第一幕 その3 JuJu 玄関の扉を開けて敏洋が庭に出ると、教会の外はすっかり夜の闇に染まっていた。 (秋は日が落ちるのが早いな) 敏洋はそう思いながら扉を閉める。 教会の室内から射していた明かりがじょじょに細くなり、やがてその光は完全に閉ざされた。敏洋を暗闇が覆う。替わりに庭の外灯が、弱々しく敏洋の姿を映し出した。 風が吹く。敏洋は肌寒さに、日に日に風が冷たくなって行くのを感じた。 暗闇で目が利かなくなったせいか、秋の風の音と、湿った匂いを強く感じる。 空を見上げると、月が輝いていた。一年の内で、一番月が美しい季節。わずかに寂しげのあるこの秋の月が、敏洋は好きだった。 とつぜんの闖入者(ちんにゅうしゃ)に沈黙していた虫たちも、彼が立ち止まっている事で安堵したのか、ふたたびかすかな音(ね)を奏で始めた。 だが、どこから流れ着いてきたのか、巨大な雲がひとつだけ浮いていて、それが月を隠してしまった。雨を降らせるような雲ではないが、それは大きな雲なので、当分のあいだ月は姿を見せそうにない。 敏洋は月を見ることをあきらめて、教会の庭にある、図書室に向かって歩き始めた。 ふと物音を感じ、敏洋が足を止めて振りむく。振り向くと同時に光が彼を襲う。突然のまぶしさに目がくらむ。光の場所に目をやると、教会の二階に明かりがともった所だった。 その窓からは真緒の姿が見えた。 二階に移動した真緒が、不安そうな顔をして窓のガラス越しに敏洋を見つめていた。 ジャコマの書は俺の腕の中にあるのだから、あいつの身は安全なのに、なぜあんなに不安そうな顔をしているのだろう。と、敏洋は思い、その答えを求めて、教会から出てくる前のことを思い返した。 敏洋が図書室に行くと言った時、真緒がついて来ると言いだしきかなかった。 仕方なく「おまえが図書室に入ると、こんどこそ古書をやぶかれてしまう。だから図書室に入れるわけには行かない」とたしなめた。それでも「絶対におとなしくしていますから」と真緒はなおも喰い下がってくる。 あの様な事件が起きたばっかりだったので、一人残される事が不安だったのだろう。 真緒に対して、冷たい態度をとってしまったことに敏洋は心を痛めた。 だがそれも、真緒の安全を考えての事だった。たとえ恨まれたとしても、この本を真緒から離しておかなければならない。 それに、今晩は寝ずにこの本の監視をするつもりだ。 その事につきあわせるわけにはいかない。あんな事があったばかりなのだから、真緒は今晩はゆっくり休むべきだ。 敏洋はぼんやりとそんなことを考えていた。そこに冷たい風が襲った。敏洋は我に返った。 昼間の暖かさが幻だったように、秋の夜は涼しかった。 (それにしても、今日はずいぶん冷え込むようだ) 彼は図書室に入ったらすぐに暖かい紅茶が飲みたいと思った。手に持った水筒をちらりと見る。ここには熱いお湯が入っているのだ。だがすぐに、お気に入りの紅茶のカップは真緒に割られている現実を思い出した。敏洋はわずかに顔を曇らせると、再び歩き始めた。 同時に、虫の音(ね)も止まる。 教会の大木に遮られて、真緒のいる教会の窓から、敏洋の姿は見えなくなった。 * 敏洋は図書室の鍵を開けた。 そこは掃除マニアの真緒の手によって、見違える程きれいになっていた。チリをかぶって、机の上や床に積み重なっていた本は、すべて整理されて書棚に戻っていた。その上、机も床も磨き込まれて、輝きを放っている。どの場所を取っても、以前はここが、埃っぽい部屋だったとは信じられない。 敏洋は敷居をまたごうとしたが、片足をあげたまま体の動きを止めた。その目はじっと床を見つめている。敏洋は部屋の床に付けかけた足を戻し、靴を脱いだ後、改めて部屋の中に入った。 天井まで届く書棚が並ぶ図書室に入る。 図書室の片隅には、卓上用の照明が乗った小さな机が置かれている。そこが彼の場所だった。 「奇妙な本だが、シスター・マザーの所有物を勝手に焼き捨てる訳にもいかないだろう」 敏洋はぼやきながら、机の上にジャコマの書を置いた。 「留め金が外れただけで実害があったわけではないし、そもそも留め金を外す呪文は真緒が自分から唱え始めたものだし ……とにかく、しばらくの間は監視下に置かなければ」 ジャコマの書を見ながら、一通り愚痴を言い終わると、彼は図書室の片隅にある食器棚に向かって歩いた。 食器棚のガラス戸の向こうには、すこしばかりのカップや瓶などが並んでいる。 