《この書物には、魔物が封印されていると言う……》

 俺は黒い本を手に取った。
 歴史を感じさせるほど古い物だったが、格調高い皮の装幀は威風を放ち、表紙の絵は金箔が薄れかけているにもかかわらず未だにその魅力を失ってはいない。

《その魔物は、今から何世紀もの昔に生まれた……》

 表紙の上部は題名らしい文字が大きく書かれており、中央には人物らしい絵が描いてある。その人物はなんとも抽象的な絵だったが、背中にコウモリの様な翼を生やしている所を見ると、悪魔かあるいはその仲間なのだろう。表紙の下部は、呪文のように細かい文字が長々とつづられている。

《魔物は、偉大なる魔術師と高名なシスターの二人によって、この書物に封印されたと伝えられている……》

 だがそれよりもはるかに目立ち、この本をまがまがしくさせている物があった。それは、この本が開かないように、留め金が填(は)められていることだ。表紙と裏表紙を繋ぐように、側面に十数個ほど付けられている。
 留め金は職人の造った立派な品だったが、その填め方は職人の丁寧な装飾とはとても呼びがたかった。いや、いかに素人が填めたにしても、もう少しマシにつけられただろうと思えるほど、それらは乱雑に、皮の装幀に喰い込むように填められている。
 前に見た恐怖映画で、登場人物がなんとか怪物を部屋に閉じこめた後、その部屋の扉を開けて怪物が出てこないように、荒々しくくさびを打ち続ける。そんな、乱雑にくさびを打ち付けられた扉を、つい思い出してしまった。

