第三幕 その1
JuJu


 敏洋は、焦点を失った目でぼんやりと空(くう)を見つめていた。
『ふわぁ〜あ。おや、ご主人様もお目覚めかい……?』
 敏洋の耳に、あくび混じりの寝ぼけた声が響く。ジャコマの声だ。
「ジャコマ! お前っ!」
 それを聞いた途端、敏洋の瞳に生気が戻る。彼は目を見開いて周囲を見渡した。しかし、彼女の姿はどこにもなかった。
 耳を澄ませてみる。だが、気配ひとつ感じない。ただ、窓を吹き抜ける風の音がするだけだった。
「幻聴……だったのか?」
 緊張が解けたせいか、ゼリー状になったジャコマが体の中に入り込む記憶が、敏洋の心を襲う。
(だが、それもすべて過去の出来事だ)
 敏洋は悪夢を振り払うように、自分に言い聞かせた。
(俺の体を充分弄んで満足したのか、あるいは俺が気を失ったために詰まらなくなったのか、理由はわからないが、とにかく災難はすべて去った)
 と、敏洋は思案した。
(……。
 しかし、それにしては、ジャコマの声は生々しかった。何度思い返しても、真緒の時の幻聴とは鮮明さが違う。
 もしも、さっきのが幻聴ではなく、本当に声がしていたとしたら……。
 ――いや、間違いない! あれは幻聴ではなかった。確かにジャコマの声がした!)
 敏洋は緊張を取り戻し、改めて辺りを見渡した。
(ジャコマはゼリーから元の姿に戻ったのだろうか? なにしろ相手は魔物だ。その程度のことは平気でやるだろう。
 声がしたということは、近くで俺を監視していると言うことだ。そして、ゼリーから人間の姿に戻ったことを、わざわざ俺に知らせて来ている。
 一体、どうしてそんなことを?
 からかっているつもりなのか?
 冗談じゃない! そう何度も、弄ばれてたまるか!)
 敏洋は用心しながら、ゆっくりとした足取りで図書室を回った。
 途中で、床に落ちていた眼鏡を見つけ、拾う。静かに眼鏡を装備する。その顔は冷静さを保っているように見えた。が、その瞳が、見つけたらただでは済まさないと言う殺気を漂わせている。
(ふざけやがって)
 足音を潜め、書棚の影から慎重に顔を覗かせる。
(こんどこそ生け捕りにしてやる)
 しかし、図書室を探し終わっても、彼女の姿はどこにも無かった。
 敏洋の視線は、開け放たれたままの窓に向かった。
(すでに図書室から抜け出した後か……)
 窓まで歩くと、肩まで突っ込んで見渡す。外灯に照らし出された教会の庭は、あいかわらず薄暗い。何事もなかったように、いつも通りの静かな情景をたもっていた。とても、魔の物が隠れているような気配はない。
 敏洋はジャコマを捕まえて、今までの仕返しをしたいと思っていた。だが、この状況では、彼女がどこにいったのかさえ分からない。こうなっては、彼女を捕らえるのは不可能だろう。
(とにかく、この事を真緒に知らせなければ)
 ただ、ここで起こった出来事をすべて語るのは、さすがに恥ずかしい。ジャコマの書から淫魔が出たことは伝えておくが、その後の事は適当にごまかそう。
 そう敏洋は思った。
 落ち着いたせいか、敏洋はにわかに寒気(さむけ)を覚えた。
 窓の下に置いておいた服を取るために腰をかがめようとする。
 その時、再びジャコマの声が聞こえた。
『ふわわ〜っ。うん。どうやら、契約はぶじに済んだみたいだね』
 それははっきりと、まるで目の前にいるように聞こえた。
「お前、やっぱりいたのか! どこにいるんだ!?」
 敏洋は図書室を見回した。窓の外も見た。だが、ジャコマの姿はなかった。
『さっきから、うるさいねぇ……。
 契約は体力をものすごく使うんだ。アタシは契約の直後で眠いんだよ。
 それなのにご主人様は、うろうろと犬のように歩き回ったり、今度は怒鳴ってみたりと、……これじゃゆっくり休むこともできやしない。
 わかったよ。もう起きるよ。起きりゃいいんだろ。
 ――それで、あたしがどこにいるのか知りたいのかい? だったら自分の体を鏡に映してごらんよ』
「鏡?」
 鏡と言っても、この部屋には壁に掛けてある胸から上が入るくらいの物しかない。それでも、ジャコマの居場所を知りたかった敏洋は、言われたとおりに鏡を見た。
「何!?」
 鏡の向こう側には、見たことのない女性が立っていた。なかなかの美人だが、ジャコマとは違った。
 女性がなぜ、この図書室にいるのか? しかも敏洋が身につけていた物と同じメガネをかけている。一番驚いたことは、その女性は裸で、鏡に胸をさらしているのだ。
 疑問と驚きで思考が停止している敏洋に対し、またジャコマの声がした。
『へ〜え。これが今回のアタシかい。
 で、どうだい、女になった感想は?』
「これは一体!?」
『これがアタシたち淫魔との契約した姿、ご主人様の新しい体だよ。ご主人様はアタシと融合して、淫魔になったんだ』
 自分の姿だと聞いた敏洋は鏡から目を離し、下を向いて直(じか)に自分の体を見た。そこには、大きく膨らんだ女性の胸があった。胸を触る。すると触れた指だけでなく、触れられた胸の方にも感覚があった。
「こんなことが……」
『アタシとご主人様は一体になったんだよ』
 敏洋は再び鏡を見た。
「言われてみれば、鏡の中の女は、俺とジャコマを合わせた様な容姿をしている……」
『わかったかい? アタシたちは融合したのさ。
 だから一つの体に、アタシとご主人様の二つの精神が同居しているんだ。体の感覚だって共有しているから、ご主人様の感覚は、アタシの感覚でもあるんだよ。
 ただ、この体を動かせるのはご主人様だけ。これは主従関係だからしかたないね』
「俺は女になったのか? じゃあ、ジャコマとの契約とは、セックスをする事じゃなく……」
「何を考えていたんだい? 契約って言うのは、アタシとご主人様が融合する事だよ。
 ――それじゃ、そろそろ最後の仕上げに行こうかねっ!」
 そういうと、腹のあたりに、ジャコマに書いてあった様な文様の入れ墨が浮かびあがった。文様は蔓みたいに、一気に太股や腕まで伸びた。
 背中にはコウモリの様な翼が生え、尻には黒くて長い尖ったしっぽが伸びた。
 すべてが、敏洋には信じがたい出来事ばかりだった。本当にこんな事があるのかと思った。
 だが、自分の体の変化を見て、信じざる得なかった。


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