棚の前には卓があり、敏洋は教会から持ってきた水筒をそこに載せた。 食器棚の戸を開くと、適当なカップを取り出そうとして手を伸ばした。 そのとき、カップを選んでいた敏洋の手が止まった。 古びてはいるが、気品の漂う渋いデザインが施されたカップ。そのカップを彼は一心に見つめている。 このカップこそ、真緒が割ってしまったはずのお気に入りだった。 あわてて手に取ってみると、ヒビひとつ入っていない。 「真緒のやつ、同じ物を用意したのか? ――いや、それは不可能だ。これは骨董品だ。世界にひとつしかないとは言わないが、そうやすやすと手に入る物ではない」 その事は、敏洋自身がこれを手に入れるのにどれだけ苦労したか身にしみているだけによく分かっている。まちがっても、一晩二晩程度で入手できるような、そんな品ではない。 と言うことは、考えられることはただひとつ。真緒は別のカップを割ったのだ。 敏洋は安堵した。 たしかにここに揃えられたカップは、どれも敏洋のお気に入りだ。ここで調べ物や読書をするときの孤独を紛らわせるために、選び抜いたカップが並んでいる。孤独な研究を癒すのは、気に入ったカップと極上の紅茶の葉だと言うのが、彼の信条だ。 だが、それらはすべて市販品だ。骨董屋で見つけた、この一品に比べれば劣る。 敏洋は全身の力が抜けるのを感じると共に、カップひとつで、マザーから預かっている鍵をなくしたことの秘密が守れるのならば安い物だと思った。 マザーはほとんど教会にいない。マザーに合い鍵を取り上げられたら、彼女がいるときだけしか図書室に入(はい)れなくなってしまう。それは事実上、出入り禁止と同じ事だ。 彼は鼻歌を歌いながら、小さなティーポットにお茶の葉を入れた。 * 敏洋は机にいた。 机の上には例のお気に入りの骨董品のティーカップが鎮座し、ゆったりと湯気を立てていた。その横に辞書や学術書が置かれ、敏洋はときどき手を伸ばして、それらをとっかえひっかえ引いていた。そして、机の一番端には、彼の目に届くようにジャコマの書が置いてあった。 一見、集中しているように見えたが、辞書や参考書に手を伸ばすたびにその目はジャコマの書をちらりちらりと覗いていた。 「だめだ! 気になって集中できん!」 敏洋は静かに立ち上がり、じっとりとした横目でジャコマの書を見る。 「かと言って、監視はしなければならないし……」 ぶつぶつと独り言を言って、敏洋は目を閉じた。ジャコマの書を拾ったときに見た、魔術の文字が並んだページが脳裏に浮かぶ。 言語マニアの敏洋は、魔術の文字の魅惑に堪えきれなくなって来ていたのだ。 「真緒でさえ読むことが出来たのに、この俺が読むことすら出来ないと言うのは、どうも気に入らない」 目を開いた敏洋は、図書室の奥に足を運んだ。 机に戻ってきたときには、分厚い辞書を手にしていた。魔術の言語の辞書だ。 「読むだけだ。あくまで読むだけだ。発声さえしなければ、問題はないはずだ」 敏洋は自分自身に言い訳をするように言った。 彼はどっかりとイスに座ると、ジャコマの書を開いた。 ジャコマの書を読んでは、魔術の言語の辞典を引く。それが、何時間も続いた。 「だめだ。わからん」 突然、静寂を破って敏洋がつぶやいた。 「この俺が、手も足も出ないとは……」 敏洋は、あきらめた事を示すように、大きな音を立ててジャコマの書を閉じた。 「悔しいが、事実は事実として受け止めよう」 そう自分を言い聞かせたが、『今日初めて見た言語なんですから無理もないですよ』と言う真緒の顔が目に浮かんだ。後でこのことを話したら、真緒はきっとそう言うに違いないと思った。 その、慰めの言葉に、敏洋は無性に腹が立って来た。自分の一番得意とする分野で、あのボケーッとした真緒に完敗した。それがとても悔しかった。 「もしかして、真緒って頭がいいんじゃないか? 少なくとも魔術に関しては、真緒は才能があるのかもしれない。 なにしろあのマザーが見込んだくらいだからな。 よし。俺もマザーに魔術の言語を教えてもらう事にしよう。何、すぐに真緒なんか追い抜いて見せる。それどころか、魔術の言語の権威になって見せる!」 敏洋は辞書を書棚に戻すと、その足で食器棚に向かった。真緒に負けた悔しさを慰めるために、気分転換をしようと思ったのだ。 食器棚の戸を開けて、棚に手を伸ばす。 「あったあった」 敏洋は小さな茶筒を手に取った。