。それに包み隠さず話すのが、自分のことをここまで心配してくれている相手への、せめてもの礼儀だと思った。 俺は真緒に、すべてを話した。 ジャコマの書から出てきたジャコマの正体は淫魔だということも、俺は淫魔になったことも、淫魔の食料は性欲だと言うことも。 体は俺が動かしているが、頭の中にはジャコマがいて話しかけてくることも。 ――俺が知っているすべての事を話した。 第四幕その2へ |