《魔物をこの書物に封じ込めたと言う二人の人物。その名を、偉大なる魔法使い・敏洋(としひろ)……そして、高名なるシスター・真緒(まお)と言った……》



『淫魔のジャコマ』
作:JuJu



第一幕 その1

「おい! ちょっと待った、真緒!」
 俺は黒い本を静かにテーブルに置くと、かけているメガネを指で押し上げ、それから修道服を着た女の子に向かって思いっきり叫んだ。彼女はさっきから頼みもしないのに、低い声を作って、俺の耳元でこの本の解説をしていたのだ。
 まあそんな事は、いつものくだらない戯れ言だったので無視していたのだが、最後の台詞だけは、どうしても我慢ができなかった。
「いつからお前が、高名なシスターになったんだ?」
 ここはシスター・マザーが運営する、小さいながら、ステンドグラスが美しい教会。シスター・マザーが運営しているから、通称マザー教会と呼ばれている。
 だが、肝心のシスター・マザーは、魔物退治のためにほとんど海外に行っているため、普段は真緒が教会を守っている。
「お前みたいなボーっとした奴が、高名なシスターとはどう考えても片腹痛いだろ!
 だいたいお前は、その掃除マニアな性格を買われて住み着いた、マザー教会のお掃除係じゃないか!」
「お掃除係はひどいです!
 これでも最近は、シスター・マザーの魔物退治のお手伝いが出来る様になったんですよ!
 まだ見習いですが、立派な魔物払い師です!」
「立派ねぇ……。
 まあそれはともかく、さっきから俺の耳元でつまらない解説をしているが……。なんだその、いかにも適当でどこにでもありそうな安っぽい設定は? せめてもう少し、ましな設定は考えられなかったのか」
「でもでも、この本ってなんか、こんな感じの雰囲気がありませんか?」
「だからって、おどろおどろしい声の、勝手な解説はいらん」
 真緒は渾身(こんしん)の演出を否定されて、すこしガッカリした表情をしていたが、俺は無視して話を続けた。
「で、これが、俺をわざわざ俺を教会に呼びだしてまで見せたかった本か?」
「いいじゃないですか。どうせ図書室までやって来たんだから。
 それに、敏洋さんってこの手の本が大好きでしたよね」
 教会の隣に小さな図書の倉庫があって、俺はよく本を読みに来ている。海外の古い本が豊富にそろえてあるからだ。
 今日も図書室に行こうとした所を、教会の前で真緒に呼び止められて礼拝室に連れてこられたのだ。
「それにしてもこんなゴツい本、どこで見つけてきたんだ?」
「はい。図書室で見つけました」
「とっ、図書室っ? 教会の図書室かっ!?」
「そう、やたらとドならないでくださいよぅ」
「あれだけ図書室には入るなと言っておいただろうがっ!
 第一、図書室には鍵をかけてあるのにどうやって……」
「あ、それなら……」
 真緒はポケットから図書室の鍵を取り出して、俺の目の前にぶら下げた。
「いつのまにっ!」
 俺はすばやく、鍵をひったくった。
「昨日、教会の床に落ちていたのを拾いました」
「それで……やっぱり……、掃除したんだな? 図書室」
「はい! やりがいがありましたよ〜。あれだけの獲物は久しぶりです。
 でも、どうしてあそこまで汚れるほど放って置いたんですか? あんな埃っぽくて乱雑なところに居て平気だなんて、わたしには信じられません!」
「いや、掃除をしたことは良いんだ。お前の掃除の腕も認めよう。
 問題は……だ。
 ――今度は、なにを壊した?」
「はい?」
「ごまかすな! お前がいままで掃除をして、一度でも何も壊さなかったことがあったか?」
「……テーブルの上に置いてあったカップを……その……」
「ああ〜っ!! よりによって、俺のお気に入りを〜っ! お前、あのカップがどれだけ貴重品か知っているのか?
 だから図書室には入るなって言っておいたのに……。
 それだけじゃない。あそこには、西洋の貴重な古書が大量に――」
 まくし立てる俺の声を、真緒が遮った。
「でも〜、そんな大切な本がたくさんある図書室の鍵をなくしたってシスター・マザーに知れたら、どれほど怒る事か……」
「う……」
 ボンデージを着たシスター・マザーが、鞭を振りながら、額に血管の筋を浮かべて、引きつった笑顔をしたまま、俺に迫ってくる姿が脳裏に浮かんだ。
 いや、これはあくまで俺の想像で、ボンデージを着たシスター・マザーなんてを実際に見たことなんて無いが。
 それにシスター・マザーの場合、むしろ修道服にバズーカ砲を抱えた姿の方が似合いそうだし。
「偶然わたしが見つけたから良かったような物の、もしもシスター・マザーが拾っていたら、図書室を出入り禁止になっていたかもしれませんよね〜? いいえ、そんな生やさしい程度で済むとはとてもとても」
「くぅ〜っ」
 怒りを飲み込むためにうつむいた俺の顔を、真緒がうれしそうな笑顔でのぞき込んで来た。
「他にはなにもしていないよな? 本を破いたりしていないよな?」
「ご安心ください。敏洋さんのカップだけです。マザーは怒ると怖いですから。いくらわたしだって、虎のシッポをみずから踏みに行くような、そんな恐ろしい事はできませんよ」
「まあいい、今回は許そう。その替わり、鍵をなくしたことは秘密だぞ」
 俺はなんとか気を取り直した。それに実は、真緒が見せたがっていた黒い本が気になって仕方なかったのだ。
 俺は改めて黒い本を手に取ると、表紙に書かれている文字を調べた。
「イタリア語かな? いや、ちょっと違うな。じゃあ古代ギリシャ語かラテン語あたりか……。
 ……違う。似ているが、この綴り方は初めて見る言語だ」
「だからぁ、これは魔法の言葉ですって」
「あのなぁ。今現在世界中で使われている言葉が、何千種類あると思っているんだよ。さらに、古語や死滅した文化の言語を合わせれば、想像が付かない。俺が知らない言葉があったって、それは至極当然なの」
「でもこれ、《ジャコマの書》って書いてありますけど」
「えっ?」
「ほら、この部分」
 真緒が指さしたのは、表紙のコウモリの羽を生やした人の絵の上にある、一番大きな文字だった。
「読めるのか?」
「魔法の文字は、マザーに教えてもらっているところです。これは黒魔術の魔術師が使っている言葉だそうです」
「だったらそれを早く言えよ!」
「だから、さっきからこれは魔法の言葉だって言ってるじゃないですかぁ」
「よし、続けて読んでみてくれ」
「それが……、わたしが分かったのは《ジャコマの書》って所だけなんです。
 後は、音を読む事は出来ますが、意味はさっぱりです。
 解読してみますか? 辞書ならば図書室にもありますけど。
 でも魔法の文字の解読は、かなり大変だと思いますよ?」
「ほほう? それはおもしろそうだな。よし後で俺が調べておく」
「ほんとうに敏洋さんは言語マニアですねぇ? こんな難しいのに喜んでいるなんて。わたしは魔物払いに必要だから、しぶしぶ勉強しているのに。
 じゃ、表紙の下の方に書いてある文字を音読しておきますね。解読の役に立つかもしれませんから」
「頼む」
 真緒は、魔法の言葉を読み始めた。
 真緒なりの演出なのだろう。先ほど俺が黒い本を見ていた時に発していたような、例のおどろおどろしい低い声で、言葉を紡いでゆく。
 その時、真緒の持っていた黒い本から、留め金が一つはずれて、床に落ちた。
 古い本だし、最初は何かの拍子ではずれたのかと思ったが、真緒の言葉に合わせるように、留め金は次々と床に落ちていく。
 何かが起ころうとしている。
「真緒っ! やめるんだ!」
 だが、真緒は続けた。
 詠唱に併せて、ひとつ、またひとつと留め金がはずれていく。
 真緒の顔は青ざめ、首をわずかに横に振っていた。
 目はジャコマの書の表紙に書かれている呪文らしき物を追い続けているが、その瞳が恐怖におびえている。
「もしかして、詠唱が止まらないのか!?」
 真緒はかすかに頷いた。
 俺は、ジャコマの書を奪い取るために真緒に近づいた。
 だがその時にはすでに、すべての留め金がはずれていた。


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