マザーのおみやげで、龍井茶と言う中国茶だそうだ。 だが、未開封の茶筒を手に取ったときに、敏洋の体は固まった。中国茶と一緒にもらったおみやげの湯飲みが割れているのだ。 湯飲みと言っても、日本茶の円柱形のものではなく、どちらかと言えばティーカップのような形をしている。 そのカップが、見事なくらいきれいに真っ二つに割れているのだ。 敏洋は、じりじりと後ずさった。 「真緒が言っていた俺のお気に入りのカップって、これのことだったのか……」 敏洋はふらふらとした足取りで、机に向かった。 「まだ一度も使っていないのに割ったなんてマザーが知ったら、やはり怒るだろうな。 ふぅ。まあ仕方がない。マザーが帰ってきたら、俺が謝って置いてやろう」 敏洋は、手間のかかる妹をかばうような気分で言った。 「しかし、カップは他にいっぱいあるのに。よりによって、マザーのおみやげを割るとは……」 敏洋はイスに座ろうとした。だが、気が動転していたために座り損ね、机に体をぶつけながら尻餅をついてしまった。その衝撃で机の端に乗っていたジャコマの書が床に落ちてしまった。 落下した本は表紙が開き、クジャクが羽を広げるように、ページが広がった。 「しまった!」 敏洋は拾おうと立ち上がったが、それよりも早く、異常な事態が起こった。 ジャコマの書の活字が溶けだし、深い褐色の液体に変化した。すべてのページから液体が流れだし、滴るように床に広がっていく。それはヌメヌメとしたゼリーの様な液体だった。かと思うと、液体は互いにくっつき合い、融合し、やがて一本の棒となってそびえ立ちはじめた。ジャコマの書からはどんどん液体が湧き出し、湧き出した液体は棒の上塗りをするように集まった。やがてそれは、人ほどの大きさになり、ついには褐色の肌をした、黒いボンデージの服を身にまとった女の形になった。 女は目を開けた。 「あいたたたた。ずいぶん乱暴なことをするんだね。 呼び出すんなら、もっと丁寧にやっておくれよ」 突然の出来事に、敏洋はただ棒立ちで、この現象を見ている事しかできなかった。 女は、コウモリの様な羽、長い耳、とがったシッポを持っていた。その姿は、ジャコマの書の表紙に描いてあった人物をほうふつとさせる。 「さっき呼ばれた時は、聖域で出られなかったし。 しかたないから本の中で寝ていたら、今度は叩き起こされるし。 まったく……。女の子はもっとていねいに扱ってもらわないとねえ」 出てきた女は、ぶつぶつと不平を漏らしながら、しきりに辺りを見回していた。 「そんで? アタシの新しいご主人様はどこにいるんだい?」 敏洋は呆然と、女を見ているだけだった。 「ちょっと聞いているのかい? アタシを召還したご主人様はどこにいるのかって訊ねているんだよ!」 女は敏洋を見据えた。その瞳は、昼間の猫の目のような鋭い縦長をしている。 女は腰を折って身を乗り出し、目を凝らして敏洋の体を足から頭まで品定めするように見たり、眉をひそめてあごに指を当てて部屋をせわしなく歩き回りながら、まれに頷いたりしていた。 やがて立ち止まると、敏洋を見据えて、ゆっくりと口を開いた。 「……。 あんた、やっぱり男だよねぇ? 男装しているわけじゃないよねぇ?」 彼女は、敏洋の鼻先まで顔を近づける。甘い、女の香りが敏洋の鼻をくすぐったが、彼はそんな匂いに酔いしれている余裕はなかった。 「これはどうみても男のにおいだ。 そして、ここにはアンタのほか、だれもいない。 ……。 どうやら、本の封印を解いたのはアンタに間違いないらしいねぇ。でもどうやって男のアンタが、この本の封印を解くことが出来たんだい?」 女は黒く縁取られている目を細めて、敏洋の瞳を見つめた。 「ま、いいか。細かい事を気にしても仕方ない。 しかし、女しか解けないはずの封印を解くとは。 ……アンタ、相当な使い手だね。アタシも人間から比べれば長いこと生きているけど、男のご主人様なんて初めてだよ。 ま、これはこれで、おもしろそうだ」 「お……お前は何物だ? 悪魔か?」 敏洋はなんとか、これだけの言葉を発した。 「おやおや? 知ってて召還したんじゃないのかい? 確かに魔の物だけど、悪魔なんて立派なもんじゃないよ。 アタシの名はジャコマ。ジャコマ・カサノヴァって言うんだ。 そしてこれからは、アンタがアタシのご主人様だ。 よろしくな、ご主人様」 第一幕 終わり/第二幕につづく |